34話 ペットと飼い主③
どうやらノア姫は、昔からノア姫だったらしい。
強くて気高い姫を誰よりも愛する少女が、口で笑みを作りながらも、大きな目からポロポロと涙を零した。
「ひどいだろォ? でも、他の兵士から見えない角度で、必死にアタシを睨んできたんだよ。口パクで、何度も『食べろ』って言いながら……」
かつて憎んでいた相手を、そこまで愛することが、わたしにできるだろうか。
皇帝になる前から、王宮の隅で本を読んでいただけのわたしにとって、戦争なんて遠い世界だった。母がいなくなってから寂しく惨めな生活だったけど、それでもわたしは幸せだったのだろう。皇帝になったあとですら、本当の意味で死と縁のある場所に立ったことなどないのだから。
「兵士たちにはヘラヘラと『犬ならやっぱり名前はポチかな』なんて笑って、アタシには……すごく苦しそうな顔で『食べろ』って……」
常に死と隣り合わせの場所で戦った姫を、愛する従者が話し続ける。
観客たちも、そんな彼女の言葉に、もう野次を飛ばす者などいなかった。
誰が観客を黙らせたのか――それは結局、この場にいないノア姫だ。
「そんな、やさしい姫なんだ。自分がどんなに悪く言われようとも、悪女とか、裏切り者とか、罵られようとも――それでも、なんてことない顔でまわりの全部を助けようとしちまうような……そんな、優しいお姫様なんだ……だから!」
だから、ポチは必死に懇願してくる。
ノア姫を助けてくれ――と。
口は出さないけれど、たった一人で敵国までついてきた従者。
正直、わたしはノア姫に従者の数を指定しなかった。建前上なるべく少数でとは釘を刺したが、それでもたった一人、年下の少女だけとは思わなかった。
他に誰もついてきたがる者がいなかったのかもしれない。
それとも、ノア姫が断ったのかもしれない。
どちらにしろ、少なければ少ないほうが、こちらとしては都合がいいからとヨハンが言っていたが……その唯一の従者が強く訴えてくる。
「ポチはどうなってもいい。ノア姫の無事だけは約束してくれ!」
「犬の言葉を聞く必要があるか?」
だけど、わたしは即座に断った。
わたしはエーデルガルド=フォン=アニス。
誰が不満を抱こうが、わたしがアニス帝国の皇帝なのだから。
「《神々の鉄槌》!」
絶望するポチに、わたしは魔法を放つ。
演出のために、わざわざ詠唱もした。見栄えのいい雷撃の魔法だ。
天上から降り注ぐ雷撃は、観客の目が眩んだ瞬間に轟音を響かせ破裂する。
対象を中心からわずかに逸らしても、よほど目の肥えた者でなければ気がつかないだろう。それでも、攻撃範囲から逃げられなかった対象は身体を感電させ、その場に崩れる。
犬なんか、わたしの雷の余波で十分倒せる。
わたしは観客の視界と聴力が戻る前に、倒れたポチを抱きかかえた。
「ごめんなさい。痛かったでしょう」
「やっぱりオマエ……嫌いだ……」
わたしの腕の中で、傷だらけの少女がポロポロと泣く。
その爪でわたしの顔を攻撃しようと手を上げるけど、ただわたしの頬を撫でただけ。手が落ちるとともに、ポチのまぶたも下りていく。
わたしはこっそりと治療魔法をかけた。
「えぇ、存分に嫌ってください……あと一日だけ、辛抱してくださいね」
わたしは傷だらけのペットの頭を一回だけ撫でた。
彼女の涙が乾いたときには、きっと二人が笑っていられるように。
――ただの『エーデルガルド』として、それだけを願いながら。
わたしは皇帝として立ち上がる。
「彼女はノア姫のペット……つまり、これからはわたしのペットだ! 躾不足はすまなかったが、今回はこのくらいで十分だろう、ヨハン=フォン=マイヤー!」
観客席のヨハンへ『新たな飼い主』としての謝罪を口にすると、彼は澄ました顔のまま恭しく頭を垂れる。
「すべては、陛下の御心のままに」




