002
もしかして、電車に乗る時はこうやって乗るのが人間界の常識なのだろうか。
しかし、どう考えてもこれはあまりにも変だ。
「ふっふっふっ……き、君…可愛いねぇ」
(――えッ!?)
突然、後ろから身体をピタリと密着させてきたサラリーマン風の中年男が、興奮したような声で耳元に話し掛けてきた。
「これからおじさんとイイところに行かないかい?」
「あ……あはは…」
「おじさんさぁ……君みたいな可愛らしい男の子が好きなんだよねぇ」
(ち、ちょっと……やめてって!)
すっぽりとその中年男に抱きかかえられるような体勢になってしまい、瑞希は恐怖のあまり身体が竦んで思ったように動けなくなってしまった。
その中年男は、更に身体を密着させるように下半身をすり寄せてきた。
「あ、あの……ちょっ……」
「ねぇねぇ、次の駅で降りて……二人っきりになれるところに行こうよ? おじさん、もう我慢できないよ……」
(ぎゃああぁ――ッ! 寄るなッ、触るなッ、無礼者――ッ!)
魔法さえ使えれば、こんな下衆な男など引き蛙にでも変えてやるのに。
しかし、周りはずらりとたくさんの人間ばかりで、絶対に魔法は使えそうにない。
(ファーラッ、ルイスッ、助けて―――ッ!!)
自分がこれからどうなるのか、恐ろしさと心細さを感じて、瑞希の大きな瞳には大粒の涙が溢れ出した。
(助けて――ッ!)
瑞希が心の中で祈るように、ぎゅっと瞳を瞑ったその時―――
「――おい、そこのオッサン。いつまでそうやってるつもりなんだ?」
不意に後ろから、よく通る凛とした低い声が聞こえた。
(え……っ!?)
恐る恐る振り返ると、長身の青年が瑞希にくっついていた中年男の右手首を捻り伏せていた。
「こんな朝っぱらから何やってんだ、アンタ」
「いててえぇッ!」
中年男は真っ青になって悲鳴を上げた。
「我慢できねぇんなら、そーいう店に行って抜いてこいや」
「す、すみませんッ……ほ、ほんの……出来心で……ッ」
「それとも、俺が相手してやろうか?」
「ひゃ――ッ! ご、ごめんなさいッ、ごめんなさいッ!」
その取り乱した中年男の様子に、周りの乗客たちも徐々に異変に気づきはじめた。
「何だ?」
「何かしら?」
「痴漢だってよ」
「うわっ! ヤダぁ」
こんな狭い電車の中の上に、好奇心を擽る話題である。
広まってしまったら、もう止まるところを知らないのも無理はない。その痴漢の情報は、電光石火の如く全車両へと駆け巡っていった。
「あ、あの……?」
当の瑞希は、何が起こったのか分からずにただきょとんとしたまま乗車ドアの近くに立ち竦んでいた。
そして、目の前にいるそのいきなり現われた長身の青年の顔をまじまじと見上げた。
ちょっぴり日に焼けた小麦色の健康そうな肌と、茶褐色の髪と同じ色の涼しげな目元。ワインカラーのブレザーの制服に身を包み、同性の瑞希でさえカッコいいと思ってしまうくらいの風貌である。
(僕のこと……助けてくれたの?)
なぜか急に胸が熱くなってきて、ドキドキと鼓動が早くなってきた。
(わ!? な、何これ……ドキドキが……止まんないよ!?)
やがて、その痴漢中年男も諦めたように肩を落として大人しくなった。
「――ったく、痴漢なんて冗談じゃないって感じーっ!」
ちょうど瑞希の隣にいた、およそ痴漢とは無縁な巨漢OLのお姉さんがそう撒くし立てた。
すると、助けてくれたその青年がとんでもないことを言い出したのだ。
「ホントホント、こんな公衆の面前でお姉さんを狙うなんて。社会人の風上にもおけないっすよね」
「えっ!? ア、アタシ!?」
(へッ!?)
これにはそのお姉さんも驚いたが、瑞希もまた驚いてしまった。
痴漢の被害に逢っていたのは瑞希のほうだったからである。
「ああ。このオッサンのこの右手がお姉さんのスカートの中に入っていったから、俺思わず捕まえちゃったんすけど?」
「な、何ですって――ッ!? ちょっとアンタッ!」
「ひ――ッ!?」
巨漢OLのお姉さんが、もの凄い剣幕でその痴漢中年男の胸座を思いっきり掴み上げた。
「ちょっとオジサン、アタシのお尻……狙ってたのッ!?」
「ちっ、ち、違いますッ! ご、誤解なんだ――ッ!」
真っ青になって涙まで流しているその中年男は、無我夢中で誤解だということを訴えていた。
すると、隣の車両から数人の乗客に混じって駅員がこちらに乗り込んできた。
「ちょっと失礼します。痴漢を捕まえたっていうのはこちらの車両ですか?」
遂に駅員が事実確認にやってきたのだ。これだけの大きな騒ぎになってしまっているのだから、おそらく乗客の誰かが呼んだのだろう。
「あっ、駅員さん! こっちこっちッ! この人がアタシのこと痴漢しようとしてたオジサンよッ!」
「だ、だから違うって――ッ!」
もういくら弁解しても、その場に居合わせた殆どの人達は、このお姉さんが被害者だと思っていることだろう。
「お、お客さん……本当にこの人に……痴漢しようとしたんですか?」
「だ、だから違うんですよ駅員さんッ! ぼ、僕が痴漢しようとしたのは……この人じゃなくて……ッ!」
「何言ってんのよ、オジサンッ! そんなこと言って誤魔化そうとしたってそうはいかないわよッ!」
「ま、まぁまぁ。じゃ、詳しいことは事務所のほうで……」
すべての経緯を呆然と見守っていた瑞希は、ちょっぴりその中年男が可哀相になってしまった。
(ど、どうしよう……)
あのオジサンが触っていたのは、あのお姉さんのじゃなくてこの僕のお尻だった、ということをみんなに話してあげたほうがいいのだろうか。
「あ、あの……」
ちょうどその時、次の駅に到着したようで、アナウンスとともに乗車ドアが開いた。
その途端、車両から降りる人混みに紛れるように、誰かが瑞希の手首を掴んでホームへと引っ張った。
「――こっちだ」
(えっ!?)
