第5話 ブラッドブラザー
「一度気付いてしまえば何のこともないのだ。体外に出た血液は時間が経つほどに赤みを失って黒くなる。ただでさえ薄暗い独房の中で、変色してしまった血文字がよく見えていなかったというだけなのだ。新鮮な赤い血を上から継ぎ足してやれば、こんなにも明瞭ではないか」
人差し指からの出血を、下唇にべったりと塗りたくりつつ、オルゴは邪悪な笑みを濃くする。
「…………何が見えているんですか?」
レベッカはただ混乱していた。オルゴの目には見えているだろうものが、彼女にはさっぱり見えていなかった。血を継ぎ足そうが赤味が強まろうが、怪文書は依然として怪文書にしか見えていなかった。
「見えんのか」
オルゴはレベッカを一瞥し、「ハッ」と嘲笑して血文字に向き直る。
「ならばこそ啓示だ。ただ一人、己のみに許されたこれは特権なのだ。そうでなくてはならない。資質に足る者のみが選ばれなくてはならないのだ」
一歩、また一歩と、オルゴは血文字を踏みしめつつ、鉄格子の方に歩いて行く。
「……せっかく頑張って書いたのに、そんな風にしていいんですか?」
「構わん。内容は全て頭に入っている」
オルゴは血文字の中央で立ち止まり、頭の中で血文字の文章を想起する。
文字を、数字を、記号を、斯くあるべき順番通りに思い浮かべていく。
足元の血文字が蠢く。横書きの文章が円形に整列し、魔法陣の形を取る。
この牢獄において、魔法を使うことは出来ない。
ただし、禁術魔法に関しては例外だった。
「……何をする気ですか?」
部屋の隅に身を寄せ、両手で顔面と首元とを守りつつ、レベッカは赤黒い魔法陣の中心に問いかける。
「今までの苦悩も、苦痛も、不遇も理不尽も何もかも不幸事すべて、この時のためだったのだ」
オルゴはゆったりと振り返り、レベッカと向き合う。
「己一人では成し得なかったかも知れぬ。我がキーパーソンとなれたことを貴様は生涯の誇りとするが良い――――刮目せよ。」
するとオルゴは、自らの右手の人差し指を第三関節まで口内に突っ込み、――――――ガリッと骨を噛み砕き、皮膚も筋肉も纏めて噛み千切った。
「………………っ!」
レベッカは両手を口に当て、声にならない声を上げる。噛み千切られた断面からはドボドボと鮮血が溢れ出て、魔法陣の上に滴る。
オルゴが口を開くと、千切れた人差し指が自由落下する。
その途端、魔法陣が鮮やかな赤色に発光し始める。
「逆算的でなくてはならないのだ」
オルゴは苦痛に顔を歪めながらも、口元をだらしなく緩め、恍惚とする。
「数多ある星屑の中からサソリの形を見出そうとする、では駄目なのだ……大前提、地上のサソリが見たいと思いながら、その所在を天にすら求めるような、狂気的かつ圧倒的な欲望がなくてはならないのだ……己は心の底から吸血鬼に焦がれた。だから環境の中にその答えを見出すことが出来たのだ」
血眼になって、ようやく見える答え。
吸血鬼になるためには、汚らしい丸パンを見つめ、頭に浮かんでくる意味不明の文字列を書き起こし、その中央に立ち、右手の人差し指を噛み千切り、床に吐き捨てるという一連の儀式が必要であるのだと、心底から吸血鬼を渇望する彼だけが自ずと分かっていた!
