2話 スカイブルータウンの住民達
風に私の黒い毛が揺れる。今日は絶好の散歩日和だ。
しばらく歩き続け、やがて港に付いた。泊まっている船はゆっくりと揺れ、空にはカモメ達が優雅に飛んでいる。
「その黒い毛に三日月の模様は――ナハトの旦那じゃないですか!」
後ろから声が聞こえた。振り返ると一匹の茶色の毛並みの猫が近づいてきた。彼は野良猫のトラだ。
「トラ。旦那はよしてくれと言っているだろう」
私がそう言うと、トラは招き猫の様に笑った。
「俺にとっては旦那と旦那のご主人は命の恩人ですから。俺なりの敬意なんです」
トラと出会ったのは2ヶ月前。マンション近くの公園に散歩に出かけた時、倒れている彼を見つけたのだ。私は急いで彼を咥えて運び。ご主人の元に連れて行った。ご主人は驚いたが、冷静な口調で言った。
「この子すごく苦しそう。後は私に任せて」
ご主人はすぐに地元の動物病院に連れて行き、トラは命を取り留めた。
「俺はお二人にとても感謝しているんです。旦那のおかげで飼い猫にも素晴らしい猫がいるんだと実感しました」
「私の方こそ、野良猫にも良い奴がいると気づいたさ。」
私は口元を緩め答えた。
同じ猫でも飼い猫と野良猫には雲泥の差がある。ご主人は猫達はみな優しく、仲良しだと考えている節があるが、残念ながら人間が争うように、我々にも隔たりがある。
私達飼い猫は、野良猫を文明に対応出来ない野蛮な動物だと思うし、野良猫は飼い猫を人間に飼いならされた情けない動物だと軽蔑する。
私も他の飼い猫の例に漏れず、そういった見解だった。
しかし、こうしてトラに出会った事で差別意識は薄くなっていった。今では、野良猫も猫の一つの生き方なのだと堂々答えられるだろう。視野を広げてくれたトラに、私の方こそ感謝すべきなのだ。
「食料は大丈夫か?」
飼い猫と違い野良猫は自分で餌を探さなくてはいけない。山や森ならともかく、この人間社会ではさぞ生きづらい事だろう。
「それがですね旦那。実は最近人間が積極的に餌を与えてくれる様になったんです」
「うちのご主人か?」
「いえ、子供もいれば中年もいますね。もちろん、旦那のご主人にも良くしてもらってますよ。仲間もみんなあの人に感謝しています」
「彼女は人間よりも猫に近いからな。だから誰よりも猫に優しい」
私は自慢げに前足で髭を触る。主人の賞賛は私にとっても賞賛である。
「そういえば、旦那が前に言っていた話、ご主人は猫語が分かるって本当ですかい?」
「ああ、本当だとも」
人間語は我々にとって難しい言語で、昔から人間と共に過ごしてきた飼い猫にしか分からない。
トラは彼女とは喋れないのだ。
「さすが旦那のご主人だ。では、そろそろ俺は野良の集会に行ってきます。旦那のご主人にもよろしく言っといてください」
「ああ、伝えておくさ。また会おう、トラ」
トラは再び招き猫の様な笑みを浮かべ、てくてくと歩き去って行った。
猫の一日は気ままだ。次は高級住宅街に向かった。
スカイブルータウンの別称を持つこの街はご主人をはじめ富裕層が多いのが特徴だ。
レンガの上を歩いていると下から品のある声が聞こえた。
「あらナハト。ご機嫌よう」
私は下を覗く。コリー犬のアデールが大きな犬小屋の前で座っていた。今まで色んな犬を見てきたが、アデールほど気品のある犬は見たことが無い。長く美しい茶色の毛並み。上品な吠え方。猫の私ですら最初は緊張して汗を掻いたものだ。
「やぁアデール。散歩がてら君と話をしに来た」
「それは嬉しいですわね」
アデールは瞳を細める。
「そちらのご主人は元気か?」
世間話の一つに聞いた質問であったが、アデールはよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに目が輝いた。彼女の尻尾は左右に激しく揺れ始める。
「ええ! 相変わらず、私の主人は優しくて格好いい、素晴らしい殿方ですわ! 昨日も私の好きな砂浜でデートをしたのよ! 少し前には新しい首輪をプレゼントしてくれたし、それに……」
彼女の口からは次から次へと飼い主の自慢が飛び出る。
うっかりしていた。アデールは飼い主の男に惚れているのだ。彼の事を少しでも聞こうとすると、たちまち恋する乙女の恋話が始まる。彼はデートのつもりでは無く、ただの散歩だとは思うのだが……。
私もご主人は敬愛しているが、彼女は少し、度を超えている。
アデールの飼い主とご主人は知り合いである。白髪と白髭の似合う、高身長な老人だ。
いつも紳士的な口調で話す。
深い皺が刻み込まれた顔はかなりの歳のように見えるが、背筋は真っ直ぐで、どこからも老いを感じさせない。
以前、彼がご主人の絵を気に入り、買い取った事がきっかけで、それ以来は良好な関係を続けている。
アデールとは私がご主人と共にこの大きな家に招かれた時に知り合ったのだ。
ご主人は「あの人は私と同じ、動物に近い人だね。猫というよりは、犬に近いのかな?」
と、仲間を見つけた様に嬉しそうに話していた。犬……。私には彼は普通の老人にしか見えない。ご主人にしか見えていない何かがあるのだろうか?
「ちょっと、ナハト。聞いているのかしら?」
アデールは少し不機嫌そうな顔をする。
「あ、ああ。聞いているとも」
話しを聞いていなかった私は曖昧に笑みを浮かべる。……まいったな。これでは日が暮れてしまう。
前にトラに聞いた話だが、彼女は犬の世界ではとびっきりの美しい風貌らしく、他の雄犬からの求愛が絶えないようだ。しかし彼女はすまし顔で彼らを一蹴し続ける。
彼女はまさに彼女はうら若き乙女なのだ。
この点は乙女とは少し言いにくいご主人にも、見習って欲しいと思う。
「――おっと、どうやら話し過ぎたようだ。私は用事があるのでこれで失礼するよ」
「待って、まだ彼の話が――」
アデールがそう言い終わる前に、私はレンガを飛び降りた。
やれやれ、飽き性の猫には長話は辛い。
それに彼女の声は良く響くので、あまり長話をすると、周囲に住む人間達に迷惑だろう。
出来る猫は、人や猫以外の動物にも配慮する。これも、私の美学の一つである。