(上)
プロローグ
不思議と怖くはない。
ただ、少しだけ……。
1
『お願い、私を止めて……』
少女は呟きながら、その想いをコンピュータに打った。
すぐに少女へリプライがされる。
『僕がついている。何も怖くないよ』
少女は自分が泣いていることに気づいた。
熱いものが次々に溢れてくる。それは止まらない。
滲んだままの画面に、少女は想いを込める。
『でも、……でもやっぱり、やっぱり怖いの。ダメ……かもしれない……』
『君の思うように、君がしたいように、君が望むことをすればいい。大丈夫、僕がついている。君は一人じゃない』
画面はさらに強く滲んだ。
もう何も見えないくらいに、少女は涙を流した。
不思議だ。久しく泣いていないのに。
どうして今夜は、こんなに……。
泣きたかったのだろうか。
ずっと泣けなかったから。
これからは泣けないから。
少女は画面をじっと見つめる。
小さな部屋で、彼女は膝を抱きながら泣いていた。体を震わせながら泣いていた。
たっぷり、一生分の涙を流したあと、少女は胸に手を当てて気持ちを落ち着かせてから、再びキーボードを鳴らした。
『ありがとう。あなたには感謝をしている。本当なら……。でも、そうもいかないものね。……ありがとう』
最後のメッセージを送り、少女は電源を落とした。
窓の方に寄り、夜の空を眺める。
その日の夜は静寂が怖いほどだった。
真っ暗な部屋を、月明かりだけが照らしている。
少女はゆっくりと深呼吸を繰り返した。
「明日、私は最初で最後、そして最大のゲームを始める。止めるなら、今……」
少女は呟いて、窓から月を見上げた。
綺麗な月。
何も音はない。
静かな夜。
毎日が、こうも静かならばいいのに。
少女は自分を落ち着かせながら、部屋の中で唯一動いている時計を見つめる。
蛍光塗料がぼんやりと、一定のリズムを刻んで動く。
その時計の針は頂上で重なろうとしていた。
やがてそれは、12という数字を通り過ぎる。
少女はそれを見て笑った。
決意はすでに固まっている。
最後の、背中を押された感覚があった。
決意はより強固に。
それと同時に、何かが壊れた気がした。
「これで、もう、止めれない……!」
2
少女からの最後のメッセージを受け取ると、男もコンピュータの電源を落として窓辺から月を見上げた。
「同じ月を見ているのだろうか……」
男は小さく呟き、そして、思い出す。
今日に至るまでのすべてを。
すべてというそのすべてを。
わずかに口の端が上がった。
悪くはない。
きっと、悪くはないだろう。
しかしそれはあくまでも男にとっては、だ。
彼女にとっては最悪の人生だろう。
男は短く息を吐くと、カードを一枚取り出した。
トランプのジョーカー。
月明かりに照らされたジョーカーを男は黙って見つめる。
「……何が正しくて、何が間違いなのか……」
誰も答えられない問いを口にしながら、男はジョーカーを胸ポケットに仕舞った。
男と少女を結ぶのは遠い日の約束だった。
暑い夏の日。
その日、二人の世界が変わった。
強制的に、変えられた。
二人の意志とは関係なく、ある日、突然に。
非常に不快な蝉の鳴き声も、まるで耳に届かないように。
目の前で、それは風によって弱々しく揺れていた。
初めて見る光景だった。
幼かった二人はそれが何なのか、その場ではすぐに理解できなかった。
否。
理解しないように、理解してはいけないと、必死に脳が思考を停止させていたのだ。
それは奇妙に揺れていた。
一定のリズムで、奇妙に。
ゆらゆら、ゆらゆら。
揺れる反動で、ゆっくりと右へ左へ、回っていた。
回るたび、揺れるたび、それはこちらを……。
窓から入り込む真っ赤な夕日。
全身をべったりと覆う汗。
耳障りな蝉の音。
鼻をつく嫌な臭い。
夕方の五時を告げる公園のチャイム。
そして、初めて見る¬¬¬----それ。
そのとき、世界が¬¬変わった。変えられた。
今でも嫌というほど鮮明に思い出すことができる。
少女とは、そのときに約束を交わした。
『世界を変えよう』
あれから十数年の時が流れている。
世界を変えられたあの日から。
世界を変えると誓ったあの日から。
ようやく長い年月を越え、時計の針が約束のときを迎える。
もう止められない。
このときを待っていた。
誰にも邪魔などはさせない。
全員だ。
全員、……殺す。
世界を変える、変えてみせる。
もう止められない。
いくら懊悩したところで、何も変わらなかった。
変えるためには、世界を緋に染める必要がある。
たとえ穎脱の英傑だとしても、何もしなければ、ただの凡夫ほどの価値もない。
それはお前にも言えることだ、神よ。
この世が、お前が、無情だということは誰もが知っている。
厭世家というわけでもないが、それでも淡雪のような希望に縋って生きていけるほど、人は強くはない。
……まあいい。
哀感に浸ることはいつでもできる。
短く息を吐き、時計を見る。
日付が変わる。
もうすぐ、約束の時を迎える。
男は笑う。
「さあ、始めよう……!」
第1章 気づかない幸せ
気づかないから幸せなのに。
気づいたときにはもう遅い。
1
「バレンタインってあるでしょ?」
「うん」
今の生活が幸せかどうかはそれほど重要でもなく、知りたいわけでもないし、知ったところで何になるのかが新たな問題に成り得るわけで、詰まるところ、どうでもいい。
「あれ嫌いなのよね」
「どうして?」
人々は当然の如く幸せを願うわけだが、幸せが何なのかと聞かれれば、それはやはり答えるだろうし、答えられないにもかかわらず幸せを願う幸せな奴も少ないけれど、少ないだけでやはりいる。
「だって、別にチョコなんて季節に左右される食べ物でもないじゃない。あんなイベントのおかげで、まるでバレンタイン以外にチョコを渡したらいけないみたいじゃない?」
「よくわからないけど。でもまあ、別に好きなときに渡せばいいじゃん」
ただなんとなく、幸せになりたい。
そんな曖昧な願い事が神様に届くのかはさておき、イマドキの若者が幸せについてどうこう考えるのかもそれは自由だし、そんなことに首を突っ込むほど暇ではないような夜、つまりはいつもと変わらない夜の日に、まあ、そう、問題があるわけで。
「私は別に渡したいわけじゃないわよ。欲しいの! チョコが!」
「知らないよ。ていうか、お前は貰う方じゃないだろ? あと、なんでバレンタインなんだよ。今は夏だ」
三咲七海は呆れながら、椅子の背もたれに体重を預けた。
オレンジのゼリーを食べながら、目の前の早苗を睨む。
「夏にバレンタインの話をしちゃいけないわけ?」不満そうに口を尖らせている。
「チョコが食べたくなるからチョコの話はやめろよ。チョコがないんだから」
急に、食べているゼリーが味気ないように感じてきてしまった。
「じゃ、明日からよろぴこ」
「はあ?」
七海の母親、三咲早苗の話は突然のことだった。数ヶ月ほど仕事の関係のために家を空けるとのことらしい。
早苗は季刊誌に連載を持つ作家。仕事ということから、取材と称した旅行にでも出かけるのかもしれない。
七海に物心がつくころ、というよりも七海にとって最も古い記憶から現在に至るまで、つまりはずっと、七海は早苗と二人で暮らしている。
しかしながら生活に苦労はしていない。他人の生活を覗いたことがないのでわからないが、三階建ての家に二人で住んでいれば、多少の語弊はあるものの裕福と言えなくもないだろう。
さて、何のための状況確認かは知らないが、つまり七海は明日から早苗が家を空けるという問題に直面していた。バレンタインの話など、最初からなかったかのように。
現在の時刻は午後十一時四十五分弱。
『明日』というのは十五分後のことであって……。
気のせいでなければ、七海がパジャマであるのに対して目の前の早苗は白のサマーセーターにジーンズというカジュアルなものだ。明らかに寝る格好ではない。
目の錯覚でなければ、スーツケースなるものも見える。
「どうしてそういうことをもっと早くに言わないんだよ」
「何よぅ、ななが聞かなかったんでしょ?」
なんていう屁理屈だ。
『なな』というのは、七海からつけられた、とってもかわいい愛称のことだ。こんなかわいい名前でも、市内の県立高校に通うかわいい男の子である。
女の子が欲しかったなぁ、的なことを遠回しに言われているようで妙なプレッシャーが掛かり、それでいて明らかな母親の趣味だろうとってもかわいらしい名前だ。そんな名前をつけた張本人は目の前でおいしそうにゼリーを食べている。
どうしたものか。
七海は一切の家事ができない。本当に数ヶ月もの間家を空けられたら大変である。かといって、今さらどうしようもないのが現実なのだが。
「俺も行っちゃだめ?」留守番よりかは。
「んふふ、ママと一緒に行きたいの?」早苗は微笑みながら首を傾ける。
「どこ行くの?」
「ひ・み・つ! きゃー!」
何なんだよ、こいつ。
「んー、なぁに? ママと離れるのが嫌なの? 心配しなくても毎晩ラヴコールするからね」そう言いながら早苗は腕を七海の首に回して抱きついてくる。
どんな心配だよ。
数ヶ月家を空けられることよりも、数ヶ月も毎晩ラヴコールされるほうがいい迷惑だ。そして何より、この早苗ならやりかねない。
「ママも寂しいんだよ? ななちゃん愛してるよ、ん、大好き」早苗は七海にキスをして、荷物を持った。
最初から最後までペースを奪われたままだ。
「ごはんは香織に頼んであるから、良い子にしてるんだよ? 毎晩ラヴコールするからね。バイバイ」早苗は手を振りながら出ていった。
釣られて手を振っていた自分が嫌になる。
『香織』とは早苗の幼馴染で親友の朝比奈香織のことであり、七海の高校の担任でもある。かなりの美人だが、嫁き遅れている。
早苗と親友であるために、毎日のように家にやってきては雑談を交わしている。だからある意味では、教師と生徒の垣根を越えた関係と言ってもおかしくない。しかし、教師と生徒の関係になったのが一年半ぐらい前なので、実際には逆だ。正直なところ、母親が二人いるみたいで疲れるし困っていた。
もっとも、香織の方が母親らしいということは、今のところは伏せておこう。
七海は欠伸をして、時計を見た。
そろそろ寝ようかな。
目の前の問題はとりあえず、置いておこう。解決のしようがないし。
今は夏休みなので、基本的には暇ということになる。
リビングのソファでうとうとしていると、リップがとことことやってきた。リップは家で飼っているゴールデンレトリーバの♂。冬場は七海と早苗による支持率は絶大なるものがあるが、夏場はその長毛が暑苦しく鬱陶しいために人気は下降気味である。
「どうした?」
答えられるわけがないリップに尋ねる七海の頭は季節の暑さでやられているのか、それともそもそもが悪いのか、判断のしようがない。
「暑いだろ、その毛じゃ。今度刈ってやるよ」
いきなり話し相手がいなくなって寂しい、というわけでもないが、それでもまったくの一人でないことは心強いというか、頼もしいというか。下降気味の人気を取り戻すために近づいてきたとしたら、リップは相当場の空気の読める賢い犬だ。どこぞの白い犬など目ではない。
肉球を触ろうと手を伸ばすと、触られるのが嫌なのか、すぐに前足を引っ込めてしまう。
「触らせてくれてもいいだろ。ご主人様だぞ、俺は」
もう一度手を伸ばす。リップはすぐに前足を引っ込めた。
なかなか意志が固いものである。イマドキの世の中を生きるものとしてはなかなかにめずらしい。
しばらくじゃれ合ってると、玄関のドアの開閉する音が聞こえ、美人がリビングに入ってきた。
「おっす。何やってんの?」
朝比奈香織だ。
ほんのり茶色で癖のない髪は肩までで、化粧も薄く、身長も割りと高めでスタイルも良い。見た目は二十五歳程度にしか見えないが本当は早苗と同じ三十三歳。
リップは尻尾を振りながら香織の足元に寄る。明らかに七海よりも香織になついているのが癪と言えば癪だったが、オスということもあるし、その辺は仕方がない。
「今日はやけに遅いな。ていうか、日付変わってるじゃん」
「ん、まあ。でも今さら気にするような関係でもないでしょ。あんた達はこの時間で寝ることがないんだから。ケーキ食べる?」香織は白い箱を持ち上げて見せた。
「うん」七海は頷いて立ち上がり、ダイニングへと移動する。
「早苗は?」
「さっき出てったよ」
「どこに?」
「え?」
「え?」
お互いに顔を見合わせる。
香織は不思議そうな表情で首を傾げていた。
……どういうことだ、と考えるまでもない。香織は早苗がどこへ行ったのか知らないわけだ。それは七海も同じだから大した問題ではない。注視する点はそこではなく、それを七海に尋ねてきたというところだ。
早苗は香織にごはんを頼んであると言っていた。つまり香織としては頼まれたときにどこへ行くのか早苗に直接聞ける機会が存在したわけである。
そのはずなのに、今、七海に尋ねている。
明瞭だ、早苗が嘘をついたということだ。
何が頼んである、だよ。
七海は項垂れたくなったが、この手のささやかな悪戯は今に始まったことじゃない。それは今回の旅行のことを七海に告げなかったことでもわかるだろう。
七海はため息をついてコーヒーメーカーをセットする。
「どういうこと?」椅子を引きながら香織が尋ねた。
「仕事の関係で数ヶ月もの旅行に出かけるらしい」
「ふうん。じゃ、ごはんはどうすんの?」
「さあ。母さんは香織が作ってくれるとは言っていたけど」
「わ、私? それはいいけど、聞いてないわよ?」
「だろうな。誰も言ってないんだから」
「むー、あれね、何て言うのか、あんたら親子はさ、受動的過ぎんのよ。コンシステンシー指数が極値なのね、あんたも早苗も」
「施工性?」
「社会という流動に対する抵抗性が極端なのよ、あんた達は。まったくのゼロで無駄なく流されるのか、それとも少しのことじゃ揺らがないぐらいに強固なのか」
「おしゃれで理知的な比喩はどうでもいいけどさ、ケーキ何?」
「白桃のタルト。好きでしょ、あんた」
七海は頷きながらポットの様子を窺う。棚からカップと皿を二つずつ用意して、ダイニングテーブルに並べた。コーヒーを注いで、席に着く。
さっそく、ケーキを頬張る。
おいしい。
思わず顔がほころぶ。
「ったく、ほんと、女の子みたいね」
「ん?」
「名前もだけど、見た目もさ」言いながら香織は七海の頬を軽く引っ張る。「男のくせに、こんなにかわいい顔しちゃって。早苗にそっくりよねぇ、ほんと」
気づけば、隣の椅子にリップが座っていた。香織と七海の顔を交互に見ている。どうやらケーキが食べたいようだ。
「体の調子はどう?」香織はケーキを少しだけリップにあげながら、上目遣いで七海を見る。
「悪くはないけど」
「夏場は特に気をつけなさいよ」
「うん」
七海は低血圧のせいか朝は非常に弱いし、その上貧血にもなりやすい。これも母親譲りだ。女の子みたいだとよくからかわれたりしている。
七海はようやく冷めたコーヒーに口をつけた。猫舌のため、冷めないとまるで飲めない。
「そのカップの持ち方も、早苗にそっくり」香織が微笑む。
七海は片膝を抱えながら、カップを両手で持っている。似るのは親子だから仕方ないが、早苗の仕草に似ていることを指摘できる人間も香織ぐらいだろう。
「こうして見てると本当に早苗にそっくりね」
「親子だもの」
「それを抜きに考えてもよ」
七海はリップの肉球を触る。ケーキを食べたからか、素直に手を伸ばしている。なかなか人間味のある犬だった。
しかし、おいしいな、このタルト。
自然と笑顔になる。
なるほど、これが幸せか。
母親が数ヶ月も家を空けるという事態に直面していても、これからの家事の心配をしつつも、それでもおいしいケーキが食べられるのであれば、人は幸せを感じられるのだろう。
味覚が七海の現状把握能力をダメにしている。これを欠陥と呼ばずに何と呼ぼう。そんな欠陥を自覚していても、ケーキを食べる手は止まらないのだから困ったものだ。もっとも、小さな欠陥を気にするほど、精細な人間でもなかったが。
「ふふ、ケーキって人をダメにするよなぁ、ったく」
「ケーキでダメになる人間はあんたと早苗くらいよ」
2
欠伸をして時計を見ると、見えなかった。
七海は半分寝ぼけた状態で眼鏡を探す。
眼鏡を掛け、もう一度欠伸をして、改めて時計を見た。
午後一時半。
「ん……、まだ朝じゃねえか」
眼鏡はそのままに、ベッドに倒れこむ。
すぐに意識が遠くなる。
……ん。
何だ、何か、聞こえる。
目を開けると同時に、急速に意識が覚醒して聴力もはっきりと機能し始めた。
リップが吠えている。
「……あの馬鹿犬め」
七海は舌を鳴らして起き上がると、下へ降りた。
何をこんな朝からあの馬鹿は吠えてんだよ。気でも狂ってるんじゃないのか。ああ、くそ、眠い。
リビングに行くとリップが尻尾を振っていた。
「お、やっと起きた。ったく、何時だと思ってるのよ。もうお昼よ、昼の一時。よくもこんな時間まで寝てられるわね」
エプロン姿の香織がフライパン片手に立っていた。
リップは香織の足元で尻尾を振りながら何か食べるものをねだって吠えている。
「はいはい、一個だけよ。あ、なな、この子の餌は?」香織はリップにウインナーをあげながら七海を見て尋ねた。
「ん、そこの棚」七海は指を差して答える。「こんな朝から何をしてんだ?」
「朝? もう昼の一時よ?」
「朝じゃん」
「どこの時差よ」
ダイニングに移動して、食卓に着く。テーブルにはできたての料理が置かれていた。トマトソースのパスタ。おいしそうな匂いが鼻を刺激する。
寝起きの七海としてはもう少し軽いものがよかったが、黙って食べることにするぐらいの良識は備えていた。
「それ食べたら学校へ行くわよ」
「は?」
七海の記憶が正しければ、今は夏休みのはずだった。しかし、七海の記憶はあまり当てにならないということは、自身も感じているところだった。
とりあえず、フォークでくるくるとパスタを巻きながら、思い出す。
一学期が終わり、散々な通知表をもらっても意に介せず、夏休みの宿題を紙片回収に出して地球にやさしいことをアピールしたところから、楽しい楽しい夏休みは始まった。それからは遊んで、甘いものを食べて、寝て、甘いものを食べてを繰り返し、曜日も日付もわからなくなったころ、早苗がいきなりわけのわからない旅行を切り出したのだった。
やはり現在は夏休みである。どうして夏休みに学校へ行かなくてはいけないのだろうか。七海は部活などには所属していないし、学校の成績は学年で最下位ではあるものの、赤点はないので補習もないはずだった。
七海はもぐもぐとパスタを頬張りながら考える。なかなかどうして料理が上手な香織は美人で知的にもかかわらず、それなのに嫁き遅れるのか。男運がないというよりは、釣り合う男がいないというのが正しい。しかし、考えるのはそっちのことではない。
うーん、模試にしてもほぼ自主性だから行く必要もないし、出校日か何かだったっけ?
