26話 女神と、タリスマン
真っ暗だ。
周りは何も見えない。
何も聞こえない。
ここは……どこだろう?
「はぁい、久し振りね”――”」
"僕"を呼ぶ声がした。目の前にはいつの間にか女性が立っていた。
花の蜜の様な、甘い匂いが漂う。僕はこの香りを知っている。
「君は……アゲハ?」
蝶の名前を持つ女性はあの時と全く変わっていなかった。
美しいが、僕のよく知る彼女とは別の、見つめていると心がざわめく瞳。近付くと絡み付いてくるような、長い髪。紅い、艶やかな着物……東洋から来た、彼女の友人 だった妙齢な女性。
「うーん! 黒猫姿の貴方もキュートだったけど、やっぱり人間の貴方は格段に可愛いわね!」
僕は自分の手の平を見る。人間の手だ……。手のひらは、すっかり見慣れた肉球が無くなっている。
アゲハは僕の頬に手を伸ばしてきた。甘い香りが一層強くなる。僕は躱す。僕の頬に触れて良い女性は、一人だけだ。
「……前から不思議な人と思っていたけど、君は魔女だったのか?」
目の前にいるアゲハこそが、僕を猫に変えてしまったのだ。アゲハは躱された事に不服そうな顔をする。
「もぅ! 久し振りに会ったのにずいぶんと冷たいのね。それに違うわぁ、あたしは女神、この国のね。ようこそ、私の国へ」
女神と名乗るアゲハは楽しそうに笑った。
女神……僕が人間だった時代、誰もが信仰し、恋い焦がれた存在……。
アゲハは指を立てて語り始める。
「寿司はもう食べた? 特に職人が作る大トロなんて最高よ。猫になった貴方なら魚は好物でしょう? それから私の最近のイチオシは……」
「観光に来た訳じゃ無い。女神だなんて、君は……ナンセンスだ」
僕はそう言って首を振る。だけど言葉とは裏に、本心はアゲハの言葉をすんなりと信じていた。
人間から猫になった僕。
猫から人間になったご主人。
僕らは幻想の世界に生きている。
アゲハは僕の心を見抜いているようで、子供をあやすように笑った。
「貴方、次に生まれるときは猫が良いって言ってってたから、こうして叶えてあげたのに」
「あれはっ!……、冗談のつもりだったんだ」
「でも、あの子と一緒にいたかったのは本当でしょ?」
「……」僕は黙ってしまう。知り合ったときから、この人は苦手だ。話していると、いつも心を覗かれている気がするから。
あの日、彼女を先に逃がした僕は、一人で仰向けで倒れていた。
流れる血は止まらず、やけに寒かったのを覚えている。夜空に浮かぶ三日月を見上げながら脳裏に浮かんだ事は、騎士道精神のかけらも無い、”死にたくない”という感情だった。
死にたくない、死にたくない……僕が死んでしまえば、猫の姫君に会えなくなってしまう。
彼女の笑顔も、からかいの言葉も、楽しそうに猫と話す声も。全部知ることが出来ない。
僕にとってそれは、死ぬことより怖かった。
薄れゆく意識の中、神に願うことにした。決して世界を平等に幸福にしてくれない、ろくでなしの神様に。
そんな願いがまさか叶うなんて、思いもしなかった。
「ええと、今はハルカちゃんだっけ? あの子は元気? 相変わらず良い子すぎるわね、あの子」
「……」
アゲハのトロリとした口調に、僕は苛立ちを覚えた。目の前の人物が本当に神なら――
「勘違いしないでね」アゲハはまたしても見透かした様に言う。
「あの子がいろいろ酷い目に遭ってるのは、私のせいじゃないわ。神だって何でもしてる訳じゃ無いの。あたしは一応味方よ。貴方たちのね」
「それなら……それならなぜ彼女に、不幸が襲うんだ」言葉が強くなってしまう。いつも彼女は不幸だ。王女の時も、現在も。
アゲハは哀れみと呼べるような顔をした。
「……あの子は特別なの。世界でも数えるくらいしかいない、人々の願いと呪いを担う女。考えてみて、あの子はいつも、富と名声と不幸に囲まれていたでしょう? どうあっても、普通には生きられない。そんな運命の人よ。歴史上の偉人は、みんなそういう生き方しか出来ないの」
「偉人だって……?」
僕の生きた時代から、その言葉はあった。王族や革命家、芸術家に当てはまる言葉だ。僕は足の力が抜け、地面にへたれてしまう。
「彼女は……普通の生活が好きなんだ。青い空を眺めて、そよ風を浴び、花や動物を愛でる。それだけしか望んでいないのに……ただ、それだけでいい人なんだ」
巨大な運命の鎖は、きっとまた彼女を殺してしまうだろう。ただの黒猫の僕は、守る事が出来るのだろうか?
そうなったら僕は――。
「しっかりしなさいな。そのために貴方を生まれ変わらせたのよ」
「僕を?」
アゲハの声は、優しかった。
「貴方はあの子の、護符の様な物なのよ。貴方がいれば、彼女はどんな厄も乗り越えれる。貴方たちは二人で1つの強い輝きを放つ事が出来る。だからあの子から離れないで。それが貴方達の国で言う、騎士なのでしょう? ……そうね、もう一つプレゼントをあげようかしら」
「プレゼント?」僕は聞き返す。アゲハはクスクスと笑う。
「それは後で分かるわ。楽しみは取っておきなさい」
「……やれやれ」
やっぱりこの人は、掴み所が無くて苦手だ。だけど彼女の言葉は僕を奮い立たせる。
僕が、あの人の護符。
その言葉1つで、足に力がみなぎる。
もう一度、立つ事が出来る。
「最後に1つ聞きたい。どうして僕と彼女に肩を持つんだ? 貴方が女神なら、誰にでも平等じゃなければ駄目じゃ無いのか?」
「理由は簡単よ――」
問われたアゲハはニヤリと笑い、両手を広げた。少し、意地の悪い顔だった。
「貴方たちは面白いわ! 見ていてちっとも退屈しないの! だからもっと私に貴方たちのオペラを楽しませなさい! そのためだったら投資してあげる!」アゲハはくるくると廻りながら高らかに言う。
「……酷い趣味だ」
僕はそう呟き自虐的に笑う。彼女はやはり、人では無い。
「さぁナハト、もう夢から覚めなさい。そして幸福な幕切れをつかみ取ってみせなさい。……それさえなければ、あたしが貴方に手を出しちゃうのだけど」
「最後の言葉は聞かなかったことにしよう。僕をあの人の傍に置いてくれて、ありがとう」
僕は背を向けて歩き出す。
「ほんと、猫みたいに可愛いひとね」
後ろから彼女の嬉しそうな声が聞こえた。目の前は、眩しい光が広がり始めた。




