身丈山の鬼その二
鬼が住むと言われる身丈山は、人の手が入っていない為に道などない。若い侍は山の入り口で立ち止まる。若い侍がこの村へ着いた際、村の奥の背の低い山のその奥に見えた険しい山が身丈山と考えた。山は鬱蒼と木々に覆われ、所々が大きく抉れて地肌が見え断崖を作っている。若い侍はこれは大仕事になると期待した。だが、村長に聞いた身丈山はその山ではなく、半日もあれば頂上へ着きそうな小山だった。若い侍が初め身丈山と考えたのは別の山だった。日がまだ高い時間帯であるのに、濃い緑の葉がまるで影を思わせる奥の山に比べ、身丈山のなんと冴えないことか。木々は細く疎らで、地を覆う草こそ背が高いが鬼が住むと言われるには明るすぎる印象だった。山の入り口、と言っても村人が手入れした生活道の身丈山に面した場所だが、そこから若い侍は落胆した様子で山を見上げた。
小山といえど山である、地面は枯れた葉と草で柔らかく踏ん張りが効きにくい。草に覆われているため、沈んだ地面に足を取られれば最悪骨を折りかねない。
「弱い鬼と聞き、私一人でも倒せるとここまで来たが。脅威となるのは自然だけ、村長の態度が気になるが、京の大鬼ほど強い鬼なぞここにはおるまい。」
若い侍は身丈山の鬼の強さは噂通りでしかないと考えた。鬼とは人が魔に落ちた存在、生まれながらか人から変化したかの違いはあれどその性質は変わらない。魔とは人の持つ欲、魂を汚す力である。人はその身から絶えず魔を垂れ流し、周囲に瘴気を撒いている。だが、その量は微々たるもので瘴気はやがて霧散する。この人の少ない辺鄙な村ならば、瘴気の濃さなど無いに等しい。
魔を得て人から鬼に落ちたものは、瘴気を喰らわなければ生きてはおれぬ。鬼は強ければ多くの瘴気を必要とする、逆に弱ければ少量の瘴気で生きていける。
鬼が瘴気を喰らう方法、それは単純なものである。人を喰えばいいのだ。魔とは人の持つ欲、魔は身から溢れれば瘴気に変わる。鬼は人を捕まえ、嬲り人の欲を溢れさせる。助かりたい、憎い、痛い、悍ましい、そういった魂を汚す感情を欲を人に抱かせる。そうやって多くの魔を含んだ魂、その容れ物の肉体を喰らう。胃袋に入った肉は、そのうち瘴気を零しだす。そうやって鬼は瘴気を喰らう。鬼が生きるためには多くの人間が住む場所が好ましいのだ。都のように多くの人が住む場所は、濃い瘴気が立ち込めている。鬼はそういった場所でしか生きては行けぬのだ。人のいない場所では飢えて死ぬだけ、瘴気のない場所などよほど弱い鬼でなければ息苦しくて住んではおれぬ。
「身丈山の鬼は村へ来たことがないか。妙な話だ、人を喰わずに何故生きておる、村長が嘘を吐いたか。」
考えても答えは出ぬ、若い侍は山を登る。鬼を倒したことなど初めてではない、都では若いながら有望な侍として働いてきた。皇に使える誉れ高き侍として、都を脅かす鬼を何匹も。
「鬼を一人で倒すなど、術師に神官それに多くの侍がいて鬼を倒せるというのに。」
鬼は弱くとも一人で倒せるものではない、都での討伐は若い侍一人ではどうにもならぬ鬼ばかりであった。
「だが、例え無謀であっても私一人で鬼を倒し、その首を持って都にて証を立てる。」
そう、弱い鬼であっても一人で打倒したその意味を都の者たちが見誤る訳がない。皇に仕えるに値する、その力を己は持っている。鬼を、魔を許さぬ高潔な魂を己は持っている。それを証明して見せる、私は誇り高き侍であると。
若い侍は身丈山の頂上を目指し歩みを進める。その先に、欲を溢れさせる無垢な獲物がいるとも知れず。自身こそが、悪意ある獣でしかないとも知れず。
決意を固める若い侍、それを遠くから見る者があった。獣のごとき瞳孔は黄金色の輝きを放ち、赤い唇は血を思わせる。人ではなく、しかし鬼とも思えぬ。ただ混沌と混じり合い過ぎた歪な影が哀れみに満ちた声で呟く。
「侍は高潔でなければならない、それは何故か。考えれば簡単なのに、愚かな事ね。魔に近いものは、気付かぬうちに魔に落ちる。案外、魔そのものの方が純粋よ。だって建前なんてないもの、死にたくない、だから傷つける、気持ちいから、ただ犯す。美味しいから、喰らいしゃぶりつくす。可愛いお侍様、きっとあの子に合えば本当の自分を隠せない、欲を剝き出しにされ、敏感な本心を責められる。最後は鬼にもなれず、獣に落ちる。そうよ、きっと貴方も私に食べて欲しいって懇願するわ。」
影はその場から溶けるように消えた、後に残るのは僅かな甘い香りだけ。