「【邪化の禁術】」
と唱えてからオルゴは両手を広げ、天井を仰いだ。
足元の魔法陣から、赤みを帯びた旋風が舞い上がった。
旋風はオルゴの全身を包み、部屋全体が赤色に明滅した。
レベッカはその場にしゃがみ込み、嵐が止むのを待った。形容しがたい悍ましい邪気のようなものを間近で浴びせられ、ブルブルと震え上がっていた。
「――おっと」
その独房の前に、中分けの兵士が通りがかっている。
「もうそこまで済んだのか。死刑までに間に合えばってつもりだったんだけど、ここまで素質があるとはね」
中分けの兵士は鉄格子の隙間から手を伸ばし、丸パンを拾い上げる。
すると、丸パンは三つ首のカラスに変化し、それぞれの嘴から想像を絶する大音量で、断末魔のような絶叫を喚き立てた。
絶叫は地下牢獄の隅から隅まで轟き、「何事だ!」と大勢の足音が現場に急行し始めた。
「何事だ、じゃないよ。歴史的瞬間の真っ只中だってのにボーッとしすぎだ」
中分けの兵士は改めて赤色の旋風に向き直り、「じゃあね」と手を振ると、三つ首のカラスと共にその場から消滅した。
それとちょうど入れ替わるように、現場の廊下に兵士が押し掛ける。
その頃には、絶叫は既に止んでいた――が、その代わりにご機嫌な鼻歌が反響しており、異様な状況に兵士一同は立ち竦んだ。
「どけ」
と。
遅れてやってきた兵士長がその後方で声を上げると、兵士たちは慌てふためきながら道を空ける。
その間を進む兵士長は、異常事態にまるで動じることなく、むしろ自らの立派な髭を撫でながらニヤけてすらいた。
「軟弱者よ。もう気が触れよったのだ。戦争の一つも経験しとらん若造はこれだからいかん。気付け薬にまた小便でもかけてやらねばな。ちょうど溜まっておったのだ」
兵士らは互いに顔を見合わせてどよめくが、やがて「兵士長様がそう仰るならそうなのだろう」と安堵し、そしてめいめいに下品な笑い声を上げた。
砕けたムードの中、兵士長はオルゴの独房に差し掛かり、左を向いて鉄格子と向き合う。
オルゴ・デスタルータは檻の方を向いて直立し、鼻歌しながら機嫌よく、右手の五指に嵌めた金色の指輪をしげしげと眺めていた。
また、ボロ衣のような囚人服から打って変わって、王族が着用するような華美絢爛な装いに包まれていた。黒と金とを基調に、ワインレッドの差し色が毒々しく、只ならぬ佇まいでそこに待ち構えていた。
「おお」
オルゴは唖然とする兵士長を視認し、「ちょうどよかった」と凄惨な笑みを浮かべる。
「目に物を見せてやろう」
と言うと、オルゴは右手で左腕の付け根を掴み、袖ごとズボッと引き千切った。切断部からはドボドボと血の滝が流れ落ちた。
そして、オルゴは千切った腕を、そのまま前方に放り投げた。腕は鉄格子の隙間を潜り、兵士長の足元にドスンと打ち捨てられた。
圧倒的マイペースの前に、誰もが唖然として放心していた。
彼以外の全ての時が止まっていた。
「どちらが檻の中か知らしめよ。【血を分けた兄弟】」
瞬間。
左腕の白い肌が、黒みを帯びた赤色に変色する。
モゾモゾと筋肉が隆起し、元の太さの何倍にも膨れ上がる。纏われていた袖が引き千切れる。
左腕の切断面からは左肩が生え、左肩からは胴体が生え、胴体から右腕、両足、首と顔が生え揃い――その怪物は、のっそりと直立した。
全長3メートル。全身は赤黒く、岩のように筋骨隆々で、概ね人のような形をしているが、性器は無く、耳も無く、目と鼻も開いていない。
頭頂部から肩下にかけて、藁のように乾燥した黒髪が生えており、その隙間から噛み合わせた真っ白の歯が覗く。
その正面で兵士長は腰を抜かし、尻餅をつき、「あっあ、あっあっ、あっあっあっ」と喘ぎつつ、両足をジタバタさせている。
赤色の化け物がその場にしゃがみ込み、ヌッと顔面を兵士長に近付けると、兵士長は瞳をブルブルと痙攣させた後、開眼したまま口から泡を吹き、小便を漏らしながら気絶した。
「か、」
この段になって、ようやく兵士の一人が号令をかけた。
「かかれーッ!」
恐怖しながらも兵士らは抜刀し、ブラッドブラザーに襲い掛かる。
が、ブラッドブラザーは甲冑も武器防具も砕き潰しながら兵士らを蹂躙し、そのまま地下牢獄内を鬼神の如く暴れ回り始めた。絶叫が絶えず響き渡り、地獄の様相を呈していた。
オルゴ・デスタルータは哄笑した。
その犬歯は長く鋭く発達していた。