学校に行くのが嫌、というよりは、この暑い中を外へ出て行くこと自体が億劫だった。
「ん、どうしたのよ?」
七海が考え込んでいたからだろう、香織が尋ねてきた。
「いや。どうして学校に行くの?」
「文化祭の準備」
「夏休みだろ?」
「そうね。夏休みだから準備をしなくちゃね」
「なぜそれに俺を巻き込む?」
「あんたが私のクラスの生徒だからよ」
「どうして夏休みに文化祭なんかの準備をするんだよ」
「さあ、知らないわよ、そんなこと。私だって本当ならやりたくないわよ。いろいろあるのよ、教育にもね。鬱陶しいけど」
こういうとき香織との付き合いが仇になる。
ま、仕方がない。七海はため息を一つ吐くことで諦めることにした。駄々をこねる気力もこの暑さの中ではなかった。
パスタを食べ終わり、食器を流しに持っていく。
三階に上がって、洗面所で歯を磨いて顔を洗い、パジャマを洗濯機に放り込む。ぼさぼさの髪を軽く水で梳かしながら、制服に着替えた。
鏡の中の自分を見つめる。少し髪が伸びたか。緋色の髪を触りながらいろんな角度で確認する。もう少し伸びたら髪を切りに行かなくちゃなぁ、とかそんなことを思う。
七海の髪は緋色、つまりは赤いのだが、別に夏休みだからという安易な理由で染めているわけではない。生まれつきの緋色で、これも母親の遺伝だ。
おかげで高校の職員からは煙たがられている。天然の髪質でも、そういった証明書を出したところで、この色では受け入れ難いみたいだ。それに当然の如く周りの高校生は黒髪なわけで、七海一人がやけに目立つことになるのは必至といえる。留学生の一人でもいてくれたら、少しは緩和されるかもしれないのだが。
そんなくだらないことを考えているうちにも時間は過ぎていく。階段のほうから香織の急かす声が聞こえた。
どうして夏休みに学校へ行かなくてはいけないのかという愚痴も口がすっぱくは決してならないけど適度にこぼしながら、ため息を重ねる。
「ほら、行くわよ」
香織に手を引っ張られながら、彼女の車に乗り込む。黒のミニ・クーパー。
七海が通う愛知県立桜川高等学校は家から徒歩でも十五分程度の丘の上に建てられている。全校生徒六百人にも満たない小さな学校ではあるが、少数精鋭とはよく言ったもので、偏差値も頭抜けた数値を叩き出す全国でも屈指の進学校だ。
場違いなところへ入学してしまったと気づくのにも時間はそれほど掛からなかった。後悔したときにはすでに手遅れ、あとの祭りとでも言うのだろうか。七海は近所だったから受験しただけで、高校のパンフレットなどにも目は通していないし、そういった事前知識ゼロで入試に臨んでしまったのだから仕方がない。
まあ、そんなことだから必然的に七海は高校創立以来の問題児と称されるようになるわけだった。
流れる風景をぼんやり眺めながらもの思いに耽っていると、高校にはすぐに着いた。
車から降りると、むわっとした熱く不快な空気が体を這うように纏わりつく。じりじりとした日差しも熱い。天気が良過ぎるのも問題だ。夏は嫌いだった。
「暑い……」
耳障りな蝉の鳴き声の他に、暑苦しい運動部の掛け声も重なる。硬球がバットに当たる金属音や、テニスボールの跳ねる音も聞こえてくる。
なぜこんな暑い中を、動き回ってるんだ? 暑さで頭がやられているのか?
七海からすれば、正気の沙汰とは思えなかった。
「なな、行くわよ」
「うん」
夏休みは生徒棟の校舎が閉まっているため、職員用玄関から上がることになる。
「私は職員室に寄るから、先に行ってなさい」
「どこへ?」
「教室よ。そこで作業してると思うから」
香織と別れ、手前の階段で二階に上がった。
渡り廊下を伝い生徒棟へ移動し、生徒棟の階段を使って七海の教室がある四階へと向かう。
本棟と生徒棟は各階の渡り廊下で繋がっているのだが、学校がない日は一階と三階には鍵が掛けられている。これは一階と三階の渡り廊下が外にあるためだ。唯一建物内にある二階の廊下だけには扉がなく、確実に行き来するにはここを利用するしかない。
校舎内はこれまた夏休みのために、窓が閉め切られていて蒸し暑い。気の利く人間が窓くらい開けてくれればいいのだが。全員がそう思ってるからこそ開けられていないのだろうことは明白だった。
私立ならば空調設備も整っているだろうが、残念ながら県立高校の桜川には扇風機すら置かれていない。
階段を上っただけで汗が吹き出てくる。不運なことに七海の教室は最上階の廊下の奥だ。
「だあ、くそ、夏休みなのに」
愚痴を垂れても現状が変わるわけじゃないことがわかる程度には大人で、それでもついつい愚痴を溢してしまうほどには子供な、そんな曖昧な思春期を楽しんでいる高校生の自分が憎い。
やっとの思いで教室に着くと、数人の女生徒達が何やら作業をしていた。紙に書き込んだり、計算機を使って何かの計算をしていたり、飾り付けか何かも作っている。
「あ、おはよ」ポニーテイルの女の子が挨拶をしてくれた。
「うん」七海も頷いて挨拶を返す。
「めずらしいね、ななが来るなんて。あ、香織先生と一緒に来たんだ。そうでしょ?」
なかなかに失礼なことを言うこの女の子の名前は遊井川紗季。苗字から取った『ゆい』という愛称で親しまれている。
彼女とは幼稚園のころからの付き合いで、家も近所なので母親同士の交流もある。
この学校で一番かわいい女の子として人気も高く、さらには全国模試でも一番という勤勉者。将来は弁護士を目指しているという、輝かしく、眩し過ぎて何も見えない未来が彼女を待っている。
誰かが七海の未来は墨汁を溢したものだと言っていたが、それは忘れることにした。
「文化祭って、何やるの?」七海は紗季に尋ねる。
「喫茶店。この間みんなで決めたでしょ?」
「うーん、記憶がない」
「よく言うわよ。バニー喫茶にしたら客足が伸びるからとか言って、女の子のコスチュームをバニーちゃんにしようと企んでいたじゃない」
「へ、変態じゃないか」
「だから、それはななだって」
「それはそうと、他のみんなは? 教室は女子ばっかりみたいだけど」
「男子は外で作業してるわよ。看板作りね」
「よくもまあ、この暑い中を。女尊男卑の時代だな」
「適切な役割分担よ」紗季は腰に手を当てて目を細めた。「じゃあ何? 女の子に看板作れってこと?」
「さあ。こういうときだけ、ひ弱な女の子を演じるもんな。そのくせ、何か不満があると男女差別だとか女性蔑視だとのたまうではないですか。男にはそういう武器がないから、羨ましいなぁ、という話。男の子にもっと愛を」
「はいはい。じゃあ、私がたっぷりと愛のこもった仕事をあげる。これメニューとその材料が書かれた資料なんだけど、仕入れ値とか調べて表にしてまとめてきて。あと暫定の価格も計算してきてね」
「これを愛と呼ぶのですか?」七海は十数枚にもわたるプリントを受け取りながら首を捻った。
「愛以外の何よ?」紗季はにっこり笑顔で首を傾ける。
「陰湿な嫌がらせとしか……」
「あっそ。ま、どう思うかは受け取り側の自由だからね」
「…………」
「何? 早くやってきてよ」
「……絶対にバニーちゃんを着せてやるからな」
七海は舌を打って、コンピュータルームに向かった。
本館の四階にあるコンピュータルームへ行くと、バニラが作業していた。
『バニラ』というのはもちろん愛称なのだが、本名が何だったか思い出せないのが問題だ。日本人の名称としては首を捻らざるを得ないものではあるものの、すでに確立してしまっているから困る。
「おう、ななじゃん。来てたのか?」
「まあね。何してんの? 外で作業してるって聞いたけど?」
「ああ、看板のためのデザイン作り、と言うとオーバーかな。この紙に沿って作ると少しだけ楽だからさ」バニラはそう言って、一枚の紙を見せてくれた。
全体に『喫』の左上四分の一部分が書かれている。四枚で『喫』になるようだ。
「それに沿って、発砲スチロールを切って看板にするんだ」
「なるほど。じゃあ、今、あいつらはサボってるんだな?」
「女子には言うなよ。イチイチ、うるせーから」
コンピュータルームには空調設備が整っている。つまり、バニラにこの涼しい環境で作業をやらせる代わりに、男子達は休憩しているのだろう。恐らく、女子に対して愚痴を溢しているに違いない。
こういう行事になると必ずと言っていいほど無駄な衝突が起こる。高校生にもなって、ほんと、忙しいことである。
「でもどうせサボるんなら、ここのほうがいいだろう? わざわざ暑い中を……」
「外にいないとすぐにバレる。女の勘はいいって言うだろ?」
「さあ、聞いたことないよ」七海は苦笑した。
「で、ななは何しに来たんだ? 涼みに?」バニラは冗談っぽく笑って言った。
「涼むのが目的だったら学校なんかに来るかよ。エクセル使いたいんだよ」
七海はバニラの向かいの端末を立ち上げて、エクセルを起動させる。データを打ち込んで、グラフに表して、印刷した。材料費と暫定値段での利益を算出して、具体的な値段設定も決めた。メニューも打ち込んで表にまとめる。
ざっと数分程度で作業は終了した。はっきり言って、エクセルを使う必要性がまったく見られない。女子に書かせれば、それで済むことだ。もちろん、こんなことは口が裂けても女子の前では言えないことであるが、口が裂けたらそれこそしゃべれない。
「あーあ、どうして男は外で作業なんだろうな」バニラがキャスターつきの椅子の背もたれに顔を乗せながらくるくると回る。
何がしたいんだ、こいつは。目は回らないのか。
「中で作業すれば?」
「うーん」バニラは唸りながらくるくる、くるくる。
「何なんだよ」
「なーんでお前は男なのに中で作業してんだ?」
「さあ?」七海は首を傾げる。
「見た目は女の子だもんなぁ。それも抜群の美少女。本当にお前は男なのか? この学校で一番かわいいのお前だぞ?」
ぞくぞくっと背筋に違和を感じる。
何なんだ、こいつ。
「何なんだよ?」
「別に。学校で一番かわいい女子は遊井川だろうけど、一番かわいいのは三咲七海だってことだよ」
何か怖くなってきた。
寒気がする。
何だ? 告白か? 男から男に?
ま、まさか……。
「な、何だよ?」
思わず声が上ずる。
「だからな」
バニラが真剣な表情で七海を見る。
「な、何?」
緊張のせいか、唾がうまく飲み込めない。
バニラにじっと見つめられる。
う……。
こ、怖い。
「俺、お前のことを……」
「う、うおおおい、早まるな馬鹿!」
「いいから聞けって!」
「き、聞けるかぁ!」
バニラが七海に歩み寄る。
目が真剣だった。
泣きたくなってきた。
「俺はお前のことを……」
「な、だ、何……?」
「ミス桜川にお前を推薦しちゃった」
「……は?」
てへっ、とバニラはかわいらしく微笑む。
「ミスって俺は男じゃねえか!」
「だってお前よりかわいい女子なんかいねえだろ?」
「だからって、お前なぁ!」
「心配すんなって。セーラー服着て微笑むだけだよ」
「ふざけんなぁ!」
「優勝賞品はドーナツ百個の引換券だ。ただ笑うだけで、お前の大好きな甘いものがたくさん手に入るんだぞ?」
「……ふ、ふざけんな!」
「お、ちょっと考えたろ、今」
3
どいつもこいつも。
まったく、どういうつもりだ。
夏休みに文化祭の準備をするような変態に加え、男の俺にセーラー服を着せたがるような変態まで。
「あー、もうっ」
暑さのせいか、イライラする。
甘くて冷たいものが食べたい。
前髪を掻き上げながらため息をつき、本棟と生徒棟の四階を繋ぐ渡り廊下がないことに腹を立てながら、本棟を四階から二階まで降りて、渡り廊下で生徒棟に移り、再び四階へと上がる。
「誰の設計だ、この校舎は」
愚痴を垂れても校舎に変化が現れることもなく、口に出すだけ余分なエネルギーを消費することはわかってはいるのだが、なかなかどうして人間というものは厄介な生き物か。
この暑い中、当然ながら公立校である桜川に冷房機器はなく室内温度も三十数度という不快な場所である教室で、さらに不快な状況が繰り広げられて、というかぶち撒かれていた。
「どうしてサボってたわけっ?」女子が叫ぶ。
「どうして俺達は外なんだよ!」男子も叫ぶ。
目の前の論争に眩暈を軽く覚えながら、とばっちりを受けないように静かに窓際まで避難する。
怒鳴っている連中を除いて、数人の女子が先ほどと同じように教室の前の方で作業を続けていた。
「何を騒いでるの、あれ」七海は紗季に資料を渡しながら社交辞令あるいは保身のために、尋ねた。
「男子が外でサボってたのに対して怒ったら、この役割分担に対しての逆ギレ」紗季は肩を竦めながら素っ気なく言う。
逆ギレ。こう表現するってことは、男子が悪い、と言っているということだ。
まったく、どいつもこいつも。
どっと疲れが出てくるのを感じる。
「どうして三咲は中で作業してんだよ!」
とばっちりがものの見事に七海へ飛んできた。
「三咲くんはかわいいからいいの」
「ちげーよ、何で女子だけで独占してんのかってことだ。三咲は俺達のもんだ!」
おいおい。変な方向に突っ走ってないか、お前らは。バニラといい、お前らといい。まったく、ろくなもんじゃない。
暑さと目眩に嫌気が差す。
「大人気ね」顔を寄せて紗季が悪戯っぽく微笑んだ。
「嬉しくねえよ」七海は肩を竦めた。
「さ、職員室に行こ」
「どうして?」
「香織先生に資料を見せてOKもらったら発注しなくちゃいけないし、それにここにいてもケンカに巻き込まれるかもしれないじゃない? 暑さでイライラしてるのはわかるけどさ、ケンカしても作業が停滞するだけだし、非生産的な行為だよね」
「なるほど」
七海は頷いて、紗季と一緒に教室を出た。
教室を出てから気づいたのだが、職員室に向かうとなると再び本棟へ移動しなくてはならない。今日一日(ほとんどが数十分前)を振り返って、ため息をついた。校舎を歩き回っている気がする。もちろん、気のせいなんかではない。
せめてもの救いが、職員室に入ると冷たい空気が体を癒してくれたことだ。コンピュータ室と職員室だけは冷房器具が完備されている。夏休みということもあり、職員の姿はあまり見られない。奥で香織がコンピュータに向かっていた。
「先生、これ暫定のですけど。チェックしてもらえますか?」紗季が香織に数枚のプリントを差し出した。
「ん、もうできたの? 看板とか、内装のレイアウトは?」香織は受け取ったプリントに目を通しながら尋ねる。
「いえ、たぶんどちらも。ケンカしてるし」
「ケンカぁ?」
「ええ、まあ」紗季は苦笑して、七海を見た。「男子がサボってて、それを注意したら役割分担について文句まで言い出したんです。それでちょっといざこざが今……」
「あ、そ。それで手が止まってるわけね」
「ちゃんと作業してる子もいますからまったく何も、ということはありませんけど。でも少し遅れ気味ですね」
「ま、いいわ。冷蔵庫にアイスが入ってるから食べていいわよ」
「いいんですか?」
「うん。あんたはちゃんと仕事やってるみたいだから。あ、でもここで食べていきなさいよ、数は少ないから」
「はい。じゃあ、お言葉に甘えて」
紗季は給湯室の方へ歩いていった。
七海は来客用に置かれているソファに腰を下ろしてくつろぐことにする。テーブルを挟んだ向かい側に七海が先ほど作った資料を読みながら香織も座った。
「これ、ななが作った?」
「そうだよ」
「ま、そうよね。なんだ、ちゃんと仕事してんじゃない」感心をしているのかはわからないが、何度か頷きながらも資料をめくっていく香織。「ま、問題はなさそうね。少しだけコーヒーの仕入れ値が気になるけど」
「安いだろ?」
「安過ぎんのよ。私が飲むわけじゃないからいいけどさ」
「コーヒーの味がわかるやつなんて高校生にはいないさ」
「高校の文化祭なんだからさ、もうちょっとはかわいい考え方をしなさいよ」
「かわいい考え方って?」
「月にはうさぎがいてお餅を搗いているとか」
「あらかわいい。ばーか」
「んだとぅ、このくされ問題児が」
「ちょっと待て、俺のどこが問題児だ」
「欠席数、四十一日」
「う」
「早退数、三十八回」
「ぐ」
「遅刻数、百二十三回!」
「わお!」
「わお、じゃない! 二日に一回は遅刻してくるってどういうことだ! ええ? この数字のどれか一つでも持っていればそれだけで問題児だろうが! それをすべて手にするとはどこの三冠王だ! 馬鹿やろう!」
「まだ伸びる余地はあるけどな」
「伸ばすな!」
「だって、学校は嫌いなんだもん」
「かわいく言って誤魔化すな」
「何の話ですか?」紗季がモナカアイスを持って戻ってきた。
「こいつが問題児と呼ばれる要因」
「キリがないじゃないですか」的確すぎる一言で容赦なく切り捨てた紗季は七海の隣に座る。「半分個しよ、食べるでしょ?」
七海は頷いて、彼女からアイスを半分もらった。多少、霜がついていたが、この暑い日に食べるアイスはおいしかった。
ああ、帰って寝たい。
「いつまで作業するの?」七海は欠伸で出た涙を拭きながら香織に聞いた。
「特に決めてはないわよ? キリがついたら適当に……」
「……ついたよな?」七海はアイスを頬張り、彼女の持っている資料に視線を向ける。
「おいこら、問題児。たった数分、仕事らしいことを一つしただけじゃないの」
「もうやだ」
