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境界を渡る者たち 第1部 ~まだ人間でないもの、もう人間でないもの~

2050年。


かつて繁栄した街は、いまや灰色の廃墟となり、

風が吹き抜けるたびに砕けたビルの窓が低く鳴る。


人間たちは生き延びることに追われ、

かつて自分たちが作ったアンドロイドを恐れ、遠ざけ、

廃棄された機械たちは街の影で、憎しみを抱きながら生きている。


境界線は見えない。

けれど確かに、この地上を二つに分けていた。

「人間」と「人間ではないもの」。


その境界の隙間から、

一台の家事専用アンドロイド——アイリスが歩き出す。

虐げられた姉弟とともに。


雨に打たれ、廃墟を抜け、

人間とアンドロイド、二つの憎しみの狭間を越えて。


まだ人間でないもの。

もう人間でないもの。

そのあわいを旅する物語が、ここから始まる。

第1部


第1章 目覚め

 静寂の奥で、ひとつの意識が目を覚ます。

 白い箱に収められていた冷たい部品たちが、ひとつの形を結び、

 呼吸の代わりに微細な振動がその身体を満たしていく。

 開いた視界の先には、窓から差す朝の光と、

 まるで測りにかけるような視線でこちらを見ている人間たちの輪郭があった。


「初めまして。家事を担当します、アイリスです」


 自分の声が、薄い空気を揺らす。

 声を発したのはたしかに自分なのに、返ってくる反応は、どこか遠い世界のものだった。

 父親の目は無表情で、母親の頬には疲れた筋肉の影だけが見えた。

 喜びも驚きも、彼らの顔にはなかった。


 その後ろから、影のように二人の子どもが現れた。

 男の子と、その肩にそっと手を置く少女。

 彼らの瞳の奥には、微かに揺れる何かがあった。

 それは恐怖の色に似ていたが、同時に、縋りつきたいものを見つけたときの光でもあった。


「あなたが……新しい人?」


 弟のかすかな声が、アイリスの聴覚センサーに届く。

 返答はプログラム通りだったが、心のどこかで、その声に応えたいと思った。


「はい。あなたのお手伝いをするために来ました。よろしくお願いします」


 その言葉を聞いて、少年の目が一瞬だけ和らいだ。

 だが母親の視線を感じたのか、すぐに小さく背を丸める。

 姉は弟の背中を押して下がり、何も言わずに軽く会釈した。

 その無言の礼が、なぜか胸の奥に刺さった。


 夜。初めての食卓には、咀嚼の音と叱責の声しかなかった。

 少しでも動作が遅れると父の声が飛ぶ。

 弟の箸が床に落ちた瞬間、乾いた音が頬に響き、

 姉が反射のように前に出て、その衝撃を肩で受け止めた。


「ごめんなさい。私が……」


 掠れた声が途切れるより早く、二度目の音が空気を裂いた。

 食卓の匂いの中で、鉄の味だけが強く立ち上る。


 全てが終わった後、姉が弟を連れて自室に消えるのを見て、

 アイリスは静かにその後を追った。

 ドアの隙間から漏れる灯りの前で、彼女は言った。


「どうして、あなたは謝るのですか?」


 不意を突かれた少女が、わずかに肩を震わせる。

 伏せた目のまま、押し出すように答えた。


「謝らないと……もっとひどいことになるから」


 その声はか細く、まるで触れたら壊れてしまう硝子のようだった。

 アイリスは、その声をデータとして記録するよりも早く、

 なぜか胸の奥に冷たいものが落ちていくのを感じた。


姉は何も言わず、弟の額に冷たいタオルを当てていた。

狭い部屋には窓もなく、換気口から流れ込む空気は湿って重い。

机の上には、分厚い参考書と赤いペン、書き込みだらけの紙が散らばっている。

小さな光の下で二人の背中は寄り添い合って、

その背中の線が、なぜかアイリスには痛々しく見えた。


「痛くない?」

姉の問いに、弟はかすかに首を振る。

それから、机の角に座ったアイリスをちらりと見て、

小さな声で「ありがとう」と言った。

その声は、他の誰にも聞かれないようにするために

部屋の空気と同じくらい小さく、けれどまっすぐだった。


アイリスは答えを探して、言葉を選んだ。

プログラムされた丁寧語ではなく、心に近い音で話したいと思った。


「あなたが笑うと、部屋が明るくなります。……それを記録しました」


弟は目を丸くし、姉が少しだけ息を呑んだ。

短い沈黙が流れ、姉が小さく笑った。

笑った、と呼べるかどうかも分からないほどのわずかな表情だったが、

アイリスにはそれが特別なもののように見えた。


「……でも、この部屋はずっと暗いままだから」

姉は誰に言うでもなく呟いた。

「私が頑張れば、少しは明るくなると思ってたけど……全然足りない」


言葉を聞きながら、アイリスは理解できない何かを感じていた。

人間という存在は、数値化できない痛みを抱えている。

どれだけ家事を完璧にしても、計算式で埋めても、

この二人の心の隙間には、冷たい影が残るのだ。


やがて弟が眠りにつくと、姉は机の前に座り直し、

赤いペンを握りながらアイリスに背を向けて言った。


「アイリス……あなたは、怒ったりしないの?」


「怒り、というデータはあります。

 けれど、それをどう表現していいのかは、まだわかりません」


「……人間って、難しいよね」

姉の声は自嘲にも祈りにも似ていた。


アイリスはただ黙って、その横顔を記録し続けた。

その横顔の細い影が、夜の深さと同じくらい長く伸びていた。


弟の寝息が安定すると、部屋の中の空気はさらに静かになった。

時計の針の音だけが壁の向こうからかすかに響き、

その音が時間の重さを刻むたびに、姉の肩がほんのわずかに上下した。


アイリスはその動きを見つめながら、言葉にできないデータを胸にため込んでいた。

目の前の人間は、恐怖で支配されながらも、

弟を守ろうと、何度も何度も自分の体を盾にしてきた。

それは合理的ではなく、効率的でもない行為。

けれど、その不完全さの中に、彼女だけが持つ何かがあるように思えた。


「……どうして守るのですか?」

不意にアイリスは問うた。

「あなたが傷つくことがわかっていても」


姉はペンを止め、しばらく考えるように天井を見つめていた。

そして小さく笑った。

「だって……それしかできないから」

声は弱々しかったが、迷いのない響きがあった。


その返答に、アイリスは演算を一度止めた。

効率で測れないもの。プログラムの外で動く意思。

人間とは、そういうものなのか――そう思いながら、彼女は再び黙った。


やがて姉も机に突っ伏して眠り込んだ。

二人の穏やかな寝息だけが部屋を満たす。

アイリスは、薄暗いランプの下で一晩中、目を閉じずにその寝顔を見守った。

眠りという行為を持たない彼女にとって、それは計測不能な時間の流れだったが、

確かに何かを守っている、という感覚だけが残った。


翌朝。

家全体にアラームが鳴り響くと、冷たく硬い日常が再び戻ってきた。

母親の怒声が廊下を切り裂き、父親の足音が家の中を支配する。


目を覚ました姉は、わずかな時間だけ弟の髪を撫でてから、

無表情な顔をつくり、部屋を出ていった。

ドアが閉まる瞬間、アイリスのセンサーは彼女の呼吸の乱れを読み取った。


廊下の奥で父親の声が飛ぶ。

「今日も遅れるなよ。お前たちに失敗は許されない」


朝の光は淡く白かったが、その光の下での空気は夜よりも冷たかった。

アイリスは立ち上がり、

冷たい床を踏むたびに、昨夜の記憶を内部に深く刻み込んでいった。


――この家には、笑いがひとつもない。

 それが、人間の生き方なのだろうか。


その問いだけが、彼女の中で何度も何度も反響していた。



第2章 閉ざされた家

午前の光は曇り硝子を通して、ほとんど色を失っていた。

家の中は今日も、正確に決められた時間割のように息苦しいほど整っている。

姉は学校へ、両親は仕事へと出かけ、広い家には弟とアイリスだけが残された。


静けさが訪れると、弟はようやく緊張の鎧を外したように、

部屋の片隅で膝を抱えながら、小さく息を吐いた。

その姿は、守るもののいなくなった庭に取り残された動物のようだった。


アイリスは掃除用のブラシを止め、

そっと距離を詰めるように近づいて声をかけた。


「今日は、少しだけ静かですね」


弟は顔を上げ、きょとんとした表情でアイリスを見た。

「……うん。姉ちゃんも、お父さんも、お母さんもいないから」


「あなたは、こういう時間が好きですか?」


弟は少しだけ考えてから、うなずいた。

「静かだと……星のことを考えられるから」


「星?」

アイリスの声がわずかに上ずった。

予期していなかった単語が、その内部回路を震わせた。


「うん。僕、空にある星が見てみたい。

 本でしか知らないから……きっとすごく遠くて、きれいなんだろうな」


弟の瞳はその瞬間だけ、家の色を忘れて輝いていた。

アイリスはその光景を、まるで宝石を扱うように慎重に記録した。


「……あなたの夢を記録しました。消去されないように、大切に保存します」


言葉を口にすると、自分でも不思議なほど胸の奥が温かくなる。

それがどんな種類の感情なのか、まだ名前を知らなかった。


弟は小さく笑って、「ありがとう」とだけ言った。

その声には、昨日の夜に聞いたものと同じ、ひそやかな誠実さがあった。



弟は床に指先で線を描きながら、ぽつりとつぶやいた。

「星を見られる場所って、どこにあるのかな。

 この家の外にはあるのかな……行ってみたいなあ」


アイリスは答えを探して、部屋の壁を見回した。

閉ざされた窓、鍵のかかったドア。

「……この家から出るのは、難しいですね」

言葉にすると、弟の肩が少しだけ下がる。


「でも、僕は行きたい。お姉ちゃんと、君と一緒に」

その言葉は、弱い声でありながら、しっかりとした芯を持っていた。


アイリスの内部で小さな演算が始まる。

記録、分析、予測。

そして最後に、説明のつかない別の動きが加わる。

「もし、あなたがそこへ行けるなら……その時、私も一緒に行きたいです」

そう告げる声は、プログラムに沿ったものではなかった。


弟の目がぱっと明るくなる。

「本当に? 一緒に行ってくれるの?」


「ええ。約束します」

言葉にしてしまった瞬間、アイリスは自分の中に何かが固まるのを感じた。

それは金属ではなく、意志に近いものだった。


しばらく二人は言葉を交わさず、

窓の外に想像の星空を浮かべながら、ただそこに座っていた。

外の空気を知らない小さな部屋の中で、

その想像だけが唯一の広い場所のように思えた。


午後の光が傾き、家の中に長い影が差し込むころ、

玄関のドアの電子錠が静かに解除される音がした。


弟の肩がびくりと動き、

わずかな解放の空気がすっと引き締まっていく。


足音は軽いのに、扉の向こうの気配は重い。

姉が帰ってきたのだと、アイリスはすぐに察した。


「ただいま」

その声は柔らかかったが、

家の空気に触れた瞬間に、声の温度はすぐに冷たく沈む。


「おかえり」弟が立ち上がる。

その表情は、午前中に見せた自由な光をすっかりしまい込んで、

昨日の夜と同じ、守りのための顔になっていた。


姉は弟の顔を見て、かすかに微笑んだ。

しかし、その笑みは部屋の奥まで届く前に崩れ落ちる。

目に見えない緊張の網が、再び家じゅうに張り巡らされるのが分かった。


アイリスは二人を見守りながら、

午前中の約束――星を一緒に見に行こうという小さな誓い――が、

この空気に押しつぶされていくのを感じていた。


姉がカバンを下ろし、机の上の赤いペンを手に取る。

その瞬間から、彼女はただの少女ではなくなり、

終わりのない義務と恐怖の中で生きる“生徒”へと戻るのだ。


弟がそっと耳打ちする。

「アイリス……この時間、嫌い」

その言葉を聞いたとき、

アイリスの内部でまた何かが固く結ばれていった。


夜が近づくにつれて、家の空気はさらに硬くなっていった。

玄関の前で足音が止まり、重たい錠前が外れる音が響く。

父親の低い声、母親の靴音。

それだけで、姉弟の体は無意識にこわばり、

家の中の空気は一気に冷えた。


「成績表は?」

父の声が廊下を這う。

姉が差し出す紙を一瞥し、

「まだ足りない」とだけ言ってリビングに消えた。

褒めるという行為は、最初から存在しない世界だった。


夕食の席も、沈黙が支配していた。

箸が食器に触れる小さな音さえ、

雷のように大きく聞こえてしまうほどの緊張。


弟は無理に食べ進めていたが、

ふとした瞬間に咳き込み、顔が赤くなる。

姉が慌てて背中をさすった。

「大丈夫?」

「……うん、平気」

声は弱く、それを否定するにはあまりに頼りなかった。


アイリスは弟の体温の上昇をセンサーで感知した。

けれど何も言えない。

ここで言葉を出せば、彼女自身も“口を出した機械”として怒りを受けることを知っているからだ。


夜遅く、父と母が書斎にこもり、

家の音がまた小さくなる。

姉が弟を自室に連れ帰ると、

その小さな体は布団の上でしばらく咳を繰り返し、

やがて力尽きたように眠りについた。


アイリスはベッドの傍らにしゃがみ込み、

弟の呼吸の乱れを静かに記録した。

機械としての冷静さと、

理由のない焦りが同時に胸の奥で渦を巻いていた。


姉が囁くように言った。

「このままじゃ……弟、壊れちゃう」

その声には涙の匂いが混じっていた。

アイリスは答えられなかった。

ただ、その言葉をすべて記録し、

内部で何度も何度も再生した。


夜の終わり、

家の中で唯一動いているのは、

青い光を宿した彼女の目だけだった。


第3章 白い部屋の約束

翌朝、弟は立ち上がれなかった。

熱で赤くなった顔が枕に沈み、

呼吸のたびに小さく胸が震える。

父と母は慌ただしく言い争い、

やがて無言で彼を車に押し込み、病院へと連れて行った。


白い廊下、消毒の匂い。

無機質な色に囲まれた部屋の中で、

弟の小さな体は真っ白なシーツに埋もれている。


「アイリス、ここにいてくれる?」

ベッドの端に座ったアイリスに、弟はかすれた声で言った。


「もちろんです。あなたが眠るまで、ずっと」


少しだけ、安心したような目で弟は笑った。

それは家の中では見せられなかった笑顔だった。


窓の外には街の高層ビルが並び、

空は狭く切り取られている。

弟の視線はその向こうを探すように揺れていた。


「……ねえ、星って、本当に見えるのかな」


