9話 元猫の過去
「乾杯!」
キンとグラスのぶつかる音が響く。テーブルには、ご主人の好物の1つのシーフードピザやフライドチキンが並んでいる。
少しづつ飲むご主人と違い、冬香はお猪口に入った日本酒を一口で飲むと、すぐに2杯目を注ぎ、またもや一口で飲む。
明らかにペースが違いすぎる。
「あはは、やっぱりお姉ちゃん、お酒強いね」
「これくらい飲めなきゃ、刑事は勤められないわ。それで、ここに住んでからどう?」
「うん、ここは良い所だよ。みんなのんびりしていて、すごく私に合ってる」
「そっか。春香らしいね」
冬香はフフッと笑みをこぼす。ご主人は空になったグラスにワインを注ぎ、赤紫色の液体がグラスに貯まっていく。
その後のやり取りは、私の知らない話ばかりだった。
ご主人は過去に、バレエを習っていた事。将来の夢は、バレリーナだった事。家はとても裕福で、学校帰りの迎えの車が注目されて恥ずかしかった事。高校は美術の名門高校に通っていたこと。冬香の上に、もう一人兄がいる事などなど……。ご主人は時々、「そう、だったのかな?」 と首を傾げ曖昧に笑った。
考えてみれば、彼女にとっては、私の存在しない19年間を送っている事になる。
私の知らない事の方が圧倒的に多いだろう。
ご主人と出会って3年が経った。私にとってはもう3年なのだが、ご主人にとってはまだ3年なのだ。
「刑事のお仕事はどう?」
「大変よ。張り込みに聞き込み、書類作成に先輩達へのお茶くみ。今日休めたのだって半分奇跡みたいな物ね」
冬香は自称気味に笑う。私も彼女達と一緒に少量のマタタビの入りのミルクを飲み始める。マタタビは量を間違えると記憶が無くなり、その時の様子を後でご主人に笑われるので注意が必要だ。(以前一度スマートフォンで撮影された事がある。)
「それにしても、春香が画家か……凄いわ。私が家系で一番冴えないのかもね」
「そんなことないよ! 私、お姉ちゃんの事尊敬してるんだから」ご主人は慌てて手を振る。
「ありがと。今のはちょっとした謙遜、刑事になるのは昔からの夢だったから」
「私達の姿、パパとママにも見せたかったなぁ」ご主人は昔を懐かしむ様に笑う。
まただ。私の嫌いな、まるで泣いてるような笑顔だ。
祝いの時間だというのに、、どうして彼女はこんな顔を見せるのだろう?
「……ええ、二人とも喜ぶんじゃないのかしら」冬香も彼女の表情に気づいたのか、ぎこちなく答える。
私は少しふらつく足取りで彼女の側に向かう。
彼女はそれに気付き、私の頭を撫でた。
「ありがとうナハト。君はいつも優しいね」
冬花はその様子をどこか複雑そうに眺めている事に気付く。
例えるなら、それは哀れみだった。その視線は私かご主人、どちらに向けたのかは分からない。
「よーし! 天国にいるパパとママに私の噂が届くくらい、もっともっと頑張らなくちゃ!」
ご主人は笑う。観る者を"痛い"と感じてしまうほどに。
ご主人の細い指は私の首の下の白い三日月模様、エンジェルマークにそっと触れる。
触れたその手は、微かに震えていた。
夜が更けてきた頃。冬花は腕時計を眺めながら言った。
「あら、そろそろ終電の時間ね。今日は帰るわ」
あれほど飲んだのに顔色1つ変わっていない。……何だか恐ろしい。少女の様な容姿といい、彼女は実はど妖怪ではないか?
「えー!? おねえちゃん泊まっていかないのー?」反対にご主人の顔は林檎の様に赤い。彼女は酒好きだが酔いやすい。
「本当はそうしたいけど明日は仕事で休めないの。ここからじゃ遅刻しちゃうわ」と疑ってしまう。
冬香はスカイブルータウンから離れた都心に住んでいるらしい。
私は行ったことが無いが、ここと比べられないくらい人間がいるらしい。
「ざんねん。また遊びに来てねぇ」
ご主人はとろんとした表情で頬笑む。
「ええ、また来るわ。……ねぇ春香」
「うん? なぁーに?」
「……いえ、何でもない。じゃあね春香。夜は冷えるから下着姿で寝ないように」
「はーい。お姉ちゃん、またきてね」
冬花はひらひらと手を振り、玄関のドアを開け出ていった。
ハイヒールがコンクリートを踏む音が響いていたのだった。
「うにゃー!」
ご主人は突然猫の様に鳴くと、私をひょいと抱え寝室に進み、そのままベッド倒れ込んだ。いきなりだったので驚く。私の見開いた目を見ると、ふにゃりとした笑顔を見せた。ベッドに寝転がりながら器用に服を脱ぎ始める。早くも冬香の注意が無駄になってしまった。
「ナハト、今日は楽しかったねぇ」
「ああ、楽しかった。それに出前の寿司はやはり美味い。それに冬花とは久しぶりに会ったな」
「そっか。ナハトはほとんど会ってないんだっけ。お姉ちゃんもナハトの事が好きでよくメールで写真を送ってって言われるよ。この前の酔っぱらったナハトの姿も送っちゃった」
「……どうりで彼女は私を子供扱いする訳だ」
私はため息を吐く。ご主人はクスクスと笑った。