ふわり、と身体が浮いたように軽くなり、誰かの手に引かれて車両から外に出た。
そのまま駅のホームに降り立った瑞希は、再び走り出した電車を振り返るとただ呆然と見送ったのだった。
「い、行っちゃったよ……」
だんだんと小さくなっていくその電車を見つめながらぽつりとそう呟いた。
もうこうなったら、あのオジサンやお姉さんの誤解がちゃんと解けるのをただ祈るばかりである。
「――おい、大丈夫か?」
「えっ?」
突然、すぐ後ろからそう尋ねられて慌てて振り返ると、さっき電車の中で助けてくれたあの青年が不思議そうな顔をして瑞希の顔を覗き込んでいた。
「あ……!」
(わッ! う、うそぉっ!?)
その青年の澄んだ茶褐色の瞳に見つめられて、瑞希はカァーッと林檎のように真っ赤になってしまった。
「―――ったく。よかったな、あのオッサンに変なところに連れていかれなくて」
「あ、あの……」
「ん?」
「さっきは……何であんなことを……?」
いちばん気になっていることをその青年に聞いてみた。
「あんなこと?」
「あ、あのオジサンが触ってたのは……僕のほうだったのに……あのお姉さんのほうだった、って……」
「ああ、別に理由なんかないけどな。あのままお前を被害者にしておいたら、何かと面倒なことになるだろ?」
「面倒なこと?」
「あの状況じゃお前も俺も駅員や警察に事情を聞かれるだろうし、お前だって『痴漢に遭った少年』なんて言われて好奇の目に曝されるのは嫌だろ?」
「あ……」
確かに、そんなことになったら非常に困ることになっていたかもしれない。
人間界のこともまだよく判らないのに、そんな事情なんて聞かれても多分答えられそうにない。
まして、『魔界の後継者』であるリヒャルド王家の第一王子が、人間界で痴漢に遭っていたなんてことが魔王である父上の耳にでも入ったら、ショックのあまり倒れて寝込んでしまうかもしれない。
色んな意味で、瑞希はこの青年に助けられたようだ。
「ちょうどあの時、あのお姉さんが運良くお前の隣にいて話に乗ってきたからさ。そういうことにして貰っちゃったんだけど……もしかして、迷惑だったとか?」
「え?」
「本当はあのオッサンと一緒に行きたかった、ってことか?」
「な、何言ってんのさ! ち、違うよッ!」
瑞希がムキになって捲くし立てるのを、その青年が面白そうに見遣った。
「ふーん。まぁ、どうでもいいんだけどさ……」
何やらニヤニヤと意味有りげな表情だ。
「えっ?」
(な、何だろ? ぼ、僕の顔に何かついてるのかな……?)
きょとんとした顔をしていると、青年が悪戯っぽい笑みを浮かべながら瑞希の股間を指差した。
「だから……それ、ズボンのファスナーから出てるぞ」
「へ? ズボンの……ファスナー?」
慌てて見遣ると、いつの間にか制服のズボンのファスナーが全開になっていて、そこからプリリンッと可愛らしい瑞希の分身が飛び出していた。
「うぎゃあああ―――ッ!」
瑞希が悲鳴を上げて股間を隠したのと同時に、その青年も声を上げて笑い出した。
「あっはは、は……女の子みたいな顔してるからついて無いのかと思ったけど、ちゃんと顔に似合って可愛いやつがついてるんだな」
そう言いながら、その青年は再びお腹を抱えて笑い出した。
「わッ、わッ、わ―――ッ! 言うなッ無礼者ッ!」
そう怒鳴った瑞希の顔は、沸騰しきって今にも大爆発を起こしそうなヤカンのように真っ赤だ。
「無礼者ぉ? 何だよそれ、時代劇が好きなのか?」
「ち、違うって―――ッ! ぼ、僕は……」
魔界第三百二十四代魔王リヒャルド王家の第一王子、『魔界の後継者』だ。
喉元までそう出係っていたけれど、ルイスの恐い顔を思い出してそのまま呑み込んだ。
どうせ、こんなところでそんなことを言っても誰も信じないだろう。
「……ったく。色んな意味で面白い奴だな、お前」
「ふにぃいい――ッ! 面白くなんかないぞッ、無礼者ッ!」
ムキになればなるほど、身体中が激しく熱く鼓動を高鳴らせていく。
初対面の相手にあんな恥ずかしい姿を見られてしまって、瑞希は今すぐにでもどこかに消えてしまいたい心境だった。
「そう言えば、お前って見かけない顔だけど……1年だろ?」
「え?」
「俺は二年の関谷悠生だ。宜しくな」