第5話 身分が保証されているのは幸せなのだということ(後)
鳶職の稼ぎは、棟梁が2回目の支払から色を付けてくれるようになった。
さらに、そのまま正式に就職させ面倒を見てやるとまで言ってくれたが、丁重にお断りしておいた。
労働後のまかないご飯はおいしいし、同僚も気のいい兄ちゃんばかりだが、ずっと鳶職を続ける気はなかった。
鳶職とはアイドルみたいな側面もあって、同僚たちは時折、作業中に黄色い声援を受けることもしばしば。
一方僕はとはいえば、主におっさん連中からよくねぎらいの声援を送ってもらい、どこか釈然としない気持ちを抱いた。
ま、不人気よりはいいんだろうけどさ。
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「かあぁぁぁぁっ」
丹田に力を籠め、己の中の理力を活性化させる。
理力制御に難のある僕は、三日に一度は休みを取り、組合の訓練所で指導してもらってい。
生活のあらゆるところに理力が浸透し、だれもが扱えるこの世界では、基本中の基本である活性化と感知が使えなければお話にもならないそうな。
現に、鳶職では、理力による身体強化は当たり前のように使われていた。徒弟たちのアクロバティックな動きは、訓練された体術と理力操作の合わせ技だったのだ。
「はい、限界まで吸って吸って吸って吸って吸って吸って吸って吸って」
先生、人はそんなに空気を吸えません。
僕の呼吸による理力活性化は自己流ではない。ちゃんと先生がいるのだ。
この執拗に吸気を要求してくるのが、僕の指導役である高槻カチュア――眠そう目をしたストロベリー・ブロンドのエルフだ。
ピンクは淫乱、きっとそれは異世界だろうが不変の真理だ。
彼女は修練場の畳の上に寝そべって雑誌を見ながら僕に指示を出していた。
「はい、限界まで息を止める」
1分、2分、3分……。
「ぐはっ」
何分経ったかわからないが、僕は息を思い切り吐いた。
「はい、今度は吐いて吐いて吐いて吐いて息を吐ききってー、そうしたらその状態で息を止める」
呼吸を自由にさせてもらえない。
理力制御は、慣れてくると無呼吸状態をかなりの時間維持できるようになる。
これが進歩すると、深海や高山など、気圧が地表とは大きく異なる場所でも生活できるようになり、究極的には星の海、宇宙空間でも生身で生存が可能になるのだとか。
その事実は、この世界の人類が、宇宙へ飛び出す手段を持っているということ。
カティア先生の訓練は意図が不明なものもあるのだが、クリームヒルト支部長いわく、指導役としては適任であるらしく、おとなしく従っておけとのこと。
まあ、クマさんの言うことにゃあ従っておくが吉であろう。はるか昔の歌でもそういっていた。
「はい、じゃあその状態で軽く組み手をするから」
先生は言うや否や、寝そべった状態から跳ね起きて、僕に飛びかかってきた。
「……っ!」
鋭い蹴りが僕のあごをかすめた。
脳が揺さぶられるも、すぐに意識を修正――その間に、すぐに次の攻撃が迫る。
およそ眠気眼なエロエルフとは思えない苛烈な連続攻撃に対し、僕は紙一重で避けるか、手を使って捌き受け流すか――思考の追いつかない反射の領域で直撃だけはしないように努めた。
防戦一方、だが、そもそもこれは相手を打ち負かせればいいという話ではない。
戦闘と呼べるだけの運動量をこなしつつ、呼吸で得られる空気を理力で補うという訓練なのだ、と思う。
だから、この状態をどこまで引き延ばせるかが勘所のわけで――
「ていっ」
やる気無さ気なのに、この日最大のキレを持った蹴りが僕のこめかみを捉えた。
「……!!」
これはもう直撃だ。思わず息を吸いたくなるところぐっと堪える。
呼吸はダメ、呼吸はダメ。理力。理力、酸素の代わりに理力を回すのだ!
