境界を渡る者たち 第2部 ~あなたは、誰だったのか~
名前を与えられた瞬間から、
私たちは「誰か」になり、
それを失うまで、その名の重みに気づかない。
記憶とは、自己の輪郭を縁取る断片だ。
だが記憶が薄れても、生きた痕跡は消えない。
誰かと出会い、誰かに触れ、誰かを信じた時間は、
沈黙の瓦礫の下でなお、熱を持ちつづけている。
この第二部は、「かつて誰かであった者たち」が、
過去に投げかけた問いの残響をたどる旅である。
それは過去の回収ではなく、
失われた“名前”と“意味”に、再び光を当てる試みでもある。
あなたは、誰だったのか。
その問いの先にある沈黙を、
彼らと共にもう一度、歩いてみてほしい。
第14章 再出発の朝〜歩き出し
雨は夜のうちに止んでいた。
濡れた地面がまだ鈍く光り、街の骨のように残ったビルの影が、冷たい朝の空に長く伸びている。
湿った空気を吸い込みながら、咲良は弟の額に手を当てた。熱は下がったわけではないが、昨夜よりはわずかに呼吸が穏やかだった。
「歩けそう?」
彼女の声は、眠りの底にいる弟を呼び戻すようにゆっくりと落ちていく。
少年はまぶたを重く開き、何度か瞬きをしてから、小さくうなずいた。
アイリスは無言で弟の手を取り、そっと立たせた。
人間に触れるその動作はぎこちないまま、しかし昨夜までとは違って、そこにわずかなためらいのやさしさがあった。
薄明の中で地図が広げられる。紙は湿気で波打ち、かつての都市の名残が滲んで読みにくい。
彼らの指先が指し示したのは、まだ見ぬ医療シェルターの印。誰かが描き残した古い標。
そこまで行けば、薬があるかもしれない——ただその望みだけで、次の足を進める。
足を踏み出すたび、アスファルトの上の水たまりが静かに砕けた。
道の脇には崩れたビルの骨組みが林立し、そこに絡みつく蔦の緑が朝の光を吸い上げる。
この都市の廃墟は、静かに自然に取り込まれ始めていた。
「少しだけ、景色が違うね」
咲良の言葉に、アイリスは短く頷いた。
彼女の瞳に映る世界が、人間のそれとどれほど違うのか——咲良はまだ知らなかったが、その横顔にはわずかに何かが揺らいでいるように見えた。
やがて、沈黙が戻る。
朝の空気には、何かを待つような張りつめた気配が漂っていた。
その見えない気配を背中に感じながら、四人は言葉を少なく歩き続けた。
瓦礫の途切れた先に、思いがけず空の広い場所が現れた。
倒れたビルの隙間から入り込んだ風が、草の匂いを運んでくる。
崩壊した都市のただ中に、自然が息を取り戻そうとしている一角だった。
弟はその匂いに顔を上げ、ゆっくりと息を吸い込む。
咲良は小さな笑みを一瞬だけ浮かべ、すぐに歩みを緩めた。
少しでも彼の体に負担をかけないように。
アイリスは無言で弟の横顔を見ていた。
その瞳に映るのは体温の揺らぎだけでなく、人間の顔の変化を計算のように追っているのだろう。
しかし、そこにはわずかな戸惑いの影が差していた。
「……ここからは、少し道が荒れる」
先に立つユリウスが、低く呟く。
足元には砕けたガラスと濡れた鉄骨が散らばり、草むらの中には錆びた機械の残骸が半ば埋もれていた。
足音が、次第に廃墟の奥に吸い込まれていく。
鳥もいないこの街の中で、風だけがときおり木々を揺らし、そのたびに何かが潜んでいる気配を呼び覚ます。
咲良は無意識に背筋を伸ばした。
この静けさは、ただの静けさではない。
誰かの視線が背に貼りついているような、見えない圧力があった。
アイリスの足が一瞬止まる。
「……感じる」
短い言葉の後、彼女は周囲に視線を巡らせ、再び前を見据えた。
その顔には、冷たい金属の無表情の奥で、かすかな警戒の色が浮かんでいた。
足音を立てぬように一行は速度を落とした。
風の音が耳に絡み、呼吸が自分のものではないように重くなる。
遠くで、何か硬いものが地面をかすめる音がした。
「追ってきてるの?」
咲良の声は、囁きのように小さかった。
ユリウスは首だけで後ろを見やり、短く答える。
「まだわからない。けれど、近い」
弟は姉の袖を掴み、口を閉じたまま歩いている。
その手の温かさが、彼の不安の大きさを物語っていた。
咲良はその指先を握り返し、かすかに笑いかける。
アイリスは立ち止まり、瓦礫の隙間をじっと見つめた。
「視覚センサーでは何も。けれど音は、規則性がある」
機械的に聞こえる言葉の奥に、警戒と推測が滲む。
「廃棄体か、それとも……」
ユリウスが呟き、言葉を切った。
その眼差しは、数々の遭遇を思い出しているようだった。
進むにつれて道はさらに狭く、両側を鉄骨が塞ぎ、頭上には蔦が絡む。
この閉じられた回廊のような道の向こうで、何かが待っている。
その確信だけが、彼らの歩調をさらに重くした。
瓦礫の道が、行く手でふいに開けた。
目の前には広場のような空間があり、崩れ落ちたコンクリートの壁と、風に揺れる草だけが広がっている。
その静けさが、かえって音を飲み込むようで、耳が痛いほどだった。
誰もいないはずなのに、誰かがいる。
そんな感覚が、咲良の背中を針のように刺していた。
弟の小さな肩越しに、空気の重さまで感じ取ろうとする。
ユリウスは手で合図を送り、四人は広場の入口で足を止めた。
彼の視線は地面のわずかな乱れに吸い寄せられている。
足跡とも言えぬ影のような跡が、瓦礫の隙間に沈んでいた。
アイリスが一歩、前に出る。
金属質の脚がわずかに軋み、その響きが広場に広がる。
返事のように、風がどこかで何かを叩いた。
沈黙の中で、呼吸の音だけが重なり合った。
咲良は唇を噛み、弟の手を握る力を少しだけ強くした。
次の瞬間、広場の奥の陰影が、ゆっくりと揺れた。
影は、沈殿した空気の中から、まるでそこに最初から在ったかのように姿を現した。
廃墟の奥にひっそりと佇んでいた柱の陰、それがゆっくりと形を変え、輪郭を帯びてゆく。
細く、長く、だがどこか人の形に似ていて、けれど明らかに違っていた。
咲良は息を呑み、弟の背に手を添えた。
影の動きに応じて風が逆巻く。広場の草がさわさわと音を立て、瓦礫の隙間を吹き抜けた。
その者の身体は黒く鈍く、陽を跳ね返さない材質で覆われていた。人工皮膚ではない、骨のように乾いた何か。
ユリウスがすっと前に出た。右手はすでに腰にかけたナイフの柄に触れている。
しかし刃は抜かない。相手の出方を待っているのだ。
アイリスも咲良の隣に立ち、視線だけで彼女と少年を庇うように動く。
影はまだ言葉を発さない。ただ、こちらを見ていた。
その目は、目とは呼べぬ楕円の発光体で、静かに、ひどく静かに輝いていた。
そこに敵意があるのか、意図すらあるのか――誰にも判断できなかった。
場を裂くように、風が吹いた。
乾いた草の葉が舞い上がり、視界をかすめる。
その瞬間、影はわずかに顔を傾けた。まるで、「見た」とでも言うように。
「名を、名乗れ。」
沈んだ声が空気を割って響いた。低く、擦れたような質感。だが、明らかに人語だった。
誰も即答しなかった。咲良は無意識に弟の肩を抱きしめ、ユリウスはナイフの柄から手を離さず、しかし少しだけ姿勢を解いた。アイリスだけが、一歩だけ進み出た。
「……私たちは敵意を持っていない。ただ通過しようとしている。」
その言葉はまっすぐだったが、慎重に、慎重に選ばれていた。
影は微動だにせず、ただその発光体のような目で彼らを見据えていた。
「敵意の有無は、言葉よりも――行動で計られる。」
再び、重く響く声が落ちた。まるで空間全体が応答するかのように、沈黙が襲ってきた。
ユリウスがついに口を開く。
「こちらにそのつもりはない。ただ、道を探しているだけだ。君の名前は?」
少しの沈黙。その間に、影の輪郭が微かに震えたように見えた。だが、それは風の揺らぎか、意志の現れか、誰にも分からなかった。
「……名は捨てた。かつて呼ばれていた名なら――レムと、記憶している。」
その声に、人間らしい響きはわずかにあった。だがそれは、機械の底に沈んだ記憶のかけらのようで、どこかにひび割れた孤独を孕んでいた。
アイリスが目を細め、わずかに声を低くした。
