漁礁
「おい、おきろや。そろそろ船の準備するべや」
父親の声で健二は目を覚ました。
春とはいえ、まだ日の昇る前の気温は肌寒く、布団から出るのに少し時間がかかった。
父親はもう着替えを終え、昨晩母親が用意してくれていた朝食を食べていた。
急いで準備しないと、またドヤされる。家業である漁の手伝いを6歳の時にさせられるようになり、15歳になった今日まで毎日のように怒鳴られ続けている。
毎日朝早くから叩き起こされて船を出す準備を手伝わされる。いや、父親は指図をするだけで、ほとんどの準備を健二がしていた。
もう、うんざりだった……。
着替えて朝食をとると、漁で使う道具類を家の倉庫から、港までの移動に使う軽トラックに載せる。小さい頃は軽い物を載せていたが、今や全ての道具を健二が載せていた。
父親はその間トラックの運転席で、タバコを吸いながら「早くしろ!!」と怒鳴っているだけだ。
父親の怒鳴り声を聞きながら、網・仕掛け・浮き玉を軽トラックの荷台に載せる。載せ終えたら、港に行き船に軽トラックの荷台から持ってきた道具を載せる。すべて健二の仕事だった。父親は港に着くと、軽トラックの運転席から船の操舵席に行き、タバコを吸って怒鳴りだす。
いつものことだった……。
いつからだろうか…… 健二は父親のことを父親と思えなくなっていた。
昔は倉庫から軽トラックに道具をのせるとき、厳しくも優しい声をかけて一緒に持ってくれていた。特に、ガラス製の大浮き玉を載せる時は、危ないからと言って健二は持たせてもらえなかった。いつの間にか、父親はこのガラスでできた、大きな浮き玉を持ってくれなくなり、健二も自分の倍はあった浮き玉をもてるようになっていた。
最後の浮き玉を載せ終えて港に向かう間、父親はいつも同じことを話していた。
いつも自分達が漁をしている場所は、近くに漁礁があっていつも大漁だということ。ただし、漁礁に近づきすぎると海の神様の怒りを買い船を沈められるということ。そして、自分たち以外にその場所で漁をする者がいないということ。
手伝いをはじめたころに、なぜ自分たち以外にその場所で漁をする者がいないのか? 父親に聞いたことがある。父親の答えは決まって「船を沈められて死ぬのが怖い臆病者なんだよ」と他の漁師をバカにした感じで答えてくれた。
いつも同じ答えだったので、そういうものかと子供ながらに納得し、聞くのをやめてしまっていたが、ふと何年振りかに聞いてみたくなった。
「なぁ、なんで他の人は漁礁の近くで漁をしないんだ?」
「そりゃ、みんな命は惜しいんだよ。おれらは神様と取引してるからだいじょうぶだけどよ」
どうせまともな答えは返ってこないだろうと、気まぐれで聞いたことに初めてちゃんとした答えが返ってきた。いや、ちゃんとした答えとは思えない返事だったが、いつもと違った答えに少し興味がわいた。
「へぇ、どんなことしてるんよ?」
「そりゃ秘密だ。おまえも1人前の漁師になったら教えてやるよ」
「そうかぁ でも、よく神様は俺らのこと区別できるもんだなぁ」
「いつも持って行ってるガラス製の大浮き玉あるだろよ? あれは神様が俺らだってわかるための目印なんだよ。取引が終わると神様がくれるのさ」
父親はそう答えた後黙り込んでしまったが、それでも久しぶりの父親との会話だったので、健二は少し嬉しかった。
そうこうしてるうちに、港に着き船に道具を載せ港を出た。健二は父親が神様と取引をしてもらったと言う、ガラスの大浮き玉を船に載せる時マジマジと見てみたが、別に他の浮き玉と変ったところはなかった。ただ、他の物より大きい割に軽いと感じたぐらいだった。
港を出る時にうっすら日が昇り始め、漁礁に着くころにはすっかり日が昇り切り、朝を迎えていた。漁礁に来るまでに他の漁師の船も見えていたが、漁礁に近づくにつれて、辺りには魚を狙う海鳥すら見えなくなっていた。
「このへんは、潮の流れも風の流れも変わっててな、神様の許しのないもんは近づけんのよ。魚や海の生きもんは大丈夫なんだけどよ」
いつもは黙って指図しかしない父親が健二に話しかけた。健二は妙な日もあるものだと思ったが、余計なことを言って父親がいつもの調子に戻るのが嫌だったので、適当な相づちを打っておいた。
