29話 ヘイムダル②
この日は、厳密にいえば一年半ほど前。終戦する半年くらい前の出来事である。
連日戦場にいた私にとって、どうしても記憶が希薄になってしまうこともあるけれど。
この日のことだけは、しっかりと記憶に残っている。
「大きな崖崩れが起きてさ。敵も味方も関係なく、もう逃げるだけで精一杯だったんだよ」
雨脚が激しい日だった。
しかも激しい戦闘をした直後で、私たちの軍も疲れを押して、なんとか休憩地点まで戻ろうとしていたとき、別の機動隊から襲撃を受けたのだ。
だけど地盤の悪さを双方把握しきれておらず、崖崩れによる落盤が発生。
それにより、戦闘より多くの兵士たちが亡くなることになった事件だった。
「私もね、ほんとはこのとき、死んでいたはずなんだ」
私は思い出す。
あのときの私は落盤に巻き込まれそうになった敵の若い兵を突き飛ばし、自分が逃げ遅れた。
そんな間抜けな最期を迎えるはずだった戦姫は、まばたきしたあとにも意識が残っていた。
見知らぬ年配の兵士が、私を守るように大岩を支えてくれていたからだ。
『どうして、私は敵の将……』
『あなたも、うちの兵を助けてくれたではありませんか……』
鎧が少しだけ立派なこの兵士は、きっとこの隊の将なのだろう。
弱々しく、私に対して笑いじわを作る。
『本当に、ただの女の子なんですね……』
『ガッカリした?』
『あなたより少しだけ年上の息子がいるのですが、あいつは本当まだまだだなぁ』
彼の視点がもう定まっていない。頭巾メイルの奥では、どんどんと顔に血が流れていく。
『いつか会うことがあったら、あいつの鼻っ柱を折ってやってください』
そう笑って、彼は私を蹴り飛ばして。
私が振り返ったときには、さらに落ちてきた大岩に押しつぶされていた。
そのあとで、私に彼を助ける暇なんてない。
死んだ偉人より、今を生きている凡人。
敵の将が落ちた今、敵軍もまとめて助けられるのは、私しかいなかったのだから。
「あのときのひとか……」
「ノア姫……?」
ひとり思考の世界に旅立っていた私が両手で顔を押さえていると、エルが心配そうに顔をのぞき込んでくる。
「いやあ、まいったね。あれも、私が殺した扱いになるのか。たしかに『決闘』ってことにしたほうが、亡き戦士に対する美談になるもんね」
そう苦笑しながら、私は記録者の名前を探してみる。
記載者は、ヨハン=フォン=マイヤー。
エーデルガルド皇帝の側近として、アニス帝国で宰相を務める若者である。
「へぇ、あのメガネ気が利くじゃん」
「実際は記録と違うと?」
「うん……事故だよ。むしろ私は、セべクのお父さんに命を助けられてたみたい」
記録が、すべて事実とは限らない。
もし剣だけ帰ってきた父が、敵の戦姫を守って死んだとセべクが知っていたら。
分け隔てない父を誇らしく思っただろうか。
それともバカな父だと愚弄していただろうか。
「これ見つけたの、セべクがいなくなった後でよかったね」
だから、きっと、この記録は『正しい』のだ。
セべクのお父さんに助けられた後、私は敵兵もまとめて補給地点まで連れて行った。なるべく穏便に捕虜として保護したけれど、彼らはみんな作戦の失敗にではなく、亡くなった将を惜しんで泣いていたのだ。
優しき将を誇りに思っていた人々にとっては、恨む対象がいたほうが、きっと生きる活力になる。そのために恨まれるのも、『血花のノア』の役目だろう。上等だね。
まあ、肝心の息子は恨みを口にしつつも、父親ゆずりの優しさゆえに、残念なことになっていたけどさ。
「思いのほか、あっさり謎が解消したわ」
そっと記録を閉じようとすると、エーデルガルドが私の手に触れてくる。
「……その記録、わたしが預かっても?」
「もちろん。てか、この城にあるものすべてが皇帝陛下のもの、でしょ?」
「そうだったら、どんなにラクだろうね」
エルが悲しげに微笑んだときだった。
「皇帝陛下、急報でございます!」
とある兵士が慌てた様子でやってくる。
私たちの監視についていた兵士らのほうが年配なのだろう。
若き兵士を叱責しようとするも、彼は無理矢理声を張り上げた。
「マイヤー宰相が、ノア姫のメイドから攻撃を受けました!」