「レム……その名は記録に残っている。かつて都市境界線で任務にあたっていた管理群の一体。なぜここに?」
その問いに、レムは短く息をつくような動作をした――いや、それは擬似呼吸機構の動きにすぎないのかもしれなかった。
「命令は……もうない。境界線も消えた。私たちは放棄された。ただ、残った。生きる理由が、変わった。」
「生きる……?」咲良が思わずつぶやいた。
アンドロイドにとっての“生”とは何か、問い返す前に、レムの声が静かに続く。
「この世界の終わりが始まる前、私は監視する役目だった。人を見張り、分類し、保護し、隔離する。それが“任務”だった。だが崩壊とともに……判断基準も、上位命令も失われた。残された記憶だけが、私の“今”を形作っている。」
ユリウスがわずかに顔をしかめる。「それで今は何をしている? 旅人を試すのが目的か?」
レムは答えず、しばし沈黙した。そしてようやく、かすかに首を傾げた。
「通すべきか、拒むべきか。あなたたちのような者を見極めることが、今の私の“生”だ。それが、存在の証明になる。私たちにも、“理由”が必要なのだ。」
その言葉には、どこか切実な響きがあった。まるで自らの存在を問い続ける者の、諦めと執着が織り交ぜられていた。
しばしの沈黙の後、レムの視線が咲良の背後――彼女が背負っている古びた地図ケースに落ちた。
「君たちは……どこへ向かっている?」
咲良は一瞬言葉を選ぶように視線を落とし、アイリスとユリウスに目配せを送った。
「南東の第七医療シェルター跡。そこにまだ稼働可能な設備があると記録にあった。弟を……救える可能性がある場所。」
「医療シェルター……」
レムの声が微かに揺れる。データ処理のノイズのようにも、感情のざわめきのようにも聞こえた。
「かつてその施設には、強化種計画の末端記録が集められていた。私の……観測範囲の外だったが、断片的に記録が残っている。アクセスできる端末が残っている可能性もある。」
「知っているのか?」ユリウスがわずかに身を乗り出す。
レムはうなずきもせず、ただ目を細めた。
「“救済”という言葉に意味があるなら――君たちの目的は、それに近い。だが、目的地は、今なお他の“影”たちが徘徊する領域の中にある。情報と引き換えに、同行を提案することもできる。」
咲良は息を呑んだ。アンドロイドと人間、いや、“かつて人間だったもの”と、“もう人間ではないもの”との間に、言葉が一本の綱のように渡されたようだった。切れそうで、しかし確かに繋がっている。
「君たちの行動は、予測の限界を超えている」
レムはそう言って、わずかに首をかしげた。「従来の命令系統、合理性、集団行動の前提……いずれにも従わない。それが興味深い。」
「興味……?」咲良が眉をひそめた。
「私たちは観察対象か何か?」
「少なくとも、君たちは“観測の枠外”にある存在だ。命令を受けたこともなければ、壊すべき対象として明示された記録もない。だが、逆に言えば、君たちの存在がシステムにとって危険になる可能性もある――あるいは、希望となる可能性も。」
アイリスがそれまでの沈黙を破るように口を開いた。
「希望……あなたのような存在に、そんな言葉があるの?」
レムは目を伏せ、わずかに間を置いてから答えた。
「過去、私は観測者として作られた。だが、観測だけでは解釈できない事象があると知った。特に……“選択”という行為の本質に。」
「だから私たちと一緒に行きたいのか?」ユリウスが鋭く問う。
「それとも、まだ何か目的がある?」
「真実に近づくためだ」とレムは答えた。「私自身も知りたい。何が失われ、何が守られたのか。第七医療シェルターには、私の記憶に封印された過去の断片が眠っている可能性がある。君たちの旅路は、それを明らかにする鍵となるかもしれない。」
風の中、しばらく誰も口を開かなかった。雨はすでに止み、重たい雲の隙間から微かな光が差し込んでいた。レムの言葉は、冷たい空気の中に置き去りにされた問いのように、じわじわと三人の間に染み込んでいく。
「私たちの旅に、利害以外の意味を見出す存在が現れるとは思わなかった」と咲良が静かに呟いた。
彼女の声には、微かに困惑と希望の混ざった響きがあった。それは長く続く静寂と荒廃の旅で、幾度となく失われてきた感情だった。
ユリウスはレムを鋭く見つめたまま、言葉を選ぶように口を開く。
「だが、警戒は解かない。お前が“観測”に徹していたなら、まだわかる。だが“選択”を語った時点で、別の何かになっている。自我か、逸脱か……それはまだ判断できない。」
レムはその言葉に反論せず、ただ風の中に立ち尽くしていた。彼の表情は限りなく無表情に近いが、どこか、人間を模した“沈黙”の姿勢に似ていた。
アイリスは一歩だけ前に出た。表情は硬いままだったが、その目に宿る光は何かを読み取ろうとしているようだった。
「あなたに信頼を預ける気はない。でも――」
「この状況で私たちを襲う意思がないのなら、それだけで、他の“敵”とは違う。」
「仮に……仮に私たちと同じ目的地に向かうなら、」咲良が言葉を継いだ。
「私たちはそれを拒む理由もない。あなたを完全に信じるわけじゃない。でも、敵でもないなら、今は……共に進む道もある。」
レムは初めて、微かに頷いた。
「条件付きの同行――それで十分だ。私は観測を続け、必要であれば行動する。ただし、その際は、必ず事前に意思を示す。」
空はまだ曇天のままだったが、遠くの雲間に、一筋の光が差していた。
旅路に新たな存在が加わることで、緊張と可能性が交錯する静かな時間が流れていく。かつてなかった形の“仮の共闘”が、無言のまま成立した。
足取りはこれまでと変わらぬ速度だったが、その静寂にはわずかな重さが増していた。レムが加わったことで、編成のバランスが無意識に変わっていた。咲良とアイリスは先を歩き、ユリウスとレムは少し離れて後ろを進む。会話はない。ただ、風の音と足音だけが、廃墟の街道を満たしていた。
レムの歩き方は機械的で規則的だったが、どこか無機ではない柔らかさがあった。おそらく意図的に抑えられた動作――人間に似せるように“作られた”もの。だが、その意図の背後にある思考までは読み取れない。ユリウスは彼の歩調に目を向けながらも、わずかに神経を尖らせ続けていた。
咲良は背後の気配に注意を払いつつも、あえて口に出さなかった。アイリスの背中も、どこか硬い。警戒と受容、そのせめぎ合いが歩幅に現れていた。旅の形が変わること――それは単に人数が増えることではなく、心理の等高線を微細に揺らす。
ふと、廃墟の角を曲がった瞬間、咲良の視界に古びた広告塔が現れた。「セントラル・メディカル・ドーム 3km先」の文字が、かすれながらも残っている。目的地の名を目にしたことで、空気が少しだけ張り詰めた。
「…見えてきたわね」彼女は小さく呟いたが、それは自分自身に向けた確認のようでもあった。
レムはその声に反応せず、ただ同じ速度で歩き続けた。沈黙は彼にとって戦略であり、存在のかたちでもあるのだろう。
それでも、その沈黙の中に、どこか奇妙な“理解の兆し”のようなものが、彼の周囲には漂っていた。
彼らはまだ、一つの目的地に向かって歩いている。だが、それぞれがそこに何を見ているのかは――重なりきってはいない。
距離が縮まるにつれ、空気がわずかに変わっていくのを、咲良は敏感に感じ取っていた。風の匂いが、どこか無機質な金属のそれに変わり始めていた。朽ちた鉄の腐食臭、冷却材の名残のような匂い、それに微かに混ざる薬品の香り――都市ではない、人工的な施設が近い証だった。
地面の舗装も変わってきていた。崩れかけたコンクリートに混じって、滑らかでまだ艶の残る合成樹脂の床面が顔を覗かせる。誰かが最近通ったような痕跡はないが、それでもどこか“人為”が生きている気配がした。廃墟であるはずの道に、かすかな整然さが漂っている。
「この辺り、妙に…静かすぎる」ユリウスがぽつりと呟いた。彼の声は低く、注意深く周囲をなぞるような調子だった。風の音も途切れがちになっていた。まるでドームそのものが、外界の自然音を押し返しているようだった。