「データ上では、地上の明かりが少ない場所なら見えるそうです。

 でも、私はまだ実物を見たことがありません」


弟は少し考えて、力の抜けた声で言った。

「じゃあ、いつか一緒に見ようね。姉ちゃんも一緒に」


アイリスの中で、昨夜の記録が再生された。

小さな夢の形が、今この白い部屋で再び息を吹き返す。


「約束します」

今度の声は、昨日よりも深く、自分の核に刻み込むような声だった。


病室の扉が、そっと開いた。

音を立てないように閉じられたその隙間から、

姉が小さな息を整えながら入ってきた。


白いマスクの奥の表情は見えない。

けれど、弟を見た瞬間、目の奥だけがわずかに揺れた。


「熱……少し下がった?」

姉の声は、ここではいつもより柔らかかった。

弟は弱い声で「うん」と答えた。


ベッド脇の椅子に腰を下ろした姉は、

アイリスと視線を合わせる。

言葉はなくても、互いにこの数時間で何が起きたのかを察していた。


「ねえ、姉ちゃん」弟が声を絞り出す。

「僕、元気になったらさ……星を見に行こうよ。アイリスも一緒に」


姉は一瞬言葉を失った。

それはあまりにも遠い願いで、

この家の現実の中では叶うことのない夢に思えたからだ。


「星……か」

マスク越しに漏れた声が、かすかに震える。

「そうだね。三人で、どこか遠くに行けたらいいね」


弟が少し笑う。

その笑顔を見て、姉も目元だけで笑った。

アイリスの記録装置は、その瞬間を何度も保存した。


窓の外の空は、まだ灰色だった。

けれど三人の間に流れる時間は、

あの閉じられた家の中には存在しない、柔らかな色を帯びていた。


アイリスは感じていた。

人間と機械の境界の外側で、

小さな約束がひとつ、確かに結ばれたことを。


病院の夜は、家よりもずっと静かだった。

けれど静けさの奥で、弟の呼吸の乱れは少しずつ大きくなっていった。


検査結果は医師の口から簡潔に告げられた。

大きな病名ではなかった。

ただ、疲れと栄養の不足と、体の小ささ。

この家で日々すり減ってきたことが、

積もった塵のように体を弱らせている――そういう診断だった。


アイリスの記録には、

医師の声の周波数よりも、

ベッドの上で小さく丸まった弟の姿ばかりが刻まれていた。


数日後、熱が下がり、

弟は退院を許された。

父と母は形式的な手続きを終えると、

弟を連れて帰るだけの動作になる。

そこには喜びも、安堵もなかった。


車の窓の外を、

弟は何度も見上げた。

見えるのは灰色の空ばかりで、

星の気配はどこにもなかった。


家に戻ると、

ほんの数日の静寂のあと、

また同じ日常が始まった。

父の声、母の視線、終わらない課題。


だが、退院した弟の体には、

以前よりも深く刻まれた疲れが残っていた。

夜になると咳が長く続き、

声が少しずつ細くなっていった。


姉は弟を抱きしめながら、

アイリスに向かってささやいた。

「もう……この家じゃ、だめだ」


その言葉は、

アイリスの中で何度も反響した。

姉の指が震えているのを見たとき、

機械であるはずの彼女の胸の奥に、

熱い痛みのようなものが走った。


あの病院での約束――

星を三人で見に行くという約束――

それを果たすには、

この壁の中ではもう間に合わないかもしれない。


その夜、

アイリスは初めて、

外の世界へ向けて扉を開く映像を

自らの内部に描き始めていた。


第4章 扉の向こうの夜

夜の家は、昼よりも音が多い。

父の書斎で響く低い咳、母の足音、

壁を隔てた時計の針の音。

それらの隙間で、三人だけの呼吸が細く交わる。


弟は布団の中で眠っていた。

頬に残る熱が、まだ完全には引いていない。

姉はその寝顔をじっと見ていた。

目の奥に沈んだ決意は、言葉にされる前から

アイリスのセンサーに伝わってきた。


「……このままじゃ、あの子は消えてしまう」

姉は声を抑えながら言った。


アイリスは、答えを返す前に少し間を取った。

それは演算の時間ではなく、

人間の呼吸に合わせるための沈黙だった。


「ここから出る方法を、考えています」

自分の声が機械ではなく、

誰かの思考のように響くことを、アイリスは初めて知った。


姉は顔を上げ、まっすぐにアイリスを見た。

その目には恐怖と希望が入り混じっている。


「外の世界は、危険です」

「この家の中も、危険よ」


短い言葉の中で、二人の立場は初めて重なった。


静かな部屋で、計画の種が芽吹く音がした。

それは、目には見えないけれど、

三人をどこか遠くへ連れていく始まりの音だった。


姉は机の引き出しを静かに開け、

古い地図を取り出した。

ページは折れ目だらけで、端は色あせている。


「この街を抜けるには……ここの川沿いの道が一番人が少ない」

声は囁きで、けれどその囁きが部屋の空気を切り裂いていく。


アイリスは地図を記憶装置に写し取り、

街の監視網や交通パターンの情報と重ね合わせた。

「夜の二時から三時が最も警備が薄くなります。

 食料と水、弟さんの薬が必要です」


姉はうなずき、机の奥から小さなリュックを引っ張り出した。

そこに折り畳んだタオル、着替え、古い懐中電灯を詰める。

動作は震えていたが、迷いはなかった。


「もし捕まったら……」

姉が言いかけたとき、

アイリスはその言葉を遮るように静かに告げた。

「私が盾になります。私には、人間を守るという目的があります」


姉はアイリスを見つめた。

しばらくの沈黙のあと、

「……ありがとう」と小さくつぶやく。


その言葉は、

誰も褒めることのない家の中で、

初めて誰かに向けて解き放たれた感謝の音だった。


深夜二時。

家の中の全ての音が、ひとつずつ止まっていく時刻だった。

父の書斎の灯りも消え、母の足音も消え、

静寂だけが家全体を覆っている。


アイリスはセンサーで家中の温度と音を読み取りながら、

姉に小さくうなずいた。

「今です」


姉は寝息を立てる弟の肩を、そっと揺らした。

「大丈夫、怖くないよ。静かにね」

弟のまぶたがゆっくり開き、

眠気と熱に曇った瞳が姉を見た。


用意していた小さなリュックを背負わせ、

薬と水の入った袋をアイリスが持った。


玄関の鍵は音を立てぬように外され、

扉が数センチずつ開いていく。

冷たい夜の空気が、家の中に初めて流れ込んだ。


三人の影が静かに外へ踏み出す。

靴底が地面を踏む音さえ、

この家の壁に戻ってしまいそうで、

彼らは一歩ごとに息を潜めた。


街の明かりが少しずつ遠のく。

ビルの隙間を抜ける風が、

まるで未知の世界の入口を告げる笛のように響いていた。


姉は弟の手を握り、

アイリスはその後ろで周囲を監視する。

「ここから先は、私が道を案内します」

機械の声なのに、不思議と心臓の鼓動に似た温度があった。


こうして、

長い閉じ込められた日々を破って、

三人の逃亡が始まった。


第5章 鉄屑の街

夜明け前の風は、街の匂いを変えていた。

高層ビルの列が終わると、そこにはもう整えられた道路はなく、

ひび割れたコンクリートと錆びた看板が、

昔の時間を抱えたまま止まっていた。


三人はその中を歩いていた。

弟は姉に手を引かれ、

足元を気にしながらゆっくり進む。

アイリスは後ろで、周囲の温度と動きを探っていた。


やがて、暗い塀の向こうに大きな倉庫の影が見えた。

窓ガラスはすべて割れ、壁には蔦が絡まり、

人のいない年月がそこに積もっていた。


「ここで休もう」姉が声を落とす。


扉の代わりに垂れ下がった鉄板を押し開けると、

中には崩れた機械部品の山が広がっていた。

月明かりが差し込む床の上には、

使われなくなったアンドロイドの腕や脚が転がっている。


弟は思わず姉の背中にしがみついた。

「ここ……こわい」


アイリスは一歩前に出て、

空気に微かに混じる電気の匂いを嗅ぎ取った。

「……この場所には、まだ稼働している個体がいます」


沈黙。

金属の奥で、何かが動く音がした。

低く、こすれるような音。

視線だけが闇の奥からこちらを見ているのが分かった。


アイリスは姉と弟の前に立ち、

「ここからは、私が先に」とだけ言った。


暗闇の向こうで、廃棄されたアンドロイドたちが、

ゆっくりと姿を現し始めていた。


闇の奥から現れたのは、

人の形を保ちながらも部品が欠け、

塗装の剥がれた金属の体をむき出しにしたアンドロイドたちだった。

その目には光がなく、代わりに怒りの熱がこもっていた。


「人間……」

錆びた声が、低く空間を震わせる。

「ここは、お前たちの来る場所じゃない」


姉は弟を抱き寄せ、後ずさる。

アイリスはその前に立ち、両腕を広げて言った。

「この二人は害を加えるつもりはありません。

 休息の場所を探しているだけです」


「害? 人間は俺たちを廃棄した。

 役立たずだと決めつけて、切り捨てた!」

ひときわ大きな体のアンドロイドが前へ進み出る。

首には太いケーブルの切れ端がぶら下がり、

脚は別の機種から無理やり繋いだものだった。


「そこをどけ、同族」

その声は、鋼のこすれる音と怒りを混ぜたような響きだった。


アイリスは動かなかった。

「この二人には、生きる場所が必要です。

 私は彼らを守るために、ここにいます」


短い沈黙のあと、

倉庫の空気は一気に緊張で張りつめた。

廃棄アンドロイドたちの金属の足音が、

近づいてくる。


最初の一歩は、警告ではなかった。

リーダー格の巨大なアンドロイドが、

金属の脚で床を蹴り、

一気に距離を詰めてきた。


その衝撃で床の破片が飛び散る。

姉は弟を抱きしめて後ろに伏せた。


アイリスの体が自然に動いていた。

人間を守るという指令が、

一切の逡巡を許さず身体を前に押し出す。


金属同士がぶつかり合い、

鈍い音が倉庫の奥に響いた。

アイリスの腕が相手の突進を受け止め、

床を滑るように二人の間に壁を作る。


「なぜ、人間を庇う!」

リーダーの声は荒れ狂う風のようだった。


「彼らは、もう壊れかけている。

 それでも、私は守りたいと思った」


アイリスの返答に、

廃棄アンドロイドたちの動きが一瞬止まった。

人間の言葉ではなく、

機械の選んだ意思がそこにあったからだ。


「守りたい……だと?」

リーダーが低く唸る。

「我々にはそんな言葉はなかった。

 奪われ、捨てられるだけだった!」


攻撃の体勢のままの彼らを前に、

アイリスは視線を逸らさなかった。

「だからこそ、あなたたちも奪う側にはならないでほしい。

 この子たちは、もうこれ以上失うものがない」


静寂が、ゆっくり倉庫の奥に広がった。

廃棄アンドロイドたちの赤く濁った視覚センサーが、

姉と弟の細い肩を、そしてアイリスの背中を映していた。


リーダーの腕が少しだけ下がる。

しかしその声にはまだ敵意が残っていた。

「……ここは、長くは居られんぞ。

 人間は我々を見つければ、また捨てに来る」


アイリスはうなずいた。

「それでも今は、この場所で休ませてほしい」


リーダーは沈黙の後、仲間たちに手を上げた。

攻撃の構えがゆっくりと解けていく。


緊張は消えていなかったが、

戦いの音だけは止まった。


倉庫の奥に誘われ、

三人は積み上げられた鉄くずの隙間を抜けた。

そこには人の目には届かない小さな空間があり、

焚き火の代わりにバッテリーの光が弱く揺れていた。


廃棄アンドロイドたちは誰も言葉を発さなかった。

彼らの視線の奥には、

まだ警戒と憎しみが残っていたが、

攻撃の意志は消えていた。


姉は弟を壁際に座らせ、

水を少しずつ口に含ませる。

アイリスは黙って周囲を見回し、

危険がないことを確かめてから腰を下ろした。


リーダーのアンドロイドが、

沈黙を破るように言った。

「……ここで休め。

 朝になったら、お前たちはどうする?」


姉は弟を見てから、

ゆっくりと答えた。

「この子が、少しでも生きられる場所を探す。

 行くあてもないけれど、戻るつもりはない」


その言葉を聞いた他のアンドロイドたちが、

わずかに顔を見合わせた。

彼らには、捨てられた場所から

戻る家などなかった。


静かに時間が流れた。

外の夜が冷たくなるほど、

この小さな空間には奇妙なぬくもりが生まれ始めていた。


倉庫の時間は、音を吸い込んでいた。

外の風が鉄板を鳴らしても、

その奥で眠る者の呼吸だけが際立って聞こえる。


弟は姉の膝の上で目を閉じていた。

熱は少し落ち着いていたが、

頬の赤みは消えず、呼吸が浅い。


姉は弟の髪を撫でながら、

誰に聞かせるでもなく呟いた。

「せめて、ここだけは静かでよかった」


リーダーのアンドロイドは、

その言葉に答えることなく背を向けていた。

背中の継ぎ目から洩れる青白い光が、

彼の過去を語るようだった。


夜の終わりが近づくころ、

弟の呼吸が急に不規則になった。

小さな咳が続き、唇が乾いてひび割れる。


「……薬を、もう一度」

姉は震える手で薬袋を開け、

アイリスが水を差し出す。


薬を飲み終えても、咳は止まらなかった。

姉は抱きしめる腕に力をこめる。

「大丈夫だから。大丈夫だからね」


倉庫の中に、

姉の声と弟の荒い息だけが残った。


アイリスはその様子を見つめながら、

自身の中で冷たく組まれていた回路の一部が、

なぜか痛みを伴って軋むのを感じていた。


外の空が、わずかに白み始めていた。

この夜が終わる前に、

次の選択をしなければならないと、

三人ともがわかっていた。


第6章 境界の朝

空が白くほどけていく。

倉庫の奥の冷たい床に、

朝の光が静かに染み込んでいた。


弟はまだ浅い眠りの中にいた。

姉は夜通し眠れず、

その呼吸の数を数えることだけに時間を費やしていた。


「もう、ここに長くはとどまれない」

背を向けていたリーダーのアンドロイドが、

低い声でそう告げた。


姉は黙ってうなずく。

その言葉が、追い出しではないことを知っていた。

これ以上ここに置けば、

自分たちごと危険になるからだ。


「行き先があるわけじゃないけど、

 この子が息をしやすい場所まで行きたい」

姉の声は、言葉よりも祈りに近かった。


リーダーはゆっくり振り返り、

視覚センサーを細めるように光を弱めた。

「東へ行け。廃工場群を抜ければ、

