第4回/ラストダンス
「……あー、もう無理。限界。アタシの女子力、マイナス一億まで振り切れた。今の顔、マジで誰にも見せらんないんだけど」
翌朝、スタジオの隅。
アカリが鏡に向かって、死にそうな顔で呻いていた。
昨晩の逃走劇と、その後の徹夜のアニメ鑑賞会。
レオの「このシーンの意図を教えてください!」という熱意にプロ意識で応え続けた結果、彼女の瞳の下には、どんなファンデーションでもコンシーラーでも隠しきれない立派なクマが鎮座していた。
「何を言っている。その『やつれ』すらも、レオにとっては『俺のために夜通し付き合ってくれた健気なギャル』という最高の属性に変換される。自信を持て」
「バカ言わないでよハルキ。健気とか、アタシのキャラ設定に一ミリも入ってないじゃん。……っていうか、アンタの方が顔色ヤバいよ? 幽霊かと思った」
俺は返事をする代わりに、三本目のエナジードリンクのプルタブを引いた。
スマホの画面には、昨日届いた「借金取り」からの催促メールが、未読通知の山となって積み上がっている。
『利息、さらに跳ね上がったぞ。今日中に一千万用意しろ。さもなきゃ、その女のツラを二度と表に出せなくしてやる』
笑えない冗談だ。
レオからの報酬を合わせれば払えない額ではないが、手続きには時間がかかる。
そして、レオを狙う「家の追手」もまた、秋葉原を包囲するように動いている。
内側には借金、外側には国家規模の政争。
俺がプロデュースした「偽物の楽園」は、今や賞味期限切れの果実のように、腐敗の香りを放ち始めていた。
「レオはどうした?」
「……まだ寝てるよ。あいつ、寝言で『アカリさん、作画……尊い……』って言ってた。マジで救いようのないオタクだよね。……でもさ」
アカリが、リップクリームを塗る手を止めた。
鏡越しに俺を見るその目は、演技ではない、一人の二十歳の女の子の不安に揺れていた。
「あいつ、今日帰るんだって。さっき、大使館の人が迎えに来るってメール届いたみたい」
「……そうか。なら、今日が千秋楽だな」
「ねえ、ハルキ。……最後に、あいつに本当のこと、言うべきかな?」
俺はエナジードリンクを飲み干し、空き缶をゴミ箱に叩き込んだ。
「言わせない。お前は最後まで『理想のギャル』でいろ。それがプロだ。真実なんてものは、大抵は救いにならない。レオは、お前という『嘘』を愛してるんだ。その夢を壊す権利は、俺たちにはない」
「……冷たいね。相変わらず」
アカリは自嘲気味に笑い、再びメイクを始めた。
だが、その指先がわずかに震えているのを、俺は見逃さなかった。
昼過ぎ。
スタジオの重いドアが、無作法にノックされた。
レオの迎えか、あるいは。
「……真壁、いるんだろう。アカリを出しな。さもなきゃ、このドアごとぶち破るぞ」
聞き覚えのある、下卑た声。
アカリの借金取り、鮫島だ。
最悪のタイミングで、現実が「夢」の扉を叩きに来た。
「アカリ、レオを奥の更衣室に隠せ。絶対に外に出るなと言っておけ」
「……ハルキ、アンタどうするの?」
「交渉だ。俺の最も得意な分野だよ」
俺は嘘をついた。
交渉なんて通用する相手ではない。俺はドアを開け、鮫島とその手下たちが並ぶ廊下へと滑り出た。
「なんだ、真壁か。その青白い顔、相変わらず不健康だな。で、金は用意できたのか?」
「……端数は揃えた。残りは明日の午前中までに振り込む。だから今日は引いてくれ。こっちには大事な『顧客』がいるんだ」
「はっ! 顧客? あの金髪の王子様か? 笑わせるな。あいつの家からも連絡が来てるんだよ。『レオ様を連れ出す邪魔をする奴は、好きにしていい』ってな。つまり、お前もアカリも、もう誰にも守られてねえんだよ」
鮫島の手下が、俺の胸ぐらを掴み、壁に叩きつけた。
背中に走る鈍い痛み。
視界が火花を散らす。
「アカリを出せ。あいつを売り飛ばせば、利息分くらいにはなる。……それとも、お前が代わりに指でも詰めるか?」
「……断る。あいつは……俺の、最高の商品だ。安売りするつもりはない」
俺が血の混じった唾を吐き捨てた、その時だった。
「――ストップ! そこまでです、野蛮な人たち!」
更衣室のドアが開き、レオが飛び出してきた。
その後ろで、アカリが真っ青な顔をして立ち尽くしている。
「レオ! 戻れと言っただろ!」
「嫌です! マカベさんが傷つくのを、黙って見ているなんてできない! アカリさんが泣きそうな顔をしているのに、一人で隠れているなんて、僕は……僕のアニメの主人公たちは、そんなことしません!」