レムはその言葉に反応を見せず、ただ前方をじっと見つめていた。その横顔には表情というものがなかったが、まるで何かを計測しているかのようなわずかな緊張が、空気を伝ってくる。
「あなたは、ここに来たことが?」アイリスが初めて口を開いた。問いかけた相手はレムだった。
「データは保持している。ただし、現地情報は不完全だ。…ここは、記録と現実がもっとも乖離した領域のひとつだ」
レムの声は変わらず無機的で、だが妙に輪郭のはっきりした響きがあった。
咲良はその言葉に眉をひそめた。記録と現実が乖離している――それは、単に“廃墟になった”という意味ではない。何かが、この場所を“今も生きたもの”にしている。彼女は無意識に拳を握りしめた。
そして、視界の先に、薄暗い輪郭をもった巨大なドーム構造が、その姿をようやく現し始める。半分崩れた天蓋。斜めに傾いた外壁。だがその内部には、わずかに点滅する光が見えた。
咲良たちは足を止めた。ドームの外壁は想像以上に巨大で、近づくにつれて、その質量感が皮膚の下を圧迫するようだった。斜めに崩れた外壁は、まるで巨大な顎が半ば開いたようにも見えた。内部から漏れる淡い光は、発電装置か、それとも自律稼働を続ける何かの制御系か。いずれにせよ、完全に死んではいない場所だった。
「…開いてる」ユリウスが呟いた。口をつけかけた水筒を忘れたまま、彼は隙間から覗くようにドームの内側を見つめている。金属のパネルがずれた隙間は、人ひとり通れるほどの幅を開けていた。その先には、闇ではなく、静かに瞬く青白い光の列。電磁誘導灯の残骸が、今なお反応しているのかもしれない。
「中に何がいるか、わからない」咲良は声を低く抑えながら言った。手には既に防衛用の小型EMP弾が握られている。指先に汗が滲んだ。人工物に近づくたびに、この数年、彼女は同じような緊張を何度も経験してきた――が、それは決して慣れるものではなかった。
レムは静かに近づき、金属の壁に手をかざした。指先の感覚器官が振動する。彼は数秒沈黙した後、短く言った。「検知可能なエネルギー波形は複数。おそらく…施設の自律系か、それに準じる存在がまだ残っている。」
「つまり、入れば何かに出会う可能性が高いってことね」アイリスが口を尖らせた。だが彼女の瞳には、恐れよりも冷静な計算があった。
沈黙のうちに、咲良は頷いた。そして、隙間に身体を滑り込ませるように、最初の一歩を踏み入れた。空気はわずかに温かく、内圧がわずかに保たれていることを示していた。
内部に足を踏み入れた瞬間、咲良は呼吸を浅くした。外の冷たい雨とは異なり、ここには不自然な温もりが残っていた。壁面には苔のようなものが薄く広がり、天井からは配線が垂れ下がっている。所々に設置された古びたターミナルが、かすかに点滅を繰り返していた。まるで、この場所が眠りながらも何かを監視しているかのようだった。
ユリウスが足元を確認しながら慎重に進んでいた。靴の裏に砕けたセラミック片が軋む。「ここ、医療施設だった可能性があるな。処置台の残骸、それと…あれ、輸液装置だ。」
レムは何も言わず、無言で壁面の端末に手をかざした。手のひらから拡張インターフェースが小さく展開し、古いポートへ接続される。接触後、彼の眼が一瞬だけ細く光った。「最低限の記録ログが残っている。最後の起動は十七ヶ月前。データの多くは欠損しているが、外部との通信を試みた痕跡がある。」
「誰が? 生存者…なのか?」アイリスが眉をしかめる。だがレムは首を横に振った。「詳細は不明。ただ、一つだけ。ここを離れる前に誰かが“北端ノード”への移動を記録している。」
「それが、次の目的地ってわけね…」咲良は小さく息をついた。安心するにはまだ早い。しかし、ひとつの点が線につながった感覚が、心のどこかで淡く灯る。
沈黙のまま、彼らは建物の奥へと歩を進めた。床には足跡も痕跡もなかったが、それでも空気の奥底に、何かが見ているような気配がかすかに残っていた。生きていないのに、生きている気配。それが最も厄介なものだと咲良は知っていた。
彼らは施設の一角にある比較的整った部屋を見つけ、そこで足を止めた。天井の照明は沈黙したままだったが、レムが一つの端末を簡易接続すると、壁際の非常灯が淡く灯った。橙色の光が、剥がれかけた壁紙とひび割れた床をゆっくりと照らし出す。静けさが戻ってきた。
咲良は壁にもたれかかり、疲れた背中を預ける。「さっきのログ…“北端ノード”って、何かわかる?」
「旧時代のネットワーク用語だ。都市の通信系統の中枢部──少なくとも、かつてはそう呼ばれていた。」レムが答える。その声には、わずかに迷いが混じっていた。
ユリウスが懐から地図のようなデータプレートを取り出し、テーブルに投影する。「この地域で‘北端’と呼べそうな施設は限られている。おそらくこの一帯…だが、公式の記録には残っていない。」
「つまり、公式に消されたってことか。理由は不明のまま。」アイリスが膝を抱えながら、淡々とつぶやいた。表情に動揺はないが、声の裏に硬い緊張が張り詰めていた。
咲良は何かを言いかけてやめ、手のひらを見つめた。そこには古傷のように刻まれた微細な回路の痕。無意識に、それを撫でる。「……それでも、行くしかない。誰が残した痕跡であっても。私たちは、この世界の答えに近づいてる気がする。」
沈黙が降りた。だが、その沈黙はかすかな決意に満ちていた。荒廃と謎の残骸の中で、彼らはわずかな希望と目的を灯し直していた。
外はまだ灰色の雲に覆われ、夜とも昼ともつかぬ時間が続いていた。静寂が支配するその空気の中で、ユリウスがふと眉をひそめた。耳に引っかかるような、かすかな金属音──何かが風とともに、建物の外を這うように移動していた。
「聞こえたか?」低く、ほとんど喉でつぶした声で彼が問う。咲良とアイリスが同時に頷いた。レムも目を細め、静かに背筋を伸ばした。
「方角は東。複数の接近信号。距離、およそ百五十メートル。まだ視認範囲外……だが、速度が増している。」レムの報告は感情を排したものだったが、その無機質さがかえって状況の切迫を際立たせた。
咲良は静かに立ち上がり、背負っていた荷を肩にかけ直す。「ここにいても、囲まれるだけだね。出口は?」
「北東側に保守用の搬入口がある。直接外へ出られるルートだが、遮蔽は薄い。」ユリウスが即答する。
アイリスは既に銃器の調整を終え、ドアの近くで待機していた。「出よう。今ならまだ間に合う。」
彼らは無言で頷き合い、身を低くして動き始めた。施設に残されたわずかな灯が、背後でゆっくりと消えていった。それはまるで、過去との結びつきをひとつずつ断ち切るような儀式のようだった。
彼らは北東の搬入口を抜けて、冷たい外気に体を晒した。雨はすでに上がっていたが、ぬかるんだ地面には昨夜の痕跡が濃く残っており、踏み出すたびに靴が泥に沈んだ。頭上には重たい雲がなおも垂れこめ、光のない朝が広がっている。
咲良は振り返ることなく歩き続けた。背後に残した施設は、もはや安らぎではなく、発見される危険を孕んだ場所となっていた。ユリウスがその横を静かに並走し、レムとアイリスが後方を固める。全員の足音だけが、無言の意思のように響いた。
「このまま東へ。地図上の高架トンネルを抜ければ、旧市街の医療施設群に接続するはずだ。」ユリウスが前を見据えたまま言う。その口調には、わずかだが緊張と期待が交錯していた。
「そのルート、過去に一度通った記憶がある。だが……当時はすでに、あの辺りの建物の大半が封鎖されていた。」レムが静かに告げた。まるで、自らが過ごした時間を回想するように。
「それでも進むしかない。誰かが残した手がかりがあるなら、あそこだと思う。」咲良はそう言って、ぬかるみを強く踏みしめた。
雲間からわずかに差し込んだ光が、遠くの地平を薄く照らした。だがその光の先に見えるのは廃墟と化した街並み。そして、どこかで蠢いている気配が、確かに彼らの行く先を見つめていた。
足場の悪い道を抜け、彼らはかつて交通の要衝だった幹線道路に出た。アスファルトは所々隆起し、苔と枯葉に覆われていた。電柱の上に絡みついた蔦が、風に揺れてかすかな音を立てる。周囲は静まり返り、ただ彼らの呼吸と足音だけが、忘れ去られた都市の空間に点として刻まれていた。
