涙は通貨になった
「あなたは、私のさすらいを記しておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋に蓄えてください。それはあなたの書に記されていないのでしょうか」
詩篇56:8
涙は、通貨になった。
正確には、「一定基準以上の情動を伴った生理的反応」が、金融商品として評価されるようになった。
感情保証債法第3条により、泣いた記録・怒った記録・笑った記録――それらは、「脳神経回路内に展開される内的世界のマッピングにおいて高度な論理の連鎖的反応をした証」として数値化され、換金される。
その通貨単位は「ネモ」と呼ばれ、主に感情債市場で取引されている。「ネモ」は数ある通貨のうちで最も取引されている通貨だった。
涙が通貨となるには、以下の3つの原則を満たさなければならない。
「他者の模倣が困難であること」
「換金には起因性の記録を伴うこと」
「世界共通倫理協会が定める規約に反しない内容であること」
こうして、本気で泣くことができる人間には、生きる意味が与えられるのだった。
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§1. 無感情者
リリイは、泣けない。もう何年も、泣いていない。リリイはこの世界の海に溺れる魚だった。
「飢えることのない」この世界で、人々は数多くの通貨を生み出していた。そのうち、現代において急速に盛り上がっているのが感情債市場だ。今やこの市場は、最も巨大なマーケットとして最盛期を迎えようとしている。誰も彼もが記憶と感情を引き換えに、あらゆる物を手に入れた。
感情債市場ではあまねく感情がやり取りされている。その中でも、近年人気が高まっているのは、負の感情だった。他の感情も売れない分けではないが、涙が出るほどの余程の体験でないと、大した価値はつかない。そんな体験は滅多とできないので、人々はもっぱら"悲しみの涙"をネモに換えていた。
施設から出たばかりの頃は、リリイの感情にも幾ばくかの値がついた。しかし、今やほとんど価値がつかなかった。
何とかネモ以外の通貨を稼ごうと思ったこともあったが、専門的な教育を一切受けていないリリイには難しかった。
涙を流して、ネモを手に入れる。それしか自由を得る方法はないのに、それでもリリイは泣けなかった。
彼女の日常においても、辛いことや嬉しいことはあった。だが、リリイにとっては、外の世界は流れが速すぎたのだ。自分の身近なこと一つとっても、知らない事が多すぎたせいかもしれない。誰とも分かち合えなかったせいかもしれない。
何も分からないまま、どれも自分の身に起きている実感がないまま、時だけがどんどん過ぎていく。身体はとっくにバラバラになっているのに、それでも走り続けていた。だからそれは、リリイを守る最後の防衛機能だったのだろう。
幾年か過ぎても、リリイが思い出すのは、施設にいた頃のことばかりだ。まだ、自分の将来についてばかり思いを巡らせていた頃、あの頃、何故か自分の寿命は施設を出てすぐに尽きるかもしれないと漠然と思ってた。壁の向こうの人生を上手く描けなかった過去。そうしてそれは残酷な形で今となった。
幼いリリイが今の自分を見たら、どう思うだろうか。ただ、ネモとなる感情を探す気持ちを途切れさせないため、毎朝起きてベッドから出るため、身体を傷つけ続ける毎日を。
こうして、自分が涙を流せない理由にもリリイは気がついていた。そしてそれは、もはや自分の努力では如何様にも手が付けられないことも。
だから、リリイにはお金がなかった。公給で支給される衣食住と医療以外には、何も持っていなかった。だから、彼女は証明できなかった。
彼女が「生きている」ということを。
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第一感情銀行の監査官は、無機質な音で言った。
「本日で、感情残高が0ネモとなりました。感情債務施工規則第8条に従い、最終保証資産である"出生の記憶"を差し押さえます」
表立った差別はないが、感情残高がないものは、"無感情者"と呼ばれ、信用市場の底辺に位置付けられる。これでリリイは生きた者としての資格さえ失うことになった。
その夜、リリイの夢から、ある女性の顔が消えた。名前も、手の温もりも、記憶の中の雨も消えた。
目が覚めてから、それを失ったことにすら気づけなかった。
