17話 想い
この古い木造の洋館は少なくとも、ご主人がこの街にやってきた3年前からあったらしい。
近所の子供達は幽霊屋敷と呼んでいるそうだ。実際、幽霊が出ると都市伝説になっているという。
幽霊が苦手というご主人は怖がって一切近づかなかった。
呪われるかも知れないからと、近づいてはいけないと言われていたので今まで来なかったが……
「なるほど、確かに幽霊が出てもおかしくはなさそうだ」私はつぶやいた。
中は薄暗く、床は埃が積もっていた。歩くたびに床がギィと音が鳴る。
ゆっくりと歩き、広い部屋に出た。
「お前、なぜここに来た」 雷の様な鋭い声が影から聞こえた。影から出てきたのは、あの灰猫だった。
「君がここに住んでいると前にトラに聞いたんだ」
トラの顔を思い出し、歯を食いしばりながら答える。
「前にも言ったはずだ」彼の青い瞳が妖しく揺れた。
「お前ら飼い猫も敵だと!」 突然灰猫は飛びかかってくる。彼の口から鋭い牙が光るのが見えた。しかしその牙は私には当たらなかった。
気がつくと私は彼をひらりと躱していたのだ。身体が勝手に動くことに私は驚く。
「――なに?」灰猫も躱されるとは思っていなかったらしく、驚きの声を上げた。
今までの私なら、反応できずに奴に噛みつかれていただろう。飼い猫の私ではアウトローな世界で生き、喧嘩慣れしている彼との経験が違い過ぎる。しかし今の私は前世の記憶がある。前世の私は、あらゆる状況に対応出来る様に様々な事を身体に叩き込んでいた。剣裁き、格闘術、馬術……。全は、彼女を守る為に身につけた。
最も、猫である現在はほとんど披露する事が出来ないが。
「争いにきた訳では無い! 話があって来たんだ」
灰猫はジロリと私を睨み、私の周りをゆっくりと歩く。いつでも飛びかかれる距離だ。
「お前、先程とは別人の様だな。……何があった」
「私の事はどうでもいい。君はトラ達を殺した犯人を見つけたら……どうするつもりなんだ」
「それも前に言ったはずだ。報復する」
「私達猫じゃ無理だろう」
「無理じゃないさ」灰猫はニヤリと笑った。
「人間は柔らかいからな。喉元を爪や牙で切り裂いてしまえばいい」
「トラはそんな事望んでいないぞ!」
私は叫ぶ。
その言葉を聞いた灰猫は目をつり上げた。
「そうかも知れないな。あいつはお前と同じ甘い奴だった。……だが今回の件でキレてるのは俺だけじゃない。みんなそいつを恨んでいるし、怯えている。俺がやらずとも、他の誰かがやるだけだ」
私の身体が血の気が引くのが分かった。これでは私が人間だった時に嫌と言うほど見た、憎しみと血の景色となんら変わらない。それはご主人は猫姫と言われたあの時代も、元猫を名乗る現在も絶対に見せたくない光景だ。
これ以上、彼女が好きな空色の街を血で汚してなるものか。
「この事件は、私と私のご主人、萌音春香が解決する」
「お前と、あの人間の女が……?」
「ああ、だから手は出してはいけないと野良猫達に伝えてくれ」
「何を言うかと思えば……」灰猫は呆れた様に言う。
「お前の主人の女は、死体を見て気を失い、今もその状態らしいじゃないか。そんな奴に何が出来る」
「出来るさ」
私は灰猫を強く見つめて言う。
「彼女が猫の言葉を話せる事は知ってるだろう」
「ああ、有名だからな。この街に住む猫で知らない者はいない」
「彼女は元々は猫だったんだ。だから私達の言葉が分かる。彼女だって今回の件をどうにかしたいハズだ。
あの人は、誰かを泣かせる事を許さない人だ。人間の犯人を捕まえるのは、人間の彼女ならきっと出来る」
灰猫は目を見開いた。
「だから! 今は心が壊れた廃人なんだろ! そんな奴に――」
「壊れていないさ」
私は静かに、しかし力強く答える。
「本当の彼女はずっと、強いお方だ。彼女は何度も傷つき、涙が涸れるまで泣くが、それでも最後には頬笑み戦う人だ。私は、何度もあの人に救われている」
私の役目は、彼女の傷を痛み分ける事だ。
あの時、そう決めたんだ。
「頼む。私達は、この凄惨な事件を終わらせる事が出来るんだ」
私は頭を深く下げる。咄嗟に出たこの行動は、人間の誠意を表す方法だ。猫にとっては誠意を表す行為ではない。
灰猫はしばらく無言のまま私を見つめ、やがて大きく息を吐いた。「……飼い猫は行動も人間に似るものなんだな。それは人間の作法だろう?」
「……知っているのか?」
灰猫は私の声には答えず、「お前が犯人を捕まえたい気持ちは伝わった。いいだろう、仲間には報復は待てと伝えておく。ただし、お前達が失敗したらそのときは予定通り犯人を殺す。それでいいな」
「ありがとう……」
「ふん、短時間に良い面構えになったな」
彼はそう言うと、口元を少し緩めた。彼の笑った顔を見るのは初めての事だ。
「それで、どうやってあの女を起こすんだ?」
灰猫は鋭い――が、先ほどよりは柔らかい瞳で聞く。
「私に考えがあるんだ。そこで、君に頼みたい事がある」
私は灰猫にアイデアを話す。彼は驚いた顔をした。私は洋館の窓から見える雨雲を見つめ、病室で眠るご主人を想う。
大丈夫だご主人。私がついている。