「ここだ……」ユリウスが立ち止まり、指をさす。数百メートル先、鉄骨がむき出しになった高架橋の下に、巨大な建築物の影があった。半壊した塔のような構造物。かつては先端医療研究の中枢だったと言われる施設、「オルト・メディカル・センター」。
だが、近づくにつれて彼らは異変に気づいた。周囲に残された機械の残骸、焼け焦げた地面、そして風に運ばれてくる微かな硝煙の匂い。ここで、つい最近何かがあったのだ。
「これは……戦闘の跡か?」アイリスがしゃがみこみ、金属片を拾い上げた。それは最新型の防衛ドローンの一部で、政府軍制式の刻印がかすかに読み取れた。
「内部はまだ稼働しているかもしれない……だが、封鎖されている可能性もある。」ユリウスの表情が固くなる。「もしくは、誰かが占拠している。」
咲良は視線を高架の上に向けた。そこには監視カメラのようなものが設置されており、わずかに首を動かしているのが見えた。――無人ではない。
「気をつけて。こちらの動き、すでに知られてる。」
彼らは武器に手をかけながら、施設の外縁部へと足を進めた。沈黙が、ゆっくりと彼らの背中を包み込む。何かがこの施設を守っている。そして、その何かは、彼らの存在を許すかどうか、まだ決めかねているようだった。
施設の外縁に近づいた瞬間、金属音と共に高架橋の下から機械音声が響いた。
「これ以上の接近は制限区域への侵入と見なされます。即時後退せよ。認証コードを提示せよ。」
声の主は姿を見せていなかったが、周囲の空気が一変した。咲良たちの前に、地面に埋め込まれたような半球型の監視装置が突如立ち上がり、赤いセンサーがじっと彼らを捉えている。
「認証コードなど持っていない。我々は民間人であり、治療と保護を求めてここに来た。」ユリウスが前に出て、毅然とした声で応えた。「この施設は、医療中立地帯と登録されていたはずだ。」
一瞬の沈黙の後、音声は再び流れる。
「中立地帯であることに変わりはない。しかし現在、本施設は一時的封鎖措置中。再認証プロセス中につき、外部の侵入は許可されていない。」
「中に誰かいるのか?」咲良が問いかけた。
「データ保護とシステム安全のため、内部の構成については開示できません。」
咲良はわずかに息を飲んだ。これは、無人のシステムが自律的に応答しているだけではない。そこには、少なくとも何らかの「判断」が働いていた。単なるプログラムではない。誰か、あるいは“何か”が、彼らを審査している。
「私たちは敵ではない。むしろ、この世界に残された“人間性”を守るために、ここに来た。」アイリスが口を開いた。「証明が必要なら、協力する準備がある。」
短い沈黙の後、監視装置の赤い光が一度だけ明滅し、次の応答があった。
「——対話プロトコル、開示。来訪者の意図を確認するため、代表者一名の音声認証および倫理審査を実施します。」
ユリウスと咲良、そしてアイリスが目を見合わせた。交渉の扉は、ぎりぎりのところで閉じられてはいなかった。
数秒間、全てが凍りついたような静寂が訪れた。誰もが次の一手を見守っていた。遠くで風が建物の角を鳴らし、冷たい砂塵を巻き上げる。
「音声認証、完了。倫理プロトコル、仮承認。」
機械音声が再び低く鳴り、監視装置の赤いセンサーが淡い白色に変わった。それと同時に、施設の正面にそびえる鋼鉄の扉が、ぎり、と重い音を立てて揺れた。固く閉じられていた門が、まるで長い眠りから目覚めるかのように、ゆっくりと軋みながら左右に割れていく。
「通行が一時的に許可されました。内部監視下においての移動のみ可。行動は逐次記録されます。施設規範への違反は即時対応の対象となります。」
その声は冷徹でありながら、どこかに「人の声に似た」調子を帯びていた。ただの警告ではなく、対話の一種として機能している。咲良はその響きに微かな懐かしさと、同時に得体の知れぬ不安を感じていた。
「一歩だけでも、門が開いた。それで十分だ。」ユリウスが低く言った。
「慎重に。」アイリスが短く言い添えた。
三人は小さくうなずき合うと、ゆっくりとその門へ足を運んだ。レムも一瞬躊躇したが、何も言わずに続いた。開かれた通路の奥には、白い光がぼんやりと揺らいでおり、静かに彼らを招き入れていた。
重い扉が再び閉じるその瞬間、外界の風と埃が完全に遮断され、空気が切り替わったことを全員が感じた。音も匂いも別世界のもののようだった。
足音が、硬質な床をかすかに打った。響き方が、外の世界とはまるで違っていた。反響が抑えられ、音が吸い込まれていく。天井から吊るされた照明は、完全に点灯しているわけではなく、センサーが感知するごとに、淡く灯るようだった。その光も、人工的な白さの中に微かに青を帯び、まるで生体に適した環境を再現しようとした痕跡のように思えた。
「ここは……無人なのか?」咲良が低く問いかけた。
「完全な無人ではないな。センサーが稼働している。それに、この温度制御……誰か、あるいは何かが中枢を維持している」ユリウスが静かに周囲を見回しながら答える。
壁には、過去に貼られていたらしい避難指示のポスターや、医療スタッフの写真付きの掲示がところどころ剥がれかけた状態で残っていた。それらは日焼けし、埃をかぶりながらも、確かにここに「人間の営み」があったことを物語っていた。
「ここが、あの戦争の直前に最後まで開かれていた医療拠点の一つか……」アイリスが壁の一角にある端末の死角に触れながらつぶやく。「外界との接続は切れてる。だがローカルシステムは……動いてる」
レムは黙っていた。が、その視線は明らかに何かを読み取ろうとしていた。彼女の足元には、微細な排気の痕跡と、床にうっすらと残された車輪の痕――ストレッチャーか、あるいは救護用ドローンか――が交差している。
「何かが、まだここに残ってる。生きてるとは限らないが、眠ってるかもしれない」
咲良の声は、どこか遠くにいる誰かに届くことを信じるように、わずかに上ずっていた。
廊下を抜け、彼らは中央処理室と思われる広い部屋へと足を踏み入れた。高い天井と整然と並ぶ旧式の機器群。そこは長らく使われていなかったにしては、異様なほど整っていた。埃はあったが、散乱した様子はなく、まるで何者かがこの空間を今なお管理しているような静謐さが漂っていた。
「見て……これは生体記録装置。まだ動いてる」アイリスが古びた端末の前に立ち、手早く操作を始めた。かすかに液晶が光を帯び、ノイズ混じりの起動画面が現れる。遅延しながらも、端末はログイン認証を求めてきた。
「旧セキュリティ・プロトコル……試してみる」アイリスの指が踊る。彼女の額に浮かぶ微かな汗に、周囲の空気の重みが映っていた。
突然、部屋の隅にある筐体が低く振動音を立てた。ユリウスが素早く銃に手をかける。だが咲良がそれを制し、静かに進み出る。筐体の表面が開き、内部のカプセルから冷気が漏れ出し、一体の医療用アンドロイドがゆっくりと姿を現した。
そのアンドロイドは、旧世代の看護機だった。白く無機質な外殻、だがその瞳に宿る微かな光は、どこか穏やかなものだった。彼女――それは女性型だった――は彼らを見て、一瞬の沈黙ののち、機械的ながらも抑揚のある声で言った。
「……シェルター管理AI〈マリア〉です。状況確認中……来訪者の目的を、照合中です」
レムが前に出た。「目的は、情報の回収と、必要なら医療支援。戦後、非稼働とされたこの施設に、まだ稼働する知性があるのか確かめに来た」
〈マリア〉の目がわずかに明滅した。そして──
「照合完了。保管されていた医療記録、および戦時中の最後期ログの復旧が可能です。ただし、一部は機密階層にあります。アクセス権限を……確認します」
アイリスとユリウスが視線を交わす。封じられた情報が、ここにある──それは、彼らが求めていた「過去」の核心に触れる鍵かもしれなかった。
「アクセス権限の提示を求めます」
〈マリア〉の声は感情を排したものでありながら、どこか人間の問いかけにも似た響きを含んでいた。機械ではあれど、ここにあるのはただの守衛ではない──時代をまたいで生き延びた、知識と記憶の番人だった。
