15話 オールド・ラブ
外の土砂降りは少し弱くはなったが、依然として降り続いてた。
「ごめんなさい」
冬香は深く頭を下げた。
「よりによって貴方を疑うなんて、今の私は本当にどうかしてるみたいね」
柊は目を細め笑う。
「いえいえ、刑事として、疑う事は正しい事ですよ。それに冬香お嬢様は、春香お嬢様の事を誰よりも気に掛けていましたからね。」
「ありがとう……」
「ところで冬香お嬢様、今朝10匹ほどの猫が死んでいたのはご存じでしたか?」
「ええ、直接は見てないのだけど。春香が倒れていたのはその近くらしいわね。でも春香はどうしてあそこまでのショックを受けたのかしら?」
冬香は眼鏡の位置を直す。
「春香が猫をすごく大切にしているのは分かる。ここにいるナハトを溺愛しているもの。だけどそれにしたってここまでの事になるなんて……」
冬香は私の方に視線を移す。
「これは推測ですが、春香お嬢様にとって、猫達の死を見て、あの事件を思い出してしまったのでは無いのでしょうか」
柊はそう言いながら苦い顔をした。
「そう……立ち直ったと思っていたけど、あの事件はまだ春香を苦しめているのね」
”あの事件”と二人は言った。確か、ご主人は事件とは言っていなかった。唯一覚えてる事は両親が亡くなったという事だけ。誰かが、ご主人の両親に危害を加えたという事だろうか?
私は一つの仮説を思いつく。
ご主人は最近では柊や、海人少年、煙草好きの獣医と話せる様になったが以前はほとんど誰とも会ってはいなかった。柊と出会う前は、時々冬香が訪ねてくるだけだった。
いつもは頬笑んでいる彼女は実は、人の悪意にずっと怯えていたのだ。
「クソっ!」
私は苛立ち、短く叫ぶ。何も知らなかった。あんなに毎日一緒に過ごしていたというのに。
「今回の猫殺しは、警察の方で調べる事は出来るのですか?」柊は冬香に訪ねた。
私は顔を上げる。そうか、冬香は刑事なのだ。この事件を起こした犯人をすぐに調べられるかも知れない。しかし、少しの希望は次の言葉で消えてしまった。
「……正直、難しいわ」
冬香は言いづらそうに答える。
「まず、今回の件が伝染病なのか、誰かが故意的に毒物で殺したのか判断がつかないの。事件なら動物愛護法が適用されると思うけど、……それでもずっと後回しになるのでしょうね。警察は動物より人間の事件の方が大事ですもの」
私は唖然とする。
そんな馬鹿な……トラ達の死は人間達にとってそれほど軽い物なのか。
彼らは野良猫だが、人間界のルールを守っていた。この街では野良猫によるトラブルをほとんど聞く事はない。
それはご主人のおかげだった。
彼女はルールを知らない猫がいると。猫語で注意をしていた。猫たちは人間が猫語で話す事に最初は驚き、警戒したり、無視をしていたりしたが、彼女は食料を分け与えたり、触れあったりし、敵意が無い事を知ると、言われたルールを守り始めた。
だからこの街には猫を殺すという蛮行をする人間など、いないと思っていたが……
「とりあえず今後、春香お嬢様は私が様子を見に行きます」
「お願い。警察は動かないけれど、私個人でも調べてみるわ」
冬香は私の頭を撫でる。頬には一筋の涙が流れていた。
「ナハト、あの子の力になってあげて」
冬香は優しく言うと、玄関でヒールの低いパンプスを履き、出て行った。
彼女の涙を見て思う。
この事件はただトラや他の猫たちが殺された事件では無い。
萌音春香という人物の心を殺した、残酷極まりない事件だ。
柊はその後、私に暖かいミルクを作ってくれた。しかし私はミルクを飲めずにいた。
食欲が全く沸かないのだ。
「春香お嬢様の様態が回復するまで、しばらく君はここにいてください。私はこれから君のご飯の材料を買ってきます」
材料……つまり彼は料理をする事になる。私が調理された食べ物しか口にしない事をご主人は話したのだろう。
「今は大変だと思いますが、お嬢様は強いお方です。きっと大丈夫ですよ」柊は頬笑む。
彼は私と話せないはずなのに、私に話しかけている。動物が好きな人物だからだろうか?