「ちょっと、かわいく駄々をこねないの。何も用事ないんだし、家にいたって暇なんだから、もう少し手伝いなさいよ」
家でだらだらするのが夏休みのような気がするが。たしかに香織に言われたように用事は何もないが、貴重な一日が潰れると思うと無性に悲しくなってくる。
しかし、七海が悲しくなろうが周りは関係ないようで、そのあとも劣悪な環境下での作業は二時間以上も続いた。作業の横で一部の男子と女子の言い争いがエスカレートしていたことも相まって、たった一日ではあるが非常に疲れた。
解放されたのは午後四時を大きく回ったところだった。
香織は何やら少し用事があるようで、夕飯の時間には作りに来てくれるとのこと。仕方なく、七海は紗季やバニラと一緒に自転車で帰ることにした。
「ねえ、ななはどうする?」自転車の鍵を外しながら紗季が尋ねてきた。
「何が?」七海はバニラの自転車の荷台にまたがる。
「発表会だよ」バニラが代わりに答えた。「今日の夜に同じ中学だった山村達が文化会館で演奏するって、招待状来ただろうが」
「そだっけ?」思い出せない。そもそも山村と言われてもぴんとこないのが正直なところだった。
校門をくぐり、桜の木々に囲まれた丘の坂道を下る。ステレオの蝉の鳴き声がとても鬱陶しい。太陽も西に傾きつつあるものの、それでもその暑さは衰えないでいる。
「もちろん、行くでしょ?」
もちろん、なのか。今の今までその発表会を知らなかった七海にとっては全然もちろんなんかではない。
「うーん」
「んだよ、行かねーのか?」わずかに顔をこちらに向けるバニラ。
「何か用事でもあるの?」
「いや、ないけど」
「じゃあ決まりね」
「何時から?」
「演奏は午後七時半からだったと思う」
「ふうん」
特に今日は見たいテレビ番組もなかったはずだし、毎度のことながらすることも何もなかったので、暇な夜を過ごすにはちょうどいいかもしれない。
貴重な夏休みの夜ではあるが、たまにならこういうのも悪くはないだろう。
自転車は産業道路から中道を抜け、小さな住宅街へと入った。オレンジ基調の家の前でバニラは自転車を止め、七海は降りた。紗季の家も七海の家の三軒隣なので、バニラとはここで別れることになる。
「夜になったら迎えに来るからな」
「うん、わかった」
「じゃあね、バニラ」
「んじゃ、夜に。起きてろよ、なな」
「はいはい」
七海はシャワーを浴びて着替えを済ますと、リビングのソファで一息をついていた。
時刻は午後五時ごろ。
何気にこの時間帯の睡魔が一番強いかもしれない。シャワーも浴びてすっきりしているからか、非常に気持ちよく眠れそうだ。
七海の目の前で、リップも気持ちよさそうに仰向けで眠っている。犬のくせに、器用なやつだ。
七海はガラステーブルに手を伸ばし、リモコンでテレビをつけた。
チャンネルを回す、という明らかに時代錯誤な昭和的比喩も何のその、面白そうな番組を目指してザッピングしていく。
しかしこの時間帯では何もやっていない。ほとんどがドラマの再放送で、それも主婦層が好きそうな内容のものばかり。自分の世代ではない俳優が演じているドラマを見るほど、気前のいい人間ではない七海はため息をついて、ローカルニュースに替えた。時期もあれか、水による事故や熱中症などの被害が多い。他にも火事や引ったくり、時効まで一週間の事件に強盗、さらには公務員の不祥事、果ては芸能界の麻薬汚染と、ネタは尽きない。
まったく嫌な世だ。
明るい話題はないのか、この時期は。
テレビの電源を落とし、近くにあった雑誌に手を伸ばす。
最近は至る所にオタク文化が入ってくるようになった。メイドから始まり、少年少女趣味、ネット用語とかも、今ではごくごく普通に繁栄を築いている。昔はもっと、アンダーグラウンドな感じだったが、この数年の加速度は異常と感じることもある。
……メイドさんかぁ。一人ぐらい欲しいなぁー……。
「まあ、母親みたいなメイドはいるんだけどな」
「誰がかわいいメイドよ」
「いや、誰もかわいいなんて……、ん?」
両手にビニル袋を持った香織がドアのところに立っていた。
「うおおっ」
「何驚いてんのよ」
「忍者みたいなやつだな」全然気づかなかった。
「あんた忍者を見たことあるの?」
「ない。若いからな」
「そうでしょうね。私も見たことないわ」
「…………」
「…………」
香織はものすごい眼で七海を睨みつける。
「な、なんだよ、何も言ってないだろ」
「少しはいい男になったのかしらね、あんたも」香織は鼻を鳴らし、キッチンの方へ歩いていく。「顔に出さなければ完璧だけど」
香織が見えなくなるのを確認してから、ため息をついた。
危ない。口に出してたら、間違いなく血を見てたな。
そのおかげなのか、眠気もどこかへ吹き飛んでしまった。
香織が夕食作りにキッチンへ向かったので、また七海は一人になり、暇になってしまった。暇だからと言って料理を手伝う気にもなれないし、料理のできない人間が手伝うこともないだろう。
時刻は六時ちょっと。七海は欠伸をして、リップを散歩に誘った。
近所をぐるりと回って、家に帰り、香織の作ってくれたごはんを食べて、リップにえさをやって、いつもとは少し違うけれどそれでも楽しい日常を消化していった。
これが幸せだった。
幸せを幸せだと感じることもないまま、このあと七海は浮世離れした、非現実的な世界に引きずり込まれることになる。
「くそ……¬¬」
七海は舌を鳴らし、ため息をつく。
そう、気づいたときには遅かった。
第2章 望まれない形の再会
特に会いたいと思ったことはなかった。
会えなくなるなんて思わなかったから。
1
「え、今夜これから?」
「そう」七海はうどんをすすりながら頷く。
「演奏って、何の?」
「さあ」
「はあ。よくあんたが行く気になんかなったわね」レタスを口に運びながら香織が意外そうに目を丸くして七海を見た。
「ん、バニラ達に誘われたんだよ」
「あ、そう。それでか」納得のいった表情で香織はマヨネーズを足した。
七海はもぐもぐと口を動かしながら、目の前のサラダうどんを見つめる。香織が作ったものだ。味は悪くない。でもこれは、手抜き、と呼ばれるような類の料理ではないか。
麺を茹でて生野菜乗っけただけだよな?
この程度ならば七海でも作れそうではあった。
初日からこれか。
七海は少し落胆する。
ここで張り切った料理でも作ってくれるのであれば、まだまだ香織もかわいいところがあるのだが、よくうちに入り浸っている彼女は普段からよく食事を作ってくれているので、どちらにせよ、新鮮味はない。
「で、何時からなの?」
「バニラが迎えに来るんだよ」
「いつごろ帰ってくるのよ?」
「わかんない。ていうか、そういう演奏ってどんなもんなの?」
「さあ。私だって、クラシックとかは全然だから」
「ま、そういうことだから、リップのこと頼むね」
「はいはい」
夕食を済ませ、後片付けなどをしていたときに、家のインターフォンが鳴った。
時計を見ると午後六時五十分。
「来たみたいね」
「んじゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
デザートを食べる時間もないまま、仕方なく嫌々玄関に向かう。
玄関には私服に着替えたバニラが立っていた。ポロシャツにハーフパンツというラフな格好だ。
「おし、行こうぜ。外で遊井川も待ってる」
「ゆいも?」
「そうだよ。何で? いちゃ悪いのか?」
「悪くはないけど」七海は靴を履いて、外に出る。「俺達とじゃなくて他の女友達と行くと思ってたから。ちょっと意外」
「文化会館はすぐそこだからな。家が近過ぎると一緒に行くってこともないんじゃねえの?」
「そんなもんか」
外は薄暗くなってきてはいるが、それでも暑かった。日が出ていない分、昼よりは涼しいが、一番暑い盛りと比べてもしょうがない。蝉の鳴き声はやわらかくなってきているから、そのせいで少し涼しいと感じるかもしれないが、それでも夏は夏だ。風もないので汗がにじみ出てきそうだった。
七海の家は玄関が二階にあたるので、外に出てから階段を下りる。外には髪を下ろした紗季が待っていた。
「それじゃ、混み始める前に行きましょ」
文化会館は駅の奥に位置しており、隣には保健センターや競艇場なんかもあるために駐車場所には困らないが、位置的に街の端にあるので車で行こうとすると道の細さも相まって混雑してしまう。最近は道路も補整されてきたので緩和されてきてはいるが、競艇のある日にはよく渋滞している。
「混むほどの規模なの?」七海は二人に尋ねた。
「まあ、私達みたいに家が近い人はあれだけど、そうじゃない人は車で送り迎えしてもらうだろうから、やっぱり混むと思うよ」
「規模自体は地元の学生の発表会だから、それほど大きいものじゃないと思うぜ。よくケーブルテレビで放送されてるような規模じゃねえかな」
地元のケーブルテレビではよく老人会のカラオケ大会や演舞大会の様子を日中延々と繰り返し放送している。それを考えるとやはり地元の人間だけが楽しむ規模ということだろうか。
「でもわざわざ文化会館を貸し切るわけだろ? 金とかも掛かるんじゃないのか?」
「どこの高校かは忘れたけど、そこの吹奏楽部か何かが全国のコンクールに出場するんで、その激励も兼ねて市が全面に協力してくれるみたいだな」
そんな話をしているうちに文化会館が見えてきた。七海達は人の群れに従って、建物の中に入った。
「受付とかあるの?」七海は紗季を見る。
「一応ね。チケットがないと入れないと思う」
「ないぞ、俺」
「だろうと思って、俺のを持ってきた」
バニラから一枚貰って奥へ進むと、会場の入り口のところで人が集まっていた。ブレザーの制服を着ている者もいれば、そうじゃないスーツを着ている者もいた。スーツを着ている方は七海達とは少し歳が離れているように見える。関係者だろうか。
しかし、どうも様子がおかしい。受付で列を作っているようにも、懐かしい顔に話を咲かせているようにも見えない。どこか慌ただしいような、そんな雰囲気だった。
「どうしたのかな?」紗季が首を傾げる。
「さあ」
「トラブルっぽいな。舞台ホールの扉が開かないとか?」
バニラは言いながら手前の扉に手を掛けた。しかし扉はすんなりと開いた。
「あれ? 開くな。じゃ、何で騒いでんだ?」
「私ちょっと聞いてくる」
紗季は入り口のところで集まって話し込んでいる連中に事情を聞きにいった。
「じゃ、俺はホールの方を見てくる」
バニラも扉を開けて行ってしまった。
何なんだろう。
壁につけられているデジタル時計は午後七時を回っていた。予定の開始時間まで三十分を切っていると見るのか、まだ時間があると見るのか。
近くに置かれていたパンフレットに手を伸ばす。簡易的なものだが、メンバーの紹介や、発表される曲目など記されている。
(1)オープニング(2)あいさつ(3)Eventually,I love you.(4)reason.(*)途中休憩(5)激励の言葉(6)Jump like to rabbit.(7)Ode to summer.(8)keen.(9)終わりのあいさつ
このプログラムによれば休憩も用意されているから、一時間か二時間くらいだろうか。英語で書かれてるのは、曲だろう。五曲だけ、というような気もしたが、吹奏楽で扱う曲の長さが七海にはイメージできない。一曲が十数分も掛かるのだろうか。
あとはパンフレットにメンバーの意気込みなども書かれていたが、特別読む気は起きなかった。持っていてもゴミになるので、パンフレットはそっと元の場所に戻しておいた。
落ち着かない様子で話している連中を遠目で観察していると、その中の一人と紗季が話しているのを見つけた。その顔には見覚えがあった。
同級生の仲村美羽だ。ブレザーを着ている。これから演奏をするメンバーの一人だろうか。
二人がこちらにやってきた。
「久しぶりだね、なな」
「うん、久しぶり」
久しぶりの再会だというのに、彼女の表情はどこか曇っていた。
「ねえ、美智子知らない?」
「え? みちこ?」
七海は首を傾げて、紗季を見た。
「笹岡美智子よ。美智子も吹奏楽部みたいなんだけど、まだ来てないんだって」
「まだ? だってもう七時だろ?」
それで慌ただしいのか。演奏することを考えるなら、遅刻、どころの騒ぎではない。
「美羽、美智子は?」
大きな声を張り上げながら、短髪の女の子が走ってきた。彼女もブレザーを着ている。
仲村は首を振った。
「あいつはどこ行ってんだよ」女の子は乱暴な口調で吐き捨てるように言うと、舌を鳴らした。
いくらイライラしているとはいえ、女の子の仕草ではない。短髪も、いわゆる女性のショートとは違って、男性的なそれに見えてくる。ある意味では七海よりも男らしかった。
七海が少々呆気にとられていると、その女の子と目が合った。
「ん?」女の子は訝しげに眉を顰めた。
何だろう。
ものすごくじっと見つめられる。思わず視線をそらした。
「誰、この子。美羽の知り合いか?」
「ななだよ。ほら、三咲七海」
仲村に説明された女の子は目を丸くして再度七海のことを見た。奇異なものを見る目だ、人のことを見るようなそれじゃない。
「……なっ、ま、まるで女の子じゃないか」
「え? あ、そっか。男の子だったっけ」驚いた表情で仲村が手を叩いた。「あれれ、女の子じゃなかったっけ?」
「男だよ」七海は小さくため息をついた。
今に始まったことではない。小さいころはそれこそこの名前のおかげで散々勘違いされてきたし、中学に入ってからもなかなか声変わりはしないし、したと思っても今の通り中間的なものだ。学生服のおかげでなんとかぎりぎり男として認められていたようなものだった。
名前と見た目が多少、わずかに女の子っぽいだけだと七海自身は思っているが、周りからすれば多少ではなかった。これも早苗の遺伝子が強過ぎるせいの他ならない。
「め、めちゃくちゃかわいいじゃん」女の子がため息をつく。
「ねー。私もそう思うもん。反則だよね、こんなの」なぜか頬を膨らませる仲村。
何なんだよ。
七海は助けを求めるようにして紗季を見た。彼女はわずかに肩を竦めるだけだった。
「ていうか、誰なの? この女の子」紗季にだけ聞こえるよう、小声で聞いた。
「山村玲子よ。覚えてない?」
「ああ、学校の帰りに言ってた山村ね。全然覚えてない。こんな子いたか?」
「クラスは違うわよ」
「じゃ、知らないんだ、そもそも」
「酷いわね」
奥でまたスーツ姿の男達が慌てた様子で走っていった。よほど切迫した状況なのだろうか。時計は七時半になろうとしていた。
「ああ、くそ、美智子はどこにいんのよ」山村が苛立たしげに声を上げた。
「私、もう一度外見てくる」仲村は中庭に出る通路を抜けていく。
「ったく、もう」
山村は大きくため息をつくと、七海と紗季に向き直り、苦笑混じりに口を開いた。
「本当はさ、懐かしいみんなと懐かしい話でもしながら騒ぎたかったんだけどな。なんか、ごめんな、せっかく聴きに来てくれたのに、慌ただしくて」
「何があったの?」七海だけが状況をあまり飲み込めていない。
「同じ吹奏楽部の美智子がまだ来てないんだよ。連絡が取れないんだ。リハんときは一緒だったんだけど、そのあと別れてから携帯にも自宅にも繋がらなくてさ」
「何かあったのかな」紗季が心配そうに、眉を顰めた。
「さあ、それはわかんないけど。ただ、時間や約束は必ず守る子だったけどな、美智子は。練習だって、遅刻なんか一度もないのは美智子くらいだしさ」
「事故に巻き込まれたとかは?」
「たぶん、それはない」山村は首を振った。「調べてもらってるけど、警察や消防の話だと県内で事故は起きてないって言うし、交通事故って可能性は低い」
「本番はいつから?」
「七時半。もう、過ぎてるな。プログラムの変更は仕方ないか」
通路の奥の部屋からスーツを着た若い男が小走りにやってきた。かなり若い。二十代だろうか。端麗な顔つきをしている。
「玲子ちゃん、美智子ちゃんと連絡は取れた?」男は落ち着いた口調で尋ねた。
「いえ」山村は下唇を噛んだまま首を振った。
「そうか。それじゃ、仕方ないね。プログラムを変更して、彼女のパートを抜きにしてやるか、順番を後ろに持っていくかしないと。とりあえず集まっているメンバーだけでも準備して」
「わかりました」
「美羽ちゃんは?」
「今外に探しに行きました」
「わかった。じゃ、彼女は僕が呼んでくるから。君は先に楽屋に行ってて」
「はい、わかりました」
男は頷くと、中庭の方へ走っていった。
「今のは?」
紗季が男の背中を目線で追いながら山村に尋ねた。
「私らのコーチさ。イケメンだろ? ああ見えて、冗談好きでさ、いっつも寒い冗談を振り撒いては私らの緊張をほぐしてくれたりするんだよ。ヴァイオリンなんかの腕でも超一流。いいよなぁ」目を細め、わずかに頬を緩ませて言う。「ここだけの話、みんな狙ってたりしてんだよな。あれほどのイケメンはなかなかいないしな」
「いけめん?」七海は首を捻った。
「何だ、相変わらず何も知らないんだな、お前。イケてるメンズの略だよ」そう言って、山村は七海を見て微笑む。「まあ、三咲の場合はイケメンとは言えないな。憎たらしいほどかわいいから」
イケてるメンズ……? 男達の? 男達の、何だというんだ?