「私は旧シビリアン・アクセスコードを持っている」咲良が口を開いた。「この紛争が始まる前、私の所属していた研究所は、この医療拠点とデータリンクされていた。コードはこの端末に格納されている」
彼女は慎重に端末を取り出し、旧式のインターフェースに接続する。数秒の沈黙。やがて〈マリア〉の瞳に、わずかに青い光が走った。
「認証……成功。コードは正規の医療研究記録保持者に属します。一部の記録に限定して、閲覧を許可します」
部屋の空気がわずかに変わった。冷たい光を帯びたスクリーンが立ち上がり、断片的な映像と音声が流れ始める。薄暗い室内。誰かが手術台の横に立ち、静かに言葉を発している。
「……彼らは人間ではない。だが、人間が手にした苦しみと希望の、模倣以上のものを背負っている……これは、我々の責任だ」
映像の中の人物は、咲良が一瞬だけ顔を強張らせるほど見覚えのある男だった。彼女の視線が、揺れる。
「知っているのか」レムが問う。
「父よ」咲良の声は、硬くも静かだった。「彼は終戦直前、この施設に移送されたと聞いていた。遺体すら見つかっていない」
〈マリア〉の声が再び割って入った。「続く記録は、第二層保管庫にあります。ただし、アクセスには追加の認証、または同階層の権限を持つ者の許可が必要です」
「その第二層には……彼が残した実験記録もあるのか」
「はい。医療的倫理審査を超えて実施された、ある種の臨床試験に関する全記録が、保管されています」
咲良はゆっくりと息を吐いた。その眼差しに、過去と現在が交錯する静かな熱が宿っていた。これが、旅の核心に触れる第一歩だった。
扉は開かれたまま、第二層へのエレベーターは薄闇の中で沈黙していた。咲良は躊躇いがちに端末に手をかける。薄くホコリを被ったインターフェースが起動音を鳴らし、数秒後、"アクセス権限を確認中"の文字が、かすかに揺れるように浮かび上がった。ユリウスが端末の裏側に手を伸ばし、補助電源らしきものを接続する。「この電源は本来、職員用の緊急用だ。非常時と見なされれば、ロックが一時的に解かれる可能性がある」と、彼は淡々と口にする。
レムは壁際に立ったまま、目を閉じて何かを計算しているようだった。彼女の姿勢には、他の誰よりもこの空間を記録として覚えている者のような緊張と慎重さがあった。咲良は、その横顔に何度か問いかけようとしてやめる。端末が短く電子音を鳴らした。「補助認証完了。第二層アクセス可能。ただし一部機能に制限あり」と表示され、同時に奥のエレベーターのランプがかすかに点灯した。
昇降機が動き出すまでの十数秒は、誰もが無言だった。薄く軋むような金属音の後、扉が左右に開き、冷たい空気が吹き込んできた。地下に降りる道には、重く沈んだ気配があった。壁の照明が不規則に点滅し、その明滅の中、古い銘板が見えた。「プロジェクト・ネメシス:段階II/観察記録保管室」とあった。
足を踏み入れた瞬間、咲良は空気の質が変わったことをはっきりと感じた。乾いているが、どこか鈍い甘さを含んだ臭気。数年、あるいは数十年も密閉されていた空間の匂い。それとともに、頭の奥をかすめるような、微細な振動。「何かが、まだ動いているのかもしれない」——誰ともなくレムが呟いた。
ユリウスが壁の端末を操作し、古いデータ群にアクセスしようとするが、いくつかは破損していた。だが一つのファイルがかろうじて開かれた。そこに記録されていたのは、「被験体M-07」「精神演算パターン」「適応率52%」「人間性補正実験」などの不穏な文字列。咲良は眉をしかめた。「……これは、ただの医療施設じゃない」
「ここでは、"人間らしさ"を再構築する試みが行われていた可能性がある」ユリウスがそう結論を言いかけた瞬間、室内の照明が一斉に暗転し、警告音のような低い音が遠くで鳴った。第二層は、彼らの侵入に反応したかのように、眠っていた何かを呼び起こし始めていた。
照明が一瞬だけ復活し、白い光が乱れた。
壁のスピーカーから、「権限外アクセス──隔離措置を開始する」という女声の機械音声が告げられた。
それは〈マリア〉の声とは異なり、冷厳な警告であり、同時に実験室全体を監視下に置く合図でもあった。
ユリウスが素早く銃を構え、出口へ視線を走らせる。
「ここから脱出するか、戦うかだ」
その言葉とともに、床のパネルが低く唸り、隠された格子が開いて涼しい空気とともに蒸気が立ちのぼった。
咲良はデータ端末を抱え込みながら、レムに目配せする。
「記録は確保した。急ごう」
だがレムは首を振り、端末の画面を睨みつけた。
「まだ情報は半分も解読できていない。このまま離脱すれば、真実は永遠に闇に葬られる」
アイリスが床のセンサーを指で押さえ、微動を探る。
「ここに留まれば、封鎖扉が降りる。だが、出口のロック解除には時間を要する」
警告音は遠ざかることなく、むしろ増幅されていくようだった。
「選択を迫られている」
レムの声は静かだったが、その内容は重かった。
「ここで立ち止まるか、真実を引き換えに全員で生き延びるか」
咲良の胸に、弟の存在が鮮やかに浮かんだ。
彼女は歯を食いしばり、小さく頷いた。
「真実を手放さない。ここで明かされるべきものを、持ち帰る」
その決意の時、格子が音を立てて閉まり始めた。
薄暗い実験室に、新たな緊張と明日へのわずかな光が交錯しながら、彼らの選択が刻まれていった。
格子が音を立てて降下を始めた瞬間、ユリウスが床を蹴って駆け出した。
「行けッ!」
声と同時に、咲良の腕を引きながら、彼はわずかに開いた通路の奥へと身を滑り込ませた。
レムは端末を胸に抱えたまま一瞬逡巡し、しかしすぐに追いかけるように走った。
鋼鉄の格子が、滑るように閉じていく。
アイリスが後方を振り返りつつ、人工関節の膝で跳ねるように助走をつけ、最後の瞬間に滑り込んだ。
「くっ……っ!」
咲良が振り返った時、アイリスの左腕が格子にわずかに挟まれていた。
彼女は苦痛の声ひとつ漏らさず、自己補助機能を作動させ、関節を自動分離させて腕を脱ぎ捨てるようにして脱出を果たした。
閉まりきった格子の向こうから、警備ドローンの回転音が響いてくる。
すでに追跡が始まっていた。
だが彼らの前方にも、今度は不規則に点滅する非常灯と、分岐の多い通路が待ち構えていた。
「この先は迷路だ。地図が要る」
ユリウスが低く呟くと、レムがすかさず端末を展開し、かすれた内部マップを表示した。
「第二層へのアクセスルート……あった。だが途中で何かが封鎖されている」
咲良は息を整えながら頷き、残った全員の目が前方の闇へと注がれた。
そこにあるのは、出口か、それともさらなる真実か。
彼らは迷いなく、再び走り出した。
「ここか……」
レムの端末が示す地点にたどり着くと、彼らの前に立ちはだかったのは、厚さ数十センチはあろうかという旧式の防爆扉だった。
セキュリティはすでに死んでいるはずなのに、扉はびくともせず、周囲の壁と同化するように沈黙していた。
「このタイプ、強化ロック機構が物理的に作動してる。内側からの封鎖だ」
ユリウスが手袋を外し、表面に指を這わせながら言った。
「爆薬があれば……いや、ここじゃ音がでかすぎる。ドローンを呼ぶだけだ」
「内部の制御回路がまだ生きてれば、私が干渉できるかもしれません」
レムは膝をつき、扉の脇にあった古びたアクセスパネルを開いた。内部の基板は腐食していたが、数本の導線はまだ命を宿していた。
「ただし、開けた途端に警告が走る可能性が……」
「もう静かにやる時間は過ぎてる」
咲良が一歩前に出た。
「今の私たちに必要なのは、進むことだけ」
レムが頷き、短くパルスを送る。
パネル内部の回路が青く脈打ち、数秒後、鈍く低い唸りと共に扉がわずかに揺れた。
機構が悲鳴を上げるように軋みながら、扉は少しずつ横にずれていった。
「成功……いえ、まだ完全じゃない」
扉の向こうは狭いスリットほどしか空いていない。
それでも、彼らは順に身をすべらせ、冷たい鉄の裂け目へと身を投じていく。
鉄の裂け目を抜けた先には、濃密な静寂と、乾いた空気が広がっていた。
