21話 Cat Princess&Happiness Symbol(後編)
真っ暗な空間の中で私は耳を塞ぎ、目を閉じ、塞ぎ込んでいる。
あとはこのまま眠り、ずっと起きなければいい。
それなのにどうして、あの時の話を思い出したんだろう。
私は、もう眠りたいのに。もう何も見たくないのに。
黒猫の騎士を思い出すたびに、胸に温度が宿る。
「……ナハト」
もう一度ぽつりと呟いた彼の名は、波紋の様に広がる。
生真面目で勉強家で沢山のこだわりがあって、女性に弱くてからかいたくなる。優しい騎士。
ナハト、私は君に、何か出来たかな。
……きっと、人間の私よりも、猫の君の方がずっと辛いよね。
いつもナハトは私の傍にいてくれた。
この青空の街で絵を描けてる事も、ワインと魚が美味しく食べられるのも、お日様の下で散歩が出来る事も。笑って過ごせる事も、全部君のおかげ。
君に恩返しをしたい。
私だって、守られてるだけじゃ無くて、君を守りたい。
「……起きなきゃ」
耳を塞ぐ事を止め、目を見開いた。そのまま立ち上がり、よろよろとした足取りで暗闇を歩き出す。
暗い森をさまようグレーテルの様に。彼女と違う所は、白い小石が無くても、進む方向は分かっている事。
しばらく歩き続けると、遠くに大きな扉が浮かび上がった。私はあの扉の奥に、帰らなきゃ。
そう思い一歩踏み出した瞬間。目の前は赤い景色に変わる。
不気味な仮面の2人。
流れるパパとママの血。
横たわる猫達の死体。
どこかで見覚えがある黒髪の男性。
そんな沢山の人が、倒れている地獄のような光景。
「ひっ!?……」
私は短く叫び、目を背ける。
「前に……進まなきゃ……」
扉までもうすぐなんだ。だけど震える足は動く事を拒否する。
「行かなきゃ……駄目なんだ」
自分に言い聞かせる。
突然、沢山の声が聞こえた。私を呼ぶような、願いが込められた声。
「るか……」
その中でも彼の声はすぐに分かった。
「目を覚ましてくれ! 春香!」
言葉を聞いた瞬間、目を見開く。見渡す限りの赤い光景は、夜の草原に変わっていた。
夜空を見上げると、金色の三日月が輝いている。
「エンジェルマーク……」
三日月を見た瞬間、動かなかった足は小鳥の羽の様に軽くなる。地面を思いっきり蹴り、そのまま扉の前まで駆けると、扉は音を立てて開いた――。
誰かが話し合っている声が聞こえる。
「先生、春香が直らないって、どういう事ですか!?」
「萌音さん。残念ですが、現代の医学では春香さんが目を覚ます保証出来ません」
「そんなっ……この前まで元気だったんですよ?」
「……お力に添えず、本当に申し訳ありません」
「私は信じない! 貴方、名医と呼ばれてるなら、なんとかしてよ! 世界で一番大切な妹なのよ!? 春香が目覚めないなら、私は……どう生きたらいいの……?」
激しい声の後に、すすり泣く音が聞こえた。
私の大嫌いな、不幸の音。
「泣かないで、お姉ちゃん。私はもう、大丈夫だから」
そっと呟く。こんな悲しい音は、私が青空色に塗り変えるよ。
飛び起きる。蛍光灯の白い光に眼が慣れず、視界がチカチカする。
「嘘……春香?」
声の方を振り向くと、お姉ちゃんがいた。
目は充血していてクマが出来ている。隣には白衣を着た中年男性が、驚くように目を見開いていた。
「……信じられない……奇跡だ」
起きた私はそのまま声のする方へ歩き出す。
「春香……どこへ行くの?」
心配そうに見つめるお姉ちゃん。
「そういえば、やけに猫の声がするな」
私はそのまま窓を力強く開ける。
月明かりの下には沢山の猫の瞳が輝いていた。
「うわ、なんだこの猫達、なんでこんなに沢山……」
後を追いかけた医師は気味が悪そうに後ずさる。
目はすぐに闇に慣れる。私の目は猫の目だから。猫達は知っている顔もいるし、知らない猫も沢山いた。
その中にはあの日、ナハトを連れ出した灰猫の姿もあった。そして猫の群れの先頭に、一匹の黒猫を見つける事が出来た。嬉しくて唇が緩む。
息を大きく吸う、――そして、
叫んだ。
人間の萌音春香じゃ絶対に出せない、夜を切り裂くような、ケモノの咆哮。
お姉ちゃんと医師は呆然としている。二人とも、狂ったと思ったのかもしれない。
私を呼ぶ声は沢山の猫達の声だった。鳴き声の意味は【目を覚まして】と【助けて】が混ざっている。
私は猫の言葉ではこう答えた。
――ありがとう、もう怯えなくてもいいんだよ。あの事件は私が解き明かしてみせるから。
少ししてから、歓声の様な鳴き声が響き渡る。みんな、私を信じてくれた。
猫姫――。ドイツの小さな町で聞いたあの言葉を、今の私に当てはめよう。
ナハト、君が傍にいてくれるなら、私は猫の王女にだってなれるの。
夜の名の君は、名前を付けたあの時と同じ表情で、笑っていた。




