19話 Cat Princess&Happiness Symbol(前編)
……嫌な事思い出しちゃったな。……もう眠ろう。ずっとずっと。
童話の「茨姫」を思い出す。100年間、眠り続けた王女の話。
私はあの話は子供の頃から好きで、今でも絵本はアトリエに保管されている。
今なら分かる、彼女は眠っている間、きっと幸せだったんだろうな。
目を瞑り、眠ってしまえば、嫌な事は全部、見る必要は無いから。
そして最後は王子様のキスで目覚め、ハッピーエンド。めでたしめでたし。
……なんて羨ましいんだろう。
王子様……。その単語が頭の中で山びこの様に反響する。
私には王子様はいない。だけど。
だけど私にはナイトがいる。この世界に唯一の、猫の姿をした騎士。
「会いたいよ……ナハト」
名前を呟く。私の感情に沢山の感情が波となり寄せる。
私が「夜」の名を付けた黒猫。
今度は三年前の事を思い出す。絶対に忘れない、ドイツで起こった特別な日の事を。
私は以前、世界中を旅していた。
理由は兄さんとお姉ちゃんを心配させたくなかったから。私の意識がはっきりしてきた時、すでに4年が経っていて、私は高校をいつの間にか卒業していた。
喋れる様にはなったけど、笑う事だけは、まだ出来なかった。変わったのは、私だけじゃ無かった。
兄さんは無口に、お姉ちゃんは以前よりずっと心配性になった。
私達家族は、みんな変わってしまった。だからせめて二人に昔のままの私を見せたかった。
旅をしている間は、スケッチブックに絵を描いていた。特に笑顔の人達がいる場所を描いた。いつか私もあんな風に笑えればいいなと思ったから。
同じくらい猫の絵も描いた。
ペルシャにラグドールにロシアンブルー……
自分が"元猫"だと分かる前から、ずっとあの子達に惹かれていた。私にとって猫はずっと昔から、人間より優しい生き物だった。
そして旅を続けるうちに、ドイツの小さな町に立ち寄った。丁度お祭りをやっていて、猫に感謝するお祭りらしい。町の人は、みんな顔に絵の具で猫の髭と耳の飾りを付けて、町の大通りに列を作り、歌いながら歩いている。
まるで猫の行進だ。
私は笑えなかったけど、その光景を見れて、とても嬉しかった。私はその様子をスケッチブックに書き写していた。
その景色には、一切の悲しみは存在しない。
世界中が毎日こんな感じにお祭りだったら良かったのに。そう強く思った。スケッチブックに水滴が落ちた。その水は私の涙だと言う事に少ししてから気が付いた。
「あはは……。こんなに楽しいお祭りなのに泣いちゃ駄目だよ、私」
目をゴシゴシと擦る。涙はこの祭りには一番似合わない。
「貴方、外国の人? 楽しんでる?」
後ろから声を掛けられた。振り向くと、金髪の女の人がいた。年は私より、一回り上な印象だった。
「はい、楽しいお祭りですね。私、猫が大好きなんです。」
金髪の女性ははにかむ。
「そっか、表情を変えない貴方はクールなのね。つまらないのかなと思っちゃった。それなら今日は、貴方も猫になっちゃいなさい」
女性はそう言ってポーチから化粧道具を取り出し、私の顔に髭を描き、猫の耳のかぶり物を頭に載せた。
「はい! 完成! これで貴方も猫に……あら? こうして見ると、貴方猫姫様と似てるわね」
「猫姫?」
私は訪ねた。誰だろう?なんだか、懐かしい響きがした。
「大昔、この国の王女さまだった人よ。このお祭りは彼女が考えたの。さぁ楽しみましょ!」
女性は私の手を引き、行列の中に潜り込んだ。私はびっくりしたけど、みんなに合わせて歩き出す。
女性は私に手を振り、同年代の女性達の方へ向かった。
私も列に混じり歌い出す。ドイツ語の歌で、これまた猫に関する歌だった。何度も繰り返し歌うので、すっかり覚えてしまった。
楽しい。楽しいな。
大声で歌い続ける。
「にゃー!」時々、猫の鳴き真似をしてみた。
今の私は猫だ。そんな想像をする。
私には長い尻尾が生えていて、揺らすように歩いてみるの。私の足の裏には肉球が付いてる。どこかにネズミはいないかな。
見つけたら、捕まえちゃおう。でも可愛そうだから食べないであげよう。
こんなに天気がいいのだから後で日向ぼっこをしよう。場所は花が咲いている草原がいいな。
――本当に、楽しいな。
「楽しい筈なのに……」
私は行進する列からそっと離れ、町中を駆けだした。
どんどん感情が溢れてくる。こんな顔は、さっきのお姉さんにも、誰にも見られたくない。
「どうして……どうして笑えないの!?」
その言葉を言った瞬間、心で何かが溢れ出す。涙を押さえることが出来ない。
私はうわぁぁん、うわぁぁんと泣きじゃくる。顔を乱暴に手でこする。手は黒く汚れた。せっかく描いて貰った髭は、もう原型を留めていない。
この一面が海になってしまうほどに、泣き続ける。
玩具を買って貰えなかった男の子の様に。
親とはぐれて迷子になってしまった女の子の様に
さっき楽しかった気持ちは吹き飛んで、今はどうしようもなく悲しい。辛い。苦しい。痛い。
私はもう、二度と笑えないのかもしれない。泣く事しか出来ないのかもしれない。
そんな私は猫にはなれない。人間でもいられない。
悲しい、悲しいよ。
とてつもなく大きな悲しみは、溺れる事と似ていた。息が、できない。
「助けて……」
泣きすぎて、枯れた声で呟く。
誰に? 誰に助けを求めればいいのだろう?
兄さん? お姉ちゃん? 執事? 病院の先生? 昔いたかもしれない友達?
どれも違う。
残った可能性は、おとぎ話に出てくる騎士くらいしかない。
今の私には、小さな女の子の様に、おとぎ話を信じるしかない。
「大丈夫、もう泣かなくていい」
男の子の声がした。
赤く腫らした目で声の方を向く。少年の姿はどこにもなくて、その代わり小さな黒猫の姿があった。
真夜中の様な毛並み、首の下には三日月模様のエンジェルマーク
夜の色をした子猫は、優しい口調で告げる。
まるでおとぎ話の、騎士の様に。
「君を泣かせないのが僕の使命だ。だから――泣かないでくれ」




