7話.彼と彼女と邪竜
高い所に昇っていた太陽はいつの間にか沈み、気付けば月が空に浮かんでいた。
洞窟の入口付近に腰を下ろし、息を吐く。静寂が一瞬だけ途切れ、再び辺りは静かになった。呆れるほどの静けさだった。邪竜が何処かで暴れているだなんて、想像も出来ないくらいに。
――お主らはこの場所で待っていろ。洞窟内は安全じゃろうて。
そう言い残して、彼女は東の空へ飛び立った。邪竜と戦いに行ったのだろう。彼女のプレッシャーは途切れることなく僕に注がれていた。余計な事をするな、とでも言うかのように。冷たい、背筋が凍る程の視線を注いでいた。
結局僕は、彼女に言葉を掛けることが出来なかった。情けない、本当に情けない。
彼女が飛び立つ瞬間に僕に見せた表情は、今までに見た事が無い種類のモノで。それが脳裏に焼き付いて離れない。話したかった言葉も、伝えたかった思いも、全ては彼女が飛んでしまった後で分かった。彼女に聞いて欲しい言葉がようやく見つかった。
東の空には、無数の星々が煌いている。そして時折、星とは違った輝きが不規則に点滅する。おそらくだが、あの場所に彼女はいるのだろう。
「ねえ、お前」
静寂を破ったのは、僕ではない。左を見るとそこには金髪幼女、いや、エルがいた。
「……何ですか?」
自分の世界に閉じこもりたい気分だった。不安で、不安でどうしようも無い。過去の自分自身に後悔するばかりだ。彼女のことが心配だった。何も出来ない、力の無い自分が悔しかった。言葉一つ、満足に伝えられなくて泣きそうになった。
だから、せめて彼女の勝利を願う。非力な自分にはそれしか出来ないのだから。
「姉さまは洞窟内で待ってろって言ったんだよ? そんな簡単な言いつけも守れないの?」
「分かってるよ」
東の空から視線を外さずにエルの質問に答えた。空が不規則に輝き、そして再び暗黒に包まれる。戦闘音こそ聞こえてこないが、激戦になっているのは予想が出来た。
「……大丈夫かな」
僕の口から零れた呟きを、隣の幼竜は聞き逃さなかったらしい。
「バカなの? 姉さまが負ける訳ないじゃない」
自信満々にエルは断言する。胸に渦巻いていた不安感が、自信に溢れた彼女の言葉で少しだけ軽減され――続く言葉で絶望する。
「姉さまのブレスは凄いのよ! 前に邪竜を倒した時も、そのまた前の時も……って、どこ行くの!?」
気付けば、走り出していた。目的地は彼女が戦っている戦場。胸騒ぎがする。彼女が負ける未来なんて信じられないのに、彼女の言葉が何度も脳内で再生される。
――満足にブレスを吐く事が出来ぬ。
もしかしたら、ブレスを吐かなくても彼女は勝てるのかもしれない。邪竜が実は滅茶苦茶弱くて、彼女が本気を出すまでも無く勝利出来るのかもしれない。それに今は夜だ。もしかしたら、火焔病が既に完治している可能性もある。
脳内に浮かんできた希望的観測を、しかし自分自身で否定する。胸騒ぎがするんだ。そんな都合の良い話がある訳が無い。息が切れて、心臓が痛くなって、吐き気がしてくる。それでも、走る事は止めない。彼女の元へ行きたい、彼女の力に成りたい。僕は、彼女を――。
走って、走って、走って。ようやく、目的の場所へ辿り着いた。
「なんなんだよ……!」
そこには地に伏す白銀のドラゴンと、それを空から見下ろす暗黒のドラゴンがいた。数日前に見た姿とは全く異なり、白銀のドラゴンはその輝きを失っている。
彼女の全身にはおびただしい程の血が付着し、赤黒く変色していた。翼の傷は遠くからでも分かる程に痛々しい。周囲にあった木々は、戦いの余波で吹き飛んだのだろう。倒れている木がそこらかしこに見て取れる。
「……ん? 人間か。どうしたんだ? こんな場所に来て」
彼女を倒して気分が良かったのだろう。もしくは、単純にこの場所に来た人間に興味があったのかもしれない。邪竜の関心が自分に向いたのを感じた。
――ッ!