「それにしてもなんだか夢みたいだなぁ。猫が沢山いる街に住んで、美少年の弟子が出来て、個展を開いて……。本当、夢を見ているみたい」
私は冗談口調で言。「ご主人らしくもない。いつも自信満々だったじゃないか」
「あれは自己暗示だよ。本当の私はすごく弱いの。……少し、話したい事があるんだ」
「うん? 何の話だ?」
「私の過去の話」
「……無理に話さなくていい」
「ううん、話したいの」
ご主人は私を見つめる。彼女の瞳は、海の様に揺らめいていた
彼女はまるで童話を読み聞かせる様な口調で語り始める。
「私には昔両親がいて、パパは世界的な大企業の社長、ママはその業界では、知らない人はいないくらいの大女優だったの。さっき話に出ていたお姉ちゃんの上に兄さんがいて、私達家族はみんな仲良しだった」
「なるほど、ご主人の経済理由が分かった。猫の私にはあまり分からないが、すごい家系なのだな」
私は驚いてご主人の顔を見上げる。彼女は不思議と落ち着いた表情だった。
「えっと、それでパパとママは……痛っ。」
ご主人は突然私をベッドに降ろし、こめかみを押さえる。表情は苦痛を表していた。
「大丈夫かご主人?」
「あはは……その時思い出そうとすると頭が痛くなるんだ。……ごめん、思い出せないや。分かってるのは、パパとママはもういない事」
「ご両親はその、亡くなったのか……」
「うん、だけどお姉ちゃんと兄さんはその事を教えてくれないんだ。それが私の為なんだって。――それとね」
彼女は困った風に笑う。
「私ね、昔の記憶が無いの」
私はその言葉を聞いた瞬間、雷に打たれた様な気分になった。
「あっ、全部無いって訳じゃないよ。知識は大丈夫。でも思い出はほとんど曖昧なの」
「……そうだったのか。あまりに普通に振る舞っていたから、気づかなかった」私はなんとか短い言葉を繋ぎ合わせる。吐き出す言葉が、まるで鉛の様に重たい。
「それである時、私は猫の生まれ変わりと気づいたの。神様の意地悪で、私は人間になった」
「……意地悪?」
「意地悪だよ神様は」
ご主人は頬笑む。とても悲しい微笑みだった。
「記憶は曖昧だけど、身体が覚えてる。人間の私は人の悪意を受けた事があるの。わるい部分、全部ね それが何だったか思い出せないけど、だから私は、人が怖い」
ご主人のその言葉を聞いたその瞬間、私の頭の中にノイズが走る。
……何だ? 私は、ご主人の言う悪意を知っている? いつだ……? 私がご主人と会ってから3年間の内はそんな事は起こらなかった。それではこのデジャブの様な感覚は――?
「でも悪い事ばかりじゃ無かったよ。19歳の時にね、世界中を旅することにしたんだ」
私の中に生まれた疑問は、ご主人の声によって消えていく。ご主人の声色が先ほどとは違いとても穏やかだったからだ。そうだ、私の疑問なぞどうでもいい。私は彼女の声に耳を傾ける。
「その時は新しい場所に行けば嫌なこと全部、忘れられると思ったんだ。旅の最後の方でドイツに立ち寄ったとき、ちょうどカーニバルで、仮装した人達をぼうっと見てたら、屋台のお姉さんに手を引かれて、猫の髭を顔に書いて貰ったの。その直後、沢山の言葉が耳に流れ込んできたんだ。街の人達以上の声の多さにでびっくりしていたら、声の正体は街の猫たちだって気づいたの。そっか、私は猫だったんだ。
そう思うと、なんだか無償に嬉しかった。そしてこれからは昔猫だった時みたいに生きようと思ったんだ。だから今は、ほんとうに幸せ」
「――そうか、良かった」私は安心して息を吐いた。彼女には悲劇は似合わない。
「うん、猫は気ままで優しいからずいぶん助けられてるね。君とも、そこで出会ったんだよ」
「私と?」私は驚き、声を上げる。
「覚えてない?」
記憶を探ってみるが、出てこない。「すまない、覚えていようだ。」
ご主人は笑う。今度は曇りの無い笑顔だった。
「いいよいいよ、君は子猫だったからね。それにしてもあの台詞は子猫じゃ言えないよね」
「その時の私は何か変な事を言ったのか?」
「どーだろ」クスクスと彼女は笑う。……彼女の反応を見るに、また私の恥ずかしいエピソードが増えたようだ。
「詳しい話はまた今度。ナハト、聞いてくれてありがと」
「これくらい、お安いご用さ」
「――さて、今日はそろそろ寝よっか」
彼女はベッドの近くの灯りを消す。暗闇になるとご主人はほとんど見えなくなるらしいが、猫の私はまだまだ見える。私の寝床の方を見る。
「そうだな、私も床に就きたいので、そろそろ離して欲しいのだが」
「だーめ。今日は私と寝るの」ご主人は子供の様に言うと、抱きしめる力を一層強めた。……脱出を試みるが身動きが一切取れない。その後すぐに小さないびきが聞こえ始めた。
「やれやれ、私はぬいぐるみでは無いのだがな。……まぁ、たまにはいいか」
私も瞼を閉じる。――今日はいろいろあったが良い日だった。叶うなら、明日も良い日であって欲しい。
しかし翌日、私の願いは叶わなかった。
神は、未だに彼女を苦しめようとしていたのだ。




