第5回/本物のギャル
「どけ! どけ! どけぇ! ここで追いつかなきゃ、アタシらの物語はバッドエンド確定なんだよ!」
羽田空港、国際線出発ロビーへと続くエスカレーター。
アカリが厚底ブーツの音を激しく鳴らし、先行する旅客を縫うように駆け上がっていく。
背後からは、俺――真壁ハルキが、肺を焼くような呼吸を乱しながら必死に追いすがっていた。
「待て、アカリ……! そんなスピード出したら、転んで鼻の骨折るぞ!」
「折れてもいい! 整形代くらい、あの王子様に請求してやるから!」
彼女の髪は乱れ、さっきまでの修羅場でメイクもボロボロだ。
だが、その瞳だけは、俺が初めて彼女をスカウトした時よりも、ずっと眩しく、力強い光を放っていた。
空港の電光掲示板には、レオが乗るはずの北欧行きの便が「搭乗開始」の赤文字で点滅している。
俺たちは保安検査場の入り口に辿り着いた。
そこには、例の「黒スーツの男たち」に囲まれ、一人寂しく手荷物検査を受けようとしているレオの背中があった。
「レオォォォォォッ!!」
アカリが、周囲の視線も構わずに絶叫した。
警備員がぎょっとしてこちらを見る。レオが、ゆっくりと振り返った。
「……アカリ、さん……? それに、ミスター・マカベも」
レオの顔には、もう昨日のような熱狂はなかった。
どこか遠い世界を見つめるような、諦念に近い静かな表情。
彼はアカリの方へ数歩戻ると、悲しげに微笑んだ。
「もういいんです。僕は、分かっていますから。……最後に追いかけてきてくれて、ありがとう。でも、アカリさんは……『本当のアカリさん』に戻ってください。僕に、これ以上の嘘は……」
「うるっさいな、このバカ王子!」
アカリが、レオの言葉を遮った。
彼女は一歩踏み出し、レオの目の前で、いつものように腰に手を当てた。
「いい? よく聞きなさいよ。アタシはプロなの。プロっていうのはね、客が『もういい』って言っても、納得するまで最高のサービスを届ける義務があんの!」
「……え?」
「アンタがさっき言ったじゃん。昨日の涙はビジネスだったのか、って。……答え、教えてあげるわよ。あんなのね、ビジネスに決まってんでしょ! アタシ、演技派なんだから。泣くのなんて、目薬一本あれば余裕だし!」
アカリは、あえて突き放すような、いつもの「性格の悪いギャル」の口調で言い放った。
「……そう、ですか。やっぱり」
「でもね、レオ」
アカリが、レオのトレンチコートの襟元を、不器用な手つきで直した。
「ビジネスだからこそ、アタシはアンタに嘘はつかない。……アンタが日本で見た『オタクに優しいギャル』は、確かにハルキが作った偽物だったかもしれない。でも、アンタと一緒に笑って、アニメ見て、秋葉原を歩いたあの時間は……世界でたった一つの、アタシたちの『本物の仕事』だったんだよ。……それじゃダメなわけ?」
レオは、目を見開いた。
アカリの言葉は、論理的には矛盾している。
ビジネスだから嘘をつかない。偽物だけど本物の仕事。
けれど、その支離滅裂な言葉の中にこそ、彼女がこの数日間でレオに抱いた、名前のつかない感情が詰まっていた。
「……プ……プロの、仕事……」
「そう。だから、アンタは堂々と胸を張って国に帰りなさいよ。日本には、世界で一番可愛いギャルがいて、そいつがアンタのことを『最高の相棒』だって認めたんだから。……これ以上、何を望むの?」
アカリは、レオの胸をポンと叩いた。
「……ああ。そうです。そうでしたね」
レオの瞳に、再びキラキラとした輝きが戻ってきた。
彼は深く、深くお辞儀をした。
「……アカリさん。あなたはやっぱり、僕にとっての『本物の女神』です。……ハルキ。この女性を、僕のいない間、しっかり守ってくださいね」
「……言われなくても。こいつは俺の大事な『商品』だからな」
俺が皮肉交じりに答えると、レオは満足そうに頷き、今度こそ迷いのない足取りで検査場へと消えていった。
ゲートの向こうから、一度だけ、彼が大きく手を振った。
「……あーあ。行っちゃった。……マジで、疲れた。時給、十倍にしてくんないと割に合わないわ、これ」
アカリは、レオの姿が見えなくなると同時に、その場にヘナヘナと座り込んだ。
「……よくやった。アカリ。お前、最後のは百点の演技だったぞ」
「……演技じゃないし。本音だし。……あー、もう、喉乾いた。コーラ買ってきてよ、ハルキ。もちろん、アンタの奢りで」
俺は苦笑し、近くの自販機へと歩き出した。
空港の窓の外では、レオを乗せた巨大な機体が、夕焼けに染まる滑走路をゆっくりと走り始めていた。
俺たちの手元には、莫大な成功報酬と、ボロボロになった身体。
そして、胸の奥に残った、少しだけ切なくて、けれど温かい余韻。
俺がコーラを二本買って戻ると、アカリは搭乗ゲートを背にして、夕日を浴びながら自分のスマホを見つめていた。
「……ねえ、ハルキ」
「なんだ」
「これ。……今日の一枚。レオには送んないけど、アンタにだけは見せてあげるわ」
アカリが、スマホの画面を俺に向けた。
そこには、逆光の中で、少しだけ照れくさそうに笑うアカリの姿があった。
彼女はカメラに向かって、指でピースサインを作っている。
それは、俺が教え込んだ「媚びを売るためのビジネス・ピース」でも、レオを喜ばせるための「聖母のピース」でもなかった。
ただ、この馬鹿げた数日間を一緒に乗り越えたパートナーに向けられた、等身大の、本物のピースサインだった。
「……非売品だな、それは」
「当たり前。一点物だから。……保存していいよ、特別に」
アカリはいたずらっぽく笑い、俺からコーラを奪い取ると、一気に喉を鳴らして飲んだ。
空に、轟音が響く。
レオを乗せた飛行機が、重力に逆らって大空へと舞い上がっていった。
「……さて。プロジェクト『オタ優ギャル』は、これにて完結だ。……アカリ、次の仕事の話があるんだが」
「は!? 今終わったばっかじゃん! 休みくらいちょうだいよ!」
「次の依頼人は、北欧の別の国からだ。……『地雷系に踏まれたい、でも優しくされたい』という矛盾した欲望を抱えた、若きIT長者らしい」
「……何それ。矛盾しすぎでしょ。……で、予算は?」
「今回の三倍だ」
「……ま、仕方ない。アタシがいないと、この世界のオタクたちは救われないみたいだしね」
アカリは立ち上がり、乱れた髪をかき上げて、颯爽と歩き出した。
その背中は、もはや一介のフリーターのそれではない。
世界中の「夢」を背負って立つ、現代最強のプロフェッショナル――「オタクに優しいギャル」の背中だった。
俺は彼女の少し後ろを歩きながら、スマホのスケジュール帳を更新した。
『プロジェクト:オタ優ギャル・シーズン2。……ターゲット、全人類の理想。プロデュース開始』
嘘から始まった物語は、今、新しい「本物」を作り出すために動き出す。
俺と、彼女の。
救いようのないほどに愛おしい、ビジネスの続き。
夕日に照らされた空港のロビーに、俺たちの足音が力強く響いていた。