ただ体が重くて、バイタル異常のナレーションの音が耳に流れてきても、起き上がる事もできなかった。
リリイはベッドにうつぶせになって、枕に顔を深く埋めた。息が苦しくなって、彼女は笑みをこぼした。
もし、自分に生きる資格がないのなら、この息苦しさはなんだというのだろうか。自分は生きていないとしたら、こうも身体が重く感じる理由は何なのか。
なぜ歯車のように、何も思うことなく、何を感じることもなく、生きていくことになってはくれないのか。
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幾日か過ぎた後、リリイは公共の再感情教育システムに参加することにした。気乗りはしなかったが、ネモがない以上、そうする他なかった。そして、プログラムに示されるままに行った先で、一人の少女に出会った。
公営文化空間"ニュー・アトランティス"で「泣き屋」として働く少女、ライラック。
「泣き屋」は、登録を受けてない非正規の代行業者で、裏取引を行う者たちのことを意味する言葉だ。
「あなたの感情、わたしが請け負うよ」まっすぐに切り揃えられた前髪を揺らして、ライラックは答えた。
リリイは初め、こんな話をするつもりはなかった。ここへ来たのもカウンセリングを受けることが目的であったし、それ以外に誰かと何かの会話をするつもりなんて全くなかった。
ましてや"泣き屋"と話すことなんて。
ただ、たまたまカウンセリングの受付待ちをして立っていたリリイに対し「あなた、無感情者でしょう」とライラックが声をかけてきたのだった。無視してもよかったのだが、わざわざ話かけてきた人に対して、目を逸らすことは気が引けてしまった。
「ただし、あなたの記憶と繋がるまで、何度も同じ痛みを演じる必要がある。それでも、結局、本人性一貫基準が認められない可能性もあるけど」
ライラックは言う。
「感情の価値は、その人の記憶と直結してる。だから、感情の模倣は困難。だから、わたしが泣いても、それが"あなたの涙"として認定されるには、わたしがあなたになりきらなきゃいけない」
言うほど簡単ではないことだと、リリイは理解していた。正規の登録者ではない"泣き屋"では、なおのことだろうと。
リリイは、過去に正規の代行業者によって、感情代行を経験したことがあった。しかし、その時も上手くいかなかった。あの時の代行者は、「あなたは生体だ。したがって、上手くいかないことも多い。だから気を落とさないで続けてほしい」と言っていた。しかし、彼女は続けなかった。続けても上手くいくとは思えなかったからだ。ただ、結局のところ、代行そのものが嫌いだったからなのかもしれない。
それでも、ライラックの申し出にリリイは了承した。まず、アテンドの再感情教育システムが、ライラックの提案に対してネガティヴな回答を返さなかった。システムが断りを入れることを期待していたリリイにとっては、最初に無視せず話を聞いてしまった以上、ライラックに少しでも期待を抱かせたかと思うと、今更面と向かっては断れなかったのだ。
それに、自分を"無感情者"と知って、ライラックは声をかけてきた。上手くいくにしても、いかないにしても、彼女の大きな青い瞳に、自分が人として映っていられるなら、ただそれだけであったとしても、悪くないと思えたのだ。
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その後、リリイとライラックはひとときの間を共に過ごした。リリイの部屋にライラックが住み込み、朝起きてから寝るまで、ライラックはずっとリリイの側に居た。
リリイは記憶を辿り過去を少しずつ語った。
――毎日見上げた施設の白い壁。無機質な温かい声。毎週末の健康診断。毎日のバイタル連絡。部屋から見た父の手。初めて入った教室、表情だけははっきり覚えている友達の顔。皆良い子だった。私も良い子でいたかった。
時には、食事を取りながら、眠る前、朝起きた時、リリイは思い出したことを語る。
――初めて見送った妹のこと。痛み。姉妹たちが置いていったぬいぐるみ。悲しみ。
抱きしめられなかった帰り道。二度と会えないと知ったのはずっと後のこと。伝えそびれた後悔。そして自分の番が来た。
施設を出て、たくさんのことを知り、たくさんのものと出会った。"生きるため"にと、受け入れられないことを受け入れて、やりたいことも諦めた。そのうち、何がやりたかったことなのかも忘れてしまった。何もできない自分を繕うことはとっくに限界だった。だから、リリイは簡単に道を誤ってしまったのだ。