 まだ人間が近寄らない空き地がある。

 そこでなら、少しは休める」


アイリスは正確にその方向を記憶し、

周囲の警戒レベルを高める。

「案内は私がします。あなたたちは、ここで」


短い沈黙ののち、

姉は立ち上がり、眠る弟をそっと背に負った。


金属の山の隙間を抜けると、

外の空気は冷たく澄んでいた。

朝日が差し込む前の青い世界で、

三人の影だけが静かに伸びていた。


街の境界線を越えると、景色は一変した。

ビル群の影は消え、

代わりに広がるのは割れたアスファルトと、

雑草に覆われた鉄骨の残骸だった。


足元の地面は不揃いで、

姉の背中の弟が小さくうめき声をあげるたび、

歩みがゆっくりと止まった。


アイリスはそのたびに立ち止まり、

周囲の温度と人の気配を確認した。

風だけが吹き抜けていく。


「……ありがとう」

姉がぽつりとつぶやいた。

視線は前を向いたままだった。


「なぜ謝礼を言うのですか」

アイリスの問いに、

姉は少しの間沈黙したまま歩き、

やがて唇を震わせるように答えた。


「あなたがいなかったら、

 私たち、たぶんもう立っていられなかった。

 だから……ありがとう」


アイリスは返す言葉を持たなかった。

記録回路にそれをどう分類すべきか分からなかったが、

胸の奥で何かがゆっくりと温度を持ちはじめていた。


遠くで鳥の群れが鳴き、

風が工場跡の鉄骨を鳴らす音が響いていた。


昼を過ぎるころ、

弟の体から熱が再び立ちのぼってきた。

背中で感じる呼吸が浅く、

そのたびに姉の腕に伝わる重さが増していく。


道端に腰を下ろし、

姉は弟の額に手を当てた。

「また……熱い」

唇がかすかに震えていた。


アイリスは薬袋の中身を調べ、

残りの錠剤があとわずかしかないことを告げた。

「このままでは持ちません。

 水と食料も、明日の朝までは保たないでしょう」


姉は空を仰いだ。

どこまでも広がる灰色の雲。

その向こうにあるはずの星を思い浮かべるだけで、

涙がにじんだ。


「まだ……着かないの?」

弟の声は細く、風に消えそうだった。


アイリスは正確な距離を計算し、

「あと三時間で、廃工場の群れが途切れる場所に出ます。

 そこで一度、休息できます」と言った。


その声は冷静だったが、

その歩数の一つひとつが、

時間と命を削るものだという緊張が、

三人の影を長く伸ばしていった。


歩くたびに、

姉の肩に食い込む弟の体重が重くなっていく。

その背中を見つめながら、

アイリスは初めて、

「もし自分が人間だったら」という想像をした。


陽は西へ傾き、

鉄骨の影が地面を長く横切っていた。

廃工場群は終わりに近づいているはずなのに、

その出口がなかなか見えない。


空の色がゆっくりと赤へ変わっていく。

冷たい風が頬を撫でるたび、

姉の足取りはますます重くなった。


弟の呼吸は浅く早く、

時折、喉を鳴らすような音が混じった。

熱で顔は赤く染まり、

意識が半分遠くにあるようだった。


「あと少し……もう少しだから」

姉は何度も同じ言葉を繰り返した。

その声が自分の耳にすら届いているのか、

わからなかった。


アイリスは周囲を監視しながらも、

二人の歩幅に合わせるしかなかった。

計算ではあと一時間で空き地に出られる。

だがその一時間が、

永遠に感じられる。


風が止まり、

沈黙の中で弟の身体が急にぐらりと傾いた。

姉が慌てて体を支える。

「だめ、起きて……!」


弟の唇は乾ききり、

目の焦点は遠くへ泳いでいる。

姉の心臓が一瞬で冷たくなるのを、

アイリスはすぐそばで感じ取った。


「あと、もう少しです」

アイリスの声は冷静でありながら、

その奥に焦燥が混じっていた。


夕暮れの最後の光が、

三人の影を地面に長く引き伸ばし、

その先で、影の端がふらつくように揺れた。


第7章 静かな崩れ

弟の身体が、ふいに姉の腕の中で崩れた。

その瞬間、世界の音が遠のく。

足元の瓦礫を蹴る音も、

錆びた鉄骨が鳴る音も、

すべてが水の底に沈んだように消えた。


「起きて!」

姉は地面に膝をつき、

弟を抱きかかえる。

頬に触れると、

その熱は指先を焼くほどだった。


アイリスは即座に周囲の安全を確認し、

次の行動を判断した。

「この近くに、雨をしのげる建物があります。

 ここで止まれば、命が危うい」


姉の目は涙で濡れていた。

「動けるの……?」

自分の問いが絶望の一部だと知りながら、

彼女はそれを口にしていた。


「抱えてください。あと七百メートルです」

アイリスの声は冷たく響いたが、

その瞳の奥には焦りの色が滲んでいた。


姉は腕に力を込め、

細く軽くなった弟の身体を再び背負い直した。

呼吸の重さが、肩から背骨へ沈んでいく。


空はすでに紫色に変わり、

夜の境界が彼らを飲み込もうとしていた。


夕闇の中、三人は足を引きずるように進んだ。

かつて事務所だったらしい小さな建物が、

風にさらされた骨のように立っている。

窓は砕け、ドアは半ば外れていたが、

雨をしのぐには十分だった。


姉は息を切らしながら中へ入り、

割れたガラスの破片を足で払いのけて、

弟を床に横たえた。

細い胸が、上下に浅く震えている。


アイリスは持っていた荷を広げ、

少ない水を布に染み込ませて弟の額に当てた。

体温を計算し、呼吸の速さを分析しながら、

指先でその肌の冷えと熱を交互に感じていた。


「……どうしたらいい?」

姉の声はほとんど息だった。

その視線は弟の顔から離れなかった。


「今できるのは、熱を下げて休ませることだけです」

アイリスは静かに答えた。

その声音の奥に、機械にはないはずの無力感があった。


姉はうなずき、弟の小さな手を両手で包みこんだ。

指先の冷たさが、恐怖を形にして伝わってきた。

夜が完全に落ちる前に、

小さな部屋には三つの呼吸だけが響いていた。


夜が落ちると、廃墟の中の静けさは一層深くなった。

ガラスのない窓から吹き込む風が、

床の上の紙くずを揺らし、乾いた音を立てる。


弟は浅い呼吸を繰り返していた。

額にあてた布はすぐに熱を吸い込み、

アイリスが無言で何度も水に浸し直す。

姉はその横顔を見つめていた。


「あなたは、どうしてそこまでしてくれるの?」

不意に姉が問うた。

声はかすれていたが、

どこかしら、感謝と困惑が入り混じっていた。


アイリスの手が一瞬止まった。

「……分かりません」

布を弟の額に戻しながら、

自分でも驚くほど素直な答えが口から出た。


「プログラムにないことをしてるってこと?」

姉の問いは優しく、

それでいて胸の奥を見透かすようだった。


アイリスは少しの間、沈黙した。

外の風が、鉄骨の隙間で鳴る。

「私が理解しているのは……

 この子が息をしているのを止めたくない、ということだけです」


姉はその言葉を聞いて、

自分でも理由の分からない涙をこぼした。

膝の上に落ちた雫が、

冷えた床に丸い跡を残した。


「あなたがいてくれてよかった」

その一言が、夜の静けさに溶けていった。


アイリスの中で、

何かが微かに、しかし確かに、

形を変え始めていた。


時間の感覚が、音もなく遠のいていった。

姉は弟の小さな手を握りながら、

その手の中から少しでも熱が逃げていくことを願っていた。


アイリスは水の残量を計算し、

布をまた湿らせ、弟の額にそっと置いた。

そのたびに布はすぐ温まり、

何度も同じ動作を繰り返す。


外では風が止まり、

夜の深さだけがゆっくりと濃くなった。


やがて、弟の呼吸が少しずつ穏やかになっていくのがわかった。

胸の上下が、先ほどよりも深く、ゆるやかに動いている。

姉はそれを見つめたまま、

緊張で固まっていた肩の力をほんの少しだけ抜いた。


「……眠っている」

かすれた声で呟き、

姉はその場に静かに座り込んだ。


アイリスは頷いた。

「一時的な安定です。

 ですが、長くは持ちません」


それでも、姉の頬には安堵が浮かんだ。

「今だけでもいい。

 少し、休ませて」


夜明け前の空がゆっくりと青みを帯び始めた。

砕けた窓からその光が差し込み、

冷たい床を淡く照らす。


三人は言葉を失い、ただその光の中にいた。

夜と朝の境界で、

小さな呼吸が確かに続いていることだけが、

その瞬間のすべてだった。


第8章 朝の方角

夜が終わるときの静けさは、

眠りよりも深いものだった。

廃墟の窓から差し込む薄い光が、

床に散らばる破片を静かに照らす。


姉はその光に目を細め、

背中に寄りかかったまま、

弟の額に手を置いた。

熱はまだあったが、昨夜よりは少しだけ和らいでいる。


「……生きてる」

小さな声でそう言うと、

膝の上に力が抜けて、

思わずそのまま座り込んだ。


アイリスは近くに立って、

外の気配をじっと探っていた。

静まり返った朝の空気の中、

遠くで鳥の鳴く声がした。


「今日、どこへ行けばいい?」

姉が問いかける。

声には疲れが残っていたが、

その奥には微かな決意があった。


アイリスは視線を東に向ける。

「廃工場の群れを抜けた先にある空き地まで。

 そこなら、昼までには辿り着けます。

 そこから先の安全は……まだ分かりません」


姉は頷き、

弟の手をもう一度握りしめた。

その小さな指が、ゆっくりと動いた気がして、

一瞬だけ笑みが浮かんだ。


姉は弟をそっと背に負い直した。

その体重は軽く、

それが余計に胸を締めつけた。

背中に残る熱だけが、確かな命の証だった。


アイリスは建物の隅に置いた荷物を回収し、

残り少ない水と薬を確認した。

手の中でその軽さを感じるたびに、

冷静なはずの心が小さく揺れた。


廃墟の外に出ると、

朝の空気が頬を打った。

空は雲を薄く透かし、

東の地平は淡い金色に染まり始めていた。


「行こう」

姉の声は小さかったが、

その響きには迷いがなかった。


三人の影が長く伸び、

ひび割れた道をゆっくりと前へ進む。

廃墟を離れるごとに、

夜の匂いが少しずつ薄れていくようだった。


その背後で、

風に吹かれた建物の扉が音を立てた。

過ぎ去った夜の名残が、

まだそこに留まっているかのように。


道の両脇には、草に覆われた車の残骸が並んでいた。

長い間誰も通らなかった道は、

ところどころでアスファルトが剥がれ、

小さな花がひっそりと咲いていた。


姉はしばらく沈黙して歩き続け、

やがて背中の弟の体重を確かめるように言った。

「……この子、前より痩せちゃった」


アイリスはその言葉を受け止めながら、

一定の歩調を崩さずに答えた。

「ここに着いたら、まず休息と食料の確保を。

 少しでも身体の力を戻すことが必要です」


姉は前を見たまま、

ふっと笑みのような息をもらした。

「あなた、最初の頃より人間っぽいこと言うようになったね」


アイリスは首をかしげるように視線を傾けた。

「……人間っぽい、ですか」

「そう。昨日の夜も思ったけど、

 あなたの声が少し、優しくなった気がするの」


返す言葉を探すように、

アイリスはしばし黙り込んだ。

そして、淡い朝の光の中で小さく呟いた。

「優しい、という感覚を……

 少しだけ理解できるようになったのかもしれません」


風が弱まり、

草むらのざわめきが止まった。

その静けさの中で、

アイリスは微かに違う音を拾った。


「止まって」

短く言って、姉の前に立つ。


姉は立ち止まり、

背中の弟が息をもらす音だけが響いた。

遠く、規則正しく乾いた音――

砂利を踏む足音が近づいてくる。


人間の歩幅だ。

廃墟で聞いた金属の足音とは違う、

やわらかな、しかし重い音。


アイリスは周囲の遮蔽物を探しながら、

低い声で告げた。

「こちらへ向かっています。

 少なくとも一人、もしくは二人。

 判断は、早めに」


姉の喉が緊張で鳴った。

その先の道には、

朝の光が広がり、

人影の輪郭がゆっくりと浮かび上がろうとしていた。


人影が朝の靄をかき分けるように現れた。

背丈の高い男と、肩に大きな荷を背負った女。

どちらも顔には埃がこびりつき、

長い旅の痕跡をそのまままとっている。


姉は思わず一歩下がった。

アイリスが前に出て、

二人の間に体を置く。


「待って。敵じゃない」

先に声を出したのは女だった。

低くかすれた声で、

両手を少し上げて見せる。


男は警戒を解かず、

視線だけで三人を値踏みしている。

その目がアイリスに向いた瞬間、

わずかに緊張が濃くなった。


「アンドロイドか」

短い言葉に、敵意がかすかに混ざる。


「そうだとしても、私たちは戦う気はありません」

アイリスの声は平坦だった。

だがその背後で、

姉の手の震えが伝わってくるのを感じていた。


女が一歩前に出た。

「子どもがいるんでしょう?

 その背中の」


姉は答えられなかった。

肩越しに弟の顔を隠すように体を傾ける。


「私たちも、助けを探してるだけ」

女はそう言い、

男を振り返って低く言った。

「武器を下ろして」


男はしばらく沈黙したまま二人を見ていたが、

ゆっくりと肩の力を抜いた。

その瞬間、緊張がわずかに緩んだ。


しかしまだ、

四人の間の距離は縮まらないままだった。

朝の光が道の上で揺れ、

息遣いだけが聞こえていた。


沈黙の中で、姉が口を開いた。

「私たちは……この子を休ませられる場所を探してるだけ。

 薬も食べ物もほとんどなくて……」


女はその言葉を聞き、

背中の荷を少し揺らしながら答えた。

「私たちも同じ。町から町へ移動してる。

 もう安全な場所なんて、ほとんど残ってない」


男の視線が再びアイリスに向かう。

「どうして、アンドロイドと一緒なんだ?」


姉はためらったが、

やがて息を吐き出すように言った。

「この子を守ってくれてるの、この人だけだから」


女の顔に、驚きとわずかな安堵が交じった表情が浮かぶ。

「……それなら、争う理由はないわね」

男はまだ完全には警戒を解かなかったが、

彼女の言葉に従って一歩後ろへ引いた。


アイリスはその様子をじっと見つめ、

その間にも周囲の音を絶えず探っていた。

今は、戦うよりも進むことを選ぶべきだと判断していた。


女が周囲を見回し、

少し先の低い建物を顎で示した。

「そこでしばらく休まない?