周りに健二達の船以外見えなくなり、いったい何を目印に進んでいるのかわからなくなったところで船が止まった。漁場についたのだ。
ここまで指図しかしていなかった父親が、動き出し漁が始まった。ここからは健二は見てるだけで、全て父親の仕事だ。この漁をしている時の父親の様子を健二はずっと見てきているが、この姿は今でも海の男らしくカッコ良く好きだった。
父親の様子を見ながら健二は色々と考え始めた。
普通の漁は網と仕掛けを投げ入れ、大浮き玉を投げ入れ目印とすることにより、網や仕掛けの場所を見失わないようにする。だが、ここでの漁はまず大浮き玉を海に投げ入れ、次に網と仕掛けを投げ入れる。
健二は今まで不思議だったことが、今日父親が話してくれたことで、解決した気がした。
最初に投げ入れていた大浮き玉は神様への、許可をもらったもがここで漁をしていると言う目印なのだ。きっと、ここに来るまでの道案内であり、立ち入ることを許されている証なのだろう。
そこまで考えて健二は怖くなった。もし、この大浮き玉をなくしてしまったとしたら……。
ガシャン!! 何かが割れる音がした後大きく船が揺れ、船の上にあるものがそこら辺を走りまわった。
ここに漁に来て初めてのことだった。
「しまった!! おい、早く船のエンジンさつけろ。急いでけぇるぞ」
健二は始めて聞く父親のあわてた声と恐怖の浮かんだ顔をまのあたりにして、何が起こったのかわからないにしても、緊急事態だとさとった。
健二は船のエンジンを付けながら、ふと海を見た瞬間凍りついた。
青かった海面がドス黒くなり潮の流れが異常なほど早くなっている。船の上の父親が慌てふためいて、そばのロープを必死に掴んでいる。
エンジンは動きだしたが潮の流れに逆らえず流されている。これはもうダメだと思った。
そこに来て1つの思いが健二の心を覆い尽くした。
「どうせダメなのだ…… 最後ぐらい仕返しをして死のう……」
躊躇うことなく舵を切り緊急旋回をして、大きく船を揺らし父親を海に投げ込んだ。
父親は海面で、しばらくわめきながら暴れていたが、すぐに海に引きずり込まれて行った。
なんとも言えない気分が健二の心を満たし。これでもう思い残すことはないし、大人しくなるようになろうと思った。
ところが、急に潮の流れが静まり、海の色も元通りになった。
あっけにとられていると、船の先端の海面がブクブクと泡立ちだし、何か浮かんでき始めた。健二は、父親が生きていて浮きあがってきたと思い怖くなった。
いっそ浮んできたところに、船をぶつけようかとも思ったが、浮かんできたものを見て考え直した。
浮かんできたのは父親ではなく、ガラスの大浮き玉だった。
「あぁ、そう言うことか……」
海の神様との取引とは、こういうことだったのか……。
父親も誰かの命と引き換えに、このガラスの大浮き玉を手に入れたのだ。ならば、因果応報ではないか……。なにも気に病むことはない、これで生きて港に帰れる。
健二は、大浮き玉を船に引き揚げ港に帰ることにした。
何もすることはなく乗っているだけで、潮の流れに乗り勝手に船は港についた。
港についた後、健二は村長のもとに行き、父親が急な高波で海に落ちてしまい、助けれなかったことを伝え、母親はこのことを聞くとショックを受けるので、まず最初にここに来たことを伝え葬儀の準備を頼んだ。それと、漁を続けるために手伝ってくれる者を1人見つけてほしいことも頼んでおいた。村長は全て快く引き受けてくれただけでなく、他にも色々と助けてくれる約束をしてくれた。
それから家に帰り、母親に父親が海に落ちたことを伝え、ショックで何もできなくなっているところを、後ろから用意していたロープで首を絞めて殺し、死体を倉庫の梁に吊るした。
これで漁礁の秘密を知る可能性のある者はいなくなり、次も海の神との取引をしたとしても誰からも怪しまれることもなく事故ですますことができる。何より口うるさい両親がいなくなり、自由な生活を村から助けてもらいながらすることができるのだ。
その日、健二は久しぶりに翌朝のことを気にせず布団に入った。