28話 牧野沙綾
牧野沙綾が営んでいる動物病院は、住宅街にあり、ご主人のマンションからも近い場所にあった。
私も何度か看て貰った事があるので、馴染みはある。
「こんにちは~」ご主人は慣れた様子でドアを開けた。
「うん? ……その声は?」
奥から女性の声が聞こえた。牧野だ。長い髪はボサボサで、よれた白衣を身に纏っている。
「猫女……。あんた、病院に運ばれたんじゃ無いの?」
牧野は少し驚いた様子で春香を見つめる。少しぶっきらぼうな喋り方が、彼女の正確を良く表している。
「この通り元気です。それと、何度も言っていますが私の名前は萌音春香ですよ」
ご主人は、少し困った様に笑った。牧野はご主人の事を仕草が猫らしいということで猫女と呼んでいる。
……確かに間違いでは無いが、もう少し、他に呼び名があるのでは無いかと私は思う。
牧野も笑い、「はいはい、後で見舞いに行こうと思ってたけど、手間が省けたね。見た所そこのナハトは元気そうだし、検診って訳じゃ無さそうだね」
「はい。今日私がここに来たのは、数日前にあった、野良猫達が倒れていた事です。沙綾さんなら何か知ってると思って……」
「……まぁ、立ち話もなんだし、お茶でも飲んでいきな」
牧野は表情をあまり変えずに、部屋の奥へ戻っていく。私達はその後をついて行く事にする。
私達は検診室に案内された。牧野は珈琲が入った2つのマグカップの1つをご主人に手渡す。
私には小皿にミルク与えられた。ご主人はお礼を言って受け取った。牧野は煙草を取り出し、火を付けた。
「それで、私があの猫達について何か知ってると?」ご主人は両手でマグカップを持ったまま頷いた。
「はい。ナ――、街の人に聞いたんです。牧野さんが、猫達を引き取ったって」
ご主人は慌てて言い直す。牧野とご主人は猫好きが共通し、時々飲みに行く仲だ。私も何度か会っていて、よく洒落た名前だとからかわれていた。
ご主人は以前、酔った勢いで猫と話せる事を告げたらしい。その時の牧野は笑いながら「へぇそれは羨ましいね。それならあたしは猫に救われたことがあるよ」と言っていたそうだ。それは、ご主人に向けたジョークだったのかもしれない。しかし牧野はご主人に劣らず猫を愛している。牧野沙綾はきっと信頼出来る人物のはずだ。
牧野は煙草の煙をふっと吐き、答えた。
「――そうだよ。あたしが供養した」
「……死因は……何ですか?」 そう聞くご主人の声は苦しみが滲み出ていた。私は唇を噛める。酷く気分が悪い。
私だけで無く、ご主人からして見れば、沢山の友人が死んでしまった事件なのだ。優しかった青い街を汚した事件なのだ。ご主人はいつ発狂してもおかしくない現実と戦っている。
牧野は静かに答えた。
「猛毒だね。あたしも医者の端くれだから分かるけど、あれは人間でも死ぬレベルだ」
「猛毒……」
「ああ、一般では出回ってない代物だ」
「つまり、犯人は一般人では無いという事ですね」
ご主人の瞳が鋭くなる。同時に少し、泣いてるようにも見える。
怒っているのだ、彼女は。
ご主人はほとんど怒らない。それはまるで、怒りという感情をどこかに置いてきた様だった。そんな彼女が怒る理由は1つ。
大切な物を傷つけられた時だ。
「そうさね。考えられるのは私と同じ医者か……」
「もう一つ聞きたい事が、沙綾さんは、最近この街で、ホームレス風の男性を見ませんでした?」
ご主人はマグカップを持ち口に近づける。カップを持つ手は震えていた。
「ああ、見たよ。この街であの風貌はすぐ分かる。ここは富裕層の街だからね。あいつについては、あたしの見解だけど、分かった事がある」牧野は煙草を灰皿にこすりつけた。煙草の煙が、少し目に染みる。
「猫女、あいつは、あんたを監視している」