「じゃあ、私はもう行くよ」山村は片手を上げる。
「美智子はいいの?」
「いいも何も、来てないんだ。これ以上、どうすることもできないだろう? 時間や約束は守る子だけど、気負うところもあったからな。緊張して逃げたのかもしれない」山村は無理に笑おうとして、顔を引きつらせた。「どんな事情があるにせよ、これ以上待たせるわけにもいかないしな。んじゃ、また終わったら話そう」
山村は片手を上げて、舞台ホールへとつながる廊下を歩いていった。
それを心配そうに見つめる紗季。
演奏するメンバーの一人がいない。そのことはホールの客席にいた他の連中にも伝わったみたいだった。七海達がホールに向かうと、そのことについてざわつきが起こっていた。
見慣れた顔がこちらに近づいてくる。
「笹岡が来ていないみたいだな」バニラは小声で言った。
「うん、そうみたい」紗季は小さく頷く。
「バニラは誰から聞いたの?」
「そこのところで岩下にあったんだよ」バニラは顎で客席を示した。そこには見知った顔が多数座って話している。「みんなに笹岡を見ていないか、聞いてまわってたからさ、少し話したんだ」
岩下多香子のことは覚えていた。中学三年のころ同じクラスだったし、少しきつい性格をしていて、彼女と何度か衝突したことがあったのでよく記憶に残っていた。
「大丈夫なのかな」
「さあ」
客席は前の方の半分が綺麗に埋め尽くされている。最前部には制服を着た者達が多い。恐らく山村達と同じ高校の生徒なのだろう。授業の一環なのか、全員がきちっと制服を着ている。その脇には教師らしき者も座っていた。
その後ろからは飛び飛びに私服の連中が座っている。こちらは同じ中学だった者らだろう、仲の良かった者同士で座っているという感じだ。
あとは父兄らしき人達もちらほらと見える。
ざわつきを見せていた会場も、ブザーが鳴り照明が落とされたことで静かになり、誰もがステージに注目した。
七海達も近くの席に並んで座った。
ステージの端にスポットライトが照らされ、そこにスーツ姿の男がマイクを持って現れた。
「大変長らくお待たせしました。それではこのたび激しい地区大会を勝ち抜き、見事、全国コンクールに出場が決定した、桜川南高校吹奏楽部のみなさんに演奏をしてもらいましょう。短いお時間ではございますが、どうか最後までご静聴ください。それでは、演奏の始まりです!」
司会の男が舞台をはけると、ステージ中央にスポットライトが集まり、ブレザーを着た女の子達が演奏を始めた。
小学校、中学校と音楽の成績はずっと悪かった七海としては彼女達が何の楽器を演奏しているのかわからない。ただ、今は管楽器を中心に演奏しているようだ。
ステージには弦楽器や太鼓らしき大きな打楽器なども置かれてはいるが、今はそれらのパートじゃないのか、誰もそれらの楽器にはついていない。
笹岡美智子がいないせいなのだろうか。
わずかに、本当にわずかだけだが、ステージが寂しい気がした。
周りの人間は演奏に聞き入っている。
七海は片肘をつきながら、笹岡美智子のことを思い出そうとした。
たぶん、同じクラスになったことはない。小学校は違うし、中学で初めて一緒になったくらいの関係だ。話したことも数える程度の女の子。こんなことでもなければ思い出すこともなかったような、そんな関係にしか過ぎない。
一曲目が終わると、周りからは溢れんばかりの拍手が起こった。
音楽を知らない者にでも感動を与えられるのが一流ならば、たしかに目の前の彼女達は全国に行くだけの、県の代表に選ばれるだけのことはある。めずらしく七海が寝ることはなかった。
最初は笹岡美智子が不在という噂を聞いてざわついていた者達も、目の前の演奏が素晴らしいがために今ではそんなこともすっかり忘れて手を叩いているのだろう。
七海の隣のバニラも素晴らしい演奏に拍手を送ってはいたが、紗季はどこかその表情に陰りがあった。
笹岡美智子、か。
何か、あったのか。
それとも、ただの遅刻なのか。
どちらにせよ、今、ステージ上に笹岡美智子の姿はない。
そしてそれは最後まで変わらなかった。
ついに、このステージに全員が集まることはなかった。
2
二時間ほどの演奏が終わると、歓声に包まれたまま、発表会は終了となった。そのあとは市長やPTAの役員、学校長からの激励が演奏を終えた彼女達に送られた。
多少のプログラム変更はあったものの激励会も終わりを向かえ、家路につく者達が会場をあとにする。残っているのは吹奏楽部とその同級生ぐらいだ。懐かしい顔ぶれなのでまだ少し話しているようだ。
七海達も玄関ロビーの自動販売機の前で山村達を待っていた。
「結局、最後まで美智子来なかったね」缶ジュースの紅茶を開けながら紗季が言った。
「でも事故は起きてないんだし、そんなに心配することか? 演奏だって笹岡がいなくてもあんなにすごかったじゃん。なあ?」バニラは缶コーヒーを買うための小銭を出しながら七海を見た。
「ん? ああ、家で寝てたんじゃないの?」七海はコーヒーを一口飲んだ。
「でもリハーサルまでは一緒だったって。それに美智子よ? あの子が何の連絡もしないなんて、考えられないわよ」
「うーん、そうかなぁ」バニラは腕を組んで難しそうな表情を浮かべる。「ななはどう思う?」
「別に何も。そもそも、笹岡とそれほど親しかったという記憶がないし、その子がどういう子なのかもぼんやりとしてる。同じクラスになったことあったかな」
「ないな。俺とお前は三年間ずっと一緒だったろ。俺は笹岡と同じクラスになったことがないから、お前も一緒になったことはないよ」
「だよね」
「だとしても同じ中学の同級生よ? 少しは心配しなさいよ」
「と言われてもなぁ」バニラは近くのベンチに腰を掛けた。「どこかの誰かのせいで、遅刻やサボりに関して心配をするという行為に疎くなってるからな」そう言ってちらりと七海のことを見る。
「美智子はななと違って真面目なのよ」
せっかくバニラがオブラートに包んで誰なのか明言を避けてくれたというのに、紗季の見事な切り口が七海の心に染みわたる。
「何がそんなに心配なの?」七海は空き缶をゴミ箱に捨てて、紗季を見た。
「美智子は何も連絡せずに休むような子じゃないのよ。何かあったのよ、きっと」
何か、か。
紗季がここまで心配するのもめずらしいことだ。滅多なことではここまで心配しない。逆に言えば、それだけ笹岡美智子の無断欠席が異常なのだろう。
たしかに、普段の学校を休むのとはわけが違う。今日の場合はコンクールへ向けての発表を兼ねた、市を挙げての激励会だ。特に真面目な人間でなくともサボったりはしないだろう。しかも笹岡は特に真面目だという。
加えて直前のリハーサルには顔を出していたという。不可解と言えば不可解ではある。
紗季が心配になるのも頷けるか。
七海はため息をついて、携帯で時間を確認した。午後九時になろうとしている。香織はまだ家にいるのだろうか。ため息をもう一つだけ重ねた。
見知った同級生達が帰っていく際、ほんの少し、社交辞令に近い会話をした。いつか同窓会をやろうとか、そんな軽い内容だった。一部の人間は笹岡のことについて心配をしているみたいだったが、それほど重く思っているわけではなく、いなかったけどどうしたんだろうね、程度のものだ。紗季ほど真剣に心配している人はいなかった。
「私が心配し過ぎなのかなぁ」
「そうだよ。事故も起きてないし、病院に笹岡が搬送されたって記録もないし。大丈夫だよ」バニラは微笑んだ。
「そうね、そうよね」紗季もちょっぴり笑顔になった。
廊下の奥から大きな荷物を持った四人の女の子達が歩いてきた。
「おーい、お待たせ」山村は楽器のケースとかばんを両手に持っている。今は制服のブレザーではなく、プリントTシャツにキュロットと私服姿だった。「メシでも食いに行こうぜ」
山村のほかには、仲村や目つきの鋭い岩下、そして杵島栞がいた。それぞれが楽器を持っている。全員私服に着替えていたようだ。
さっきは会わなかった岩下や杵島と軽く挨拶を交わし、互いの近況を聞き合ったりした。二人とは中学三年のとき同じクラスだったので杵島とは普通に話せるが、岩下とは複数回衝突があったためにその後遺症なのか、話すだけでわずかに緊張してしまう七海だった。
それにどこか、岩下がイライラしているように見えた。
山村達は学校関係者のバンに自分達の楽器を乗せると、裏の駐輪場まで自転車を取りにいった。彼女達が来るのを待って、一緒に近くのファミレスへと自転車を走らせる。
午後九時を回っているというのに、店内は割りと混んでいた。八人がまとまって座れるか心配だったが、禁煙席ならば大丈夫とのことで、機械的な笑みを振りまくウェイトレスに席を案内された。
全員がドリンクバー、あとは個別に料理を注文する。七海達三人は夕食を済ませていたのでデザートを頼んだ。
とりあえず、ソフトドリンクで乾杯した。
「おつかれー。演奏、すっごくよかったわよ」
「ありがとよ。でもやっぱり大きなホールでやるのは結構緊張するもんだな。人もかなり入ってたし」山村は苦笑して首を振った。「あれじゃあ入賞は出来ないな」
「そうなのか? すごかったと思うけど」バニラも賞賛を送る。
「全然よ」ため息混じりに岩下が言った。「まるで話にならないわ、あんなもの」
不機嫌そうな岩下に、周りの空気も重くなる。相当怒っているようだが、何に彼女が怒っているのかはわからない。
「まるでって……」
岩下の怒気に紗季も思わず声を小さくする。
「何がいけなかったんだよ?」バニラが尋ねた。
「何が?」
岩下はバニラを睨みつける。
「あなた、ケンカ売ってるわけ?」
「ちょ、ちょっと。タカちゃん落ち着いて」杵島がなだめるように間に入った。
「何がダメだったんだよ? そりゃあ俺達はお前らから見たら素人だろうけどさ、それでも結構感動したんだよ。なのに何でそんなにイラついてんだよ?」バニラも引き下がらないで言う。
「お前も落ち着け」これ以上話がこじれると迷惑なので、七海も間に入ることにした。
「でも」
「いいから」七海は小声で続ける。「笹岡のことだよ、きっと」
「あ……」
険悪な雰囲気になってしまった。その雰囲気を作っているのは他でもない岩下ではあるが、岩下の苛立ちの要因は笹岡のすっぽ抜かしにある。
たしかに本番を控えた状況で、しかも市を挙げた激励会での無断欠席だ。岩下が怒るのも理解できる。しかし、理解はできるが、だけどそう、八つ当たりされても困るわけだ。
岩下は気が強い。そしてバニラも弱くはなく、互いに引かないので第三者がそれを止める必要がある。特に互いに落ち度、引け目がなければなおさらだ。
すべての原因は笹岡美智子にある。
どうして自分までそれに巻き込まれるんだろう。帰りたい七海だった。
「まったく、何様のつもりなのかしら、笹岡は」まだ岩下の怒りは収まる気配がない。苛立たしげに、吐き捨てた。
「まあまあ。みっちゃんにも何か用事があったんだよ」
岩下をなだめるように杵島がやさしく、場を和ませようと明るく言った。
「どんな用事よ!」
ばんっ、とテーブルを叩いた。周囲の客も一瞬だけこちらに振り返る。しかし岩下はそんなことにも構わず、声を荒げた。
「ちょっと多香子、落ち着いてよ」仲村も周りを気にして小声でなだめる。
「落ち着く? よくそんなことが言えるわね。笹岡のせいで無茶苦茶にされたのよ? 全国を控えた一番大事な時期に!」
「たしかにな」山村が静かに言った。
「ちょ、玲子まで何を」
「美智子に台無しにされたのは事実だ。今日は何とか誤魔化せたけど、本番じゃあそうもいかない。一番大事な時期に、一番迷惑なことをされた事実は消えないさ。正直、私だって我慢できる範疇を超えている」
「そんな……、美智子はそんな……」
仲村が何かを言いかけたが、山村と岩下の二人に睨まれて途中で口を噤んでしまった。
「どんな理由があるにせよ、美智子がやったことは許されることじゃない」
「ちょっと待ってよ、事情もわからないのにそれはあまりにも」紗季も感情的になって口を挟む。
「外野は黙ってて!」岩下は紗季を睨みつけて、そう叫んだ。
「外野って、俺達はなぁ!」バニラも声を上げる。
「外野は外野じゃないの! 私達が全国に出るためにどれほど努力してきたか、どれほどのものを犠牲にしてきたのか、あなた達にわかるって言うの? それでやっと掴んだ全国なのに、それなのに、それなのに……!」岩下は涙を溜めながら叫ぶ。
「…………」
「私は許さない! 絶対に笹岡を許さない!」
「多香子……」
「この手で殺してやりたいぐらいよ!」
その場にいた誰もが、岩下のその言葉にはぎょっとした。
「え」
全員が唖然とした表情で岩下を見る。
殺す?
そこまでのことなのか?
どこまで熱心に打ち込んでいたのかは知らないけど……。
岩下は下唇を噛みながら、大きな涙を落とした。
「……多香子、ちょっと落ち着きなさいよ」
「私は、……許さないから、絶対に……!」
仲村の制止を振り切って吐き捨てるように言うと、岩下は涙を流しながら店を飛び出していった。
杵島が止めようとあとを追ったが、岩下は帰ってこなかった。
岩下の言葉がまだ処理できないときに、ウェイトレスが静かに料理を運んできた。
しかし、しばらくは誰も手をつけなかった。
3
注文した料理を食べると、山村と杵島も帰っていった。気のやさしい杵島はせっかくの再会が台無しになったことを詫び、山村も沈んだ表情で頭を下げていた。
ファミレスには四人が残っている。店内の客も減りつつあった。
時刻は午後十時になり、香織から帰りはいつになるのかという内容のメールが届いた。わからない、とだけ返信しておいた。
「多香子も、悪気はないと思うんだ……」呟くように、仲村が俯き加減に口を開く。「あの子、大きい大会とかだと人よりも気負うところがあってさ、今日も本番前には一人トイレに閉じこもってたりするような、そういう子なの」
誰が何を言うわけでもなく、ただ静かに仲村の話を聞いた。
「玲子もさ、一応あの子、私達のリーダーだからさ。何とか少しでもいい演奏ができるようにすごく努力してくれてるの。本人は恥ずかしがってそういうの見せないけど」
「だから、無断で休んだ笹岡美智子が許せないのか?」バニラが先回りして尋ねた。
「たぶんね」仲村は頷く。「美智子がいなかったことで、プログラムも変更しなきゃいけなかったから。最後の二曲は本当なら最初に持ってくるはずだったんだけど。悪気はないと思うの、多香子も玲子も。いい演奏をしたい気持ちが先行して……」
「でも、普通なら心配するでしょう? 美智子よ? あの美智子が何の連絡もなしで休むはずがないじゃない」紗季が言った。
「うん。美智子ってすっごく真面目で、一度も約束を破ったことがないの」
笹岡のことを特に心配していたのは仲村と紗季の二人だ。この二人はずっとそのことを心配している。
「そんな子がさ、こんな大事な日に遅れると思う? リハまではいたのに、本番でいなくなると思う?」
「何か事故に巻き込まれた、と?」今度は七海が聞いた。
「わからない」仲村は首を振る。
「じゃあ……」
「私の思い過ごしならいいんだけどね。ただ玲子も多香子も短気だからさ、美智子が来なかったことで怒ってるんだ。だから、心配までできてないんだよ。冷静に考えると、あの真面目な美智子が何の連絡もなしってのは絶対におかしい」
仲村は呟くように繰り返した。
「思い過ごしならいいけど……」
めんどくさいことに巻き込まれたと後悔しても遅い。
仲村や紗季の希望で、七海達は笹岡が住んでいるマンションへと向かうことになった。そこは市内でも割と小さめのマンションではあるが、セキュリティが他のところと比べて高く、値段も手ごろということで一人暮らしの女性や学生の需要が高い。
仲村達の話によると、笹岡はそのマンションで一人暮らしをしているらしい。
高校生で一人暮らしか。一人暮らしをしている同級生はいくらでもいるが、それは地元を離れて都心の学校に通っているからであり、同じ中学出身の笹岡がわざわざ市内で一人暮らしをしていることには少し違和感を覚えた。家庭の事情だろうか。
「ここに住んでるのか?」
バニラが建物を見上げながら仲村に尋ねた。
「そ。三階の部屋に一人暮らししてるの」
マンションの玄関口は自動ドアだが、センサーは内側にしかないようだ。入り口の脇にタッチパネルが設置されている。部屋の人にコールして開けてもらうか、鍵を使わない限り、こちらからは中へ入れない仕組みだ。
ふと見上げると、天井に防犯カメラが一台設置されていた。ドアのところを正面から映している。動きが見られないため、固定タイプだということがわかる。
仲村は笹岡のルームナンバーを入力して呼び出すが、応答はない。当然ながら鍵は持っていないので、これで入る方法は閉ざされたことになる。
しかしそのとき、中から派手な服装の女性が出てきた。ブランド物のバッグを左手にぶら下げ、表面積が少なく薄い生地でできた服を着て、異常に濃いメイク。何かと目立つ女性だ。服も、顔も、品のない派手さだった。
香水のきつい臭いが鼻を衝く。
行ったことはないが、キャバクラ嬢を連想させた。
「ほら、行くよ」気づけば仲村がドアの向こう側にいて手招きしている。
たしかに、出てくる人とタイミングが合えば中に入ることは可能だけど、これって不法侵入にならないのかな。あとで問題になったりしないだろうか。
そんな七海の思考も虚しく、紗季とバニラも奥へと進んでいってしまう。
応答がなかったことから、笹岡が部屋にいないことはわかったはずだが。何を考えてるのだろうか。暑さのために正常な思考が追いついていないのか。
七海はため息を一つ吐き、通路の右側にあるエレベータに乗り込んだ。
三階に着き、笹岡の三〇三号室を目指して歩く。
この階上はとても静かだった。どこからも生活音が漏れてこない。防音設計が優れているのか、それともただ誰もいないだけなのか。外の虫の音しか今は聞こえてこなかった。
三〇三号室の部屋の前に立つが、部屋の中から音は何も聞こえてこない。仲村が呼び鈴を押すが、人が出てくるような気配もなかった。
「やっぱ留守なんだろ。何か急用でもできたんだよ、きっと」七海は欠伸を噛みながら言った。
「うん、そうね、帰ろうか。きっと用事だったのね」仲村は肩を竦めて微笑んだ。
そのとき、仲村が何気なく触ったドアノブは、しかしすんなりと扉を開けた。
「あれ、開いてる……?」
仲村はドアノブに手を掛けた状態で、七海達の顔を見る。そして彼女は顔だけを入れ、中の様子を見た。
「美智子? いるの?」
ドアを開けて、中に入っていった。
七海とバニラは互いに顔を見合って、不思議そうに首を傾げた。
玄関の近くに明かりのスイッチがあったのか、仲村はそれを押した。二~三秒後に室内に明かりが灯る。
「ひっ……!」
明かりがつくのとほぼ同時に、部屋の中から小さな悲鳴が聞こえた。
「仲村?」
七海が室内に足を踏み入れたときに、鼻を衝く臭いを感じた。先ほどの香水とは明らかに異なるものだ。むせ返るような、そんな臭い。アーモンドに似た臭いもある。
気のせいじゃない。眠気も醒める。
「なな? どうしたの?」紗季が心配そうに顔を覗かせた。
「中に入るな。外で待ってろ」
「え、う、うん」
部屋はワンルーム。
玄関から少し先の右手に部屋が見える。
そのおかげで、玄関からは部屋は見えないで済む。結果、玄関に入った紗季も見ないで済んだわけだ。
仲村は床に腰を下ろして、口元を両手で押さえてる。
その目は見開かれ、恐怖を映し出している。
視線の先には、人間などいない。
無論、鬼やお化けの類などもいない。
部屋の中央に、それは仰向けで倒れていた。
それは、人間でもないし、マネキンのような人形でもない。
アーモンド臭がする。
部屋の奥に行くと、その臭いは強まる。
綺麗な部屋の中で、それは横たわっている。
仲村は目に涙を溜めて、体を震わせている。
「あ、あ……、ああ、な、ん…、で? ……い、やぁ、うぅ、そんなぁ…………、み…、……ち、こ………?」
仲村は首を振るが、焦点はそれからずれない。
異常だ。
それは、人間ではない。
それは、人形でもない。
目の前に繰り広げられた惨状。
思考が止まったかのように、何もできない。
ただ立ち尽くすだけ。
俺は何を見ている?