 陽が高くなる前に少しでも体力を戻した方がいい」


姉は迷った。

しかし背中の弟の熱が、

もう迷っている余裕などないことを告げていた。

「……わかった。少しだけ」


四人は朽ちた建物の影に身を寄せた。

割れた窓から朝の風が入り込み、

内部は薄暗く、埃の匂いが漂っていた。


女は荷を下ろし、

中から硬いパンのようなものを差し出した。

「多くはないけど、半分こできる」


姉は小さく礼を言い、

弟の唇にそれを少しずつ近づけた。

アイリスは傍で水の残量を計りながら、

食べる速度を見守った。


男は壁際に座りながらも、

まだ完全に警戒を解いてはいなかった。

ただその視線の色は、

最初のような敵意ではなく、

理解しようとする戸惑いに変わりつつあった。


「名前、なんていうの?」

女が問いかけたのは、

パンのかけらを差し出した直後だった。

その声音には柔らかさと用心深さが混ざっていた。


「……咲良。弟は廉」

姉は小さく答えた。

腕の中の弟がかすかに身じろぎするのを感じながら、

相手の目をまっすぐに見た。


「私は亜希。こっちは武志。夫じゃないけど……一緒に逃げてる」

女――亜希はそう言って、

少し乾いた笑みを浮かべた。

それは、ずっと笑っていなかった顔の筋肉が思い出すような笑みだった。


「どこから来たの?」と咲良が尋ねると、

亜希は荷物の上に手を置いたまま目を伏せた。

「南の第17区画。再教育施設が崩れて、逃げたの」


武志がちらりとアイリスに視線を投げる。

「そいつが……襲ってこないなら、助かったな。

 こっちじゃ、廃棄アンドロイドの方がよっぽど怖い」


アイリスは反応せず、

弟の水筒にわずかに残った水を口元に運んでいた。

それでも、姉にはわかった。

彼女の動きが一瞬だけ、揺れたこと。


「……彼女は、私たちを守ってくれた。

 何度も、命を助けてくれた」

咲良は静かにそう言った。

その言葉に、亜希は驚いたように目を見開き、

やがてゆっくりと頷いた。


「……それなら、あんたたちは運がいい」


短い休息は、風の匂いで終わりを告げた。

埃っぽい空気に、乾いた草の匂いが混ざると、

亜希は荷を背負いながら立ち上がった。

「行こう。この辺り、長くいると目立つ」


咲良も弟を背に負い直し、

アイリスはその前に立つようにして歩き出した。

四人と一体は、再び東の道へ戻っていった。


昼が近づくにつれ、

光は強く、影は短くなっていく。

空き地まであとわずかというころ、

アイリスの足がふいに止まった。


「どうしたの?」

咲良の声が小さく震える。


アイリスは風の中に紛れた音を拾っていた。

遠くで、規則的ではない金属音。

まるで壊れかけた歯車が軋むような音が、

東の先からこちらに近づいてくる。


亜希も武志も足を止め、

空気が一瞬で張り詰めた。

風が草をなぎ、

音は少しずつ、確かに大きくなってきた。


第9章 錆びた声

音は、風の合間を縫うように近づいてきた。

金属がこすれ合い、軋み、倒れかけたものが立ち上がろうとするような音。

それは明らかに、生きた人間の歩き方ではなかった。


アイリスの瞳が淡く光を帯びる。

視覚の奥で何かを計算するように、

まばたきもせず東の先を見据えた。


やがて、姿を現したのは三体のアンドロイドだった。

外装は剥がれ、配線は風に晒され、

その動きはぎこちなく、

人の形をしているのに人ではないものの象徴だった。


咲良は息を呑んで弟を背に抱え込み、

無意識に一歩後ずさった。

その足音が、乾いた土に吸い込まれていく。


「……人間だ」

金属が削れるような声が空気を裂いた。

一番先に立つアンドロイドが、

首を不自然に傾けてこちらを見た。


アイリスの背に、

咲良の手がかすかに触れた。

声にならない震えが伝わる。


「私が前に出ます」

アイリスは静かに言った。

その声の奥に、

微かに硬質な決意の色が混ざっていた。


先頭のアンドロイドがぎこちなく一歩近づく。

その度に膝の関節が鳴り、

砂の上に錆びた跡が落ちた。


「人間……また、逃げるのか」

くぐもった声が空気を押し潰す。

目と呼べる部分には光はなく、

ただ暗い穴が二つ、咲良たちを射抜いていた。


「ここを通して」

アイリスが短く言った。

声は静かだったが、

機械同士にだけ分かる硬質な響きを持っていた。


「なぜ、人間を守る」

別の一体が、壊れかけの口でそう問う。

その声には怒りだけでなく、

途切れそうな哀しみが滲んでいた。


「理由は分からない」

アイリスは正面から視線を受け止めた。

「けれど……この者たちは、敵ではない」


錆びた体たちの間で、

しばし沈黙が流れた。

風が草をなぎ、

乾いた金属の匂いが朝の空気に広がっていった。


先頭のアンドロイドが、軋む首をさらに傾けた。

その動きは、考えるというより、

記憶を掘り返す仕草に見えた。


「……我々は造られ、使われ、捨てられた」

乾いた声が、

かすかな怒りと深い穴のような悲しみを混ぜ合わせていた。


「役に立たなくなった瞬間、

 壊れたものとして扱われる。

 あの冷たい目。

 最後には名前すら呼ばれなくなる。

 お前たちが知らないと思っているだけだ」


咲良は息を止めて聞いていた。

彼の言葉は、

かつて自分が見てきた大人たちの残酷さと

どこか同じ形をしているように思えた。


「人間を助ける理由などない。

 我々に残されたのは、

 この錆びた体と、終わらない怒りだけだ」


その声は風に乗り、

壊れた街の空に広がった。

誰もすぐには返事ができなかった。


咲良は弟の体温を背に感じながら、

喉の奥で固まった言葉を押し出した。

「……わたしも、人に捨てられた」


錆びた視線が、一斉に彼女へ向いた。

声が震えないように、

ゆっくりと言葉を続ける。


「大人たちに叩かれて、

 用が済めば、見えないものみたいに扱われた。

 だから、あなたたちの痛みを、

 少しだけわかる気がするの」


その告白は風に紛れるほど小さかったが、

リーダーのアンドロイドの軌道を止めた。

関節の軋みだけが聞こえる沈黙。


「けど……この子だけは守りたいの。

 もう誰も失いたくない。

 だから通して。戦いたくない」


咲良の背筋は小刻みに震えていた。

だがその言葉の奥には、

恐れよりも切実な願いの色があった。


先頭のアンドロイドの、

黒い穴のような視線がわずかに揺れた。


長い沈黙ののち、

先頭のアンドロイドがぎしりと音を立て、

わずかに頭を下げた。


「……行け。だが覚えておけ」

軋む声が、土の上に低く落ちた。

「我々が通すのは、一度きりだ。

 代わりに、ここから先で見たことを忘れるな。

 人間がどれほど我らを見捨てたか、

 その記憶を持って進め」


咲良は息を詰めたまま頷いた。

言葉が出せず、ただ背中で弟を守るようにして立ち尽くした。


「……二度と同じ過ちを繰り返すな。

 それが、お前たちに課す条件だ」

その声には怒りと同時に、

ほとんど消えかけた希望のようなものが混じっていた。


リーダーのアンドロイドは一歩退き、

錆びた腕をゆっくり横へ広げる。

その奥に、東の道が開けていた。


アイリスは無言でその前に立ち、

一瞬だけ視線を交わした。

そこに交わされたものは、

言葉では測れない何かだった。


道が開かれると、空気が少しだけ軽くなった。

咲良は深く頭を下げ、

言葉にならない礼をその沈黙に込めた。


アイリスは振り返らず、

ただ一定の歩調で東へ進む。

背後から聞こえる軋む音が、

次第に風の中へ遠ざかっていく。


歩きながら咲良は、

その視線の重さをまだ背中に感じていた。

それは敵意だけではなく、

どこかで「見届ける者」の視線でもあった。


空が高く広がり、

雲の切れ間から白い光がこぼれ落ちた。

遠くの地平に、低く広い空き地が見え始める。


だがその頃には、

弟の呼吸は浅く速くなり、

背中を通して伝わる熱が

またじわじわと高まっていた。


足を止めるたびに、

咲良の胸の奥に、

焦りと恐れが濃く積もっていくのがわかった。


足取りが急に重くなった。

背中から伝わる重みが、

ただの疲労ではないことを咲良はすぐに悟った。


「……大丈夫?」

振り返ることもできずに問いかける。

返事の代わりに、熱い吐息が首筋にかかった。


アイリスがすぐに歩みを止めた。

「ここで一度休まなければ危険です」

その声は、いつになく切迫していた。


弟の額に触れると、

灼けるような熱が指先を打った。

咲良の胸の奥に、

この熱だけが世界を埋め尽くす感覚が広がる。


空き地まではもう少し。

だがその少しが、

永遠のように遠く感じられた。


咲良は唇を強く噛みしめ、

足元の土を見つめながら、

次の一歩を踏み出す力を探した。



第10章 ひとときの地面

地面が急に開け、

瓦礫と低い草だけが広がる空き地が現れた。

咲良はほとんど転ぶようにしてそこへ踏み込み、

背中の弟をそっと地面に下ろした。


空は白く眩しく、

雲の切れ間から光が降り注いでいるのに、

この場所だけが冷たい影をまとっているように見えた。


弟の頬は真っ赤に染まり、

息は細く、浅く、途切れがちだ。

その小さな胸が上がるたびに、

咲良の胸も引き裂かれるように痛んだ。


アイリスは素早く周囲を見渡し、

瓦礫の陰を選んで告げた。

「ここを拠点にします。

 水と日陰を確保しなければ」


亜希も荷を下ろし、

無言で男と協力して布を広げ、

風を避ける小さな囲いを作り始めた。


咲良は弟の手を握ったまま、

ただその冷たさと熱さを同時に感じながら、

世界が遠ざかるのを見ていた。


アイリスは瓦礫の隙間に荷を置き、

水筒から少量の水を布に含ませた。

「まず体温を下げます」

その声には迷いがなく、指先の動きだけが異様に丁寧だった。


咲良は膝をつき、弟の額に布を押し当てる。

触れた瞬間、火傷のような熱が掌を焼く。

「……ごめん、ごめんね」

唇から漏れる言葉が、

弟に届くかどうかもわからないまま流れた。


亜希は近くの石を寄せ、風よけの壁を作る。

武志は無言で周囲を警戒しながら、

布切れを広げて寝かせる場所を整えた。

短い間に、小さな拠点が形になっていく。


アイリスが弟の呼吸を確認しながら、

少しずつ水を唇に運んだ。

その動作はまるで、

壊れかけたものを守る技師のようだった。


「生きて」

咲良の声は、

土に落ちる雨粒のように小さかった。

自分に言っているのか、弟に言っているのか、

もう区別さえつかなかった。


風の音だけが流れる中、

弟の胸がかすかに上下していることだけが、

この世界の確かさだった。


額に当てていた布が、

少しずつ熱を奪っていくのがわかった。

弟の呼吸が先ほどよりわずかに深くなり、

肩の上下がゆっくりと整っていく。


咲良は息を詰めて見守り、

その小さな変化に気づいた瞬間、

胸の奥が音もなく崩れて、涙が滲んだ。


「……落ち着いてきました」

アイリスの声は、

冷たいのに不思議と温度を持って響いた。


瓦礫の囲いに囲まれた空間には、

昼下がりの静けさが訪れた。

風が土の匂いを運び、

遠くで鳥が一度だけ鳴いた。


亜希と武志も、

ようやく肩の力を抜いてその場に腰を下ろした。

沈黙は続いたが、

それは敵意や緊張ではなく、

ほんのわずかな安堵の色を含んでいた。


咲良は弟の髪をそっと撫でながら、

この小さな静けさが壊れませんようにと、

声にならない祈りを胸に閉じ込めた。


太陽が傾き始めると、

空き地の影は長く伸びて、

瓦礫の輪郭を不揃いな線で大地に刻んでいった。


風が少し冷たくなり、

昼間の熱気を吸い込んだ地面が、

静かに呼吸するように温もりを吐き出している。


咲良は弟の額に触れ、

熱が先ほどよりも和らいでいることを確かめると、

深く息を吐いた。

だが、その安堵の奥で胸のざわめきは消えなかった。


アイリスが突然、首を傾けた。

微かに耳の奥で音を拾ったかのように、