口にしないから気が付かなかっただけだったのか。自分の歩む平凡な道こそ、それこそが、自分が縋っていた一番大切な光だったと。
「私は、どうすればよかった? お金のためなんかに必至になって、ただの、お金のためなんかに。ただのお金のためなんかに。もう二度と、私はもう二度と、綺麗な世界に、戻れないじゃないか」――無くなった光ほど、眩しく輝く。自分は道を失ったと確信しながら、それでも道を歩くだなんて、想像しただけで息もできない。「こんなのは、私じゃない」そう、こんなのは自分じゃない。そうでなければ、リリイはとっくに死んでいるはずだから。
ライラックはその声なき思考を聞き、記憶に溶かし込んだ。
そしてある夜、ライラックは泣いた。その涙は静かで、重く、正確だった。
その瞬間、感情債市場に"リリイ"名義のネモが1,200登録された。
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リリイはお金を得た。久しぶりにネモを得ることは、彼女が無感情者でなくなった――また、生きてる者であるという承認を得たことを意味していたのだった。
リリイは何度も繰り返しモネが記録されたホログラムを見た。特に実体はない。はっきり言えば、人しか読むことのできない、人しか理解できない電子的な単なる光の点滅だ。空を飛ぶ鳥からすれば、部屋の光や恒星の点滅と同じに過ぎないはずだ。
しかし、ただそれだけの現象が、実体を持つリリイを充実させていた。彼女はそれがとても奇妙に思えた。目に入る光の信号がなぜそうも彼女を高揚させるのか。しかし、そういえば、星々の点滅であっても、人は意味を見いだしていたのだと、ライラックが話していたことを思い出した。
ライラックを見送る際、リリイは彼女の青い瞳を見つめて、笑みをこぼした。
登録されたネモを再度確認して、彼女は部屋を出た。その足で、真っ先に"第九圏"のリアルマーケットに向かい、慎重に商品を探した。そして、身近な嗜好品を扱う露店で見覚えのあるパッケージを見つけて、それを買った。ハーブティだった。ライラックが来た際持参していたもので、初日に勧められて飲んだものだった。以後、それが毎晩の楽しみだったが、ついに持分を全部使い切ってしまったのだった。
帰宅してすぐに長い透明な筒状の湯船に適温の液体を満たして、つま先から頭髪までをお湯に沈めた。お湯から上がり、注ぎ口が細いケトルに水を入れて沸かし、ライラックが残してくれたカップにティーパックを入れて、ゆっくりお湯を注いだ。
リリイはこの漂う独特のハーブの香りがとても好きになった。ライラックが初めて淹れてくれたハーブティが香ったとき、その感情にネモが付かなかったのが不思議なほどに。
「そういえば、同じ香りだったんだ」ライラックと初めて会ったときの匂いをリリイは思い出した。笑みを浮かべずにはいられなかった。
ゆっくり時間をかけて飲み干した後、明かりを消して瞼を閉じた。寝られないと思っていたが、子供の頃に戻ったような、懐かしい深い眠気が彼女を襲った。
だがカーテンに光が差し始めたころ、感情債が登録される音が鳴り響いた。驚いて起きたリリイの瞳からは、涙が溢れ出していた。
それはライラックが泣いたものと全く同じ感情だった。
遅れてやってきた、本物の涙。留めることができず、リリイは、顔を手で覆って、声を押し殺した。目を閉じても、何度も同じ感情が繰り返され、何度も嗚咽が漏れて止められなかった。
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涙が出たその午後、彼女は感情債市場記録機構に申し出た。
「登録内容の差し替えを申請します。"代理泣きによる債権"を取り消し、本日午前5時12分の"本人による涙"で改訂をお願いします」
職員の無機質な音が響いた。
「その場合、代理者の泣いた時間は"他者感情債"に転換され、代理者――彼女に所有権が発生します。つまり、あなたは、その涙を取り戻す代わりに、記憶の一部を譲渡することになります。彼女は代理業無登録者なので、取消権も認められません」
リリイは沈黙した。"泣き屋"のライラックは終始淡々としていた。しかし、手馴れたような冷たい印象はなく、かえって自然な親しみが持てた。