「ひゅっ……」
まあ、そんな必死の思いもむなしく、僕の意識はきれいに落ちていくのだった。
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戦闘訓練というやつは、この世界では珍しいものではない。街の外に出れば、理力で強化変質した野生動物――通称魔獣が生息しているし、行商狙いの強盗だっている。隊商や行商の護衛に補充要員として浪人派遣が使われることも珍しくはない。
総じて、この世界では荒事はそれなりの頻度で遭遇し、武力はあって損はないということだ。
真っ当に危うきに近寄らなければいいのは日本でも同じことだけど、それだけでは足りないのが、僕の置かれた現実だった。
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僕が仲介を受けた2件目は、飲食店の給仕の仕事。飲食店はいわゆる歓楽街に位置する酒場であった。酒場なので、日中は営業していない。
僕は準備中の札が下がった木の扉を開けた。
「ごめんください」
「ちょっと、まだ営業時間じゃないわ……うおっ」
うおって。それは若い女の子が出していい声じゃないぞ。いや、それはソレで萌えるけどね。
ネコミミの気の強そうな女の子が長い尻尾揺らしながら、僕に歩み寄った。
「一体何の用よ。カチコミはお断りなんだけど」
「いや、何の話を」
僕は必殺の紹介状と組合証を見せた。身元を保証されているって、いい気分だ。これで職務質問も怖くない。
しかし、こんなことで幸せを感じるなんて、僕はちょっとチョロすぎないだろうか。
「ええっ、アンタが給仕ぃ? どう見てもカタギに見えないんですけど? これ偽造した組合証なんじゃないでしょうね」
ネコミミは初対面の男にとても失礼なことを言った。
ちょっといらっとしたので、少し理力を解放して脅かしてあげよう。
「ちょ、なによ、やる気!?」
ネコミミは僕から距離をとって構えた。参ったな。ここまで警戒させるつもりはなかったが。
互いに動けず、というか動いたら誤解されそうな中、
「お前ら、そこで何やってんだ!」
そんな怒声が、店の奥から僕達に掛けられた。
「オヤジっ……店長!」
店長と呼ばれたのは左目に眼帯をつけた虎の獣人だ。片足は木でできた義足だった。
僕がカタギに見えなかったなら、このおっさんはどうなのだ。
「なんだその兄ちゃんは。表の看板が見えなかったのか?」
「店長っ、こいつ浪人組合からの紹介できたとか言ってるんだけどさー、どう見ても怪しいやつだったから――」
とりあえず、このネコミミは黙ってくれないだろうか。
「浪人組合? あー、あの求人か。カルラ、お前はちょっと引っ込んでろ」
「て、店長!?」
おう、ちゃんと話を聞いてくれるのか。いい人じゃないか。
僕は必殺の紹介状と組合賞を、店長に見せた。
「……なるほど。うちの従業員がすまなかったな兄ちゃん。カルラ、こいつは待望の即戦力だぞ」
「ええ~、こんな奴が~」
初対面でここまで露骨に嫌がられるとは。、ああこっちもお前のような跳ねっ返りは、たとえリアルネコミミ&ネコしっぽという萌え要素があってもお断りだ。
「それじゃあ早速、働いてもらうとするか。ちゃんと逃げ出さずに働いてくれるんなら、追加報酬も検討するぞ」
ああ、逃げ出すような職場なんですね。不穏だなあ。
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「おらあ、やっちまえ野郎ども!」
「ヒャッハーーッ!!」
荒くれどもが武器を片手に酒場を縦横無尽に暴れまわっている。
この酒場「天秤」は、歓楽街でも名のしれた酒場である。主に任侠者たちの会合の場として。
飯はうまい、酒もうまい。ついでに給仕はかわいい。けど客層がアレなだけに、たまに暴走する輩が居るのがたまに傷だった。
一人二人なら給仕兼護衛が取り押さえるが、例えば集団ではしゃいだりしたら、そこはもう戦場だ。
「おらあああああッ」
