37話 悪魔が生まれる①
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睡眠薬を飲んでも、やはりわたしは一睡もできなかった。
わたしはノア姫が眠ったのを確認してから、部屋を出る。
やっぱり眠る姫はあどけなくて、到底おそろしい異名を数多く持つ少女とは思えない。そんなこと言ったら、わたしが『皇帝』だという事実のほうがおかしいのかもしれないけど。
「さて」
わたしが向かう先は、執務室。
もうとっくに夜も更けている。厚い雲に隠れ、今日は月すら見えない。
扉を開けると、そこには腕を三角巾でつるした男が、メガネをかけ直していた。
「おや、陛下。今宵も蜜夜をお過ごしかと思ったのですが?」
「ヨハンこそ、そんなに働いて大丈夫なのか? 大怪我をしたばかりだろう?」
「アニス帝国の宰相として休んでいる暇はありませんよ。明後日には親愛なる陛下の大事な結婚式なのですから」
表面上の笑みは浮かべているものの、わたしたちも長い付き合いだ。
その仰々しい敬いがウソであることがわかってしまう。
だから、わたしは固唾を呑んでから切り出した。
「……何が望みだ?」
「おやおや、いきなりですね」
……あくまで、彼はわたしから言わせたいらしい。
ずいぶんといい性格をしている。
「これ以上、ノア姫を傷つけたくない。どうすれば手を引いてもらえる?」
「あなたは、やはりお優しい方だ」
ヨハンはペンを持ったまま、わたしを上目遣いで見てきた。
「皇帝ならば、僕に命じればいい。退任せよ、自害せよ……本当に僕が憎ければ、いくらでも姫を守る手段はあるというのに」
「ノア姫に手を出すな――この命令を聞いてくれると?」
「まあ、たとえ僕が手を出さなくても、他の者はわかりませんがね?」
彼はペンをくるくると回し始める。
その口調は、まるで雑談のように軽い。
「さて、歴史ある公爵家の当主と、卑しい妾腹の子からいきなり成り上がった皇帝……どちらのほうが味方が多いですかね? あるいは、こうお尋ねするほうがいいでしょうか……ノア姫に利があると考える者が、この国にどれだけいるとお考えですか?」
「おまえは利益しか考えないのか? 長き戦争を終わらせてくれたノア姫に感謝の念はないと!?」
わたしが激昂しても、ヨハンはメガネを直すことすらしない。
「戦争を終わらせたのはあなたです――エーデルガルド陛下」
ただ静かにそう告げる。今日はとても静かな夜だった。
「あなたの高い魔力に、ノア姫は戦うことなく降伏したにすぎない。世間にはそう公表しています。自分の命が惜しくなった姫は、父親の首を売ったのです。あなたも納得したでしょう?」
「そう公表せざる得ない状況だったとしても、彼女の英断のおかげでどれだけ多くの命が救われたか……知っている我々だけでも、彼女には最大限の敬意を払うべきでは――」
「だから、なんです?」
わたしがこれだけ声を荒げても、扉の向こうに人の気配が感じられなかった。
まるで、初めから人払いをしていたかのように。
「下々がどれだけ死のうと、最後に勝てばよかっただけですよ。実際、勝てたでしょう? あなたがその強大な魔力を戦場で惜しみなく使えば。容易く。もっと華々しく!」
わたしは奥歯を噛みしめる。
それに応える言葉を、わたしは持ち合わせていない。
実際、わたしもそうだと思ってしまうから。
ノア姫から感じる魔力は、あまり多くない。
ただ彼女は器用なのだろう。少ない魔力を効率的に使い、いかに人殺しの術に長けていたとしても――そんなもの、遠くから強大な魔法で薙ぎ払ってしまえば、それでおしまい。
人間は、容易く死ぬのだ。
毒でも。落盤事故でも。火力でも。
その弱き身体に大きな損傷を与えさえすれば、人間は死ぬ。
戦争とは、より多くの人間を殺した国が勝利するゲームなのだから。
「そんな魔法の使い方は……いやです……」
そのための魔力を持つから、わたしは皇帝に担ぎ上げられた。
戦場に初めて向かったときのことは、今でもよく覚えている。
怖かった。
わたしが誰かを殺してしまうのが、とても怖かった。
わたしが殺した誰かを大切に思う誰かがいる。
悲しむのは、わたしが殺した相手だけではない。一人を殺せば、二人、三人……悲しむ人がどんどん増えていってしまう。その連鎖が終わる頃に、わたしはどれだけの人の血でこの手を汚しているのだろう。
そんな地獄に堕ちる前に、わたしに手を差し伸べてくれたのがノア=シャルルだった。
『これで、戦争を終わらせてもらえないかな?』
父親の首を片手に持った彼女が、臆病なわたしにとって、すべての悪を背負う覚悟をしたその姿が、どれだけまぶしく見えたか。
わたしの代わりに、あらゆる罪を被ってくれた彼女に、どれだけ救われたことか。
さっきもわたしと笑ってくれた気丈な少女に、どれだけ感謝していることか。
皇帝としては、ヨハンの言うように加担しすぎなのかもしれない。
それでも、わたしはひとりの人間だ。
どうしても、今度はわたしが彼女を救いたかった。
「……どうすればいいですか、ヨハン」
これは皇帝としてではない。ひとりの『エーデルガルド』としての頼み。