柊が出て行き、誰もいなくなった部屋で私は呟く。
「私は……無力だ」
ひとり呟く。
「貴方は無力なんかじゃなくってよ」優しい声が聞こえた。
「アデール……いたのか」
隣の部屋から現れたアデールは薄く頬笑み、ゆっくりと尻尾を揺らした。
「彼が大事な話をしていたから大人しくしていましたの。それにしても……彼が春香さんの執事だったなんて思いもしなかったわ」
「ああ、柊は本当にすごい男だ。」
家族の様だったご主人と他人の振りをし続ける。彼はきっとご主人の事を実の娘の様に思っていたのだろう。しかし彼女は彼の事を覚えていない。その辛さがどれほどの物か、私には見当がつかない。
「それに比べて私はなんだというのだ!」
惨めな言葉が叫びとなって口から溢れる。視界が滲む。涙が出ている事に気付く。
感情を、抑えることが出来ない。
「彼女に、何もしてやれない。彼女は私に、沢山の物をくれたというのに」
「そんな事無いですわ。貴方は私よりずっと主人の為になっている。私なんて、彼に出来る事はほとんど無いのですもの」
私は目を見開く「そんな事はないだろう」
「いいえ、役に立っては無いわ。私が出来る事は、ただ一緒にいるだけ。彼は犬語を喋れないんですもの。でも、貴方は違うはず」
私の瞳に、彼女の微笑みが映し出される。
「貴方は春香さんと話し合う事が出来るじゃない」
私は首を振る。
「それだけだ。それなら冬香や柊の方がずっと適任だ。結局、私は彼女の愛玩動物に過ぎない」
「いいえ、違います」
アデールは強い口調で否定した。どこか、信念がこもった。口調だった。
「私も女だから分かります。春香さんは、ずっと貴方に救われているのよ」
――ピシッ。アデールの言葉を聞いたとき、頭の中で何かにヒビが入る。例えるなら……そう、卵だ。頭の中の卵に亀裂が走る。
なんだ? 以前にもこの感覚があった。たしかご主人の過去を聞いたとき……
「どうして、そう言い切れる?」
アデールは凜とした口調で告げた。
「春香さんは貴方を愛してるから」
「なっ……?」
「種族なんて関係無しにね。そこが私達とは圧倒的に違う所。貴方も彼女を愛しているのでしょう?」
――ピシッ。
また脳内の卵は亀裂が走る。
――ねぇ、私は猫と喋れるのよ。ずっと昔は猫だったから。羨ましい?
以前聞いたご主人の言葉が脳内を響く。いや、言葉とトーンが少し違う。
私は以前にも彼女のこの言葉を聞いた事がある?
「ナハト? どうしたの? 顔色が悪いわ。汗も描いてる」
アデールは心配そうに私の顔をのぞき込む。
――私、夜が好きなの。この時間はみんな寝静まって、私と貴方しかいないから。
――ピシッ。亀裂は、卵全体に行き渡る。
「そうか……私は」
――ねぇ、貴方はずっと私の傍にいてくれる?
「……勿論だ。私は――」
卵の殻は、完全に割れる。中にあった物。それはとても古い愛だった。
私は彼女を、愛していた。
先程まで弱まっていた雨は、また土砂降りに戻っていた。
「アデール、ありがとう。君にはいつも助けられてばかりだな」
「大丈夫? さっきまで石みたいにずっと固まっていたけど」アデールは未だに不安そうだ。
私は庭へと通じている、ガラス扉を見つめる。
「ああ、あそこの窓は開いているか?」
「え、ええ」
私は不思議そうな顔をしている、コリー犬の彼女に向けて頬笑む。
「アデール、本当にありがとう。君のおかげで大切な事を思い出す事が出来た」
窓を前足で開け、私は飛び出した。
やれやれ、これじゃまたずぶ濡れになるな。だが、たまには雨に打たれるのも悪くない。