レオは鮫島たちの前に立ち、震える手で懐から何かを取り出した。
それは、彼が大切にしていた、超高額の限定フィギュアの箱だった。
「これを……これを差し上げます! これは世界に三つしかない、伝説の……!」
「あぁ? そんなプラスチックの人形が金になるかよ。どけ、ガキ!」
鮫島がレオを突き飛ばそうと腕を振り上げる。
レオの瞳が恐怖に染まる。
その瞬間。
誰よりも速く動いたのは、アカリだった。
「……触んなっつってんでしょ。この、ゴミ虫がっ!」
アカリがレオの前に割り込み、鮫島の腕をその鋭いネイルで引っ掻いた。
さらには、履いていた厚底のブーツで、鮫島の脛を全力で蹴り上げる。
「痛ぇっ!? このアマ、やりやがったな!」
「やるよ! アタシがどんだけ苦労して、この王子様に『夢』見せてると思ってんの!? アンタらみたいな汚いおっさんが画面に入ってきたら、視聴率ガタ落ちだ! 放送事故なんだよ!」
アカリは仁王立ちになり、レオを、そして地べたに這いつくばる俺を庇うように叫んだ。
その姿は、俺が教え込んだ「オタクに優しいギャル」ではなかった。
口が悪く、暴力的で、けれど誰よりも真っ直ぐに「自分の領域」を守ろうとする、泥臭い一人のギャルそのものだった。
「……アカリ、さん……」
レオが呆然と彼女を見上げる。
「レオ、ゴメン。……アタシ、ホントはこんな奴なの。アンタが好きな『優しいギャル』なんて、全部このハルキって男が作った偽物。……アタシ、アンタのことなんて一ミリも分かんないし、アニメも意味不明だし、ただ金のために優しくしてただけ。……最悪でしょ?」
アカリの声が震えていた。
彼女は、自らの手で「聖域」を壊した。
鮫島たちが逆上し、一斉にアカリへ掴みかかろうとした瞬間――。
スタジオの外から、けたたましいサイレンの音が響き渡った。
「――動くな! 警察だ!」
踏み込んできたのは、地元警察の集団。
そして、その背後には、レオの家の使いであるはずの、あの「黒スーツの男たち」のリーダーが立っていた。
「……レオ様。お怪我はありませんか?」
リーダーの男は、鮫島たちが取り押さえられるのを冷ややかに見つめ、俺たちの前で深く頭を下げた。
「……どういうことだ?」
俺が問いかけると、男は淡々と答えた。
「レオ様から、昨晩メッセージをいただきました。『私の友人が、悪質な犯罪者に脅されている。助けてくれないなら、私は今すぐここで自決する』と」
俺はレオを見た。
彼は顔を真っ赤にしながら、恥ずかしそうに鼻を擦った。
「……日本のなろう小説で読みました。『力には、より大きな力をぶつけるのが王道だ』って」
「……お前、マジで極端なんだよ」
俺は安堵のあまり、その場に仰向けに倒れ込んだ。
借金取りは消え、レオの安全も(一応は)確保された。
だが、代償は大きかった。
アカリは、レオと目を合わせられずに、俯いたまま立ち尽くしている。
「……レオ。ごめんね。嘘ついてて」
その時、レオのスマホが鳴った。
大使館からの、最終通告。
空港へ向かうための車が、ビルの下に到着した。
レオは、しばらく沈黙した後、ゆっくりとアカリに向かって歩み寄った。
「……アカリさん。一つだけ、質問してもいいですか?」
「……何?」
「昨日の夜、僕と一緒に観たあのアニメ。……最後のシーンで、二人で一緒に泣いたのは、あれも『ビジネス』だったんですか?」
アカリの肩が、びくりと跳ねた。
彼女の脳裏に、台本にはなかった、深夜の静寂の中で流した涙が蘇る。
「……そんなの」
彼女は、答えられなかった。
「ミスター・マカベ。空港まで、送ってくれますか?」
レオは俺にそう告げ、スタジオを出て行った。
アカリの手を引くこともなく。
俺は立ち上がり、ふらつく足でアカリの隣に並んだ。
「……アカリ。クビだ」
「……わかってるよ。……最低の結末だね、プロデューサーさん」
「ああ。だが、まだエンドロールは終わっちゃいない。……走るぞ。最後くらい、お前の『仕事』を完璧に終わらせてこい」
俺はアカリの手を掴み、外へと走り出した。
秋葉原の街を、全力で駆け抜ける。
偽物の女神と、クズなマネージャー。
俺たちの「賞味期限」は、もうとっくに切れている。
けれど、まだ、伝えなければならない「嘘」が残っていた。
「待ってろ、レオ! まだ、お前の『夢』の続きを見せてやる!」
俺の叫びは、昼下がりの秋葉原の雑踏に、虚しく、けれど力強く響き渡った。
空港へ向かう車。
そのテールランプを追いかけて、俺たちは「現実」を振り切るように、アスファルトを蹴った。




