プロローグ 無くしたものさえわからなくて
年齢不詳、住所不明、職業不明、現在位置不明、所持金無し、記憶ほとんど無し。
指折り数えて、こんなにもネガティブ要素が揃っている。
「これは……いきなり詰んでるじゃあないか」
所持品といえば、身につけているブレザーとスラックス、インナー一式と靴、
それとポケットに入ってた拳大の銀色の金属球ぐらい。
これが今の僕、十野錬太郎(とおの れんたろう)の置かれた状況である。
僕はどうやら記憶喪失らしい。
らしい、というのは記憶を失う前後の状況はおろか、十野錬太郎たらしめるエピソードが一つも思い出せなかったからだ。ただ、十野錬太郎という名前と21世紀初頭の日本を基準にした基礎知識は残っていた。
記憶を失った影響か、どうにも頭がぼうっとして働かなくて、やっと頭が働き出したのがつい先ほどのこと。
自分を支えるバックボーンが無くなっていたのだから、さもあらんということか。
そして今僕が立っているこの場所、何処かはわからないのだけれど、どうにも日本っぽくないという印象だった。
道は土が踏み固められたって程度の物で、アスファルトもコンクリートも見当たらない。電柱も、電柱から伸びる黒い電線もない。道を外れれば人の手が入っていなさそうな草原が続くばかり。そして大気汚染など感じさせない、吸い込まれそうになるほど澄んだ青空。
まるで他人事のように現実感が無いこの光景……ま、トチ狂って恐慌に陥るよりはマシだろう。
さて、いよいよ頭も冴えてきた。改めて、やはりお先真っ暗といえるこの状況だけど――詰んでいるという言葉とは裏腹に、僕はさほど絶望していなかった。
むしろ、心は落ち着いていて、清々しい気持ちすらある。
こんな心境で居るのは、きっと、かつての僕は、なにか良くないものを溜め込んでいたのだろう。
端的言えば、それはストレス――それもアルバイト先にてパワーハラスメントを受けながらノルマ達成に勤しんでいたとか、学校で凄絶なイジメを受けていたとか、親から性的虐待を受けていたとか、とにかく良くないことが原因のストレス。
それが、記憶を失ったことで全て無くなったのだ――と思う。原因がなければ思い悩む必要もないわけで。
「まずは……人のいるところを目指そう」
今の僕には何の目標もない。それどころか、先立つものもなくて、今日明日を生きるのすら危うい。
空っぽだ。今の僕は空っぽにすぎる。
しかし昔の人は言っていた、空っぽのほうが夢をつめこめるのだと。
落ちるところまで落ちているのだから、もう上がるだけだ。
まずは、文化的で最低限の生存を確保しようじゃあないか。
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これは、器を満たす物語。投げ出された歪な夢が、忘却の彼方の果てに完成する。