「こんにゃろおおおお」
「うわああああ、俺の腕が変な方向にいいいい」
こんな騒ぎであるにもかかわらず、平然と飯を食う豪の者も居て、当然彼らの注文を聞いたり料理を配膳したりと、ちゃんとおもてなしをする必要がある。
それが、僕に与えられた役目だった。
「お待たせしました。枝豆と天ぷら盛り合わせです」
僕は料理が盛られた皿をよどみなく置いていった。
「おう、待ってたよー。君は新人さんかい?」
お客さんが僕に声をかけた。僧侶みたいな袈裟を着た中年の男だった。髪は剃っておらず、肩口まで伸びているのを後ろで一本にまとめている。
「ええ、今日から短期なんですが」
「なかなかやるじゃないか。この暴力の嵐の中を、悠然と歩いてくるなんて」
「ありがとうございます。お客様もすごいですね、これは結界ってやつですか?」
お客さんのテーブル周辺は、四角錐の形をした半透明の壁に覆われていた。これはいわゆる結界であり、術者の意図した者以外を通さないという極めて高度なものだった。
「そうそう。昔とった杵柄ってやつ? こういうところで使う技じゃあないんだけどね、にはは」
天ぷらを肴にお猪口に入った酒を煽る男。この様子からするに、彼はこの店の常連なのだろう。結界をこんな風に利用してまでここで飲んでいるわけだし。
「それではごゆっくりどうぞ」
「おう、まあそんなに気張らずに、気楽にやってくれよ」
結界の外に出ると、若いエルフが僕に向かって吹っ飛んできた。
「ふん」
「あひぃ!?」
男を片手で受け止めた僕は、男を適当にその場に転がした。
厨房のカウンターまで戻る道すがら、見境なく殴りかかってくる連中には、適当に蹴りを入れたり、右から左に受け流して別の集団へ突っ込ませたりもした。
なんなのこの店。
「3番席、配膳終わりました」
「おう、ご苦労さん」
僕は調理場で鍋を振るう店長に報告した。
「店長、あの新参の僕が言うのも何ですが、いいんですかね」
「ああ? まあ負けた連中からはきっちり弁償はさせているし、気にせず飯食ってる奴も居るだろ? 問題っちゃあ問題だが、そもそもカタギがここを利用することたぁ殆ど無いしなあ」
もはや諦めの境地か、さもなければ何か事情があるのか。僕にその事情をうかがい知ることは出来ない。
「……でも、問題は問題、なんですよね?」
「ん? そりゃあなあ。っと、8番席の豚肉ときゃべつの肉の辛味噌炒め、上がったぞ」
出来立てでほんのり湯気が上がり照ら照らと輝く辛味噌炒め。思わず涎が出そうな一品だ。酒のアテにもいいし、ご飯も進みそうだ。
こんな料理を喧騒の中で食べなければいけないのは、まったくもって残念でならない。
「……では、行ってきます」
「ちょ、おい、お前、その理力――」
食事というのは人の三大欲求を満たすものだ。同時に家族や仲間と語らう団らんの場でもある。その日の苦労をねぎらい、明日への活力を蓄える。そういうものなのだ。
一人飯もまた尊いものだ。一人で、静かに、豊かで、なんていうか、救われた気持ちになるのだ。
だいたい、会合というのは、もっと強かに行わなければならない。こんな感情任せで乱暴を働くのは下の下。
お客様は神様であるとは誰の言葉か。だが、神の資格無き、堕ちた神に敬う必要がどこにある。
そうとも、礼儀正しく折々に楽しむお客様の邪魔をするのは、お客様にあらず。
「ちょっと黙れ」
僕は活性化した理力を全開で放出しながら、一言、命令を下した。
すると、しん、と酒場は一瞬にして静寂を取り戻した。
先程までの喧騒が耳鳴りとなってその無音が痛いほど。
僕に視線が集中した。僕がお返しに少しばかり睨みをきかせると、目をそらし、おずおずと元の席へと帰っていく。
さて、これで皆さん落ち着いて食事ができるというものだ。
「お待たせしました。豚肉ときゃべつの辛味噌炒めです」
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この日、宵闇の調停者と呼ばれる伝説の給仕が誕生した。