10話 夜更けの訪問者①
こうして、私のアニス帝国初日が終わろうとしていた。
私は和平のための生贄である。
もっと暴言を吐かれて、ドレスを破かれ、命を狙われるようなトラブルの連鎖かと思いきや、拍子抜けするほど呆気ない一日――あ、いや、一応全部体験したのかな?
「あぁ~、もっと腰を強く押して~」
「わんっ」
一日の終わりのマッサージ。ポチに最初教えたときは本気で背骨が折れるかと思ったが、今やこうして一日の終わりに極楽を提供してくれている。あぁ、今日もポチがかわいい。
そんなときだった。寝室のドアがノックされる。
おかしいな。明日の予定は特にないと聞いているし、湯あみのときすら手伝いのメイドは誰一人としてこなかった。だからこのまま生贄らしく、結婚式までのらりくらりと軟禁を強いられる覚悟でいたんだけど。
ポチも喉を鳴らして警戒している。そんな彼女の背中をとんとん宥めて、私は極力明るい声を出した。
「何の御用ですかー?」
「一緒にお酒でもと思って」
その声は、皇帝エーデガルトのもの。
どうして、彼がこんな夜更けに?
そりゃ夫婦になるんだから、いつかは夜のお付き合いもしなきゃならんのかもしれないけど……まだ式も挙げてないんだぞ? 初夜という言葉は、結婚式のあとに使われるものじゃないのか?
私が思案しているあいだに、皇帝は「入るよ」と勝手に部屋に入ってしまった。その手にはワインのボトルとグラス二つをそのまま持ってきている。ほかに護衛や付き人はいないようだ。
「……ほらポチ、もう部屋に戻る時間でしょ」
「ううう」
「いやいやじゃないから……」
私が「ポチ」と低い声で呼べば、しゅんと頭の犬耳を下げて、ポチはトボトボと部屋の外に出ていく。犬耳を動かしているすべは彼女の魔法だろうけど、詳しく聞いたことはない。野暮だからね。
しょぼくれた姿もかわいいポチはさておいて、入れ違いで入ってくるのは皇帝エーデルガルドだ。ジャケットのかわりに、シャツの上には厚手のカーデガンを羽織ってきている。まだ髪もわずかに濡れているようで、無駄に色気を感じてしまうのは、私が意識しすぎているせいか。
相変わらず、皇帝は平然と笑みを浮かべているけれど。
「嫌われたものだな」
「そりゃあ警戒しますよ。ポチも私も」
「ふふ、そういうことにしておこうか」
そういうことって、それしかないと思うのだが?
こんなに心臓がうるさいのは、初めて戦場に出たとき以来だろうか。仕方ないじゃない。今まで戦場を駆けずり回る野生姫だったんだもの。当然、そんな色恋の経験はない。
あ~、こちらの反応を楽しんでいるかのような皇帝の顔がムカつく!
ちゃっかりベッドテーブルを使ってお酒をグラスに注いでいるんじゃない!
その首を今すぐ切り落としてやろうか!?
私が襲い掛かったところで、お得意の魔法でやり返されるかもしれないけど。
そんなごちゃ混ぜ感情を懸命に抑えて、私は訊いてみる。
「結婚式って……五日後だよね?」
「そうだね」
「ルール違反じゃない?」
「別にいいじゃないか。それとも、順番を守らないと悪魔になるか?」
「悪魔?」
「まあ、この国に伝わる子供向けの伝承だ。悪い子は月のない夜に悪魔になって、二度とお母さんに会えなくなっちゃうよーってね?」
この手の話はどこの国にもあるらしい。シャルル王国では赤いマントを着たおばさんにしまわれてしまう……なんて、子どもの頃は侍女に脅されていたっけ。
そして、おばさんの正体は――
「うちの国ではゴーストって呼ばれているかな。オバケって呼ぶ地方もあるけど、強い未練が残った死後の人間の魂が異界に還れず、この世に理性なく留まっているっていう……」
「まさにそれだ。面白いね、我らの国の共用語は同じなのに、同じ現象でも呼び方や細かい解釈が異なるのか。魔法に対してもそうなのかな?」




