30話 ポチの暴走
ニーチェ皇子を兵士らに任せ、私がエルと向かったのは執務室だった。
ガルガルと唸るポチは、大勢の魔法士から魔法の拘束を受けていて。
本棚に背中を預けて、肩から血を流すヨハン=フォン=マイヤーが苦しそうに口を動かす。
「陛下……すみません。お見苦しい姿を……」
「構わぬ、何があった!?」
「ただ……僕は結婚式のスケジュールを共有しようと……」
一方で、私がポチの話す姿を見たのは、すごく久しぶりだった。
「ゴロス! ゴロスゴロスゴロスゴロズゴロズ!」
「ポチッ!!」
メイド服に付着した血はわずかで、今回もポチ自身に怪我はないようだ。ただ魔法の猿ぐつわ越しに喋ろうとするものだから、ポチの口からもだらだらと血が滴り落ちている。
すぐに外させないと!
対象術者にすぐ解除させようと動く前に、私も背後から兵士に羽交い締めにされる。
「ノア姫は動かないでください!」
それに、私は舌打ちするしかない。
この場を蹂躙するのは簡単。だけど、そんなことをしてもポチの立場を悪くするだけだ。
私ができることは、ポチに声をかけることだけ。
「ポチ、落ち着きなさい! 何があったの!?」
「ゴロス……ゼッタイにアイツを殺して――」
そのとき、バチッとポチの身体が大きく跳ねた。
とっさに私は兵士を振り払い、力なく崩れるポチを受け止める。
そんな私たちを、皇帝エーデルガルドが見下ろしていた。
雷を放った皇帝のラベンダー色の瞳が、とても冷たい。
「……軽く気絶させたにすぎない。後遺症もなく、すぐ目覚めるはずだ」
そして、皇帝は毅然と自国の兵士に命じる。
「メイドは牢へ連れて行け! ……それで、ノア姫もよろしいな?」
その瞳が告げている。
逆らえば、おまえもポチも容赦はしないと。
だから最後に、私はポチをぎゅっと抱きしめた。
「牢屋に居れば安全だからね。必ず無実の証拠を掴んでくるから」
「それはならない」
皇帝エーデルガルドに、資料室のときのような情緒はない。
『彼』はまるで人形のように、皇帝として振る舞っていた。
「保護責任だ。ノア姫には結婚式まで部屋での謹慎を命じる!」
◆
ノア姫は、やはり賢い。
彼女がペットと称したメイドをひどく大事にしていたことは明白だ。
彼女があの場で激昂し、蹂躙しようとするかと思った。
だけど、彼女はそれをしなかった。
祖国のため。愛するペットのため。
生け贄である彼女の悔しそうな顔を、わたしは生涯忘れることができないだろう。
だからこそ、彼女の無念をわたしが晴らさなくては。
彼女の夫になる、アニス帝国皇帝エーデルガルドとして。
「どういうことだ、ヨハン」
「どういうこと、とは?」
ヨハンの寝室。医術師の治療を終えたのち、わたしは人払いをした。
そして、怪我を負った側近ヨハン=フォン=マイヤーに切り出す。
「こちらの記録を確認した。ノア姫曰く、事実と異なると」
「拝見しても?」
もちろんヨハンに見せるのは、ノア姫が調べていた『アイク=へイムダル』の戦死記録。
痛む肩を動かさないために緩慢な動きで書簡を広げた彼は、すぐに「あぁ」と苦笑する。
続く言葉が怖くて、わたしから切り出した。
「このときはヨハンが作戦指揮として同行していたな? 彼女の話では、崖崩れにより両軍の被害が甚大となり、結果、戦闘どころではなかったと」
「えぇ。このときは自然災害まで予想できず……不徳の致すところ、大変申し訳ございませんでした」
「謝罪を求めているわけではない。ただ、たくさん説明してほしいだけだ」
そこで、わたしは一呼吸する。
わたしのどこが皇帝なのだろう。
彼のメガネの奥の瞳を、怖くて見ることもできないのに。
「どうして、アイク=ヘイムダルを殺した?」
吐き捨てるように問うた後は、呼吸すらも止めてしまっていたらしい。
胸に空気が行き渡るようになったのは、彼の笑い声を聞いたときだった。
「くくっ……あははははは」
――やっぱり。
ただの悪い妄想であってほしかった。