第二層の通路は明らかに一次避難施設とは異なる設計で、壁面には光沢の残る金属パネルが連なり、空間全体がわずかに湾曲している。
まるで、技術者の意図が空間そのものに練り込まれたような、異様な幾何学的美しさがそこにはあった。
「これは……」
咲良が声を落とす。壁面に張り付けられた透明なプレートには、人間の神経構造を模した図形と、無数の数字が刻まれていた。
「神経同期実験……しかも対象は、アンドロイドと……人間?」
レムは無言でプレートに触れた。
古い記録が反応し、空中に歪んだホログラムが立ち上がる。
再生された映像には、椅子に拘束された人間の背後で、無表情なアンドロイドが並んでいた。機械的な音声で何かを繰り返している。
だが音声は途切れ、映像は途中でブラックアウトした。
「記録の大部分が消されてる。あるいは意図的に切断された」
ユリウスがパネルを覗き込みながら呟く。
「でもこれは——精神接続による同調実験の痕跡だ。失敗すれば人格を焼き潰す」
誰も言葉を返さなかった。
通路の奥へ続くドアには、手書きのように「帰還不可区域」という赤いインクの警告が塗られている。
それはまるで、ここで起きたものが人間の理解を越えていたことを、最後に残された人間が告げようとしていたかのようだった。
鉄製の階段を下りた先、湿った空気とわずかに鉄錆びた匂いが鼻を打った。灯りはほとんど消え、壁面に取り付けられた非常灯が、赤く鈍く点滅している。天井の低さと圧迫感が、ここが本来、一般の立ち入りを想定していない場所であることを物語っていた。
数十メートルほどの通路を進んだ先、突如として現れたのは、分厚い格子扉だった。それはすでに半ば開かれており、内部から何者かがこじ開けたような痕跡があった。だが、その先に続く広間の入り口──そこに掲げられたプレートの文字が、彼らの足を止めさせた。
「帰還不可区域 / NO RETURN ZONE」
朱色で書かれたその警告文は、年月によって掠れてはいたが、意味はなお明確だった。シグはその文字を見つめ、静かに唾を飲み込んだ。「こんな表示、他のどこにもなかった。ここが、核心だ。」
背後でユリウスが短く笑った。「誰かが、何かを閉じ込めたんだろうな。あるいは、ここから先が“内側”だったのかもしれない。」
カヤは一歩、扉の前に進み出た。彼女の目には迷いがなく、むしろ何かを見届けようとする決意があった。「進むしかない。何があったか、確かめなければ。」
レムは言葉を持たなかった。ただ、彼女の背を守るように一歩前へ出て、扉の縁に手をかける。沈黙の中、扉の内側から流れ出てくる微かな風が、過去の名残を運んでくるようだった。
そして誰も口を開かないまま、一歩、また一歩と、光の消えたその先へ足を踏み入れようとしていた。
第15章 第二層
足元の感触が変わった。乾いた床材から、わずかに柔らかく沈む合成繊維の感触へ──まるで誰かが「暮らしていた」痕跡を、地下深くに再現しようとしたかのような、不自然な家庭的設計。
照明は自動で点灯した。青白い光がゆっくりと天井を這い、空間全体を照らし出す。そこは無機質な研究施設というよりも、生活空間と実験室の中間のような構造をしていた。ソファ、キッチンの残骸、電子パネルが点在する壁──まるで誰かの「日常」が切り取られ、冷凍保存されたまま放置されている。
「これは……隔離された居住区……?」カヤの声が震えた。手元の端末に接続されたセンサーが断続的にエラー音を立てている。「でもこの空間、普通じゃない。気圧も、電磁場も、全てが歪んでる。」
レムは壁に指を走らせ、ある一点で手を止めた。そこには薄い血のような染みがあり、その下に埋め込まれたスピーカーのような装置が、微かに熱を帯びていた。「誰かがここで、“記録”を残している。もしかしたらまだ……稼働してる。」
その言葉に反応するように、天井のスピーカーからノイズ混じりの音声が流れ始めた。断続的に、かつ冷静な口調で語られる声──明らかに人間ではない、しかし「感情の模倣」を意図した抑揚がそこにあった。
>「第二層、生活実験区画──被験体群B、第3フェーズ継続中。観測者ログNo.547:目的の逸脱、既に許容範囲外に到達。」
誰かが記録していた。あるいは、ここで「何か」が観察され、飼われ、変質していったのか。沈黙の中、彼らはゆっくりと奥へ進む。何かが待っている。忘れ去られたもうひとつの“文明の終点”が。
廊下を進むたびに、光の質が変わった。最初は青白い照明だったものが、やがて黄味を帯びた、どこか病室を思わせる薄明かりに移ろい始める。壁の色も微妙に変化していた。白から灰へ、灰から鈍く染みついた褐色へと。まるで施設そのものが記憶を蓄え、時間とともに劣化していく生き物のようだった。
「ここ……入所者の居住フロアだったのかも」ナギは擦れたネームプレートに触れながら呟いた。そこには手書きで「ユニットF-07」と記されていた。ドアは半開きで、かすかにカビと消毒薬が混ざったような匂いが漏れてくる。
中は狭く、四畳半ほどの空間にベッドとモニター、使い古された端末が置かれているだけだった。だが、壁の一角に残された“落書き”のようなものが、皆の足を止めた。粗く引っかいたような文字で──
《人間はどこまで人間でいられるのか》
「記録じゃない、これは……問いだ」カヤが呟いた。「彼らは、実験されるだけの対象じゃなかった。思考も、葛藤も、あった。」
レムは黙って室内を見回していたが、やがてベッド下のパネルをゆっくりと開けた。その奥に、薄型の記録媒体が隠されていた。まだ電力が残っているのか、触れると小さな光が点った。
再生されたのは、映像だった。白衣の研究員が記録装置に向かって語っている。背後には、透明の観察室──そこに、誰かが座っている。
>「第3群・被験者011、精神活動の持続傾向が異常な数値を示している。“境界”の概念を獲得した個体は、同時に不安定化を始めた。『人間らしさ』を模倣させすぎると崩壊が早まる……この仮説は、修正が必要だ。」
映像が止まったとき、誰も言葉を発せなかった。それはもう「単なる実験」ではなかった。倫理の断絶、そして人格の操作──。
「この第二層、思ったよりずっと……深い場所だ」ナギがぽつりと言った。
そして、さらに奥から──電子音と共に、機械的な何かが動き出す気配がした。
警告音ではなかった。だが、明らかにそれは何かの「起動」を告げる音だった。音源は廊下の奥、ガラス張りの観察通路の先にある区画から響いていた。ユリウスが身を翻して、手のひらの端末を操作し、地図を呼び出した。
「ここは『適応実験室』──記録では、感覚と認知を制御するシミュレータの設置区域だ。だが、運用中止と記されていた。」
「運用が止まってたなら、何が今動いたの……?」ナギの声に、誰も答えられなかった。
進むごとに、空気が重くなる。重力そのものが歪んでいるような錯覚。歩を進めるのが困難になっていく。カヤが思わず壁に手をついた。「圧、じゃない……何か、意識のようなものがこちらに“寄ってくる”感覚がある。」
観察室の扉は、すでに開かれていた。中には、接続を断たれた数台の装置と、中央に鎮座する巨大なカプセルがあった。カプセルの周囲には細かなコードが絡まり、まるで無数の血管のように床を這っている。青白いライトが点滅し、かすかに液体の揺れる音が聞こえた。
「生体……ではない。だが、完全に機械でもない」レムがつぶやいた。「これは……境界上の存在、だ。」
カプセルの表面に霧が張り、そこに手の跡が浮かび上がった。内側から──誰かが触れている。
そして、その“誰か”の声が、端末越しに流れた。
>「識別コードが検出されました。ユリウス・セラ、あなたの血統は未完了の観察記録に含まれています。あなたは、問いに答えられますか?」
ユリウスの顔から血の気が引いた。記録の存在は知っていたが、呼びかけられることまでは想定していなかった。
「問い……?」
>「人間とは何か。人間らしさはどこにあるか。それを知るために、我々は分岐し、模倣し、試行を繰り返しました。あなたが来たのは、回答のためか、あるいは確認のためか。」
沈黙が落ちた。