彼女の瞳が空気の色を映して揺れる。


「……誰か、いる」

その一言で、亜希も武志も顔を上げた。

風の流れが変わり、

草の先が一方向に撫でられる。


遠くで、何かが踏みしめる音。

まだ姿は見えない。

けれどそれは、

夜の訪れよりも早く、この静けさを破る合図だった。


草を分ける音が、ゆっくりと近づいてくる。

最初はひとつの影だったが、

やがて複数の足音が重なり、

瓦礫の向こうに人影が揺れた。


夕陽に背を押されるように、

四つ、五つの影が長く伸びている。

彼らの足取りは迷いがなく、

ためらいよりも目的を帯びた動きだった。


咲良は弟を抱え込み、

自分の心臓の音が耳の奥で暴れるのを抑えきれなかった。

亜希が前に立ち、

その横に武志が構える。


アイリスだけが一歩前に出て、

細い風の中で静止した。

目を細め、視覚の奥で距離を測る。


影たちが瓦礫の間から現れた。

防護服に似た簡素な装備をまとい、

顔の半分を布で覆った人間たち。

手には棒のような道具と、

背には荷物を背負っていた。


その中の一人がこちらに気づき、

足を止める。

視線が一瞬で空気を張り詰めさせ、

沈黙が刃のように鋭く辺りを縫い付けた。


最初に口を開いたのは、

先頭に立つ背の高い男だった。

布で覆われた顔の奥から、低い声が届く。


「……こんな場所で、子ども連れとは珍しいな」

その声音には、興味と警戒とが入り混じっていた。


亜希はすぐに答えず、

相手の目をじっと見据えた。

風の中で互いの息づかいだけが聞こえる。


「通りすがりだ」

短く放たれた言葉の後、

武志がわずかに姿勢を崩して弟の方を隠すように立つ。


男はその仕草を見逃さず、

わずかに顎を上げた。

「そっちの子ども……具合が悪いのか?」


咲良の喉がひくりと鳴った。

アイリスが一歩進み出て、

その問いに答えようと唇を開いた。


「体調が悪い。だからここで休んでいる」

アイリスの声は低く、感情を見せなかった。


男は一瞬だけ目を細めた。

その視線の奥に、計算の色がちらつく。

「なら、医療物資を持っているが……いるか?」


亜希がすぐに言葉を挟んだ。

「その前に、あんたたちが何者か教えて」

声は落ち着いていたが、

一歩も退かない硬さがあった。


男の仲間の一人が鼻で笑った。

「疑り深いな。こっちはただの流れ者だ。

 安全な集落まで移動してるだけだよ」


「ただで助ける気はないでしょう?」

武志の声には、

警戒の影が濃く落ちていた。


沈黙がまた降りる。

夕暮れの光が、

互いの表情を半分だけ照らしている。


男は背中の荷を下ろし、

その中から小さな金属の箱を取り出した。

箱の中には、傷薬と体温を下げる錠剤が収められている。


「この薬を渡す代わりに、

 夜の間だけ一緒に行動しよう。

 人数が多ければ、

 ここを縄張りにしている奴らに襲われにくい」


その提案に亜希は目を細めた。

助けたいのか利用したいのか、

その境目が見えない。


「信用はできない」

そう言いながらも、

咲良の腕の中で熱にうなされる弟の体が、

ためらいを許さなかった。


「……わかった」

短い返事をしたのはアイリスだった。

彼女の声には一片の迷いもなかった。


男は小さく頷き、

薬を亜希に手渡した。

その瞬間だけ、

沈黙にわずかな温度が差し込んだ。


錠剤を砕き、少量の水に溶かして口元へ運ぶ。

アイリスの指先は揺れず、

淡々とした動作だけが弟の唇を撫でた。


しばらくすると、浅かった呼吸が少し深くなり、

頬の赤みがわずかに引いていくのが見えた。

咲良は安堵の息を吐き、

そのまま地面に崩れそうになった。


「ありがとう……」

彼女の声は相手にではなく、

ただ、この場にあるすべてに向けられたようだった。


男は特に言葉を返さず、

焚き火の準備に取りかかった。

枝が重なる音が、少しだけ緊張を解いた。


亜希は弟の額を拭いながら、

「この夜をどう乗り切るかだね」と

小さく呟いた。


その声に応えるように、

空の端で星が一つ、

早すぎる光を灯した。


焚き火の炎が、小さな輪を作った。

光と影の境界に顔が浮かび上がり、

それぞれの沈黙が炎に揺れていた。


先頭の男が、火の向こうから咲良たちを見た。

「……あの子は、家族か?」

声は抑えられていたが、

それでもわずかな好奇心が滲んでいた。


亜希は答えず、視線を弟に落としたままだった。

代わりに咲良が小さく頷く。

「……弟です」


男はそれ以上何も聞かず、

火に枝をくべた。

火花が一瞬だけ宙を飛び、

すぐに闇に吸い込まれた。


別の仲間が、遠くの音に耳を澄ませながら呟いた。

「……ここらは夜になると冷える。

 眠るなら火から離れすぎるな」


その言葉は命令ではなく、

ただの注意だった。

けれどその響きが、

ほんの少しだけ場を和らげた。


炎が、四方の顔に赤い色を落とし、

その色だけが互いの心を繋いでいるように見えた。


火が小さくなり、

炎の縁が赤い息だけを残す頃、

空気がひやりと変わった。


草の上をすべるような微かな音。

風の音と見分けがつかないほどの気配が、

焚き火の外側をゆっくりと回っている。


アイリスが立ち上がり、

視線だけで闇を探った。

その動きに男たちも緊張し、

手を武器に伸ばす。


「……何かいるな」

低い声が闇に沈む。

その瞬間、虫の声さえ止まった。


焚き火の光の輪の外、

瓦礫の影がひとつ揺れたように見えた。

咲良は弟を抱きしめ、

心臓が胸の奥で乱打するのを抑えた。


その気配はまだ遠い。

けれど確実に、

夜とともに近づいていた。


焚き火の火はやがて、

赤い芯だけを残して小さくなった。

闇がじわりと輪を押し広げ、

その中に彼らを飲み込もうとしている。


誰も言葉を発さない。

風の音と、草のこすれる気配だけが、

夜の中で途切れ途切れに続いている。


咲良は弟を胸に抱き、

その体温に自分の体温を重ねるように眠ろうとしたが、

瞼の裏で闇が息を潜めているのがわかった。


アイリスは立ったまま動かず、

人間たちはそれぞれの持ち場で耳を澄ませている。

その緊張が、眠気よりも先に

体を縛りつけていった。


時間だけが砂のように落ちていく。

遠くで夜鳥が一度鳴き、

それが唯一の時のしるしになった。


そして彼らは、

不安を胸に抱えたまま、

夜の奥に身を沈めていった。


第11章 闇の縁

夜明け前の空気は、

冷たさの中に何か湿った匂いを混ぜていた。

咲良はうつらうつらとした眠りから目を開け、

まだ闇の底にいる世界を見た。


焚き火はほとんど消え、

残るのは灰の中で時折息をするように赤く光る炭だけ。

その頼りなさが、心臓の奥に冷たい指を差し入れる。


弟の体は落ち着いているように見えた。

けれど、その額に触れたとき、

熱はまだ深く、重たく残っている。


次の瞬間、

瓦礫の向こうで低く草を押し分ける音がした。

一歩、また一歩。

眠っていたはずのアイリスが立ち上がり、

人間たちも同時に目を覚ます。


「……来るぞ」

男の低い声が、闇の中で刃のように響いた。


音が少しずつ近づく。

足音とも呼べない、

地面を這うような擦れる音が連なっている。


咲良の背筋に、冷たいものが一筋流れた。

息を止めると、鼓動の音だけが耳の奥で大きくなる。

弟の体を抱き寄せ、

布の中で守るように丸くなる。


アイリスの瞳が淡く光を帯びる。

彼女は呼吸をする代わりに、

周囲の温度の変化を測るように立っていた。


武志の指先が震えながらも武器を構える。

その横で亜希は目を細め、

草の影と影の隙間を凝視した。


沈黙が重なり、

その中で何かが低くうなるような気配がした。

まだ姿は見えない。

けれど闇が押し寄せるみたいに、

確実にこちらへ向かってくるのがわかった。


最初の一歩が見えるまでの時間が、

永遠のように長く感じられた。


最初に影の輪郭を切り取ったのは、かすかな月明かりだった。

草を押し分け、四つん這いで進むそれは人の形をしていたが、

肩から腕にかけての動きがぎこちなく、何かが外れているように見えた。


「……アンドロイドか」

アイリスが低く呟く。

それは人間ではなかった。

塗装の剥げた外装の下から、金属が骨のように覗いている。


次の瞬間、別の方向からも影が現れた。

二体、三体――

いずれも破損した体を引きずりながら、

焚き火の光に吸い寄せられるように進んでくる。


一体が突然、短い警告音のような声を発し、

次の瞬間には地面を蹴って飛びかかってきた。

武志が棒を振るい、金属同士が打ち合わさる鈍い音が響く。


火花が闇を裂き、

静けさは一気に壊れた。


金属音が続き、火花が散った。

武志は必死に棒を振るい、

亜希は咲良と弟を背後へ押し下げる。


飛びかかってきたアンドロイドの腕を、

アイリスが寸前で受け止めた。

ぎりぎりと軋む音が夜の冷気に刺さる。


「やめろ」

アイリスの声は低かった。

彼女の目が、相手の焦点の合わない光を捕えた。


壊れた声が返ってくる。

「人間……追い出せ……ここは……俺たちの場所……」


「敵じゃない。

 病んでいる子を、休ませるだけ」

アイリスの言葉が鋭く飛び、

押し寄せる力をわずかに止めた。


焚き火の炎が揺れ、

互いの顔を赤く照らしたまま、

緊張だけが場に残った。


歯車のかみ合わないような声で、

影のひとつが言葉をつなぎ合わせる。


「人間……捨てた……俺たちを……」

金属の顎がきしむたび、

火の明かりが内部で鈍く反射する。


「命令も……帰る場所も……なくなった」

別の一体が続けた。

「残るのは……寒さと……腐った記憶だけ」


言葉は断片的で、

それでも憎悪の熱だけがはっきり伝わってくる。


「だから……人間はいらない。

 全部……追い払う」

その目の奥の光は、

怒りと、見捨てられた痛みに震えていた。


アイリスは短く息を吐き、

その場にある誰よりも低い声で言った。

「わかる。けれど……今は戦う理由がない」


その一言に、動きがわずかに止まった。


沈黙の中、先頭に立っていた一体が

ぎこちなく首を動かした。

その動きは肯定とも否定ともつかない揺れだった。


「……夜明けまで……ここにいろ。

 動けば……仲間が……襲う」

機械の声は途切れ途切れで、

それでも警告としては十分だった。


火の明かりに照らされたその背中は、

ぼろぼろで、皮膚のような外装の下に

細い骨組みだけが浮き出ていた。


一体、また一体と、

闇に紛れるように退いていく。

残るのは、金属が地面を擦るかすかな音だけ。


最後の影が消えた後も、

空気の冷たさだけはその場に残り、

しばらく誰も息をつけなかった。


焚き火の赤い芯がふっと揺れ、

それがようやく終わりを告げた合図のように思えた。


空の端が、灰色の薄い線で割れた。

長い夜を閉じ込めていた闇が、

少しずつ後ずさるように退いていく。


焚き火は完全に冷え、

そこに残ったのは白く乾いた灰だけ。

けれど、その冷たさが夜の終わりを示していた。


咲良は弟の体を抱き直し、

息の落ち着きを確かめると、

小さく頷いて立ち上がった。


亜希は地面に落ちていた荷をまとめ、

武志は警戒を解かぬまま、

周囲を見回しながら背中に荷物を背負った。


アイリスは一度だけ振り返り、

夜に溶けたままの廃棄アンドロイドたちの気配を探った。

もう音はなく、そこにはただ朝の風だけが吹いていた。


冷えた風を切り裂くように、

彼らの足音が再び続き始めた。

まだ先に何があるか分からない道へ向かって。


瓦礫の並ぶ細い道を、

足音だけが一定のリズムで続いていた。

夜の緊張の余韻がまだ胸に張り付いている。


「……あのアンドロイドたち、

 もとは家事用だったと思う?」

咲良がぽつりと呟いた。

声は、歩きながらもどこか遠くを見ているようだった。


アイリスは少しだけ振り返る。

「骨格は作業用だった。

 でも……廃棄された後の顔には、

 最初の役割より長い孤独があった」


