10話 彼女に、絶望を
「ナハト、そろそろ起きなよ」
身体を揺さぶられ私は目を覚ます。ご主人はすでに起きていて、いつの間にか服を着ている。冬花と飲み明かした部屋は綺麗に掃除され、端には画材がまとめられていた。
珍しい。睡眠好きのご主人に起こされるとは。いつもは私の仕事だというのに。
昨日飲んだ、マタタビ入りのミルクのせいだろうか。
「ご主人、早いじゃないか」
私がそう言うと、ご主人は目を輝かせた。
「うん! あのねっ! 今すっごいインスピレーションが降ってきてるの! 構図も色合いも全部頭の中にある! 今日は海人君も来るし、アトリエでガンガン描くからね!」そう言うとご主人は上機嫌にくるくると踊り出した。昨日話に出ていた通り、とても綺麗な動きだ。
私は息をなで下ろす。昨日の一件でご主人は苦しみから解放された様に見える。――もうご主人の悲しい顔は見ずに済むかもしれない。彼女の飼い猫として、これほど嬉しい事は無い。
その時、「おい! 確かナハトといったな。すぐに出てこい!」
雄猫の声が聞こえた。トラの声では無い。この声は聞き覚えがある。荒々しい口調だが、怒りでは無く、酷く焦っているような、聞いていると不安になる声色だった。
「ご主人、玄関のドアを明けてくれないか?」
ご主人にも雄猫の声が聞こえていた様で、心配そうな表情で答える。
「いいけど、ナハト。喧嘩は駄目だからね」
「分かってる。大丈夫だ」
ご主人はドアを開け、私が外に飛び出ると、昨日公園にいた灰色の猫がいた。
「おいナハト。今すぐついてこい。」
「お前は昨日の……私に何の用だ? 喧嘩ならお断り――」
「いいからついてこい!」
有無を言わせぬ勢いで灰猫は駆け出す。私は訳も分からず後をついて行く。
「ナハト!」
ご主人の不安そうな声が響く。
「ご主人はそこにいてくれ!」私は振り向かずに叫んだ。
階段を下り公園にたどり着く。「こっちだ!」木の根元に灰猫は待っていた。
私はそこに向かい走る。――その直後異様な光景が眼に入る。
「……なんだ、これは」
目に映ったのは、10匹近くの猫が倒れている異質な光景だった。最初は寝ているのでは無いか思ったが、倒れている向きはバラバラ。あまりに不自然だった。その中の一匹に見覚えがあった。茶色の毛並み……。
「トラ……?」
私は震える足で倒れているトラ近づく、トラはまるで溺れるような眼を見開いた表情のまま、固まってた。彼を起こそうと前足で触れた。……まるで石の様に冷たい。
「トラも他のやつらも全員、死んでいる。……俺が確認した」
灰猫は言葉を絞る様に吐いた。瞳には涙が滲んでいた。
「そんな馬鹿な……昨日は普通に会話をしていたでは無いか……」
「……俺が来たときにはすでにこうなっていた……訳が分からねぇ。お前……知っている事があったら教えろ」
「そんな……トラはこの間、病気から立ち直ったばかりではないか……あの医者も健康だと……」
「おい! 聞いてんのか?」
灰猫は私を揺さぶる。グニャリと視界が歪む。まだ夢を見ている様に思えた。全く現実味が沸かない。
「ナハトー? 公園に何があるの?」
ご主人の声が聞こえハッとして振り返る。振り返ると彼女が近づいてきた。――まずい。
――私は猫が前世だったの。
「ご主人! 見るな!」私は咄嗟に叫んだが、すでに彼女の目は大きく見開き、凄惨な光景を目の当たりにしていた。足の力が抜け、その場に座り込んだ。
「ぁ……ぅ、また……また私から……嫌だ……嫌……」
ご主人は頭を抱えうずくまる。ひゅう、ひゅうと風を切る音が聞こえる。彼女が呼吸を出来てない音だった。
「ご主人!」私は急いで駆け寄ろうとする。その瞬間、
「嫌あぁぁぁぁぁ!」
今まで聞いた事も無い、悲痛で絶望的な叫びが私の耳を貫いたのだった。