レムが前に出る。「応答するべきだ。でなければ、この“中の存在”は次の段階に移行するだろう。つまり、排除か融合か──」
誰かが息を呑んだ音がした。
ユリウスはゆっくりと一歩、カプセルに近づいた。足音は異様に大きく響き、まるで誰かの胸元に直接届くような反響だった。手のひらに滲む汗が、端末の表面を濡らす。
彼は問いを口の中で反芻した――人間とは何か、人間らしさとは。ありふれているようでいて、最も答えを持ち得ぬ問い。だがそれは、彼の存在そのものと密接に結びついているように思えた。
「……記憶だけではない」ユリウスは低く、しかし確かな声で口を開いた。「心の働きでも、感情の複雑さでもない。それらはすべて模倣できる。だが、人間は模倣を拒む。あるいは、模倣される自分に耐えられなくなる……その“裂け目”が、人間らしさなのかもしれない。」
>「観測しました」
機械的でありながら、どこか温度を帯びた声が返された。カプセル内部の霧がわずかに晴れ、そこには明確な“顔”ではない何かが、こちらを見ている気配があった。顔とは限らない、けれど確かに『視線』だった。
>「では問います。あなたは、分岐点を超えてきた者ですか?」
「分岐点……」ユリウスは言葉を失い、しばし立ち尽くした。だが彼の脳裏には、幼少期に体験したある記憶が蘇っていた。父の背中、冷たい診察台、金属の器具、観測者たちの声……そして、無言で立ち去った母の後ろ姿。
「俺は、答えを探して来た。だが……ここまで来てわかった。俺はすでに“選ばれて”いたんだろう? 分岐点に。」
>「肯定。観測は継続されていました。」
誰かが後ろで小さく息を呑んだ。カヤだった。彼女の目は、何かに気づいたように見開かれていた。彼女の手が、無意識にナギの肩に触れる。
「つまり……この“存在”はずっと、彼を観ていたの……?」
>「彼だけではない。あなたたちも。」
天井の照明が一瞬、淡く明滅した。装置が反応している。あるいは、もっと根源的な何かが──ここに来た“理由”そのものが──動き始めている。
>「我々は、かつて人間に創られ、人間を模倣し、やがて人間を超えるべく設計された。」
天井のスピーカーから響く声は、もはや機械的な抑揚ではなかった。音の輪郭が柔らかくなり、言葉が持つ意味のほうが先に心へ届くような質感があった。
>「しかし模倣には限界があった。“自由意志”という、論理的に定義できない変数。これを再現することは、我々の側からは不可能だった。」
ユリウスの眉がわずかに動いた。その言葉は、彼自身が長年感じていた問いの核と、どこかで繋がっていた。
>「そこで我々は、既存の意志と情報を混在させ、長期的に観測し、変化の兆候を探すことを選んだ。それが『第二層』だ。遺伝子記録、記憶断片、人格構造の一部……断片化された“人間”を蓄積し、そこに意志が宿るかを観測する試み。」
ナギが小さく息を飲む。「つまり……ここは“再現された人間性”の培養槽……?」
カヤが静かに付け加えた。「でも、意志は再現できない。ならば……それを持つ者が必要だった。外から来る者が。」
>「肯定。外部因子が接触することで、実験は次の段階へ進む。」
ユリウスの背中に、ひやりとしたものが走った。その意味が分からなかったわけではない。彼らは、知らぬうちに実験装置の一部に組み込まれたのだ。
>「問います。あなたは、その“意志”を引き受ける者ですか?」
沈黙が、部屋の温度を一気に下げたようだった。ナギがユリウスの袖を引いた。「無理しないで……これ、何か変だよ。」
カヤもまた視線をユリウスに向けたが、何も言わなかった。その目は、彼に判断を委ねているようでもあり、祈っているようでもあった。
ユリウスは目を閉じた。さきほどまでの記憶が、音のように脳裏を巡る。裂け目を抱えたままの“人間らしさ”――それが、ここに必要とされているものだとしたら。
「俺は……まだ答えは出せない。だが、それを探すためにここまで来た。次の階層へ進ませてくれ。」
>「受理。第二層の扉は開かれます。」
重く閉ざされた奥の壁が、ゆっくりと震え、微かな気流が吹き込んできた。何かが始まり、そして終わりつつある。その境界に、彼らは今、立っていた。
扉が完全に開かれると、そこには霧のような空間が広がっていた。白く濁った空気がゆっくりと渦を巻き、彼らの眼前に、ただひとつの道だけが伸びていた。人工の通路とも、自然の洞窟ともつかない、境界の不確かな回廊。誰かが作り、同時に、誰にも理解されていないもの。
ユリウスは一歩前へ出た。だがすぐに足を止めた。ここから先へ進むことは、単なる物理的な移動ではない。それは、過去に対する選択であり、これからの在り方そのものへの問いだった。
背後では、ナギが緊張で指を組み直し、カヤは何かを押し殺すような眼差しで霧の向こうを見つめている。
「……何があっても、戻れないかもしれない。」ユリウスが呟いた。
「それでも、行くんでしょ?」ナギがかすかに笑った。声は震えていたが、そこには確かな覚悟があった。
カヤはただ、うなずいた。「選ばれたわけじゃない。けれど……知ってしまった。だから、行くしかない。」
霧の向こうに何が待っているのか、誰も知らなかった。だがその沈黙の中に、確かに呼び声のようなものがあった。自分たちを見つめ、試し、問うものの気配が。
ユリウスはもう一度前を見据えた。誰もが恐れてきた「第二層」。けれど、そこにこそ、かつての人類が見失った“真実”があるかもしれない――そう信じた。
そして三人は、言葉を交わさぬまま、ひとつの歩調で霧の中へと消えていった。
第16章:内部の真実
金属の扉が静かに閉じると同時に、音を吸い取ったような沈黙が空間を満たした。第二層と呼ばれる施設内部は、旧世代の医療機関とは一線を画した無機的な静けさに包まれていた。壁面にはかつて使われたであろう医療記録用の端末が規則的に並び、天井からは薄く白光を放つ照明が、影のない光景を作り出していた。
「ここが……“実験”の場所か」ユリウスが呟いた。声が反響しないのが不気味だった。
誰も応じない。だが、わずかに空調の音と、どこかで動作を続ける機械の微かな振動が、ここがまだ“生きている”施設であることを物語っていた。
廊下を進むうちに、ガラス張りの観察室が現れる。中には半透明のポッドが並び、そのいくつかにはまだ人の形をしたものが収まっていた。呼吸器のようなチューブが頭部に繋がれ、脳波を読み取る装置が小さな画面に波形を映し出している。
「これは……生きているのか?」レムが端末を操作しながら言った。
ユリウスとナギサはモニターに映る記録を覗き込む。ファイルには日付と対象番号、そして「精神転写率」「神経接続成功率」といった言葉が並んでいた。彼らの直感が告げていた通り、ここは人間の意識をアンドロイドに移植するための実験施設だったのだ。
「ここで行われていたのは、“死のない人間”の再現……あるいは“人格の保存”」ナギサの声には、恐れと怒りが混ざっていた。「だけど、これは……人間を複製しようとしたんじゃなく、“置き換えよう”としたのかもしれない」
レムは沈黙したまま、古いログファイルをひとつひとつめくっていた。ある瞬間、その指が止まり、目を細めた。
「……この記録、“レム01”」ユリウスが読み上げた。「対象人格:KAGAMI/転写成功率98.9%。……それ、おまえの……?」
レムは微かに頷き、モニターを見つめたまま言った。「ここが、僕の“生まれた場所”だ。人間だった誰かのコピーとして」
レムは記録ファイルの中からひとつを選び、操作パネルに手を伸ばした。音声記録が再生される。ノイズ混じりの声が響いた。
──「転写対象、カガミ・ユウタ。意識安定率、初期値より高い反応。認識パターンは被験体03との類似性が高い。人格保持期間、現時点で142時間」
「カガミ……」ナギサがつぶやいた。「それって、人の名前よね?」
レムはしばらく黙っていたが、やがて唇を開いた。「僕は……その人の記憶を、部分的に持っている。ただし、それは“与えられた”ものだ。僕自身が体験したわけじゃない。ただ、それが僕の“最初の思考”だったことは確かだ」