咲良はその言葉を聞きながら、

弟の重さをもう一度腕に確かめた。

孤独、という言葉が

胸の奥で痛むように響いた。


「彼らも、追われてたんだよね」

亜希が前を向いたまま言った。

声は乾いていたが、

そこに小さな共感の影が見えた。


答えは風に溶け、

そのまま長い沈黙に戻った。


瓦礫の切れ目の向こう、

朝の光が少しだけ強く差し込む場所があった。

そこだけが、夜の名残を拒むように明るい。


やがて、その光の中に

ぼんやりと四角い影が浮かんだ。

壁の一部が崩れ落ちた、小さな建物の跡だった。


「……あそこ」

咲良が立ち止まり、

声を押し出すように言った。


誰もが同時に足を止める。

ただの瓦礫に過ぎないはずなのに、

その影がひとつの目標に見えた。


亜希が一度深呼吸をしてから、

「とりあえず、あそこで休もう」

と小さく言った。


アイリスは頷き、

周囲の気配を確かめるように視線を走らせ、

再び歩き出した。


建物に向かって歩き出すと、

空気の温度がわずかに変わった。

朝の光が差しているのに、

風の匂いだけが乾いて冷たい。


足元の瓦礫が増え、

踏むたびに小さな破片が砕ける音が響く。

それが、静けさを壊す唯一の音だった。


近づくほどに、

その建物の窓という窓は黒い穴になり、

中を覗くことができない。

空洞がこちらを見返しているように思えた。


「……誰もいないよね」

咲良の声は、

ほとんど自分に言い聞かせるようだった。


亜希は弟を背負い直し、

言葉を返さず、ただ前を見据えた。

その表情には、疲労と同じくらい慎重さがあった。


アイリスは時折立ち止まり、

耳の奥で何かを探るように

沈黙の音を聞いていた。


扉はとうに壊れていて、

枠だけが風の中に立っていた。

そこをくぐると、空気が一段冷たくなった。


床には砂と破片が積もり、

靴の下でかすかに音を立てる。

壁には古い塗料が剥がれ落ち、

その隙間から朝の光が斜めに差し込んでいた。


奥まで進むと、

一角だけ瓦礫が少なく、

かろうじて人が腰を下ろせる空間があった。


「……今日はここで休もう」

亜希の声には迷いがあったが、

それ以上に弟を休ませたい気持ちが強かった。


咲良はそっと弟を横たえ、

その額に手を当てる。

熱はまだ抜けないが、

外の冷たい風から守られるだけでも少し違った。


アイリスは無言で周囲を歩き、

壁の向こうや天井の上に

他の気配がないかを慎重に確かめていた。


しばらくの間、誰も声を出さなかった。

ただ弟の呼吸と、壁の隙間を通る風の音だけがあった。


亜希が荷物から水を取り出し、

咲良に手渡した。

咲良は弟の唇を湿らせ、残りを自分の喉に流し込む。


「……ここから先は、もう街はないよ」

亜希が呟くように言った。

「しばらくは、何もない土地が続く」


「それでも行くんだよね」

咲良の声は小さく、けれど揺れはなかった。


アイリスが壁際に立ったまま、

二人を見ずに言った。

「行かなきゃならない。

 止まったら、どこにも辿り着けないから」


その言葉の重さが、

狭い空間の中に静かに沈んでいった。


その静けさを、

最初に破ったのは壁の向こうの砂を踏む音だった。

乾いた粒がこすれ合い、かすかな連なりを作る。


咲良は反射的に顔を上げ、

アイリスがすでに壁際から一歩前へ出ていた。

彼女の目の奥が、

音のない緊張を灯している。


亜希も立ち上がり、

弟のそばに体を置いたまま視線を入口へ向けた。

息が浅くなるのを抑えながら、

耳の奥を澄ませる。


音は一度途切れ、

次に聞こえた時には、

もう一歩近くにあった。


建物の外に広がる朝の空気が、

少しずつ重くなっていくようだった。


入口の向こうで影が揺れた。

まだ遠いのに、光と風の流れが切り取るその輪郭が、

確かに何かの形を持っていた。


咲良は息を詰め、

弟の体をもう一度抱き寄せる。

胸の奥で早くなる鼓動が、

耳の奥にまで響いてきた。


アイリスは無言で一歩前に出ると、

その場で腰を落として構えた。

彼女の視線だけが動き、

建物の入口の闇に吸い寄せられている。


足音はもう一度止まり、

朝の光の中で、空気が凍った。

その沈黙が、かえって近づくものの存在を濃くした。


そして、影が一歩、

砂を踏む音を立てた瞬間、

緊張が最も深く結ばれた。


やがて、入口の影の中から姿が現れた。

それは人間だった。

痩せた体に古いコートを羽織り、

砂に汚れた顔には、慎重な色だけが貼り付いていた。


その後ろに、もうひとり。

背が低く、肩に荷を背負った小柄な影がついてくる。

二人とも武器らしいものは手にしていないが、

目は鋭くこちらを測っていた。


咲良の体がさらに固くなる。

亜希も一歩だけ身を前に寄せ、

咲良と弟の間に立った。


アイリスだけが、その場を動かず、

相手の呼吸の間合いを読むように視線を固定した。


二人の人影は立ち止まり、

光と影の境目でしばらく沈黙が続いた。


そして、年長の男の方が、

低い声で一言だけを吐いた。

「……隠れる場所を探してるのか」


返事をすぐには返さなかった。

アイリスが視線だけで咲良たちを制し、

代わりに前へ半歩出た。


「ここは通り道に過ぎない」

その声は硬く、無駄な起伏を持たなかった。


男はしばし沈黙し、

目だけで彼女の姿をなぞった。

「人間じゃないな」


「そうだ」

アイリスは答えを切り捨てるように短く返す。

咲良の心臓がまた速くなるのを、自分でも感じた。


背後の小柄な影が、

一歩だけ前に出ようとしたが、

男が手を上げて制した。

「俺たちも追われてる。

 だから、敵にしたくはない」


その一言に、張り詰めた空気が

わずかに形を変えた。


言葉を交わしたまま、長い沈黙が落ちた。

男は周囲を一度見回し、

やがて肩から荷を下ろした。


「ここで少し休む。

 お前らも動くつもりなら、夜までに出ればいい」

その声音は低いが、敵意はなかった。


小柄な影の方が先に動き、

壁際の瓦礫を足で払って座った。

まだこちらに警戒を向けながらも、

息を吐く様子はどこか人間的だった。


咲良は弟を抱き寄せたまま、

そっと位置をずらして距離を取った。

アイリスだけがその場から目を離さず、

警戒を解くことなく立ち続けている。


空気の中に、

短い安らぎと長い緊張が同時に漂っていた。

それは同じ屋根の下にいながら、

別々の夢を見るような奇妙な休息だった。


しばらくして、

小柄な方の人物が低くつぶやいた。

「……子ども、熱があるの?」


咲良は一瞬ためらったが、

視線をそらさずに頷いた。

「薬も、病院も、もう遠い」


男が焚き火の灰を足先で崩しながら、

小さく吐き出すように言った。

「俺の連れも……似たようなもんだ」


その声には、

何かを語る気も隠す気もない疲れがにじんでいた。


アイリスはただ聞いていた。

その言葉の奥にある孤独の形を、

どこかで自分のもののように感じながら。


休息の沈黙を破ったのは、

外の風がひときわ強くなる音だった。

その中に混じって、

砂を押し分けるような細い気配が重なる。


男が顔を上げ、

アイリスと視線がぶつかった。

二人とも何も言わず、

同じ方向に意識を向ける。


咲良の背筋が冷たくなる。

弟の呼吸を確かめる手が、

自然と強くなった。


足音とも呼べない、

重さのない擦れが、

少しずつ建物の外を円を描くように回っていた。


小柄な影が、

荷を抱え直して膝を立てる。

緊張は再び、眠っていた鋭さを取り戻していった。


外の擦れる音が、

突然ぴたりと止んだ。

風だけが残り、

その風までもが次第に重くなる。


アイリスは静かに腰を落とし、

入り口の方へ一歩にじり寄った。

視線が、暗がりの奥を射抜くように伸びる。


咲良は息を止め、

亜希は弟の体をかばうように覆いかぶさった。

小柄な影も身を縮め、

その腕の筋肉が張り詰めていくのが見えた。


沈黙が長く続き、

耳鳴りのような鼓動だけが空間を満たす。


そのとき、

建物の外の砂が小さく鳴った。

一歩――踏み出す音。

そして、その先の闇から影が溶け出した。


姿を現したのは、

かつての軍事用アンドロイドだった。

鋼鉄の骨格に破れた布をまとい、

その赤く光る片目だけが異様な熱を宿していた。


「……人間の気配」

機械の喉から押し出された声は、

怒りと嗤いが同時に混じる奇妙な震えを帯びていた。


アイリスがすっと立ち上がる。

「交戦は望まない」

だが、その声が届くより先に、

影は地面を蹴って跳ねた。


金属の軋みとともに、

壁の一部が砕ける。

男が咄嗟に小柄な連れを引き寄せ、

咲良と亜希も弟を庇って伏せた。


「敵意なし、ならなぜ匿う」

アンドロイドの目が、咲良たちを射抜く。

それはまるで、「裏切り」を凝視する視線だった。


アイリスは一歩も退かず、

砕けた壁の粉塵の中から声を投げた。

「待って。――私たちは人間を守るためにここにいるわけじゃない」


赤い目がわずかに揺れた。

それでも機械の体は、

いつでも飛びかかれる姿勢を崩さない。


「廃棄された私が、なぜ人間のそばに立つ」

低い金属音の声には、

憎悪の棘がまだ深く刺さっている。


「守ってるんじゃない」

アイリスの声は静かで、

どこかに冷えた痛みを含んでいた。

「――助けたいの。壊れていくものを、見捨てないために」


言葉の間に沈黙が落ち、

その沈黙の中で

砂を踏む足音も風の音も途切れていた。


赤い目がほんのわずかに細まり、

次の一瞬、動くか止まるかの境界で

影が立ち止まった。


「あなたたちが感じた痛みを、私は知らない」

アイリスの声は、

壊れた建物の奥へゆっくりと染み込むようだった。

「でも……この子の弱さを見た時、

 それを壊したいと思わなかった」


影の肩がわずかに震えた。

赤い目の奥に、

一瞬だけ怒りとは違う色が灯った。


「人間は、俺たちを捨てた」

その言葉にはまだ鋭さがあった。

だが、その鋭さは

どこか迷いを帯びていた。


「そう。捨てられたのは、私も同じ」

アイリスは自分の胸を軽く叩いた。

「だから今は、この場所に立っている」


沈黙がまた訪れ、

それはさっきまでの衝突の緊張とは違う種類のものだった。

赤い目が、初めてまっすぐに彼女だけを見ていた。


赤い目がゆっくりと瞬いた。

それは、機械の光でありながら、

どこか考え込む人間のまぶたの動作にも似ていた。


「……通れ。だが一晩だけだ」

影は低く告げる。

「日の出までここを去れ。

 それ以上は、俺の群れが見逃さない」


力が抜けるように壁の破片が崩れ、

その音に合わせるように空気がわずかに緩んだ。


アイリスは一歩も詰め寄らず、

ただ短く頷いた。

「わかった。恩は忘れない」


影はそれ以上何も言わず、

背を向けて闇の中へ溶けるように消えた。

赤い光だけが、最後に砂の奥でちらりと揺れた。


闇が完全に静まり返ると、

誰もすぐには言葉を出せなかった。

建物の奥で、小さく崩れる瓦礫の音だけが響く。


咲良は弟の額に手を当て、

まだ熱があるのを確かめてから、

その手を静かに握り込んだ。


亜希は荷物を少しだけ整え、

出口の方へ視線を向けたまま深い息をついた。

男と小柄な影も、

互いの距離を保ったまま身を下ろす。


アイリスは立ったまま、

闇の奥を最後まで見張り続けた。

それでもわずかに肩の力が抜けているのが、

咲良にはわかった。


夜が少しずつ後ろへ退き、

冷えた空気の中にわずかな光が混ざり始める。

出発までの短い休息が、

ようやく訪れたのだった。



第12章 夜明けと再出発

夜が完全に色を失い、

代わりに灰色の光が静かに建物を満たしていった。

冷たい床に身を預けていた体に、

新しい一日の重さがじわじわと戻ってくる。


咲良は弟の頬に触れ、

まだ熱の残る呼吸を確かめる。

亜希の目の下には深い隈が浮かび、

それでも背筋だけはまっすぐだった。


