1話 猫たちの朝
朝。寝床から起き、あくびと背伸びをする。前足で顔を洗い、髭を整える。
カーテンから差し込む朝日は暖かく、起きたばかりなのにまどろんでしまいそうだ。
そう思っていた矢先、横からいびきが聞こえる。……やれやれ、今日も私が先か。
私は隣の人間用ベッドに登り、ご主人の顔を肉球で押す。
「う、ううん……ナハト、あと10分だけ」
ご主人はくるりと横を向き、またいびきを始める。掛け布団がはだけ、白い肌が露出する。彼女はベッドで眠る時、パジャマを着たがらない。
やれやれ。夜行性の私より寝起きが遅いとは……。それに下着姿のまま寝るのは人間の年頃の娘としてはどうなのだろうか。
15分後。もう一度彼女の頬に肉球を押しつける。5分時間をずらしたのはご主人はいつも決めた時間には起きないからだ。
「ご主人。起きてくれ。そろそろ朝食を頂きたい」
「……ふぁーい」
ご主人はやっと起き上がる。あくびを口で押さえながら着替え、キッチンに向かう。ボサボサになったショートヘアーはそのままで、鼻歌を歌いながら朝食を作り始めた。魚の焼ける良い匂いが鼻をかすめる。私は思わず舌なめずりをする。良い香りだ。食事は、まずは香りを楽しむことから始める。わたしの美学の一つである。
「はいお待たせ~。今日は白身魚のムニエルにしてみました」
ご主人が皿にに盛り付けてくれた魚料理をゆっくりと食べ始める。ご主人は他にパスタやサラダを作り、私より後から食べ始める。
「美味い。さすがはご主人だ」
ご主人はニコリと笑う。
「そうでしょー。色んな所を旅をしたおかげかな。それにしても、ナハトは生魚より料理した食べ物を喜ぶなんて、相変わらず変わった猫ね」
確かに、私は飼い主に似たのだろう。
基本的に私は料理された物しか食べない。ご主人が作った料理を食べると、もう何も味付けされてない生魚には戻れないのだ。
知り合いの猫達はキャットフードで十分だったり猫舌だったりで食さないのだが、私は違う。
料理は、人間の発明の中で最も素晴らしい物だ。そう確信しており、私はそんな人間達を尊敬している。
食事が終わるとご主人はキャンパスに絵を描き始める。
ここでは下書きで、絵の具を使った本作業は近く建てた彼女のアトリエで行う。(以前はここでも書いていたが、絵の具の臭いが原因で隣の部屋の住民に叱られた。)
ご主人に言わせると、絵を描くことはミックスジュースを作る事と似ているらしく、今まで見てきた物、聞いてきた物、読んできた物が頭の中でごちゃ混ぜになっており、それを描き出しているらしい。……私には真似出来そうに無い。そう思いながら隣で作業を見ていると、彼女はのんびりとした口調で語りかけてきた。
「どうこの絵? 結構自信作。近々個展をやるんだ」
私には人間の芸術の良し悪しは分からないが、ご主人が描く物ならそれはすばらしい絵なのだろう。私は肯定の意味を込めてにゃあと一鳴きした。
「ありがと。ナハトが最初のお客さんだね」
その時、インターフォンの鳴る音がした。
……そういえば今日は水曜日か。だとすれば呼び鈴を鳴らした人物はきっと彼だろう。
「はいはーい」 ご主人はゆっくりと立ち上がりドアを明ける。
「おはようございます! 師匠!」 そこには一人の少年がいた。
年は人間で15才くらいか。髪が長く、肌が白い、中性的な顔立ちで、少年にも少女にも見える。
「おはよー海人君。今日も元気だねぇ」
「はい! 師匠に教えて貰えますから。 今日もご指導よろしくお願いします」
「よしよし」
ご主人は少年の頭を撫でる。それを見て私はなんとも言えない気持ちになる。ご主人は撫でるのがとても上手く、心地よい物だ。それは今まで私の特権だったというのに、この少年が来てから回数が減った気がする。
少年の名前は北見海人。彼は、ご主人の弟子である。彼とご主人が初めて会ったのは今から2ヶ月前の事だった。
当時ご主人は、市で開かれる展覧会に来ていた。様々な絵が並ぶ中でご主人の絵も飾られる事になったのだ。
私もご主人の影響で絵画鑑賞は好きだ。
美術館は不公平で動物立ち入り禁止だが、ご主人に頼み込み、トートバッグに忍び込み、こっそり鑑賞することにしたのだ。
「あ、私の絵があったよナハト。」
ご主人は自分の絵を見つけ喜びの声を上げる。ご主人の絵はやはり別格だ。
鳴くとバレてしまうので黒い尻尾を振る。
「ありがと。今回は結構大きな展覧会で有名な画家達も参加してるんだよ。さすが私、やるなぁ」
ご主人は自慢げに笑った。自信があることは良いことだ。もう一度肯定的な意味を込めて尻尾振ったその時、「萌音春香さんですよね?」 横から声が聞こえた。
ご主人が振り向くと目の前には彼が立っていた。
「はい、そうですよ」
「おお! 単刀直入に言います。弟子にして下さい!」
少年は深々と頭を下げる。
ご主人は笑顔で「いーよ」と答えた。
これにはバッグの中で聞いていた私も驚いた。
おいおい。ご主人よ、いくらなんでも即決すぎないか?
しかし声を出せないのでその場は黙って見ているしか無かった。
「ありがとうございます! 僕、北見海人って言います。」
「よろしくね海斗君。それじゃあこんど遊びに来なよ。」
「本当ですか! では後日先生のご自宅に向かいますね」
そんな感じに、話はトントン拍子に進んでいった。
その日の夜、私は理由を聞いてみた。
ご主人は私の声に笑って答える。
「だって可愛いかったんだもん。あんな可愛い子に先生と呼ばれら、弟子にしちゃうよねぇ」
私はため息をついた。シンプル過ぎる理由だ。
私としてはあの少年に何か光る物があるとか。そういった画家としての答えを期待していたのだが。
ご主人は頬笑む。
「それにさ、それがあの子が幸せになるのなら、私も嬉しいの。だから私の為でもあるんだよ」
「――そうだな」
誰かを笑顔にする。それが彼女の主な行動理由だった。
絵を描くことは、富や名声を得る物では無く、絵を見た人を笑顔にする為だと言う。
彼女にとっての美術は、その為だけでいいのだ。
かくして北見海人はこのマンションに頻繁に訪れるようになった。
「じゃあナハト。私達は絵を書きにアトリエに向かうね。ナハトはどうする?」
「では、私も外に散歩に行くとしよう」
「わかった。じゃあ一緒に出よっか」
私達は外に出る。海人は不思議そうな顔をする。「先生ってまるで猫と話せるみたいですね」
ご主人は薄く頬笑む。
「なんとなく、気持ちが分かるだけだよ」
ご主人は猫と話せる事を秘密にしている。裏表の無い性格のご主人には珍しい事だ。海人少年には、ご主人が私に向かってにゃあにゃあ言ってる様にしか見えないだろう。
理由は私にも教えてはくれない。ご主人が話したくなければ、それでかまわないと思っている。
私は二人のやり取りに耳に傾けながら、朝日で暖まったアスファルトを歩き始めるのだった。