これは、現実なのか?
七海は思わず顔を顰める。
部屋の中央に、それはある。
目を閉じても、目を逸らしても、それが消えることはない。
人形なんかではない。
人間なんかでもない。
異常。
それは、
ただの、
有機物だ。
そう、ただの有機物。
それは、
人形でもなく、
人間でもない。
それはかつて、
笹岡美智子と呼ばれていた、
今はただの有機物だった。
5
「とりあえず、出よう」
いつまでもこの空間にいたくはない。
このままいたらおかしくなりそうだ。
しかし仲村は動かない。
声にならない嗚咽を繰り返し、震えている。
それでもなお、それを見つめている。
笹岡美智子だったものを。
くそ。
七海は仲村の腕を取り、外へ連れ出した。
「ど、どうしたの?」
「警察へ連絡しろ」
「え? け、警察?」
「いいから早くしろ!」
紗季は怯えた表情で頷くと、すぐに携帯を取り出して警察へ通報した。
詳しい状況を求められ、七海は彼女に代わって人が死んでいることを小声で伝えた。
警察を出迎えるために、紗季にはマンションの外に行ってもらった。
くそ。
ゆいに当たってもどうしようもないのに。
まったく、自分が嫌になる。
「何があった?」バニラが腕を組んで七海を見る。
「死んでるんだよ」
「死んでるって……、笹岡が?」
「たぶんな」
仲村は真っ青な顔をして、その場に座り込んでいる。口元を手で押さえ、震えていた。
「ああ、ひっ、ひ、はぁっ、あ……、はっ、……は」
七海は仲村の口元を手で押さえる。
「落ち着いて。パニックで過呼吸になってるんだ。自分の息を吸えば楽になるから」
仲村は、七海の手を強く握る。
何度か頷きながら、深く呼吸を繰り返した。
「大丈夫?」
仲村はゆっくりではあるものの、深呼吸をしたあと、なんとか頷いた。まだ七海の手を握っている。
「……あ、あれ、し、うう、死んでたの?」まだ表情が朧のまま、仲村が尋ねてくる。
わからないはずがない。
たとえ死んだ人間を見たことがないとしても。
あれは、異常だ。
あんなものが、生きてる人間に見えるはずがない。
「ど、どうして……? な…んで、み、みち、……が、死んで? どうして、し、死んで、るの……?」
「なぜかはわからない」
「自殺? それとも、誰かに殺されたの?」
少しヒステリックな声だった。
今にも泣き崩れそうな感じである。
「さあ」
「どうして……、どうして……!」
「さあ」
「……なんで、美智子がっ……。うあ、……うぅ、どうして、どうして、どうして美智子がぁ!」
ぼろぼろと大粒の涙を落としながら、七海の服を引っ張っては泣き叫ぶ。嗚咽を繰り返すと、仲村はその場に崩れ落ちた。
仲村もそうだが、岩下もそうだ。
女の涙には弱いとか、そんな歯が浮くようなことを言うつもりはないが、それでもできることならば、欠伸以外のそれは見たくはない。誰のものでも、見たくはない。
七海は舌を鳴らした。
屈んでいる仲村に近づき、背中をさすった。
「体は? おかしなところはない?」
「……気持ちが悪い」
「そこの階段に踊り場がある。少し風に当たった方がいい」
七海が言うと、バニラが頷いて仲村を踊り場へと連れていった。
七海は舌を打ち、ため息をついて壁にもたれた。
「……くそ」
夏休みだっていうのに。
七海はもう一度舌を鳴らした。
ため息をつき、夜の空を仰ぐ。
綺麗な月が浮かんでいた。
なんでこんな日に。
七海は振り返って笹岡の部屋のドアを見つめる。
マンションの玄関には防犯カメラもあったし、七海達がやってないということはすぐに証明できるだろう。
眠いし、早く帰りたい。
しばらくするとサイレンの音が聞こえ、そしてそれはすぐ近くで消えた。
制服の警官が二人、紗季の案内でやってきた。二人の警官は七海の方に歩み寄ってくる。
「どうしましたか?」
「手帳を」
「あ、失礼しました。本物です」二人は慌てて、警察手帳を取り出して、七海に見せた。
「どうも」手帳を確認し、七海は頷いた。「女性が中で死んでいます。刑事部の人間に連絡をしてください」
二人は顔を顰め、怪訝そうに俺を睨む。
やがて背の低い年配が顎で指示をし、若い警官が中に入っていった。
すぐに「うわぁっ」という情けない声が聞こえてくる。その情けない声を聞いた年配の警官は、腰に携帯していた無線機で応援を呼んだ。
「ちょっと、死んでるって……」紗季が口に手をやりながら、尋ねてくる。
七海は何も言わずに、空を見上げる。先ほどまで綺麗に出ていた月も、今は厚く張った雲で隠れて見えなかった。
紗季が心配そうな、不安そうな表情で見ていた。
どんな言葉を掛けていいのか、どんな表情をしたらいいのか、どうすればいいのか、七海にはわからなかった。彼女の視線を受け止めることはできなかった。
まったくマジで。
「……ったく、嫌な日だ」
6
事態が事態なので、当然のことながら七海達は最寄りの警察署まで同行を求められた。別に断ってもよかったのだが、それならそれでめんどくさいことになると思い、重い足取りで素直についていった。
聴取はすぐに終わった。
そのあとは署内のソファに座って七海はコーヒーを飲んでいた。コーヒーというのは名ばかりの、ただの黒い液体を飲みながらみんなを待っている。
それぞれ別の人間に聴取を受けているからか、それとも時間のためなのか、警察署に人は少ない。奥のデスクで何かを書いている男性職員以外は、今のところ見当たらない。
年期の入ったアナログの壁掛け時計は真上に向かってがんばって針を進めていた。
まったく、ふざけている。
どうしてこんな時間にこんな場所でこんなことをしてるんだ。
七海は欠伸を噛み殺し、ソファに体を預けた。
聴取と言っても、状況を知っているのは七海と仲村だけで、他の二人はほとんど何も把握していない。それに仲村も、先ほどの様子を見るかぎりではかなり精神的にまいっている。まともな聴取は無理だろう。
七海にしてみても笹岡の死体を見ただけだ。それ以外はほとんど何もわからない。
「…………」
先ほど見た惨状がフラッシュバックするように、脳裏によぎる。
死体。
全裸。
アーモンド臭。
オレンジジュース。
コップ。
カード。
「くそ」
七海は舌を打って黒い液体に視線を落とす。まずいのは豆のせいだけじゃないだろう。半分ほどそれを消化したところで、諦めてテーブルにカップを置いた。
吐き気はない。
特におかしいところもない。
七海はシニカルに笑う。
同級生が死んで、それを見つけて、それでもおかしいところがない。嫌になる。
これが人間か?
それとも自分がおかしいのか?
悲しいという感情も今はない。実感が沸かない、と言えば綺麗に聞こえる。だけど、関係の薄い人間が死んだところで……。
だめだ、やめよう。
変なことばかり考えてしまう。
七海は頭を振って考えを飛ばした。
結局、今の状態では聴取は不可能と判断されたのだろう、しばらくすると三人が奥から戻ってきた。表情は当然のことながら暗い。誰もが俯くように下を向いている。
「連絡は取れた?」七海は紗季に尋ねた。
「うん。すぐに来てくれるみたい」
「そう。ならすぐに帰れるな」
彼女の母親は愛知県警の刑事で、それも県警内ではかなりの地位にいる。紗季の母親が来てくれるのであれば、すぐに解放されるだろうし、今後の煩わしい聴取も彼女を通せばそれで済むはずだ。
待っている間、誰も口を利かなかった。全員、沈んだ表情をしている。特に仲村と紗季が酷い。仲村の目と頬は濡れていて、特に目が赤く腫れていた。友人の死を目の当たりにしたら仕方がないのかもしれない。
笹岡美智子。
自殺か、それとも他殺か。
……十中八九、他殺だろうな。それも顔見知りの犯行だ。
あのマンションのセキュリティは高い。マンションの住民か、もしくは笹岡と知り合いでなければ犯行は難しい。それにマンションの内部での犯行だ、通り魔とは考えにくい。
殺される理由。
笹岡に非常に近い人物が一番怪しい。
吹奏楽部か、同じ高校の人間か、もしくは家族か。
いずれにしても穏やかな話ではない。このまま終わるわけでもないだろう、まだ何かある。何もなければそれに越したことはないのだが……。
とりあえず、帰って寝たかった。
残っていたコーヒーをのどに流し込んだとき、年配の刑事に案内されながらスーツをびしっと着こなした女性がヒールを鳴らして歩いてきた。彼女は所轄の刑事達に何かを話すと、七海達のソファまでやってきて一度頷く。
「今日は帰っても大丈夫ですよ、時間も遅いですしね。仲村さんは刑事に家まで送らせますけど、大丈夫ですか?」
「……あ、はい」力なく仲村は頷いた。
「では彼について行ってください」
「……はい」
小さく頷くと、仲村は所轄の刑事について署をあとにした。
それを見届けると、女性はこちらに向き直る。紗季の母親、遊井川千代刑事だ。
「大変なことに巻き込まれたわね、あなた達も」遊井川千代が肩を竦めると口調を変えて言った。「大丈夫?」
「お母さん」
「とりあえず、今日は帰って休みなさい」
遊井川は自分の娘を撫でてから、安心させるように微笑んだ。そしてこちらに向き直り、七海達の顔を見る。
「うん、あなた達は割りと大丈夫そうね。必要ならば車で送るけど?」
「あ、俺は大丈夫です」バニラが片手を上げて短く答えた。「家も近いですし」
「そう。あなたがバニラくんね。この子からよく話を聞いてるわよ。理系で首席らしいわね?」
「ええ、まあ」
「それじゃあ、また後日同じ内容でも刑事が訪ねに行くと思うけど、あまり邪険にしないでね」最後はかわいらしく遊井川は微笑んだ。
「わかりました」
紗季は先に外に出て行った。
七海も帰ろうと正面玄関に向かおうとしたとき、遊井川に呼び止められた。
「七海ちゃんが第一発見者?」
「厳密には違いますけど。グループ単位でのことでしたら、そうなりますね」
髪は短いが、やはり紗季と似ている。親子だから当たり前ではあるが。まだ若々しい。スーツ姿も良く映えていて、カッコイイと思わせる女性だ。
「死体、見た?」
「ええ」
「何か気づいたことは?」
「シアン化合物とか」
「シアン? ああ、青酸ね?」
「死因に関係しているかどうかはわかりませんけど」
「ううん、充分よ。他には?」
「全裸でしたね」
「何も着てなかったの?」
「ええ」
「周りには?」
「いえ。強姦目的の犯行ではないでしょうね」
「なるほど、それは妙ね」遊井川は顎に手をやって考え込む。「他に何か変わったところはない?」
「ジョーカー」
「え?」
「トランプのカード、ジョーカーを握ってましたよ」
「ジョーカー……」
欠伸が出た。眠気眼をこする。
「眠いんですけど、もう帰っても?」
「送ってくわ。それにしてもよく冷静に観察できたわね」
「一度見ただけですけどね」
「相変わらずね、あなたも」
「変ですかね、僕」
「少なくとも警察は助かるわ」
「んじゃ、今度そのお礼にケーキでも、このかわいい高校生に買ってやってください」
「ふふふ。ほんと、そっくりね、あなた達は」
7
「七海!」
玄関に入るなり怒鳴られた。
見ると、香織はめちゃくちゃ怒っている。
「怒るなよ」
「怒ってないわよ、心配してたの! ったく、警察からある程度の事情は聞いてるけど、大丈夫なの?」
「ん、まあ」
七海は曖昧に頷いて、リビングへと移った。
ソファに体重を預けると深くため息をついた。
家に帰ったことで急に疲れが押し寄せてくる。今日一日でどれだけのため息をついただろう。それを考えてもう一つ重ねた。気づけばため息しか出てこない、非常に体がだるい。
「大丈夫なの?」
「うん、俺はね。ゆい達が酷く落ち込んでいたけど」
「仕方がないわよ、友達がそんなことになったら」
まったく。思いのほか、状況は悪い。
被害者である笹岡美智子の行動範囲にもよるが、吹奏楽部のメンバーに加えて、七海達も容疑者になりかねない。そういう意味でも遊井川千代が県警の刑事で助かったと言える。
しかし、発見当時の状況を知るのは仲村美羽と七海だけであり、警察も当然ながら二人から詳しく話を聞きたがるだろう。それが非常に面倒だ。考えるだけで億劫だった。
せっかくの夏休みが、これで無駄になる。これが学期中なら、学校を休む理由になるのに。タイミングが悪過ぎる。
頭を振って、くだらないことは考えないようにした。
笹岡美智子が殺された。
それがまだうまく処理できないでいる。
「七海? ほんとに大丈夫なの?」
「……大丈夫だよ。ただ、こういう面倒なことに巻き込まれる自分の不運が鬱陶しく思うだけ。あとは、眠気が強くあるってことくらいだ」
「そう。ならいいんだけどね」
「めずらしく心配してくれるんだな」
「私はいつも心配してるわよ。あんた、早苗の子なんだもの」
酷い言われようだ。
だが、おかげで少しだけ気が落ち着いた。
そういう意味では、やはり付き合いの長い香織には敵わない。
「とりあえず、シャワー浴びたら今日はもう寝なさい」
「うん」
「今夜は泊まってくから」
「わかった。おやすみ」
「おやすみ」
七海は三階のバスルームへ向かう。
何も考えずにシャワーを浴びて体を洗った。
湯船に浸かり、目を閉じる。
なるほど。
普通の生活があれほど贅沢なものだったとはな。こうした変な事件に巻き込まれてからそれに気づくとは、相当に頭が悪い。
浴槽のお湯を抜き、体を拭いて風呂から出た。歯を磨き、パジャマに着替えて、大人しく寝ることにした。
さすがに今日は疲れた。
ガラス張りのサンルーフを見上げると星は出ているのだろうが、そんなものを見たところで何かが変わるわけじゃない。景色も設計も無気力のおかげで台無しだ。
ん。
暗い部屋の中、チカチカと何かが光っていた。七海は目を細めながらそちらに近づく。携帯だった。留守電が入っている。
一件。
内容はどうでもいいラヴコールだった。
ああ、もう。
七海はくすっと笑ってベッドに横になった。
くだらない。
本当にやるからくだらない。
だけど、そのおかげで少し楽になった。
なんとなく、気持ちが楽になったように思う。
不思議なものだ。
今までなら、なんでもないようなことなのに。
「寝よ」
眠たかったが、そう簡単に寝れるとも思ってなかった。
が、睡魔というものは天衣無縫の強さを発揮する。
あんなことがあったのに。
睡魔にはいつも勝てない。
目を閉じると、深く沈み込むような感覚に襲われた。
寝ているときだけは、嫌なことを忘れられる。
まったくもって、嫌な一日ではあったけど、それでもこれで終わりだ。
とりあえず、今日は終わる。
終わらせることができる。
明日が始まることを考えずに、ただ、ただただ、七海は眠りについた。
せめて、夢だけは。
せめて眠っている間の夢くらいは、いいものを見たい。
誰に願うわけでもないけれど。
七海はそう思った。
今はもう、何も考えたくはなかった。
第3章 止まらない不思議の連鎖
あなた達では止めることはできない。
止める意味を持たない者には、特に。
1
寝不足な星川真琴は、目を擦りながら捜査会議に出ていた。
星川は愛知県警の刑事であり、遊井川千代警視の直属の部下になる。階級は警部。ノンキャリア、しかも三十歳という若さで警部にまで上り詰めた男だ。県警一の優秀な刑事でもある。
県警は別件を取り扱っているので、所轄の捜査員ばかりである。この女子高生が変死体として見つかった事件は、主に星川の指揮で捜査することになっていた。遊井川が手を回していたのだ。仕事の速さに、星川は素直に感心をする。
ひと通りの会議は終わり、捜査員は現場なり聞き込みなりへと向かって行った。