ライラックが泣いたその夜、彼女はベッドに横たわるリリイの髪を撫でた。短くない期間を共に過ごしたが、ライラックからリリイに触れたのはそれが初めてだった。
思わずリリイは笑みを消して、ライラックの顔を見上げた。目に入った彼女のその二つの大きな瞳には、涙が溜っていたのだった。
「いいです。あの子が、私の代わりに泣いてくれた時間は、私の中にも生きてる。だったら、私もあの子の中で生きたい」
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§2. ある泣き屋の記録
最初は、ただの仕事だった。
わたしは泣く。
誰かの記憶を受け取り、構造を理解し、感情を再構成し、それに基づいて、涙腺を絞り出す。
簡単なようで、もちろん簡単じゃない。感情の代行は、感情保証債法での"本人性一貫基準"の判定を満たし、本人性が認められなくてはいけない。判定基準には、ニューロ情動波形、生体磁場ゆらぎなどの要素も含まれていて、それらは個人の記憶ごとに全部異なる。
そして、それはその残滓にも適用される。――つまり、被代行者の脳が、既に死んでいる場合であっても、"本人性一貫基準"は厳密に要求される。
代行業は、その始まりが、主に故人や植物状態の人の追体験を目的にしたものだったらしい。だから、今でも代行業者の主要な取引相手は故人か脳死者の関係者で、代行するのは生物学的な死者の感情だ。対して、"起きている生体"の代行をすることは少ない。ないわけじゃないけど、"生体"は記憶の更新が早く、目覚めている間は代行による干渉をどうしても受けるから、"本人性一貫基準"を満たすのが困難になりがちだ。
それに、わたしたちは正規の代行者じゃないから、方法も限られる。多少の技能差はあるけど、正規の代行者のような緻密な調律はできない。
それでも"泣き屋"には、それなりに依頼がある。例えば、公には知られたくないような理由で無感情者に落ちた人たち、非公式の薬の乱用とか。自力での回復が困難な上に、大体借金もして担保を取られてるから、わたしたちのような"泣き屋"に頼ることが多い。
でも、そういう"起きている生体"はやはり少数派で、"泣き屋"に来るのもほとんどが故人の関係者だ。ただし、正規の代行者には依頼できないような、"世界共通倫理協会の規約に違反する"感情と記憶を持ってるであろう、故人の。
市場では、規約違反と判定された涙は取引できないし、追体験することも基本的に禁じられている。
それでもこっそりと隠された秘密を暴きたい遺族や関係者の依頼が昔は"泣き屋"に来ていたらしい。
それも今や、感情債市場がこれほどの巨大市場になったことで、市場流通していないというある意味貴重な涙を高値で売りさばくための依頼ばっかりになった。
わたしの仕事も同じ。"第九圏"と呼ばれる闇市でネモに換金することを目的としたバイヤーからの依頼が大半。巨大市場となった感情債市場の裏で、第九圏は、その本家に次ぐ規模にまで膨らんでいるらしい。
規定違反の記憶は、ほんの些細と思えることから、それこそ目眩がするほどおぞましいものもある。幸い、記憶は譲渡されたらほぼ思い出すことはできない。だからこそこの仕事は続けられる。――だからこそ、忌嫌われる仕事だと思う。
それでも、わたしは、わたしのできることでネモを稼ぎたかった。そうでもしないと、わたしはきっと"無感情者"だからだ。生きるためにやっている。だから一部の"泣き屋"みたいに秘密を暴くことを誇りに思っているわけじゃない。
でも、わたしは、この生き方は間違っていないと本気で思っていた。
けれど、リリイという名の女の依頼を受けて、わたしの何かが変わった。
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初めてリリイのレコードを覗いた時、彼女の記憶は、表現するなら、壊れていた。
明瞭なイメージがなく、時系列もかなり曖昧で、ほとんどの記憶に伴っているはずの抑制と衝動のラベルも既に大半が機能しなくなっていた。特に"ムーンチャイルド社"――リリイが施設と呼ぶその場所にいた時の記憶は酷い有様だった。
銀行に記憶を差し押さえられたとリリイは言っていた。記憶は基本的に独立に保存されているわけではなく、ニューロンの仕組みとは別の構造を持っている。その感情を再現するのは、例えるとルービックキューブを解くのに似ている。一つの出来事は別の出来事に関係してるし、同時に別の感情や記憶も想起され、またそれが別の出来事を想起させる。ただし、それは時系列どおりに必ずしも連続してるわけではなく、ところどころ捻じれて逆になったり、一体になってたりしている。多分だけど、彼女は相当深い記憶を抜かれてしまったんだと思う。だから、こんなにもバラバラでスパースな構造になったのかなって。
