醜悪で凡庸な恋
小さい頃に「大人びてるね」と言われてた人の予後は須く悪いらしい。
朱色の朝日が浮かぶ早朝の露天風呂で、僕は沸々と湧き上がる言葉の水泡に溺れて、息が吸えなくなった。
1ヶ月前、高校生の頃から交際を重ねていた彼女と別れた。
きっかけは些細なもので、彼女の浮気が発覚し、僕が後先考えずその場の怒りのみで振ってしまったのだ。
都合が悪かったのは彼女の浮気相手が僕の知るサークルの先輩であった事と、彼女が最後まで反省の色を見せなかったことで、それ以外は万事順調「こういうこともある」と高を括っていた筈だった。
ある日から、内包していた怒りが何の変哲もない日常を侵食して、21歳の僕はどうにも上手く飲み込む方法を知らずにいた。
大学に出てもつまらない、あれだけ楽しかった法学の授業が全て詭弁に思えて、頭に入らない。
仕方がないので全ての失恋後軽作業を終わらせた僕は、アテのないまま全てから逃げるように、電車へと乗り込みここまで来てしまった。
見知らぬ県の見知らぬ旅館は心地よく、い草の温かみと床の間に飾られた菊の優雅な香りは、現実から抜け出せたかのような開放感を常に端々へと漂わせている。
到着して始めの2日間は旅すがら購入した本に没頭し、そのうち外にも出るようになった。
順風満帆、一風順路。
人は失恋すると旅に出るものであり、そのうち全ての事柄は記憶の隅に消え失せて溜飲も下がり、また日常に戻れるタイミングが来る。
崇高な恋の終わりはそういう風に帷が降りるものだと確信があったし、それこそが大団円だと信じてやまなかった。
けれどこの地に来ても結局、彼女のことが頭から片時も離れずに僕は傷心し続けていた。
彼女の写真を見返しては己の体を慰めて、それに飽きたら今度は文学に没頭し、疲れたら現実逃避に布団の上へ寝転がる生活。
気丈であろうとする自分がこんなにも子供のように駄々を捏ね、気を紛らわすものがなければ失恋の傷すらも癒せないなんて、思いもよらなかった。
ある時、部屋に備え付けてあったティーポットで緑茶を作ってみた。
包装紙を適当に破いてはティーバッグをポットの中に入れ、その上からお湯を注ぐ。
香ばしい茶葉の香りと、お湯が徐々に深緑へ染まっていく様子が心地よくて、本の傍ら暫くお茶の完成を待った。
完全に色が出し切れた頃湯呑みに注ぎ飲み干すと、不思議なことにこの間だけは彼女の顔を忘れられたような気がしたのだ。
食事の時、旅館で働いていた若い女将さんに勇気を持って話しかけてみた。
「あの、部屋に備え付けてあるお茶って、何て言う茶葉か分かりますか?」
「あ〜、うれしの茶ね〜? 気に入ってもらえたら、うれしかなぁ」
着物の上からでも分かる膨らみを帯びたボディラインに、優しく笑う若女将の細くなった目尻が僕の視界に焼き付いて離れなかった。
それから、僕は隙あらばお茶を飲むようになった。
朝起きて一口、ぬるま湯で浸出させたものを飲み、昼前には熱いお茶を飲み、ティーバッグが足りなくなれば売店で茶葉を買って飲んだ。
湯気の立つ水面に茶柱が立ち、角のない甘味のある香りが部屋中を包む間だけ、彼女の顔を忘れることが出来たのだ。
今朝も起き抜けに一杯飲み、部屋風呂だけでは勿体無いと久々に大浴場で朝風呂を浴びている。
彼女の顔はもう浮かばない。
掛け流しの表層からシルクスクリーンのように浮かぶ湯気に、楽しかった記憶はもう投影されなかった。
これなら、失恋の責任は全て自分の中に収めて、逃避行から早々に足を洗える。
けれどそれでもどうしてか心の蟠りがいつまで経っても消えずにいて、僕はこの寂しさについて露天風呂で深く考え込み、そして気がついてしまった。
茎だ。僕が本当に愛していたのは、彼女の茎だったのだ。
まるで花が散った後の花瓶をいつまでも大切に抱えているようで、残った彼女の細く柔らかな茎だけは、どうにも忘れることができなかった。
僕が本当に忘れるべきは彼女の顔でも彼女との記憶でもなく、彼女の手触りであると気がついた時、途方もなく苦しくなってしまった。
これでは、お茶の華やかな香りに隠し続けても、己の体は少しばかりも慰められず、それどころか若女将に欲情するクソ野郎に成り下がってしまう。
欲しい。彼女の体が、もうどうしても忘れられない。
露天風呂から上がり、自分の雄々しく立ち上がった部位を隠すように脱衣所へと逃げ込む。
浴衣に着替える頃には落ち着いており、仄かに染み込んだ茶葉の香りが苦し紛れに心を押さえ込んでいた。
今では、床の間に飾られていたあの菊の花が憎たらしい。
承和色の花弁が一枚一枚床に落ちても、一本挿の白く柔らかな衣服で隠し続け、決して僕の前に見せなかった、あの深緑の茎が。