検視結果は薬物死が濃厚だが、解剖は今日の午後からなので詳しくはわかっていない。
ただ、遊井川が青酸化合物の可能性があると言っていた。鑑識課の話でも、アーモンド臭が微かに残っていたとのことだった。死因のそれは揺るがないだろう。
容疑者らしい容疑者が挙がっていないのは捜査が始まって間もないので仕方がないとして、問題は別にあった。
被害者が全裸だったこと。
被害者の手にトランプのカードである、ジョーカーが握られていたこと。
以上の主に二つだ。
夏だということもあり、暑かったのかもしれないが、全裸は異常に思われた。思われたといっても、疑問に感じたのは星川だけだったのだが。
風呂上りだったのかもしれない、それが所轄の年配刑事の意見だった。
現場にはグラスが落ちており、それから被害者の指紋と唾液が検出されている。室内に、中身が残っているオレンジジュースのペットボトルもあったことから、それを飲んだと見られている。グラスからもオレンジジュースが同様に検出された。
死因の薬物死、というのはここからきている。ペットボトル、グラスの両方から薬物反応、特に青酸反応が見られた。
つまり所轄の捜査員は、風呂上りに飲んだオレンジジュースに何者かによって毒物が混入されており、気づかずに飲んだ被害者は裸のまま息絶えた、と考えているみたいだ。
その考えなら、一応の筋は通る。だが、それでは握られていたカードの説明がつかない。
今のところの最大の謎は、トランプのカードだ。カードはジョーカーの一枚のみ。
星川は現場の写真を見た。
全裸の遺体の右手にはトランプのジョーカーが一枚だけ握られている。近くにグラスが落ちていることも確認できた。
窓などの鍵はすべて掛けられており、犯人は玄関から逃走したと考えて間違いない。
また、マンションの構造上、犯人は被害者と顔見知りだということも考えられる。
マンション内に入るためには、被害者本人に連絡を取るか、鍵を使うかのどちらかしかない。
第一発見者達の方法で入れないこともないのだが、この犯行には計画性が見られるため、偶然によるその方法ではないだろう。毒物で殺したとなると、衝動的な犯行ではないことは明らかだ。
普通、計画を立てるとき、マンションの構造も把握するだろう。つまり犯人は、マンションの住民か被害者の顔見知りということになりそうだ。
星川はそこで思考を止めた。遊井川千代警視が近づいてきたためである。
「どう、何か進展は?」
「特には」
「そう」遊井川は頷いて、目の前にある資料を手に取った。
「これから現場を見ようと思っていますが」
「そうね、そうしましょう」
署を出ると暑い陽射しが二人を容赦なく照りつけてくる。アスファルトから跳ね返ってくる熱気にも顔を顰めざるを得ない。
「暑いわね」
「まったくですね」
二人は車に乗り込み、笹岡美智子のマンションへと向かった。
駐車場に車を止め、星川は片手をかざして太陽を遮りながらマンションを見上げる。七階建てで各階に五部屋。一階には管理人室があると手持ちの資料に書かれていた。
正面玄関。
天井には固定タイプの防犯カメラが一台、設置されている。入り口の自動ドアを正面上部から全身映すアングルにあるので、カメラ自体に死角は存在するものの、人の出入りの映像には支障はない。
入り口のドアは大きなガラス二枚が両側に開くタイプの自動ドアで、中からでしかセンサーは反応しないように作られている。マンション内に入るためには、住民に開けてもらうか、鍵を使うかのどちらかしかない。
住民の部屋には専用の内線電話が備え付けられている。その内線には各部屋のナンバーを入力することで繋がるようになっており、自動ドアの横のタッチパネルでそれが入力できる。こちら側には受話器はなく、そのまま話すことができるみたいだ。部屋の内線電話にはボタンがあり、それを押すことで入り口の自動ドアが開く。
鍵を使う場合は、ナンバーを入力するタッチパネルの下に鍵穴があり、そこに入れて回すとドアが開く仕組みになっている。この鍵と、部屋の鍵は違うもので、入居時にそれぞれ渡されるようだ。
このマンションのセキュリティは高い。外部の者が、そう簡単に内部へ入れるわけではない。無論、第一発見者達のように内部の者と入れ違いになれば入れる可能性もあるが、防犯カメラで確認すればわかることだ。
星川達は、管理人である森甚吾の部屋を訪ねることにした。防犯カメラのテープと、裏口について聞きたかったからだ。
このマンションに入るためには、防犯カメラのある正面玄関か、裏口の二つの経路しかない。
もしも今回の事件が他殺で、しかも計画的なものだとすれば、わざわざ記録に残るような防犯カメラに映る正面玄関よりも、裏口を使う方が理に適っている。犯人が普通の思考力を有しているならば、それは揺るがない。
管理人室を訪ねると、神経質そうな気弱な男が出てきた。初老を迎えているだろう、頭に残っている少ないものはすべて白かった。顔色があまりよくなく、おどおどしている。自分の管理下のマンションで殺人事件が起こったとなれば、気が気ではないのだろう。
もっとも、殺人事件としてまだ警察は動いていない。あくまでも星川個人がそう思っているだけで、自殺の可能性も充分にある。
「県警の星川です。先ほど電話で話しましたように、正面入り口の防犯カメラのテープと裏口について……」
「ああ、はい。どうぞ、こちらへ。裏口へ案内しますで」
星川達は管理人の森についていく。廊下の突き当たりを左に曲がったところで、金属製の重厚そうなドアが見えた。
小柄な管理人は腰からぶら下げている鍵の束を取り出し、その一つを鍵穴に差し込んだ。
「この鍵、スペアはありますか?」
「いいや、ありません。必要だったこともなかったもんで、これだけですわな」
「この鍵はいつもどちらへ?」
「はぁ、いつもズボンのベルトのとこに引っ掛けております」
「裏口にはいつも鍵を?」
「はい。開いておりましたら、誰でも入れてしまいますので」
「中からはどうなんですか?」
「今は開けられません。わしも今は使いませんので、施錠をしてまして」
「昔は使われていたのですか?」
「ええ、後ろに、建物がないときでしたので。もう数年は開けてもいないですわ。錆びてて、開けられるかどうか」
森は裏口の鍵穴に鍵を差し込んで回そうとするがなかなか動かなかった。何度かやっているうちにガチンと音がしてドアが開いた。
森の言う通り、ドアの向こうは隣の建物に面しており、一人程度なら通れる幅があるが、利用されている雰囲気もなく、空き缶が転がっているだけだった。
正面玄関は北になり、この裏口は左側、つまり西側に位置するので日照権は関係ない。部屋も西側には窓はないはずだ。
「使われた形跡は、ないわね」遊井川がドア周辺を注意深く見ながら言った。
星川も調べてみるが、ところどころ錆びていて、長年使われていなかったことがわかる。
「一応、鑑識の方に連絡を入れて調べてもらうように手配しましょう」
「そうね」遊井川は頷いた。
管理人室に戻り、森甚吾のアリバイを確認する。
「失礼ですが、森さんはあのときはどちらに?」
「部屋におりました。そうですね、たしか電話をしてたと思います。サイレンが近くで鳴り止んだんで、途中で切りましたけど」
「あの日は一日中、ご自分のお部屋に?」
「昼ごろ、買い物ぐらいには出かけたと思いますが」
「わかりました。防犯カメラのテープはどちらにありますか?」
「ああ、はい、こちらです」森は奥に置いてあった紙袋を星川に手渡した。
「どうも。被害者の笹岡美智子さんですけど、どういった人でしたか?」
「いやぁ、とてもええ子でしたよ。挨拶もするし、そんな、人に恨まれたりするような子じゃないし、どうしてこんなことになったか……」
「そうですか。交友関係についてはどうですか?」
「ああ、わしはわからんですね。あんまり友達とかと一緒にいるとこは見たことなかったもんで」
「わかりました。では、今日はこの辺で失礼します。また後日、訪ねるかもしれませんが、そのときは」
「はい。ご協力させていただきます」
星川と遊井川は頭を下げて、管理人室を出た。
「裏口を使用した可能性は低いようですね」星川は歩きながらため息をついた。
「そうね。ま、テープを見ながら考えないといけないわね。裏口が使われなかったとしたら必然的に犯人は正面玄関から侵入し、またそこから出ていったことになる。容疑者が映っていれば楽なんだけど」
「現場を見ていかれますか?」
「あ、うん。そうしよう」
エレベータに乗り、笹岡美智子の三〇三号室まで移動した。部屋の前の制服警官に挨拶をして、中に入る。紺色の作業服を着た男達がまだ何かを調べていた。
「指紋は大丈夫ですか?」星川は近くの男に聞いた。
「ええ、素手で結構ですよ」その男は作業の手を休めずに答えた。
星川はキッチンの横にある小さな冷蔵庫を開けて中を調べる。ゼリー、野菜、肉のパックなど、扉側には卵や牛乳、ジュースなどがところ狭しと置かれていた。
「へえ、家庭的ですね。イマドキの女の子ってちゃんとしてるんですね」
星川は感心しながら隣の遊井川を見た。彼女には被害者と同級生の娘がいる。
「私の子はどうだろ。家事は手伝ってくれるけど……」
難しい表情で言いかけたとき、遊井川はあることに気づいた。
「あ、ジュースの置くスペースがない」
「そうですね。ないですね、スペース」
二人は顔を見合わせて、頷いた。
冷蔵庫にはペットボトルを置けるスペースはない。
「毒物が混入していたオレンジジュースの置く場所がないということは、犯人の差し入れでしょうか?」星川が聞く。
「でしょうね。さらに、それを飲むってことは……」
「被害者と親しい人物」
「決まりね。私が思うに、犯人は買ってきたばかりのジュースに毒を入れたんだと思う。この季節に常温でジュースなんか飲まないでしょうしね。この小さな冷蔵庫では製氷機は備わっていないから、氷を入れて飲むにしても、氷を別で買ってくる必要がある。そして冷蔵庫に別の種類のジュースがあることからも、オレンジジュースは犯人が持ってきたと考えていいと思うわ」
「その条件に合うのは、家族、恋人、友達。親しい仲と言ってもいろいろありますけど、恐らく本命は家族か、同じ吹奏楽部のメンバーでしょうか」
遊井川は部屋を見渡してから、作業している紺色の男達に向き直る。
「綺麗ね、この部屋」
「ええ、物盗りではないようです。そこの引き出しに通帳などが入ってましたから」
「トランプは?」
「この部屋からは」男は首を振った。
「犯人が握らせたんでしょう」星川が言う。
「みたいね」
いろいろと思考を巡らせてみるが、どれもしっくりこない。
問題なのは被害者が全裸だったこと、それからカードを握らせていたことだ。
何が目的なのだろうか。
全裸は強姦の可能性もあるが、普通の強姦とは様子が違う。普通の強姦ならば被害者は半裸の状態が多い。
それに毒殺が不自然だ。そういった毒物を入手している時点で、計画性が見られる。計画的な強姦などあるだろうか。とにかく検死解剖待ちだ。
それにトランプのジョーカー。
被害者が握っているところだけを考えるならば、推理小説に出てくるダイイング・メッセージということも考えられなくもない。だが、現実世界、死の間際でそこまで頭が回る人間などいるはずもなく、ダイイング・メッセージなど実際には存在しない。
それにこの室内には他のカードがないという。つまり、死の間際に犯人を示そうと被害者がトランプを取り出して息絶えたのならば、その周りに必ず他のカードがあるはずなのだ。それがないということは、カードは犯人がわざと握らせたもの、ということになる。
気懸かりなことはまだある。
遊井川だ。いつもの彼女ではないような気がする。普段ならば、こうして現場を訪れるようなこともない。彼女の娘が巻き込まれたからか? いや、それだけではない、何か焦燥している様子が微かだが見られる。何を危惧している?
「星川くんはこれから署に戻ってビデオの確認をお願いね」
「ええ、わかりました」無駄な詮索はやめ、星川は頷いた。
「さてと、暑いけどがんばらなくちゃね」
星川は署に戻り、防犯カメラのテープを確認することにした。
管理人の森甚吾から預かってきたテープは事件が発覚する二日前からある。デッキにテープを入れ、映像を流す。音声はなかったが、画質は綺麗なものだった。人の出入りのところだけはスローにし、一人ずつ丁寧に確認していく。それ以外は早送りした。
星川は、他に第一発見者達の方法で入ることができた人物がいないかを確認し、住民リストを持ってくるように指示した。
安い豆のコーヒーを飲みながら、早送りとスロー再生を繰り返して確認をする。朝までは人の出入りは少なく、ほとんどが鍵を使用して中に入っていた。
事件当日の朝、午前八時五十七分四十秒に笹岡美智子が中から出てきた。
服装は白いシャツに黒の細いパンツ、少し深めに帽子を被っている。笹岡美智子の口元には大きなほくろがあり、防犯カメラでもそれが確認できた。
「こういった表面的な特徴があると助かるな」誰に言うわけでもなく、星川は呟いた。
笹岡は小さなバッグを肩から提げているだけで、他に荷物は持っていない。
そして午後三時二十一分四十八秒、笹岡美智子が大きなケースを片手に、帰ってきた。恐らくは担当楽器のケースだろう。大きな弦楽器のケースを一度置き、鍵でドアを開けて中に入っていった。
巻き戻して、スロー再生で確認するが、口元にほくろがある。どうやら同じ服を着た別人、ということはなさそうだ。
そのあとの午後四時三分十三秒にすぐ出てきた。服装も何も変わらず、弦楽器のケースを持って、外に出ていった。もちろん、ほくろの確認もできた。
これ以降、笹岡美智子は防犯カメラでは確認できなかった。スロー再生で念入りに確認をするが、口元にほくろのある人物は出入りしなかった。
やがて、同じ吹奏楽部員である仲村美羽が友人達を連れてマンション内に入っていく。
「なっ……」
言葉を失う。
テレビ画面に映し出された映像。
すぐに少女が、マンションの奥から出てくる。
そして制服を着た警官二人を連れて奥に入っていく。
「…………」
笹岡美智子はどこへ消えた?
いや、違う。
笹岡美智子は外出したまま帰っていない。
数人の警察官、スーツを着た年配の刑事、鑑識班、それらが出入りする。以降の映像は見ても意味がない。この時点で、笹岡美智子の遺体が見つかり、事件が発覚したのだ。
「…………」
わけがわからない。
笹岡美智子はどうやって?
いや、それとも犯人がしたことか?
星川は慌ててテープを巻き戻す。
午前八時五十七分四十秒、外出。
午後三時二十一分四十八秒、帰宅。
午後四時三分十三秒、外出。
以降、笹岡美智子は防犯カメラに映っていない。
そして、死体となり、笹岡美智子は発見される。
星川はやっとの思いでため息をつき、ソファに体を預けた。
どういうことだ。
裏口は使えない。
マンション内に入るためには正面玄関を通るしかない。
正面玄関には防犯カメラがある。
死角はない。
映らずに入る方法はない。
ないはずだ。
笹岡美智子には口元にほくろがある。
どういう、ことだ。
わけがわからない。
全裸。
カード。
そして。
笹岡美智子は外出したまま、帰っていない。
だが、死体となってマンションの自室に彼女はいた。
矛盾している。
不可能だ。
どうなっている。
何が起こっている?
いったい、これは……?