彼女とは全く別種のプレッシャーに、呼吸が止まる。純粋な悪意が僕の肌を刺した。それは今までに経験した事がない程の恐怖で、この場所を逃げ出してしまいたいのに、足は縫い付けられたかのように動かない。
……死にたくない。死にたくない!
薄れていた、納得していた筈の死への恐怖が湧き出してくる。あの存在は駄目だ。アイツには、アイツだけには殺されたくない。そうだ、逃げなきゃ。
震えて使い物にならない足に喝を入れる。ここから一刻も早く逃げなければ、こんな場所で僕は死にたくない。まだ生きていたい。だがしかし僕の意思に反して、この足はちっとも動かない。自分の意思で身体を動かす事が出来ない。
そして、邪竜と目が合った。
「うわあああああっ!」
拒否反応を起こした身体は、無様に地面に倒れ伏す。両手に力が入らない。このままだと、立ち上がることすら無理そうだ。
――嫌だ、嫌だ、嫌だ!
大声を出して、みっとも無く醜態を晒して、地面を這いつくばってでも進もうとする。しかし、一寸たりとも前進する事は無い。瞳は涙で溢れて、心臓は張り裂けそうだ。
「……ははは、人間では我の放つ圧力すら耐えられんか。そうだ、人間。お前にいい物を見せてやろう。折角ここまで来たんだしな」
耳に入って来た音声を、勝手に遮断する。早く逃げないと、殺されてしまう。僕はまだ死にたくないんだ。ここがヤバい場所なのは薄々理解していた筈だろう? なんで僕はこんな場所に来てしまったんだ。……なんで。
――後ろを見ろ。
誰かが、そう言った気がした。バカかよ。今は少しでもあの怪物と距離を取らないと、ここで死んでしまうのは僕になる。……死んでしまうのは、僕になる?
なら本来は、いったい誰が……。
満足に動かすことも出来ない身体を、それでも必死に動かす。後ろを見なければいけない気がした。あの恐ろしい、邪竜のいる方向を見なければいけない気がした。
――怖い、怖い怖い怖い! でもそれでも、僕は見なければいけない。そうしろと、そうしなければいけないと叫んでいる。他でもない僕自身がそう叫んでいた。
全神経を首に集中させ、なんとか振り向く。
僕を真っ直ぐに見つめる、白銀のドラゴンと目があった。常とは違い、弱弱しい瞳をした彼女と。
……熱かった脳が、スっと冷えた。
気づけば恐怖心は消えていた。手足に感じていた震えも今は感じない。
試しに足に力を込めてみる。驚くほど簡単に、僕の身体は立ち上がった。……驚きに染まった彼女の目を見て、こんな状況なのに笑ってしまった。
――任せて下さいよ。助けに来ました。
伝わるかは分からない。声に出したわけではない。でも、僕の気持ちは彼女まで届いた。そう確信が持てた。
もう怖いものは、たった一つしか無い。だから、それを護る為に僕は戦おう。僕に出来る戦いを、彼女の為に捧げようじゃ無いか。
「真っ黒い雑魚ドラゴンがいる!」
「……人間風情が、今なんと言った?」
僕の叫び声が、邪竜に届く。邪竜は怒りに染まった表情で、僕の方を向いた。
僕に向けて放たれる悪意、憎悪。負の感情が僕を飲み込もうと侵食してくる。対峙した事によって、邪竜との力の差も明確に分かった。僕が何をしたところで邪竜にダメージは与えられない。しかも、邪竜が攻撃した瞬間に僕は死んでしまうだろう。
勝ち目なんてある筈も無い。
それでも、不思議と勇気が湧いてきた。