12話 黒猫は人間になりたかった。
冬香に抱えられ、柊の家のリビングまでやって来た。部屋はとても広く、どの家具も気品の感じられる装飾が施されている。
壁にはご主人が以前描いた、青空に包まれた街の絵が飾ってあった。その隣では、幼い子供が書いた様な人物画も額縁に飾られている。水色のクレヨンで「だいすき ひいらぎ」と書かれていた。
柊には娘がいたのだろうか? アデールからは何も聞いていない。
「ご主人……」私は空虚な気持ちを吐き出すように呟く。
彼女の様態は大丈夫なのだろうか?
いや、大丈夫なはずが無い。普段、笑顔を絶やさない彼女が実はガラス細工で出来ている様に繊細で傷つきやすいのを、私は知っていたはずだ。
「冬香お嬢様はここにお座り下さい。ただいま紅茶をお持ちしますので」
「ありがとう。お願いするわ」そう言って柊はキッチンに向かう。
冬香は頷き、私を抱えたままソファーに座り込んだ。そのまま私を膝に乗せる。
「ミルク多めに角砂糖二つ、ですよね」 柊はそう言って少し頬笑む。
「よく覚えてるのね。もうずっと昔の事なのに」冬香もどこか寂しそうに笑みを浮かべた。柊は流暢な動きで紅茶が入ったティーカップをテーブルに並べる。
「覚えていますよ。春香お嬢様は珈琲の方がお好きでしたよね」
二人の話を聞くと、どうやら柊は萌音家の従者だったらしい。
しかし、ご主人からそのような話は一度も聞いた事が無い。ご主人の過去の記憶が曖昧な事に何か関係があるのだろうか?
「春香……」冬香は重い口調でご主人の名を呟いた。
「……春香お嬢様の様態はいかがでしたか」
「……最悪よ。あの子は、またあの時みたいに戻ってしまったわ。」冬香は吐き捨てる様に言う。私を抱える手に力が入る。
「意識はあって目を開いているのに、私が声を掛けてもほとんど動かないし何も喋らない。……私はあの子を守りたいと思って刑事になったのに!」
それは私の知らない事だ。冬香は、本当にご主人を愛しているのだろう。そのために彼女は刑事になった。
それなら私は、トラ達とご主人の為に何が出来るのだろうか?
昔、ご主人が話してくれた【山月記】と言う話を思い出す。
大昔、一人の男が虎に変わった物語だ。
ご主人は元は猫だったと言うのだから、本当の話なのかもしれない。
それなら私は、人間になりたい。
私が人間だったのならこんな最低な事件を起こした犯人を捕まえて、冬香に引き渡してやれるのに。
トラや他の猫たちに、墓を作ってやれるのに。
ご主人――春香を抱きしめる事が出来るのに。
ただの猫である私は、あまりに無力だ。
「柊、私は怖いわ」冬香は私から手を離し、頭を抱える。私は彼女の膝を降りる。
「怖い?」
「あの子はあの事故をきっかけに変わってしまったわ。以前はもっと裏表の無い子だった。笑いたいときに笑い、泣きたい時に泣く、そんな子だった。今は笑顔だけど、どこか影があるっていうか……。兄さんだって以前はもっと穏やかだったわ」
「……そうですね、あの事件から、全てが変わりました。何もかもが」
「ねぇ柊」
冬香は鷹の様な、鋭い目付きで柊を見つめる。昨日までの彼女とは別人の様な瞳だった。
「なぜ貴方は突然私達の前からいなくなったの? そしてなぜ今も春香の近くに住んでいるの? あの子は貴方の事を話していなかった。」
柊は表情を消した。真顔の彼が何を考えているか、私には分からない。
冬香は紅茶を一口だけ飲み、濡れた唇で訪ねる。私はようやく、彼女が柊に疑いを持っていることに気づく。
「そして、どうして貴方が執事だった事を春香に言わないの?」
「……すっかり刑事らしくなりましたね。冬香お嬢様」
柊はゆっくりと呟き、笑ったのだった。