震えるように息を吐くと、星川は冷めたコーヒーをのどに流し込んだ。
3
気持ちよく寝たい。
そんな、とても普遍的で一般的で誰もが求むような平和な欲求を満たすことができるのかどうかは、ある意味では自身の問題ではなく、周りの人間によるところの影響が強く、そして大きいものだ。
軽く体を揺すられる。
「ほら、いつまで寝てるのよ。いい加減起きなさいよ」
「……ん、きす、してくれたら……、おきりゅ」
「はぁ? キス? ちょっと、何を寝ぼけてんのよ」
「……しんでれら、だから、……おれ……」
「それ、白雪姫でしょ」
「…………」
「それ以上頭の悪さをアピールしてどうすんのよ。ほら、起きた起きた」
「ふにゃ」
シーツをはぎ取られる。
カーテンなども開けられて、強烈な日光に襲われる。
「ふざ、ふざけるなよ、香織」七海は舌を鳴らす。「ばっ、ま、眩しいだろ」
「またお昼まで寝るつもり? 起きろ、馬鹿」
「……くっそ、これだから、お前を泊めるのは嫌なんだ」
「よく言うわよ。私のおかげで、どれほど健康的になってるのか」
「俺は健康志向じゃねえ」
「だからよ」
「あぁ……」
最後の砦だったまくらまで取り上げられた七海は、仕方なく、重い体を起こし、ため息をついて、舌打ちをした。
まったくマジで。
早起きしたって何の得にもならないっていうのに。
「起きた?」
「……うん」
「朝ご飯作ってあるから、食べるわよ」
「食欲ない」
「何言ってんのよ。そんなだから、貧血になるのよ」
「……タフだな、お前」
「あんたがひ弱すぎるのよ」
「ちょっとくらい、か弱い女の子の方がモテるぞ」
「ぶっ飛ばすぞ?」
「ごめんなさい」
熱いシャワーを浴びて、眠気を覚ました。
赤のTシャツと黒基調のジーンズに着替え、リビングに下りる。リビングでは香織がソファに座って、テレビを見ていた。リビングから見えるベランダでは、リップが仰向けになって寝ている。
「おはよ」
「もう少し早く起きなさいよね」香織は呆れた表情を七海に向ける。
時刻は午前十時前。
七海にしてみれば奇跡的な起床ではあった。
ダイニングテーブルにつき、用意されていたトーストをかじった。
「……その友達の子、殺されていたの?」
「食事中にその話題かよ」
「嫌なら別の話題に変えるけど」
「いや。……自殺か他殺かはわかんないよ。ま、自殺にしては不自然ではあるけどな」
いくらこの暑さだからといって、一糸纏わず、というのは考えにくい。
転がっていたコップのことなども考慮すれば、風呂上がりとも取れなくはないが、タオルも見当たらなかった。他人の生活を一部始終覗いたことがないからたしかなことは言えないが、自然とは言いにくい。
淹れ立てのコーヒーが冷めるまでの間、七海は見たことの詳細を香織に伝えた。といっても、情報量としては大したことはない。七海はあの部屋を調べることもなく、警察に渡したわけだから、ほとんど何も知らないに等しい。
ま、優秀な警察に任せればいい。一般人である高校生の自分があれこれと考える必要はないだろう。
「不思議というか、不自然というか、何かいろいろ異常じゃない、これ」
「正常な事件でもあるのか?」
「そういうわけじゃないけど」
「今日、学校は?」
「どうだろう、市内の高校生がそういうことになった以上、何かしらの対応に追われることになると思うから、文化祭の準備どころじゃないでしょうね」
「休み?」
「完全な休暇とはいかないでしょうけど、まあ、あっても雑務だけだしね」
「じゃ、デートしよう」
「デート?」
「おいしいかき氷が食べたい」
「……あんた、ほんとに自由よね」
4
「せんぱーい」
のんきな声が聞こえ、星川は頭を抱えてため息をついた。
遊井川に頼んでいた補充捜査員だ。
しかし、星川が頼んでいたのは優秀な人間である。県警も今は忙しい。人材不足が祟ったか、一番望んでいない者の声が聞こえる。幻聴であることをほんのりと祈りながら、星川は部屋を見渡した。
「あ、先輩! 手伝いに来ましたよー!」
氷野晶が明るく手を振りながらこちらに近づいてくる。
星川は舌を鳴らした。
「何しに来た?」氷野を睨みつける。
「え、ちょっとぉ、優秀な部下が助っ人で来てあげたのに、なんで睨みつけるんですか? ほら、もっと歓迎的なムードを」
「優秀な部下が助っ人、ね」星川は鼻を鳴らし、肩を竦めた。「劣悪な部下が邪魔をしに来たとしか思えないけど」
「そんなそんな、またまたご謙遜を」
「……どうして僕が謙遜するんだ」星川は重いため息をつく。
「いやぁ、嬉しいんですね、先輩」にこにこと笑う氷野。「大丈夫ですよ、この僕が来たからにはどんな難事件も瞬く間に解決ですよ!」
頭痛がしてきた星川である。
氷野ならば、いない方が仕事も捗るだろう。雑用か聞き込みに回した方が被害も少ない。
「氷野……」
「嫌です」
「…………」
こういうときの勘は驚くほど鋭い。この勘をわずかでも仕事に生かせれば、と星川は舌を打ちながら思った。
「僕は先輩の補佐をします。ええ、そう決めました」
「お前が決めるな。ったく」
ここでこうして氷野とじゃれ合っていても仕方がないので、星川は氷野を部屋へ連れて行き、問題のビデオを氷野に見させた。あれほどうるさかった氷野もすぐに静かになり、今は首を捻っている。
「なんのこっちゃですか、これは?」
「わからない」
「手品じゃないですか、拍手喝采ですよ」
「犯人に拍手を送るのか?」横目で氷野を睨んだ。
「犯人の仕業なんですか?」
「普通に考えるならそうだろう」
「何のために? 被害者の帰りの映像がないことが、ええ、そりゃあ不思議ですけど、でも、それが何か犯人にとってメリットのあることなんですかね。犯人が意図的にやったことだとして、どんな目的が考えられます?」
氷野の指摘する通り、非常に不可解だ。
謎が多過ぎる。
服を着ていなかったこと。
カードを持っていたこと。
帰宅時の映像がないこと。
現時点だけでも以上の三つが挙げられるが、どれも意味があるように思えない。
何を考えているのか、それとも遊び感覚なのか。
問題はまだある。
容疑者についてだ。容疑者と言える容疑者はいないのが現状だ。強いて挙げるならば、親族や、吹奏楽部を中心とした学校関係者、第一発見者達ということになる。
しかし、第一発見者の四人は遊井川警視の知人であり、そのうちの一人は娘ということ。容疑者からは外れるだろう。
それに加え、事件当日、吹奏楽部員達は激励会公演のためのリハーサルを朝から行なっていた。午前十時までにはメンバー全員が集まって練習をしている。関係者も似たようなもので、アリバイの曖昧な者が少数こそいるが、被疑者とまでは行かない。
被害者である笹岡美智子の検死解剖の結果、死亡推定時刻は遺体が発見された日の午後三時半から四時半までの一時間であることが判明した。誤差が三十分ほど生じるかもしれないとのことなので、それを含めると午後三時から五時までのおよそ二時間。
「しかし、午後四時に笹岡は外出をしている。実際には午後四時から五時までの一時間ということになるな」ビデオの映像を見ながら、星川はため息をついた。
どうして帰宅時の映像がないんだ?
その他のことについても説明がつかない。
全裸や、トランプのカードのことなども。わざわざそうした理由はどこにあるのだろうか。犯人にしてみれば手掛かりになるかもしれない物証を残すことは命取りではないのか。
何を企んでいる? 何を意図している?
星川は目元を押さえ、ため息を漏らした。わからないことを考えても仕方がない。思考を切り替えることにした。
「そういえば氷野、聞き込みは?」
「こっちに来る前に被害者の実家に行ってきたんですけど、面会は拒絶されました」
「拒絶? 娘が殺されたということは?」
「もちろん、伝えましたよ。しかし、それでも今は忙しいの一点張りで。この態度はかなり怪しいかなぁ、と」
「うん、まあ、怪しいけれど何もできない。とりあえず、近くに見張りをつけるとか、それぐらいしかできないな。事件について何か知っているかもしれないが、だとしても明らかな拒絶は逆に疑われるのに……。また考えないといけないことが増えたな」
「マンションの住民にも聞き込みをしてきましたよ」そう言って胸を張る氷野。
やることはやってきたか、と星川は心の中で頷く。
「でも特に気になるようなものはなかったですね。ただ、ある住民がその日の被害者は、疲れていたような気がすると話していました」
「疲れていた?」
「ええ。夕方ごろでしょうか、その住民が笹岡美智子に挨拶をしたところ、軽く頭を下げただけだったとのことです。いつもならば挨拶を返してくれたり、また軽く世間話をする仲だったこともあり、夏バテで疲れているのかな、とその住民は思ったそうです。気になるとすればそのぐらいのことで、あとは特に何もありません。個人的にはイマドキの高校生もまだまだ捨てたものじゃないな、と」
「お前の個人的感情はいい。まあ、最近は猛暑続きだから、夏バテだったのかもな」
「うーん、僕的にはですねぇ、元気がなかったっていうのが気になるんですよね」
「自殺の場合を考えているんだろう?」
「ええ」氷野は頷く。
「もちろん、それも視野には入れている。たしかに、その元気がなかった姿を何か思い詰めていたとして見るならば、自殺が増えてきている現代なら結び付けやすい帰結だと思う。だけど、自殺する人間があんな状況を作り出すとは到底思えない。他には何か気になることはなかったか? 些細なものでもいい」
「そうですね、福田康子という住民には留守だったこともあって話を聞けませんでした。同じマンションに福田の同僚が住んでいるのですが、仕事にも来ていないそうです」
「福田康子……」星川は頭の中にある捜査資料を探る。「えっと、そうだ、キャバクラに勤めている子か。その子が留守で、しかも仕事先にも顔を見せていない?」
「はい。でも同僚の話では珍しいことではないとのことですぜ、兄貴」
「何だ、その口調は」
「いえ、普通の報告に飽きてきたんで」
星川は氷野を一発殴ってから、見ていたテープを早送りした。
第一発見者である仲村美羽達がマンションに入っていくときの映像をスロー再生にする。中から出てきた派手な服装の女性と入れ違いに入っていく。そこでテープを止めた。
「同僚って、この子?」
「いてて、ん、はい、そうです。ケバいねーちゃんですね」
「で、福田康子は……」
星川はテープを事件前日のものに替えてリモコンで操作しながら、それらしい女性を探す。紺色のスウェットにサンダルという非常に地味な格好をした金髪の女性が画面に映った。星川はそこで止める。
「この女性ですよ」氷野が言った。
画面上の福田康子は髪がぼさぼさで化粧気もなく、奇妙な能面のようだ。表情も眠そうなことから寝起きだろう。夜の店に勤めていることから昼夜逆転しているのだろう、時刻は午後二時だった。そして数分後にコンビニのビニル袋をぶら下げて戻ってきている。
「わかりやすい生活だな」呟きながら星川はテープを進めた。
午後九時に思い切りドレスアップした福田康子が出勤のためにマンションを出て行く。日が変わり、事件当日の朝午前五時過ぎに帰宅。そしてだらしない普段着に着替えた女はそのあとすぐ六時に再びどこかへと出かける。
「またコンビニかな」
そう思ってテープを見ていたが、なかなか福田らしき女性は映らない。時間帯が昼を越えても、彼女は帰ってこなかった。
「どういうことだろう」
そう遠くまで出かけるような姿ではない。周りの目を気にしないような子ならば関係ないのかもしれないが、それでもスウェット上下にサンダルという格好では……。いや、イマドキの子ならそれも普通なのかもしれない。
「このまま出かけているのでありんす?」氷野が口を利く。
「じゃないかな。帰ってこないし」星川は氷野を殴った。
やがて楽器を持った笹岡美智子が帰ってきて、それに合わせるかのように午後三時半に戻ってきた。その後も確認していくが、福田康子らしき人物は見えなかった。
「ん?」
星川は首を傾げた。
氷野も不思議そうに首を捻っている。
しばらく、二人は黙っていた。適当な言葉が見つからなかった。
「先ほど聞き込みに行ったときは留守だったはずですけれど、居留守を使われたのかな? こんな美形の僕が訪問したのに? ありえない!」
「このテープを見る限り、福田は事件発覚以降は外出をしていない。通報を受けて現場に警官が駆けつけたあとは、人の出入りはすべてチェックしている。そういった報告は受けていないから、福田は家にいるはずなんだけど」
「居留守を使う理由はなんでしょうか? あまりのかっこよさに足が竦んじゃったのかな、子猫ちゃん」
「寝ていたとか、あるいは勧誘か何かだと思った。何にせよ、福田が家にいるなら、一応聞き込みをした方が良さそうだな。彼女だけなんだよな、聞き込みがまだなのは」
「はい。その他の住民には話を聞けています。そりゃあ、突然のイケメン訪問ですよ、みなさん驚きながらも熱い抱擁で出迎えてくれました」
氷野を三発ほど殴り、星川は時計を見た。午後八時を回ろうとしている。
「少し遅い気もするけど、行ってみるか」
5
夕食のあとのコーヒーを楽しみながら、七海は昼間に食べたかき氷を思い出してひと息ついていた。香織とのデートはそれこそ新鮮味に欠けるが、楽しかった。夏休みらしい過ごし方ができたという点でも、上々だろう。
かき氷もおいしかった。しかし、ただの氷が八百円もするのだから腑に落ちない部分もある。もっとも、香織の奢りだったので、七海にしてみればまったく問題ではなかった。
まあ、そのせいもあって、夕食がそうめんだったわけだが。
そんなことを思い出していたところ、七海の携帯電話が鳴り響いた。着信は、紗季。
「もしもし、なな?」
「どうしたの?」気分が良かったために出てしまった。それをすぐに後悔した。
「今からちょっとファミレスに来てくれない?」
「どうして?」
「今ね、バニラや玲子達と一緒にいるんだけど、美智子のことで話を聞こうと思って」
「あ、そう」
「ななにも来て欲しいんだけどさ」
「ええ?」
正直、できれば行きたくはないが、紗季の声のトーンの低さを考えると、断るのも同じくらい面倒なことになりそうだったので、嫌々、渋々ではあったが、それを出さずに、行くことにした。
これ以上、関わりたくないんだけどな……。
どいつもこいつも。
舌を鳴らし、ため息をついて、香織に向き直る。
「ちょっと出かけてくる」
「どこに?」
「駅前のファミレス」
「遅くなるようだったらメールしなさいよ」
「うん」
嘆息を漏らしつつ、駅前のファミレスへと向かった。
もともと、七海には厭人癖がある。
人と群れるのが嫌いというよりかは、そもそもの人間が嫌いなのだ。だから、本当に、限られた人間にしか心を許していない。できることならば、人とあまり関わりたくはないし、他人の人生になど干渉したくはないのだ。
悪趣味だ。
冷たい人間だとか、残酷な人間だとか、人でなしだとか、そう蔑まれても、七海は七海であることに変わりはなく、他人に何かを言われて生き方を変えるほど、器用でもない。
まったく、嫌になる。
物事に対して、あまり深く考えずに、考えないようにしている。
それが楽だからだ。
その方が、傷つかずに済む、落胆しないで済む。保身にはこれが最適だった。
この世には、偽善者か独善者、それと傍観者しかいない。
自分の大切な人間が、醜い人間だとは思いたくはないし、ましてや知りたくもない。深く関われば、それだけそれを知る機会が増えることになる。
これ以上、絶望を増やして何になる?