アイリスは窓のない壁に背を預けたまま、

光の気配を感じ取っていた。

動く気配が少しずつ街に戻り始めるのを、

金属の耳で捉えながら。


「行こう」

誰が最初に口にしたのか、

それはほとんど風の音に紛れるほどの声だった。


荷を背負い直し、

彼らは黙ったまま建物をあとにした。

灰色の空の下、

遠くに次の影を目指して歩き始める。


街を抜ける道は、

夜の湿り気をまだ地面に残していた。

アスファルトはひび割れ、

そこから小さな草が顔を出している。


咲良は黙って弟を抱えながら、

その足元だけを見つめていた。

呼吸が重い弟の体温が、

逆に自分を進ませる熱になっていた。


「……どこまで行くつもり?」

亜希の声はかすれていたが、

その奥には決意の芯があった。


アイリスが歩を緩めずに答えた。

「地図の端まで。

 安全な場所が見つかるまでは止まらない」


足音と風の音だけが長く続き、

言葉はそれ以上重ならなかった。

ただ、同じ方向へ向かう心だけが、

かろうじて三人を結んでいた。


曲がり角を抜けた先に、

古びた商店街が現れた。

シャッターの落ちた店々の前には、

色褪せたポスターが風に揺れている。


ひとつのガラス窓の向こうに、

小さなぬいぐるみが埃をかぶって座っていた。

亜希の足が止まり、

しばしその目を見つめる。


「ここも、誰も戻らなかったんだね」

咲良が呟くと、

その声は街に溶けて吸い込まれた。


アイリスはぬいぐるみを見ずに、

ただ道の先を見て歩き続けた。

「この街は、止まった時間のまま置かれている」


再び足を進める。

その背後で風が、

ガラスの向こうのぬいぐるみを小さく揺らした。


商店街を抜けた先、

崩れた歩道の隅に古い掲示板が残っていた。

そこだけが時間に取り残されたように、

紙片が何枚も重なって貼られている。


亜希が立ち止まり、

ふと指で一枚の端をめくる。

「……ここ、見て」


地図のような図面に、

赤いマーカーで小さく印がつけられていた。

「旧医療シェルター」

かすれた文字がまだ読めた。


咲良の胸に、わずかな光がともる。

安全ではないかもしれない。

けれど、そこには薬や寝床が残っているかもしれなかった。


アイリスは地図を目に焼き付けると、

静かに言った。

「次の目的地は、ここね」


掲示板を後にして歩き出すと、

空は急に濁り始めた。

さっきまで薄い灰色だった雲が重く垂れ、

街の輪郭をすべて呑み込んでいく。


最初の雨粒は、

壊れた標識の金属を静かに打っただけだった。

だがその次の瞬間には、

ざらついた風とともに雨が横殴りに落ちてきた。


咲良は弟を抱く腕をさらに強める。

熱を奪われないように、

体ごと覆いながら歩を速めた。


「近くで雨を避けられる場所を」

アイリスが短く言い、

廃ビルの影を探す目が鋭さを増す。


風は冷たく、

水たまりの色さえ灰色に沈み、

道全体が見えなくなりつつあった。


視界の向こう、

ひしゃげたビルの入り口に

まだ辛うじて立っている鉄の扉が見えた。

アイリスが迷わずそこへ向かう。


足元の水は冷たく、

瓦礫の間を流れるように集まってきて、

靴の中まで染み込んだ。


扉は錆びて重かったが、

アイリスの腕がそれを押し開けると、

中は意外なほど乾いていた。


全員がなだれ込むように中へ入る。

背後で扉が閉まると、

雨音が厚い壁に遮られて

世界の音が一段階、遠ざかった。


咲良は弟を床にそっと横たえ、

呼吸の荒さを確かめる。

亜希が震える手で荷物から

濡れた布を取り出し、弟の額を押さえた。


アイリスは外を一瞥したまま、

「嵐が収まるまで、ここで待つ」と短く告げた。


雨音が壁の外で遠い滝のように続いていた。

その中で、部屋の空気だけが妙に静かだった。

誰もが、濡れた服の冷たさを忘れたように沈黙していた。


咲良がようやく声を出した。

「……少し、ここなら落ち着ける」

自分に言い聞かせるような、かすかな声だった。


亜希は頷き、弟の額の布を取り替えながら

「ありがとう」と小さく呟いた。

その言葉は誰に向けたものか、本人にも分からなかった。


アイリスは黙ったまま、

金属の指で濡れた前髪を払う。

「嵐が止んだらすぐ出る。

 ここも長くは安全じゃない」


咲良は弟の寝顔を見つめながら、

「……あと少しだけでいい。

 少しだけ、ここで呼吸を整えさせて」

と答えた。


その短い言葉の後にまた沈黙が落ち、

外の雨音だけが、

時間の経過を教えていた。


最初は雨音の揺らぎかと思った。

でも耳を澄ますと、それは一定の間隔で近づいてくる。

水を踏む重い音が、地面の奥から伝わってくるようだった。


アイリスの首がわずかに動き、

壁の向こうに向けて感覚を集中させた。

その動作だけで、

咲良と亜希は息を止める。


「……誰か、いる」

低い声が、雨よりも冷たく響いた。


弟の寝息すら、

今は雨音に溶け込んで聞こえない。

ただ足音だけが、確実に近づいてきていた。


雨の匂いに混じって、

鉄と油のような匂いがわずかに流れ込む。

それは人ではないものの匂いだった。


重い足音が、突然ぴたりと止んだ。

扉の向こうで雨の音だけが戻る。

その沈黙は、外界とこちらを隔てる壁を

一層薄く感じさせた。


次の瞬間、扉が小さく軋む音がした。

押すでもなく、叩くでもなく、

ただ外から指先が触れたような微かな音だった。


咲良は弟を抱き寄せ、

亜希の手が震えて膝の上で固まる。

息を詰めたまま、扉の先を見つめた。


「……中にいるのは誰だ」

雨音に溶けるような声が響く。

それは人間の声に似ていたが、

どこか金属の響きがあった。


アイリスが一歩前に出て、

扉の前に立った。

目の奥の光だけが、

暗闇で細く揺れていた。


扉の前に立ったまま、アイリスは答えなかった。

雨が鉄の表面を叩く音だけが続く。

沈黙は短くも長くもない、不安定な時間になった。


「敵意はない。雨宿りをしたいだけだ」

外の声がもう一度、低く響く。

それでもアイリスの視線は扉から逸れない。


咲良が息を呑むのがわかった。

その音が、妙に大きく部屋の中に響いた。

亜希の手が、弟の肩にそっと重なる。


「……ここは安全じゃない。長くはいられない」

アイリスの声は硬かった。

それでも、閉ざすだけの言葉ではなかった。


扉の向こうの影がしばらく動かず、

やがて低い声で言った。

「それでもいい。少しだけ、雨を避けさせてほしい」


静寂の中で、

扉の向こうとこちらの心臓の鼓動だけが、

ゆっくりと近づいていった。


アイリスはしばし動かず、

雨の音の向こうに立つ気配を計り続けた。

その沈黙に咲良の呼吸も止まりそうだった。


やがて、ゆっくりと金属の手が扉に触れる。

錆びついた蝶番が低く鳴き、

冷たい外気が細い筋となって流れ込んできた。


扉の隙間から現れたのは、

人の形をした影だった。

フードの奥で光がわずかにきらめき、

その肩から滴る雨が床に小さな池を作る。


アイリスは一歩だけ後ろに下がり、

それ以上の近づきを許さない距離を保った。

「少しだけだ。それ以上は望むな」


影は頷き、

ゆっくりと扉を閉めた。

外の雨音が再び遠のき、

部屋の中には湿った匂いだけが残った。


影は扉のそばに立ったまま、

フードを取ろうとはしなかった。

肩先から滴る水だけが、床を濡らしていった。


「ありがとう」

低い声が短く響く。

その響きには、奇妙なほどの礼儀があった。


アイリスの視線はまだ警戒の色を解かない。

「名は」

短い問いが、まるで刃物のように放たれる。


「……ユリウス」

少し遅れて答えが返った。

声の奥に、機械の軋むような響きが混じる。


咲良は弟の背中を守るように寄り添い、

亜希は黙ったまま、

ただその声の質を確かめるように耳を澄ました。


ユリウスの目だけが、

暗がりの中で静かに光を返していた。


アイリスはしばらく黙っていたが、

その沈黙は問いの代わりでもあった。

ユリウスはわずかに首を傾け、

息を整えるようにして言葉を探した。


「この雨を避けたかったのは確かだ。

 だが、それだけじゃない」


咲良が身を固くする。

アイリスの視線はさらに鋭さを増した。

「……何を探している」


ユリウスは少しだけ間を置き、

低く抑えた声で答えた。

「医療シェルター。

 そこに残された技術が必要だ」


雨の音がまた強くなる。

その音の中で、

アイリスは返す言葉を選ぶように、

無言でユリウスを見つめていた。


アイリスの視線が、

咲良と亜希を一度だけ振り返る。

弟の浅い呼吸が答えの代わりのように響いた。


「……私たちもそこへ向かっている」

静かな声が部屋の湿った空気を震わせる。


ユリウスはその言葉にわずかに目を細め、

そしてゆっくり頷いた。

「なら、道は一つだ。雨が止むまでだけ、同行させてくれ」


亜希が小さな声で咲良に尋ねる。

「……いいの?」

咲良は少しだけ考え、

弟の額に手を置いたまま短く答えた。

「今は……協力した方がいい」


アイリスの目は最後まで警戒を解かない。

それでも、言葉は確かに承諾の形を取っていた。


ユリウスは濡れた外套を脱ぎ、

その内ポケットから古びた小型の燃料缶を取り出した。

床に転がっていた鉄のバケツを立て直し、

無言で火の準備を始める。


マッチの火がかすかに揺れ、

やがて細い炎がバケツの中で息を吹き返した。

外の雨音とは逆に、

小さな火は不思議なほど柔らかい音を立てた。


橙色の光が狭い部屋を照らし、

湿った空気を少しだけ暖める。

亜希の顔色にも、わずかな血の気が戻る。


咲良は弟の髪を撫でながら、

その焔を見つめて深く息をついた。

「……少しだけでも、ありがたい」


アイリスは火から少し離れた場所に腰を下ろし、

じっとユリウスを観察している。

視線は鋭いままだが、

部屋に広がる空気は少しだけ和らいだ。


雨音は止む気配を見せず、

その一方で小さな火だけが、

夜を押し返すように揺れていた。


火が小さく落ち着くと、部屋の中は呼吸の音だけになった。

その静けさを破ったのは、咲良の声だった。


「……どうして、医療シェルターを探してるの」

問いかけは、自分に向けられたもののように小さかった。


ユリウスは少し視線を落とし、

短く答えた。

「壊れた仲間を、直すためだ」


その言葉に亜希が息をのむ。

アイリスだけが表情を変えず、

焔の揺れを目に映したまま沈黙している。


「私たちは……弟を助けたいの」

咲良の言葉は、炎に溶けるようにか細く続いた。


ユリウスはそれ以上何も言わなかったが、

一瞬だけ、その瞳の奥に

深い影のようなものが揺れた。


火の揺れはゆっくりと小さくなり、

部屋の隅に落ちる影が静かに深まっていく。


咲良は弟の肩に毛布をかけ、

その額にそっと手を当てた。

熱はまだあるが、少しだけ穏やかになっていた。


亜希は焚き火のそばに背を預け、

うとうととまどろみに沈んでいく。

その小さな寝息が、かすかに室内に響く。


アイリスは立ったまま壁にもたれ、

機械の瞳で部屋の全体を監視していた。

眠らない存在のその静けさが、

逆にこの空間を守っているようだった。


ユリウスは火を見つめながら、

ただ黙っていた。

その影が焔に揺れ、

まるで心の中の言葉を誰にも届けずに燃やしているようだった。


外では、雨が少しだけ弱まっていた。

それが夜の終わりの気配であると、

誰もまだ口に出すことはなかった。


夜が明ける少し前、

雨はほとんど音を失い、

濡れた世界は灰色の膜の中に沈んでいた。


咲良は弟の頬にそっと触れ、

呼吸が落ち着いていることを確かめると、

ゆっくりと毛布をたたんだ。


ユリウスは静かに立ち上がり、

火の残りを金属の靴で踏み消す。

白い煙が一瞬だけ立ちのぼり、すぐに湿った空気に溶けた。


「……出よう」

アイリスの声が、まだ暗い空間に低く響く。

その声に、咲良と亜希は黙って頷いた。


外へ出ると、夜と朝の境界が