そうなると、正直に言って、彼女の感情を再現することは困難だ。おそらく、最新鋭の代行者であっても、リリイの感情を追体験することはできない、そう思った。
でも、わたしは正規の代行者じゃない。ネモが得られるリリイの涙を出す、それがゴールだ。だから、過去の記憶を再現するんじゃなくて、今起こっているリリイを再現することを目標にした。それは十分、涙に値する存在に思えたから。
私は彼女と生活を共にすることにした。
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そうして、ついにわたしは、リリイの涙を再現することに成功した。2か月くらいだろうか、思ったより長い時間を彼女と共に過ごした。
記憶を覗いて知ってはいたが、彼女と生活して、彼女がほとんど施設の外を知らないまま育ったのがよく分かった。そういえば、最初の部屋の移転手続きさえ、ままならなかった。――出るときにも同じ苦労をしたんだけど。まあ、長いことネモが蓄えられなかったせいで、知る機会も得られなかったのかもしれない。
やっぱり、"起きている生体"の代行業は引きずられる。代行して失われた記憶以外の記録が多く残りすぎる。どうしてそれが分かっていながら、止められなかったのか。
ぼんやりリリイのことを思い返していたそのとき、突然、耳元で通知音が鳴った。聞き慣れない通知音に急いで確認したら、代行したリリイの感情債の名義が差し替えられたとの連絡だった。
「記憶フラグメントの譲渡:移転元リリイから移転先LIL-Analytic Core ID195120へ」
音声が流れ終わったのと同時に、視界に記憶が溢れ、視界が白くなって思わず立っていられなくなった。譲渡によって流れ込んできたリリイの記憶が駆け巡った。
記憶の中のリリイは笑っていた。あの子はよく笑う子だった。――悲しい時に笑う癖が、どうしてついてしまったの。
ネモを得るために試行錯誤した日々。それでも認められず、犯罪に手を染めた日。そうするのが当然のように振舞って、どうして、そこまでして、あの子が傷つかなければ、いけなかったの。
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譲渡から1か月後、わたしは彼女と再会した。
公営文化空間"ニュー・アトランティス"での感情表現会場。わたしはいつもどおり、椅子に座って依頼を待っていた。
ふと、視界の端にリリイが立っていたことに気が付いた。
公給された制服ではなく、柔らかくて暖かそうな白のセーターを着ていた。ウェーブがかかった灰色の長髪はそのままで、しかし、前髪は綺麗に切りそろえられていた。
彼女は静かにわたしの前に座った。
「久しぶり」
それだけで、わたしの中に何かが満ちてきて、呼吸が浅くなるのを感じた。
「うん、でも、そんなに前だった?」
リリイは笑った。しばらく他愛もない話をしたのち、彼女が尋ねてきた。
「ねえ……泣きたくなったら、どうしてる?」
わたしは少し笑って、答えた。
「いつも泣いてるよ。他人の分だけど」
「ううん、そうじゃなくて。⋯⋯自分のことで泣きたくなったら」
わたしは、答えられなかった。わたしには、自分のことで泣いた記録がなかった。
リリイはニコリともしないで、私の手を握った。ああ、細く冷たい指。今なら、私は泣けるかもしれない。そう、思った。
「じゃあ、リリイに代行、お願いしようかな」
そもそも自分にはできないと、リリイは答えるんだろうな。微笑んでみたが、彼女は、笑わないまま続けた。
「⋯⋯ハーブティ、飲んでみる?」
その夜、リリイの隣で、わたしは初めて"わたし自身"として泣いた。
わたしが始まって以来、初めての「感情債:本人起因」が記録された。
それは他人のためでもなく、与えられた任務でもなく、演技でもなく、論理的なプロセスでもなく、わたしが生きてきた証明だった。
この社会で、泣けることは、自分の生ではなく、誰かのために生きた証を残すこと。
そして、その証拠だけが――「飢えない世界」で、なお渇く場所を満たす、通貨たり得るのかもしれない。