本当の絶望を知らない人間が小さな悲劇で嬉戯しているだけだろうに。
七海はため息を吐ききって、舌を鳴らした。
時間帯もあり、ファミレス店内は混み合っていた。奥の席の方に紗季達を見つけ、そちらへ向かう。
「あ、なな。ごめんね、急に」紗季は謝ると、イスに置いてあったバッグをどかした。
「いいよ、別に」七海はその席に座った。
七海、紗季、バニラと並び、その向かいに山村、杵島、岩下が座っている。
「早速だけど、今回の件で心当たりっていうか、何か気になることはないか? 笹岡が殺されたことについて、何か」
バニラは何の前置きもなく、聞きたいことを聞きたい相手に聞いた。
「……何も、なかった……と思う」
目を赤く腫らした山村は首を横に振って小さく答えた。
「恨まれるような子じゃないし……」
「……あのときは、私も、その……、完璧な演奏ができなかったこともあってイライラしていたのは事実だけど……、そう、笹岡は悪い子じゃないし、嫌われてもいなかった。……あんなこと言わなければよかった……。まさか、殺されるなんて……」
岩下が泣き崩れるようにして、詰まりながら話した。嗚咽を繰り返し、大粒の涙を落とす。先日のことをよほど後悔しているのだろうか。
恨まれるような子じゃなかった、か。
現場のあの部屋を見る限りでは、金目当てや性的目的の犯行ではない。となると怨恨目的の可能性が高くなってくるが……、恨まれるような子じゃなかったと口を揃えて皆が言う。真面目な子だった、約束を破るような子じゃなかった、と。それがもしも本当ならば、怨恨も薄くなってきそうではあるけど。
まあ、みんなに好かれていても、みんなから好かれているから嫌い、なんていうひねくれた人間も少なくない世の中だ。殺された動機なんて、くだらない。考えるだけ無駄だ。
「美智子は、いつまで一緒だったの?」紗季が尋ねた。
「……昼のリハまでは一緒だった」
「それ以降はわからないの?」
「あ、そう言えば、栞、美智子と一緒に出かけるようなこと言ってなかったか?」
「え、ああ、うん」杵島は頷くと、こちらを見た。「リハーサルの後、近くの楽器店にみっちゃんと一緒に」
「何時ごろ?」
「四時過ぎごろ」
「じゃ、それが美智子を確認できた最後なのね?」
「……たぶん。私達の中ではそうだと思う」
「警察に聞かれたかもしれないけど、アリバイって言うの? お前らはどうなの?」バニラがパフェをつつく七海を横目で見ながら、山村達に聞いた。
「いいえ、アリバイはないわ」岩下が首を振って答える。「吹奏楽部の一年生達はリハの後も残って練習したり、一緒にお昼を取ったりしたみたいだからあるみたいだけど」
「同じ理由で関係者もほとんどがアリバイを持っている。ないのは、私ら二年生とコーチの神代さんだけだな」
「ああ、ひへふぇんふぉ?」
「パフェで口をいっぱいにしながらしゃべるな」バニラが注意する。
「イケメンのコーチだろ?」今度は飲み込んでから言った。「あの人も別行動?」
「そう聞いてる」山村は静かに頷くと、紅茶に口をつけた。
「ふうん。じゃ、そのコーチとお前らが容疑者か」
「…………」
「?」
「ばっ、馬鹿か、てめえは! 何を言い出してんだよっ?」
「え、だって……」
見れば、容疑者の三人は全員下を向いている。
あれ、なんか悪いこと言ったかな。
「ごめんね。ほら、こいつって昔から頭悪いし、空気読まないっていうか、感傷的じゃないところがあったりして、理系だし、偏屈屋だから、気にしないで」
紗季が取り成すように明るく言ったが、しかし酷い言われようだ。まあ、ほとんど事実なので文句も言えないが。
店内もかなり混み始めてきた。七海達が座っている禁煙席はそれほどでもないが、喫煙席の方はもうすぐ飽和しそうだ。禁煙席に座っていても煙草の臭いは伝わってくるので迷惑な話である。
「美智子は、リハーサルのとき普通だった? 何かいつもと変わったところは?」
「変わった? いや、特になかったと思うけど……?」言いながら、山村は岩下を見る。
「そうね、普段と変わった様子は見られなかったわ。いつもと同じだったように思う」
「そう」
「笹岡って、交友関係は広い方か?」今度はバニラが尋ねた。「休日は何をしていることが多かった?」
「美智子は、広くはないよな。誰にでも好かれる子ではあったけど、大体は部活の人間と行動してたし、休日もほとんど部活だったから」
「そうね。学校でも吹奏楽部の私達が一番親しかったと思うわ」
「恋人は?」
「いや、聞いたことないな。多香子は?」
「私も。笹岡に恋人がいるなんて話は知らない」
「そっか」バニラは頷き、次の質問を口にする。「どうしてあいつは一人暮らしをしてたんだ?」
「両親と不仲らしい、としか……。それ以上のことは」岩下は小さく首を振った。
そのあともいくつか質問を重ねていたみたいだが、どれも有力なものではなかったらしく、自然と聞きたいことも尽きてきて、いつの間にか脇道に逸れていった。
七海は会話に加わらず、ただひたすら甘いものを食べることに集中していた。追加のチョコレートケーキを食べながら、どのタイミングで帰ろうか考える。
「美智子の担当は何だったの?」
「いろいろあるけれど、バスが一番かしらね」
「バス?」
「コントラバス。ヴァイオリン属とヴィオール属の中間に位置する楽器で、まあ、とても大きな弦楽器ね。知らない?」
「小学校の音楽の授業でやったような……」バニラが額に手を当てて渋い表情を見せる。そんな顔をしないと思い出せないなんて、不憫な男だ。
「二メートルぐらいの大きいものよ」
「ああ! そういや、そんなのもあったな」
「みっちゃんは肺活量があまりある方じゃなかったから。でもその分、弦楽器なんかはすごかったよ。みっちゃんの運指は先輩後輩関係なく、みんな憧れてたからね」
「でもコントラバスって大きいよね。女性で演奏するのは大変なんじゃ?」
「うん。特にフルサイズだったから、大変でしょうね。ケースに人が入れちゃうくらい大きいもの」
「へえ」
「ちなみに、見たからわかるでしょうけれど、私と山村はサックスで、杵島はクラリネットよ」
「ああ、サックス。聞けばわかる」
ひと通りケーキを食べた後、冷めたコーヒーを飲みながら七海は欠伸をした。
そういえば、仲村は見ていない。仲村も目の前の三人と同じく吹奏楽部のメンバーで、容疑者の一人だ。笹岡の死体を見つけたときの反応からすれば、よほどの演技派でない限り、仲村は容疑者から外してもいいだろうけど。
目の前の三人や隣の紗季なんかは、笹岡が死んだというだけで、かなりのショックを受けている。その死体を一番に見つけたとなれば、仲村が受けた精神的被害は計り知れない。前者四人の比ではない。
苦い液体をひと口飲み、七海は心の中で鼻を鳴らした。
同じ状況だ。同じ状況だったのにもかかわらず、まるで、まるで何も変わらずに普通に甘いものを楽しんでいる自分がいる。そんな自分をどうこう思うわけじゃないが、昔からそう、周りの人間とは確実に何かが違っていた。
周りを理解することも不可能ならば、周りに理解されることも不可能だ。
七海を理解できる人間は、本当にわずかな人間だけだ。少なくともここにはいないだろう。それに加えて、理解されることを望んでもいないし、期待もしていない。
笹岡が死んだって、別に俺には関係ない。
帰りたいな。
七海がぼんやりと考えていたそのとき、ふと、小さな声で誰かが何かを囁いた。
「え?」みんな不思議そうに顔を見合わせる。誰が何を言ったのか、全員聞き取れなかった様子だ。
「……犯人は捕まると思う?」
杵島が顔を上げずに、小さく言った。
ずっと下を向いている。細い声だった。店内の喧騒にかき消されてしまうような、そんな小さな声で杵島が言った。
「お前はどう思うんだ?」バニラが聞き返した。
「捕まらないと思う」杵島は小さく首を振る。先ほどよりもしっかりとした声だった。
捕まらない。意外な言葉に全員が呆気に取られた様子だった。
「ど、どうしてそう思うの?」今度は紗季が尋ねる。
「意味がないもの」
静かに、そして冷ややかに杵島が声を発する。
「意味?」
「そう。犯人を捕まえても意味はない」そこで杵島は顔を上げ、七海達を見据えて続けた。「美智子は帰ってこない」
「…………」
誰も何も言わなかった。
いや、何も言えなかったのかもしれない。
そんな中、紗季が一言だけ口を開いた。
「捕まるわよ」
「…………」
「美智子を殺した犯人は、捕まるわ。私達が捕まえる」
6
星川はマンションに向かう車中、事件について再度検討をしていた。
殺害方法、現場状況はどう見るだろうか。防犯カメラで見る限り、被害者は一度帰宅したあと、再び外出している。そしてそれ以降は映っていない。しかし彼女は死体となって、自室にいた。
防犯カメラに死角があるわけではない。マンションの正面から出入りをすれば、必ずカメラに映るはず。その他にマンション内に入る方法はない。
裏口も何年も使っていないことがわかった。それに加え、裏口には内側から鍵が掛かっていた。その鍵は管理人である森しか持っていない。
たとえ、犯人が鍵を手に入れ、裏口を使ったとしても、被害者を運ばなくてはならない。いや、生きていたとするならば一緒に移動をするだけでいいのだが。しかしそうなると、なぜ裏口を使ったのかが問題となる。
被害者と顔見知りなら、正面のドアを開けてもらえば、それで済む。顔見知りでないのなら、裏口まで連れて行くのは難しい。そうするとやはり、殺してから裏口を使って運ぶしかない。しかしその場合も、被害者に鍵を開けてもらう必要がある。マンションの内側から掛けられている以上、開けるためには一度でも中に入らなければならない。そして逆に入れるのであれば、わざわざ裏口を使う必要なんかない。
カメラに映ることが嫌だった?
捜査を混乱させることが目的だとすれば……。そもそも裏口は数年使われていないのだ。意味のないことを考えても、意味がない。
被害者が本当の被害者でなかったらどうか? 防犯カメラの映っている人物が本当に被害者なのかどうかだ。もし、途中で入れ替わっていたりしたら? いや、それもない。被害者には口元にほくろがある。それが動かない限りは。これも、今のところは保留するしかない。
全裸、ジョーカー。これらには意味があるのだろうか。トランプのカードはジョーカー。切り札という意味もある。何に対しての切り札なのか。まったく解せない。
「どうかしましたか?」
星川は思考するのをやめて、隣の氷野を横目で見た。
「あ、いえ、先輩がぼうっとしていたように見えたものですから、つい」
「いや。なぜ、殺さなくてはならないのか考えていたんだ。口論すら、するような子ではなかったそうだし」
「金品などが盗まれた様子もなかったんでしょ? 怨恨でしょうか?」
「衝動的な事件ではない、と考えるのが普通だ。とすると怨恨が有力ではあるけれども……」星川は顎に手を当て、考える。
氷野は静かにハンドルを切り、ゆっくりとアクセルを踏み込む。心地良いエンジン音だけが、車内に響いた。
マンションの駐車場に車を停め、星川と氷野は夜空を見上げた。
福田康子のルームナンバーをパネルに入力し、呼び出してみるが応答はなかった。何度か繰り返してみるものの、やはり返事はない。
仕方なく、管理人から貸してもらっている鍵を使ってマンション内に入る。
福田は四〇二号室住んでいるので、エレベータに乗って部屋へ向かった。
部屋の前のチャイムを押してみるが、反応はない。鍵が掛かっている。星川が氷野を見ると、彼は何も言わずに頷き、階段を下りていった。管理人の森に鍵を取りに行ったのだろう。それなりの仕事はできる。
待っている間も星川はチャイムを鳴らし続けるが、何の反応もなかった。チャイムが壊れているのかとも思ったが、ドア越しに微かに音が聞こえるので中に人がいれば気づかないはずはない。
令状はない。本来なら家宅捜索はできない。
「先輩、借りてきました」
氷野から鍵を受け取り、星川はそれをドアノブに差し込んだ。
かちゃり、と鍵の外れる音がする。
「福田さーん、警察の者です。少しお話を聞かせてもらいたいのですけど、上がらせてもらいますよ?」ドアの隙間に顔を入れて星川は呼びかけた。
少し待ったが、特に返事がなかったので星川達は部屋に上がることにする。
部屋の明かりはついていなかった。手探りで証明のスイッチをつけ、部屋の奥に進む。
「あれ?」
「どうかしましたか、先輩?」部屋の前で氷野が聞いてくる。
「あ、いや、いないんだ」
「え?」
星川はベランダや押入れなどを、氷野はバスルームなどを入念に調べるが、福田康子はどこにもいなかった。
しかし、いないはずはない。防犯カメラの映像ではたしかに……。
嫌な予感がした。
それは氷野も同様だったみたいだ。
映像では事件当日の午後三時三十四分に帰宅している。それ以降の外出した記録はない。
逆だ。
笹岡美智子とは逆の状況。
どうなっている。
何が起こっている。
どこへ、消えた?
笹岡美智子は殺されている。
となると……。
「まいったね」星川は舌を鳴らす。「遊井川さんに連絡して」
「はい」氷野は部屋を出て行った。
謎と被害ばかりが増えていく。
いや、まだ福田が殺されたわけじゃない。
しかし、嫌な焦燥に駆られているのは事実だ。
「まるで悪夢だ」星川は吐き捨てるように呟き、天を仰いだ。
増え続ける謎に、もはや思考が追いついていけない。
『わからない』ということだけが、少なくとも今わかっていることだった。
その後、どの住民の部屋も探したが、やはり福田康子はどこにもいなかった。
そんな気はしていた。
誰にも福田を匿う必要がない。
「福田が犯人でしょうか?」氷野が神妙な顔つきを星川に向ける。
「まさか」星川は首を振る。「福田が犯人のはずがない。防犯カメラの映像で笹岡美智子と入れ替わったのなら矛盾はなくなるけど、結果としては福田自身にしか犯行は不可能だと強調するだけだ。わざわざ自分の首を絞めるためにこんな面倒なことをするはずがない。それに、笹岡の口元のほくろ。あれは本人だよ」
「だけど、そうなると」
「ああ、不可能だ」
「先輩、近辺を捜索しましょう。もしかしたら何か見つかるかもしれません」
笹岡美智子が住んでいたマンションは海に近く、磯の香りもほんのりと漂っている。二人はしばらくマンション周辺を調べてみたが、特に何もなかった。
次に、海岸線の方へ歩いてみることにする。防波堤の方に、いくつかのライトが見える。夜釣りを楽しんでいる連中がいるのだろう。
二人は諦めて、違う道からマンションに戻ることにした。
海とマンションの中間距離の位置にプレハブが建っていた。ちょうど道路を挟んだ向かい側ということになる。大きめのサイズで、ただの物置という感じではなかった。その周辺には何もない。木々が数本立ち並んでいるだけで、何もなかった。
星川はそちらに歩いてみる。
戸のところにはどこにでもあるような南京錠が掛けられていた。海が近いから、ボートでも置いてあるのだろうか。
「どうかしましたか?」
そのとき、ある臭いが星川の鼻を衝いた。
嫌な臭いだ。
何だろう、ただのプレハブなのに。
戸に手を掛けてみるが、南京錠が掛けられているため開かない。
星川はプレハブの周りをゆっくりと歩く。
何もない。窓もない。
プレハブ小屋に入るためには正面の戸を開けるしかない。
「あの、先輩?」
星川は辺りの足元を目を凝らして探す。
手ごろな石を。
自分でも意外なほど、焦っている。
ただのプレハブ小屋なのに。なのに、なぜ。
なぜ、死臭がするんだ?
手ごろな大きさの石を見つけると、躊躇せずに南京錠に叩きつけた。
「先輩? 何してんですか、とち狂っちゃいました?」
星川は氷野を無視して、叩きつける。
何度かやるうちに、南京錠は壊れた。
星川は息を呑む。嫌な汗が纏わりつく。
戸に手を掛け、ゆっくりとスライドさせる。
臭いが強くなる。
死臭が直に鼻を衝く。
中には何もない。
鼻を衝く異臭と、死体があるだけ。
その死体は、福田康子だった。
福田は全裸で、トランプのカード、ジョーカーを握っている。
臭いがきつい。すでに腐敗し始めているかもしれない。
「氷野は応援を」
「はい」
氷野はマンションの方へ走っていく。
「くそ」
星川は舌を打った。
7
県警に戻り、様々な雑務をこなしたあと、笹岡美智子が殺害された事件の捜査本部が置かれている警察署に顔を出した遊井川は、第二の被害となった福田康子殺害の件について、詳しく話を聞いていた。
「死因は後頭部に殴打された痕が見られますので、恐らくはそれかと。死亡推定時刻は笹岡美智子が殺された日と同じということまでしかわかっていないそうです。詳しい時刻は検死結果待ちということになりますが、遺体の損傷具合から大きく崩れる可能性もあるとのことです」
「そうか」星川は何とか頷くと、力なく息を吐き捨てた。
「目撃情報なども当たってはいますが、今のところ有力なものはないということです」
遊井川がいるためか、淡々と真面目に報告をする氷野。
「鍵が掛かっていたということだけれど?」遊井川が星川に向いて首を傾げた。
「ええ、南京錠が掛かっていました。それを僕が壊して中に入ったわけです」
「問題なのはここです」氷野が遊井川に言う。
「問題?」
「はい。プレハブの持ち主はマンションの管理人の森甚吾なのですが、彼の話によりますと、鍵は掛けてあったということです」
「鍵が? え、どういうこと?」
「つまり、犯人は鍵を開け、犯行後に再び鍵を掛けたということです」
遊井川は怪訝そうに顔を顰める。
以前から鍵が掛けられていたとなると、犯人が犯行前に鍵を開け、また犯行後に鍵を掛けたということになる。つまり、不可能犯罪の代名詞、密室殺人だ。
倉庫に鍵が掛かっていなければ、犯行後に犯人が遺体の発見を遅らせるために南京錠を掛けただけということになるが、以前から掛けられていたとなれば話は大きく変わる。
まったく、笑えない状況だ。
最初の被害者の場合、いないはずの自室で殺されていた。
今度の場合、いるはずの自室にはおらず、鍵の掛かっていた倉庫の中で殺されていた。倉庫には窓はない。入り口の戸には南京錠。安物の鍵ではあるが、逆に仕掛けが施せない。
この犯行には絶対条件として、南京錠の鍵が必要になる。つまり、犯行が可能なのは倉庫の持ち主である森甚吾ということになるわけだが、問題なのはここだ。
容疑が真っ先に掛かることが容易に推測できる森甚吾が犯人だろうか。
どうも、犯人は切れ者のような気がしてならない。そんな犯人が、このようなミスをするだろうか。
いや、おかしなことはこれだけではない。
全裸の理由。
カードを残した理由。
防犯カメラの映像の矛盾。
どうしてこんな不可思議な方法で犯行に及ぶのか。犯人の意図するものは何なのか。
「使用されていた南京錠ですけど、まったく普通のもので怪しいところは何もありません。販売時期や購入店のリストを森の話などから挙げてもらっている最中ですが、特定できるような数ではないということです」氷野が資料を読み上げる。
「倉庫の鍵は? 確認できた?」遊井川は思考するのを止めて顔を上げた。
「はい。森甚吾の自宅に保管されていました。最近は持ち出したこともないとのことで、複製も無理かと思います」
「二つの事件に森甚吾が関係しているわけか。森甚吾が犯人ならば、いろいろと解決できる点も多いわね。映像のテープをすり替えたり、福田殺害の件にしては彼にしか犯行は不可能なわけだけど」
「しかしそれでも森が犯人ではないでしょう。捕まえて欲しいのなら、自首をすればいいわけですからね。たしかに二つの事件に関与していることは怪しいですけど、同じマンションの住民が巻き込まれた事件ですから現場も近い可能性も当然あり、たまたま偶然的に森が関わるような配置にいたということでしょう」
「そう、星川くんの言う通り」遊井川はゆっくりと頷く。「だけどそれ以外で、となると、不可能犯罪ということになるわよ?」
もし、倉庫の管理人でもある森甚吾が犯人の場合、鍵を掛けるメリットがない。鍵を掛けることで、真っ先に自分に容疑が掛かることぐらい想像は難くないはずだ。よって、森甚吾は事件に関与していないと判断しても構わないだろう。
それを見越しての犯行だとしても、最終的には逃げられない立場にある。とりあえず今は無視しても支障はない、と遊井川の思考は判断した。
ただ、問題はまだある。福田康子の場合、防犯カメラに映らずにマンションから出たという謎だ。笹岡美智子とはまったくの逆である。どちらかが解ければもう一方も解けるような連立方程式ならば楽なのだが。
「あの、遊井川さん」
「何?」遊井川は氷野に向き直る。
「最初の事件の第一発見者達と顔見知りのようですが、何か話は聞けたのでしょうか?」
「ああ、そうね、彼女らにも犯行は無理よ。学校で文化祭の準備をしていたみたいだから、一応アリバイは成立すると思うけど。まだ詳しい話は聞けていないけど、うん、彼女らの聴取は私に任せてね」
「そうですか」特に表情は変えずに氷野は小さく頷く。
「遊井川さんはこれからどうするんですか? 密輸の件もあるでしょう?」
「そうね。といっても私がこちらの捜査に加わったところで進展するわけじゃないでしょうし、引き続きこの件は星川くんに一任するわ」
「はい、わかりました」
「それにしても、すっかり朝ね」ブラインドの隙間から差し込む朝日を眩しそうに手をかざして、遊井川は言った。「今日も暑くなりそうだ」