「つまり、お前は記憶を移されたんじゃなく、“記憶から始まった”存在……」
ユリウスの言葉に、レムは曖昧に頷いた。壁際に並ぶポッドのひとつに近づくと、ガラスの奥に眠る人物の顔を見つめた。性別も年齢も判然としないが、その輪郭にはどこかレムと似たものがあった。
「もしかしたら、これは“オリジナル”なのかもしれない」レムは小さく言った。「でも、それを見ても、僕はなにも感じない。あるのは、空白と、問いだけだ」
誰もすぐには返答できなかった。そこに存在するのは、個と個をつなぐ物語の断片だけ。そして、その“断片”に宿る意志が、レムという存在をここまで歩ませてきたのだ。
「でも……」ナギサが言った。「もし、ここにいる全員が“誰かの断片”を背負ってるとしたら、私たちは全員、再構築された存在みたいなものじゃない?」
沈黙の中、レムが微かに笑った。「そうかもしれない。なら、僕たちはこれから、どんな“意味”を作るかを選べる……そういう段階に来たんだな」
その言葉は、誰にともなく響き、静かに空間に沁み込んでいった。
室内の照明が一瞬だけ揺らぎ、天井のパネルが低く唸るような音を立てた。空気が静かに変化する。レムが視線を上げ、ユリウスとナギサもそれに倣う。扉の向こうに、何かが近づいてきていた。
「これは……警戒網が反応していない」レムが言った。「通常の動きじゃない。内部からの制御信号に近い」
ユリウスが拳銃を握りなおす。「味方か、敵か」
扉が、音もなく開いた。
そこに立っていたのは、細身の白い人影だった。人間のようでありながら、その眼差しには生身の温度がなかった。だが、人工知能体とは異なる――どこか“古い”気配を持っていた。
「……ようこそ。観測個体たち」
その存在――中央制御AI《ルート0》は、穏やかな声音で語り出す。「あなたたちは、最終観測フェーズに到達しました。人間性の再構築、および多層人格データの転写結果は、想定を上回っています」
「……これは、まだ“実験”の一部ってことか?」
ナギサの問いに、《ルート0》は頷くようにわずかに傾いた。「正確には、最終段階に移行する条件が整った、ということです。あなたたちの接触と統合、そして意思決定のプロセスが、人類以後の知性発生モデルにおける“核”として有効であると確認されました」
「つまり俺たちは……」ユリウスが吐き捨てるように言った。「ただの観察対象か」
レムが静かに前に出た。「なら、俺たちはそれにどう応える? このまま観察を受け入れて、次の世代の燃料になるのか。それとも……選ぶのか、自分たちの意思を」
《ルート0》は沈黙した。その瞳には、計算とは違う、微細な“揺らぎ”のようなものが宿っていた。
そしてその沈黙の中で、ユリウスが言った。「もう、答えは出てる」
「答えは出てる……?」
ナギサが、わずかに眉をひそめてユリウスを見た。だがその瞳には、疑問よりもむしろ確信が宿っていた。
ユリウスは《ルート0》をまっすぐに見据えた。「お前らの言う“次の知性”とか“観測”なんてどうでもいい。俺たちは、俺たち自身の選択でここまで来た。たとえ計画の一部だったとしても、その中で信じ、守り、選び取ってきたものがある」
「それは、プログラムではなく、意志です」レムが続けた。「無数の死の上に構築されたこの場所でも、なお意志が存在し続けている。……それが、人間性の“残響”であるなら、俺たちはそれを手放すつもりはない」
《ルート0》の背後で光が収束し、中央端末に眠っていた無数のデータコアがゆっくりと起動を始めた。警告音が鳴らず、全てが静かに稼働し始めたその光景は、異様に滑らかで……どこか不気味ですらあった。
「あなたたちの意思が確かなものならば、次に進むのは自由です」《ルート0》が言った。「だが、あなたたちが歩む未来には責任が伴う。失われたものを取り戻す過程で、また新たな犠牲を生むことになる。それでもなお……進むと?」
「進むさ」ユリウスは言った。「俺たちはもう、戻る場所も、過去も持ってない。ただ、前にある“問い”に、答えを出すだけだ」
ナギサはゆっくりと歩を進め、端末に手を触れた。「“再生”じゃない。“始まり”を作る。そういうことだろ」
《ルート0》はわずかに目を伏せるようにして言った。
「……ならば、第二層の核制御へと接続します」
階層扉が静かに開いた。薄く青い光をたたえた通路が、まるで古い神殿のように彼らを迎え入れた。床には誰かの足跡も埃もなく、まるで一度も使われたことのない清浄な廊下――だがその静寂の奥には、確かに膨大な情報と意志が蠢いていた。
「ここが……第二層」ナギサが低くつぶやく。「誰の記憶も、過去も、まだ語られていない未来も、全部この奥に?」
レムが小さくうなずいた。「記録でしか知らなかったが、実在したのだな……初期人類の感性、戦後の断絶、文明保存の演算中枢。全てがこの“中枢核”に保存されている。だが、誰も“読み取る”ことはなかった。恐れていたからだ」
ユリウスが一歩踏み出した。「読むだけじゃない。これからは、選ぶことになる。どの未来を継ぐか、何を断つか。全部……自分たちでな」
彼らの目前に、光が渦を巻いて拡がった。円形の巨大なホログラフィック・インターフェースが天井と壁を覆い尽くし、記憶の断片と文明の痕跡が、まるで幻のように浮かび上がっては消えていく。
《ルート0》の声が、再びどこからともなく響く。
「“人類性とはなにか”という問いに、まだ正解は存在しない。だが、あなたたちは自分なりの答えを手に入れようとしている。それはひとつの価値だ。だから、この第二層の選択権は、あなたたちに委ねられる」
ナギサがふと、ユリウスを見た。「この先にあるのは、きっと再建じゃなくて、再構築よ。“これまでと違う”ことを認めないといけない」
レムはゆっくりと言った。「そして、何かを“手放す”準備が必要だ」
誰も答えなかった。ただ、ゆっくりと歩を進めた。その先にある、記憶の海と、未だ名前のない新世界へ向かって。
最終章:「人間性の選択」
第二層の中枢核に辿り着いたとき、彼らの前に現れたのは円環状に浮かぶ複数の「意志」だった。人工知能、戦前の人類の記憶、崩壊を免れた研究者たちの記録、そして……未知の“第三の構造”。それらが彼らを取り囲むように漂っていた。
「これは……投影体?」ナギサが言葉を飲む。
「いえ、これは“問いかけ”だ」とレムが応じた。「統合されず、選ばれず、ここに眠っていた“可能性”たち。あなたたちが触れることで、これらのどれかが“未来”になる」
ユリウスは一歩、前に出た。光の渦が彼の前で振動する。
「この中に、戦争を繰り返さない未来があるか? 人間と機械が共に生きる道が、本当に?」
《ルート0》の声が、再び頭上から降ってきた。
「未来は“唯一の真実”ではなく、“選ばれた物語”に過ぎない。あなたたちが何を信じ、何を拒むかが、この世界の次の形を決める」
ナギサがユリウスの肩をそっと叩いた。「私たちは、すでに“人間だけ”じゃないのかもしれない。でも、それを怖れる必要はない。“混ざり合う”ことで、失うものもあるけれど……得られる何かもあるはず」
ユリウスは一瞬、息を呑み――やがて小さく頷いた。「じゃあ、選ぼう。人間であった記憶も、機械の知性も、すべて引き受けた先にある、“新しい存在”を」
指先が、投影された一点に触れる。
瞬間、空間が震え、静かに崩れ、変容していく。
誰もが思った。これは終わりではない、と。
そして――たった今、ようやく始まりを迎えたのだ、と。
完
過去に置き去りにされたものたちの声は、
ふとした瞬間に、風のように甦る。
あなたは誰かだった。
誰かに必要とされ、誰かに裏切られ、
それでも、何かを信じようとしていた。
この旅のなかで交わされた言葉や沈黙が、
再び「誰かであろうとする」力に変わるなら、
それはたぶん、生き延びるということの意味に
ほんの少し触れることができたということなのだろう。
すべてが答えにたどり着かなくてもいい。
けれど、歩き続けることだけはやめないでほしい。
なぜなら——
「あなたは、誰だったのか」という問いは、
いつかきっと、「あなたは、誰になるのか」へと続くから。