8話.そして彼は
残酷な描写ありです。ご注意ください。
気を抜いたら一瞬で死ぬ。
気を抜かなくても死ぬ。あいつがその気になれば一瞬で僕は死ぬ。
パワーでは勝てない。戦闘経験でも勝てない。でも、折れる訳にはいかない。勝ち目が無くても、僕自身に勝ち目なんてなくても、勝利への道は存在する。
だから、これは心の勝負だ。僕の心さえ折れなければ、きっと僕の思う通りに事は運ぶだろう。
「雑魚ドラゴンって言ったんだよ! そのでっかい耳は飾りか?」
煽る、煽る。全力で煽る。僕はこの場にいる誰よりも弱い。比べ物にならない程に弱い。だからまずは、邪竜に僕は敵だと認識させる必要があった。
「……死にたいようだな」
僕と、邪竜の濁った視線が交錯する。格下に侮られ、見くびられたのだ。怒気が邪竜の体から際限なく周囲に放出され、そして――邪竜は雄叫びをあげる。それは静寂を打ち消し、辺りに轟音をまき散らした。
一度は屈してしまったプレッシャーが、あの時よりも更に巨大になって僕の体に降り注ぐ。でも、折れない。ここで折れる程度の覚悟ならばどの道、僕のやろうとしている事は出来ないから。
――大丈夫だ、死ぬ覚悟は出来ている。……だから、納まってくれ。
明確な力の差に、体は勝手に拒絶反応を示し出す。足が震え、冷静な判断力が失われ、それでも心の力で必死に耐える。怖くて、怖くてたまらない。それでも引くわけにはいかない。僕にだって護りたい、譲れない思いがあるのだから。
「可愛い咆哮だね、子供が泣いてるのかと思ったよ」
恐怖で震えそうになる体を必死に抑えて気丈に振る舞う。内心の恐れを押し殺して邪竜を嘲笑する。こんな方法しか取れない自分が本当に嫌だ。きっとこれは最悪の手段。でも、弱い僕にはこれしか出来ない。
「あれ? 言い返せないのかな?」
竜はプライドが高い。彼女と過ごした時間の中で、僕が一番実感した事だ。だからこそ、そのプライドを刺激する。必死に表情を作り出して、邪竜を嘲る。もっとだ、もっと激怒しろ。
「駄ドラゴンさんは言葉も話せないみたいだね!」
――瞬間、空気が再び変わった。そして、二度目の咆哮が響き渡る。
「覚悟は出来てるんだろうな……? ただでは殺さねえぞ」
怒りに溢れ、根源的な恐怖を抱かせられる存在に僕はしかし。
「アハハ、御託はいいよ。かかってきな」
そう笑って、言いきってやった。そして――僕の右腕が宙を舞った。
……え?
勢いよく噴き出した鮮血が僕の服を汚す。何をされたのかすら理解出来ない。慌てて左腕を右に寄越すが、そこにある筈の物は存在していなかった。そして、もう戻ってくることは無い。
――ッ!
パニックになりそうな脳を必死に抑える。幸いにも、痛みはまだ感じない。……大丈夫だ、覚悟していただろ? これくらい、どうってことは無いさ。
「おいおい、会話の最中に攻撃するなんて、知性の欠片も無いのかな?」
鈍い痛みが、徐々に体を侵食してくる。それでも、表情は絶対に歪まない。内心を隠せ、余裕を見せろ。まだ地獄は始まったばかりだ。この程度で折れていたら、もう何も出来やしないんだから。
あくまで表面上は冷静に、そして邪竜をあざ笑いながら、僕は一歩踏み出した。一歩歩くだけで、痛みで視界が滲む。でもここは我慢だ。ここが勝負所なんだ。仮初の勇気で、僕は彼女の為に死んでいこうじゃないか。
彼女の方を少しだけ見てみる。困惑と、怒りを張り付けた彼女と目が合った。そして今にも暴れ出しそうな彼女を、しかし僕は目で制した。
――黙って見ていて下さい。貴方を、護らせて下さい。
彼女に僕の思いが伝わったのかは、分からない。もう既に僕にはそれを考える余裕すらない。全ての意識を、気絶しない為に回せ。ここからだ、ここからが正念場だ。
「……お前は、苦しめて殺してやるよ。生きている事を、後悔させてやる」
目の前には、激昂する黒いドラゴン。
「出来るものなら、やってみろ」
――目を攻撃され、視界が真っ黒に染まった。
「そんな攻撃で、この僕が」
――左足が奪われた。
「絶望する訳が無い」
そして、残った手足も――。
……あれから、どれ程の時間が経ったのだろうか。既に痛みすら感じない。
爪で切り裂かれ、牙で嚙み砕かれ、尻尾で打ち付けられた。その度に気を失いかけ、根性で耐え忍ぶ。
何度も死にそうになりながら、しかしそれでもまだ僕は生きている。
「どうだ、人間? 許しを乞えば見逃してやってもいいぞ?」
「いや……だね」
口を開ける度に、口内に溜まった血がこぼれだす。僕にだって意地がある。絶対に譲りたくない一線がある。
……でも、もう無理みたいだ。
感覚は無い。それでも自分がどれだけ凄惨な状況に置かれているのかは理解出来る。視力を奪われ、四肢を奪われ、生きているのが不思議だと自分でも思う。
根性で誤魔化せる限界を迎えたらしい。
内側から湧き出してくる眠気に抗うことが、もう出来そうに無い。
――僕は、彼女の役に立てたのだろうか。彼女は、迷惑だと感じてないだろうか。
鈍っていく感覚と意識。もうそれに対抗する気力も無い。
刻一刻と、自分の意思が消えていくのを感じる。
……僕は、彼女を護れたのだろうか。
それを確認する術は、もう僕には残されていなかった。
でも、そんな僕の真横を、暖かな風が通りすぎたような気がして。
僕は少しだけ安心して、目を閉じた。
すいません、後一話だけ続きます