16話 knight(ナイト)
雨でぬかるんだ道路を走る。身体は案の定ずぶ濡れだ。しかし、そんな事を気にしている暇は無い。
高速で回り続ける足は、まるで感覚が無い。ヤシの木の周りを回りすぎてバターになったトラの話を思い出す。猫もバターになるのだろうか? 酸素が足りてない頭の奥で、ぼんやりと考えた。
私が猫としての人生の中で間違いなく一番走っているのだろう。
走り続けている間にも、忘れていた記憶は泡の様に浮かび上がる。
私は人間だった。
そしてご主人、萌音春香も以前は人間だった。
猫と話せる彼女の前世は、確かに猫だったかもしれない。しかしそれはずっとずっと前の事なのだろう。
その間の事を、彼女は覚えていない。
私との関係は前と変わらない。私が人間か、黒猫かの違いだけだ。
その昔、彼女は小国の姫君だった。当時の私は人間の男で、彼女の側近を勤めていた。
どうやら彼女はいつも富に恵まれているらしい。それを少しも喜ばしく思わない彼女にとっては、それもやはり神の嫌がらせなのだろうか。
彼女は今も昔も自分の事は考えていない。
いつも誰かの為に泣き、誰かの為に傷つく。それを隠し、なんでもない様に笑う、そんな女性だった。
私はそんな彼女が泣かなくてすむ様に、ずっと彼女の近くにいた。彼女の本当の笑顔が見たかった。
車のクラクションが鳴り響く。音の鳴る方を振り返ると車のライトが目の前に迫っていた。――いつの間にか車道に飛び出していたのだ。
私は地面を蹴り車を躱す。しかしその後バランスを崩し転倒してしまう。身体に痛みが走り、顔には水しぶきが掛かった。舌は泥の味がした。
――貴方はただの家来でも無いし、ただの側近でも無いの。
姫君だった彼女の言葉を思い出す。あの頃の彼女も猫と話す事ができ、国民や家族からは猫姫と呼ばれていた。
――世界にただ一人の、私の騎士なんだから。だから私を守って。どこにも行かないで。
「行かないさ。こうして猫に生まれ変わっても、君に会いに来たんじゃないか」
私はそう呟き、立ち上がり、また駆ける。走り続けて辿り着いた先は、とても古いボロボロの洋館だった。庭は荒れ果て、窓は所々割れている。どう見ても人が住んでいる気配は無い。
ここに、あの鋭い目付きの灰猫がいるはずだ。
ご主人の眠りを覚ますには、彼の協力が必要不可欠だ。
「彼は動いてくれるだろうか」
私はそう呟くと、近くの木に登り、そのまま割れた窓へ飛び込んだ。