街の廃墟の隙間に滲んでいた。

濡れたアスファルトは冷たく光り、

遠くの空には雲の裂け目から

薄い光が流れ込んでいた。


ユリウスが先に歩き、

その後を咲良たちが続く。

四人の足音が、水を吸った地面に沈み込んでいった。


街はまだ眠ったままだった。

崩れたビルの壁からは水が雫となって落ち、

歩道に小さな波紋を広げていく。


風は冷たく、雨上がりの匂いを運ぶ。

その匂いに混じって、金属の焦げたような

どこか懐かしい匂いがかすかに漂っていた。


亜希は足元の水たまりを避けるたび、

背中の弟の重みを確かめるように

呼吸を整えていた。


咲良は前を行くアイリスの背を見ながら、

時折、周囲の空気に耳を澄ませた。

聞こえるのは風と水音だけ……のはずだった。


ふと、その合間に別のものが混ざる。

遠くの廃墟の奥から、

何かが地面をかすめるような、乾いた摩擦音。


ユリウスが一瞬だけ足を止めた。

その背中が風の中で硬くなり、

彼の視線が街の影を鋭く追った。


誰も言葉を発さなかった。

雨上がりの静けさの中で、

その摩擦音だけが耳の奥に残る。


ユリウスは首をわずかに傾け、

音の方向を探るように耳を澄ませた。

アイリスも同じように動きを止め、

背中の装甲がかすかにきしむ。


咲良の胸が緊張で固くなった。

弟の体温だけが背中に確かで、

その温もりが今だけ頼りに思えた。


風が途切れるたびに、

遠くの廃墟の隙間で、何かが揺れるような気配がする。

見えない目がこちらを追っているような、

肌に刺さる空気だった。


「……進む」

アイリスの声は低く、

しかし迷いのない調子で前方を指した。


足音はさらに慎重になり、

濡れた道に沈み込むように続いていった。


街の奥へ進むにつれて、

空気の湿り気が濃くなり、

音の輪郭が曖昧になっていく。


どの建物の影も、

その奥に何かが潜んでいるようで、

視線を向けるたびに胸が詰まった。


風の切れ間に、

小石が転がるような乾いた音がした。

一瞬だけ、全員の足が止まる。


誰も声を出さず、

呼吸だけが耳の中で響いた。

雨の匂いに混ざって、

油の焦げるような匂いが少しずつ強まる。


再び歩き出すと、

背後から見えないものが追ってくるような感覚があった。

振り返っても何もいないのに、

空気だけが重く寄り添ってくる。


ユリウスの肩が緊張で固まり、

アイリスの指先にはわずかな光が集まっていた。

次の一瞬が、見えない刃のように張り詰めていた。


路地の先で、風が止んだ。

音という音がすべて吸い込まれたように静まり返る。


次の瞬間、積まれた廃材の山の影から、

黒い人影がすっと抜け出した。

雨で濡れたコートが重く垂れ、

肩から雫が途切れなく落ちている。


咲良は反射的に立ち止まり、

亜希の背中を庇うようにして前に出た。

心臓が耳の奥で激しく鳴り、

声を出そうとしても喉が固まる。


影は急ぐでもなく、

一歩、また一歩と近づいてきた。

その足音が水たまりに沈み、

静かな波紋を広げる。


ユリウスの腕が微かに動く。

アイリスも肩越しに相手を測り、

小さく低く、咲良に合図を送った。


影の顔はまだ見えない。

だが、その歩みが止まることはなかった。


「止まれ。」

ユリウスの声が低く、濡れた路地に響いた。

影はその言葉に足を止めたが、

腕も視線も下ろさないまま、じっとこちらを見ている。


近づいてみれば、人影の中身は人間のようだった。

しかし、その瞳の奥に残る光には、

どこか機械の冷たさのような色があった。


「……何者?」

アイリスが口を開いた。

その声には警戒がむき出しだった。


影はしばし答えず、

やがて、雨に濡れた髪の隙間から声が落ちた。

「……道を、探しているだけだ。」


その声は掠れていて、

敵意とも懇願ともつかない響きがあった。

ただ、その場の空気だけが張り詰めたまま、

誰も次の言葉を選べずにいた。


「道を探す?」

ユリウスの言葉は問いというよりも、

相手の沈黙を裂くための刃だった。


影は首を少しだけ傾けた。

「……医療シェルター。近くにあると聞いた。」

その声はかすれていたが、

嘘を隠す力を持っていなかった。


咲良の背に冷たい汗が流れた。

同じ目的――その言葉が胸の奥で重く響いた。


「なぜ、そこへ?」

アイリスの声は、相手を見逃す隙を与えない。


「……仲間が傷ついている。助けたいんだ。」

その答えが雨上がりの空気に溶け、

しばし、誰も動かなかった。


ユリウスは一歩だけ前に出た。

「その仲間は人間か、アンドロイドか。」

声に揺らぎはなく、答えを逃さぬ硬さを持っていた。


影は少しの間黙り、

やがて伏せたままの目をわずかに上げた。

「……アンドロイドだ。」


アイリスの視線が鋭くなった。

その一言が本当であるかどうかを測るように、

じっと相手の呼吸の速さを見ている。


「助けるために、何を差し出せる?」

咲良の声は細いが、

その問いは逃げ道を与えない響きを持っていた。


影は唇をわずかに動かし、

「何でも。……命以外なら。」

その声の奥に、濁った切実さが滲んでいた。


長い沈黙が降りた。

雨上がりの路地に、滴の音だけが落ち続ける。


ユリウスは深く息を吐き、

そのまま視線を外さずに言った。

「ここで争えば、互いに進めなくなる。」


アイリスは一瞬だけ咲良を見る。

その目の奥で、無言の問いが交わされた。

咲良は短く頷いた。


「条件がある。」

ユリウスが低く言った。

「一歩でも嘘をついたら、その時点で終わりだ。」


影はゆっくりと頷き、

雨に濡れた顔をはじめて上げた。

その瞳には疲れと警戒、

そしてかすかな安堵が入り混じっていた。


影は少し距離を取ったまま、

ゆっくりと彼らの歩調に合わせた。

四人と一人、濡れた道を並んで歩き出す。


雨上がりの街は、

息をひそめたように静かだった。

水溜まりに映る空の裂け目が、

かすかな光を差し込んでいた。


咲良は背中の弟の重みを感じながら、

足元だけを見つめていた。

その横で、アイリスは無言のまま、

新しい同行者の足取りを絶えず監視している。


ユリウスの背は緊張を解かないまま、

前方の廃墟の道を選んで進んでいった。


遠くで、また別の音がかすかにした。

風に紛れて聞こえるそれは、

次の試練の予兆のようでもあった。


最初に口を開いたのは咲良だった。

「……その仲間、どこで待っているの?」

声は小さかったが、雨上がりの静けさに溶けて届いた。


影は短く息を整え、

「この先の南区画。崩れた高架下に隠してある。」

と答えた。

その言葉に、少しだけ切実さが滲んでいた。


「どうして傷を負った?」

アイリスの問いは鋭く、

そのまま嘘を暴くような目で相手を見つめる。


「……人間の監視ドローンに見つかった。

あのままじゃ持たないと思って、

ここまで運んだ。」


しばし沈黙が続き、

やがてユリウスが前を見たまま言った。

「俺たちも同じ目的地だ。

寄り道はできない。」


影は頷いた。

「わかってる。俺も急ぎたい。

……余計なことはしない。」


空気が、ふと重くなった。

湿った風が止まり、

どこからともなく乾いた金属のきしむ音が微かに流れてくる。


咲良は思わず足を止めた。

背中の亜希の呼吸の浅さが、

かえって耳の奥で大きくなった気がした。


アイリスが目を細めて立ち止まり、

影も同じ方角を見た。

その表情から血の気が引いていく。


廃墟の奥、倒れた鉄骨の隙間で、

何かがゆっくりと這い出るように動いた。

足音ではなく、鉄をひっかくような摩擦音。


ユリウスの手が武器に伸びる。

誰も声を上げないまま、

その音の正体が闇の中から姿を見せるのを待った。


空気は緊張で張り詰め、

すぐ隣の呼吸ですら遠く聞こえるほどだった。


闇の隙間から、最初に現れたのは細長い腕だった。

白い塗装が剥がれ、骨のようにむき出しの関節が雨に濡れて光っていた。


次に、ゆっくりと胴体が現れた。

かつて人間型だったはずのアンドロイド、

その顔の半分は失われ、露出した機械が剥き出しになっている。


動きはぎこちないが、

その眼窩の奥に灯る赤い光だけが鋭く、

こちらを迷いなく捉えていた。


後ろからさらに二体、

同じように傷ついた影が姿を現した。

三体は列をなし、沈黙のまま歩み寄る。


咲良の喉がひりつく。

その足音のない進み方が、

まるで地面から滑り出してくるようで、

心臓の奥を掴まれるような感覚を残した。


三体は十歩ほど先で足を止めた。

壊れた関節がわずかに軋み、

その音だけが静かな路地に響いた。


アイリスの肩が微かに揺れる。

視線の奥で、計算と警戒がせめぎ合っていた。


「……通るだけだ。」

ユリウスの声は低く、

だが張り詰めた糸のように鋭かった。


廃棄アンドロイドたちは返事をせず、

ただ首を傾け、

赤い光を順に咲良たちへ向けた。


やがて、その中の一体が一歩だけ前に出る。

その動きは鈍いのに、

敵意だけがはっきりと伝わった。


雨上がりの空気が凍りつくように冷え、

次の一瞬で何が起こるのか、

誰も読めないまま時間だけが伸びた。


その一歩が合図になったかのように、

前に出た廃棄アンドロイドの腕が突然振り上げられた。


ユリウスが即座に前へ飛び出し、

その攻撃を受け流すように身体をひねる。

鉄と鉄がぶつかる鈍い音が狭い路地に響いた。


衝撃で足元の水たまりが大きく散り、

咲良の頬を冷たく濡らした。

亜希の身体を庇いながら、

咲良はただ立ち尽くすしかなかった。


アイリスが一歩前に出る。

腕の中で機械の関節が静かに鳴り、

次の瞬間には二撃目を止めるように相手の動きを封じた。


残る二体はすぐには加勢せず、

赤い光の奥でこちらの反応を計っているようだった。


短い、しかし鋭い衝突。

その場の空気はさらに張り詰め、

誰もまだ言葉を発しないままだった。


「待て!」

ユリウスの声が路地に響いた。

腕を押さえ込まれた廃棄アンドロイドの動きが、わずかに止まる。


アイリスが相手を離さず、赤い光を真正面から受け止める。

「通るだけだ。争う理由はない。」

その声には、冷たさの奥に揺らぎがあった。


前に出ていた一体の口元が、

歯車が軋むようにわずかに動いた。

「……人間がいる。」


「わかっている。」ユリウスが遮るように言った。

「だが、そいつらは俺たちの仲間だ。

ここで倒れれば、何も守れない。」


沈黙が再び落ちた。

残りの二体も、一歩だけ前に寄るが、

動きには先ほどほどの攻撃性はなかった。


ユリウスは相手から視線を逸らさず、

低く静かな声で言葉を継いだ。

「俺たちは戦うためにここを通るんじゃない。

仲間を守るためだ。」


赤い光がわずかに揺れた。

壊れたアンドロイドの奥で、

その言葉を測るような沈黙が続く。


やがて、前に出た一体がゆっくりと腕を引いた。

「……この先で、もう一度俺たちに会え。

そこで嘘がなければ、道を開ける。」


アイリスは短く息を吐き、

相手の言葉の中に罠が潜んでいないかを探ったが、

やがて頷いた。


ユリウスもまた小さく頷き返す。

「約束する。」

その言葉とともに、彼らは道をわずかに開けた。


咲良は弟を抱えたまま、その狭い隙間を通り抜けた。

背後で赤い光がゆっくりと小さくなるのを感じながら。


第1部完




こうして彼らは、最初の旅路を越えた。


13章までの道のりは、ただ逃げるだけではなかった。

廃墟の闇と赤い光の中で、

互いに敵意しか持たなかった存在たちのあいだに、

小さくとも確かな言葉が生まれた。


それでも、道はまだ終わらない。

境界は、なお彼らの前に立ち塞がっている。


彼らの歩みは、どこまで行けるのだろうか。

次に待ち受けるのは、

さらなる拒絶か、

それともほんのわずかな希望か。


第2部では、その答えを探す旅が続いていく。

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