ビリヤード
生と死。こんなことを語ること自体ナンセンスであるが、忘れ去られた死者が思い出すために、そして捧げるためにこれを残しておく。
一般的な死の観念について述べる。ビリヤード台を想像してみて欲しい。見たことがない人がいたら、平らな台を思い浮かべて欲しい。四隅に穴の空いている。縁には落下防止のために段差が設けられている。そこには一つないし複数のボールがある。ビリヤードとは、長い棒で台の上にあるボールを穴に落とすゲームだ。この観念の場合、客観的に見た人生はビリヤードをプレイすること、主観的に見れば一つのボールで動き回ることに例えられる。まず、ボールが台に乗せられる。これが誕生である。そして成長をしていくにつれ、ボールは台の上を自由に走り回る。時には壁にぶつかったり、穴に落ちそうになりながら、長いようで短い人生の時間が経過していき、やがて最後には穴に落ちてしまう。これが死だ。つまり、台に乗っている間は生きていて台から転がり落ちた瞬間に死ぬ。台の上では程度の差こそあれ、個人の自由に動ける。そのような観念が想定されることが多い。このようなアイデアは間違っているわけではないが、非常に限定的な条件でのみ成立すると思われる。薄氷の上でダンスしているようなものだ。「一人」が、「個人」が一つの人生を歩むという仮定である。いわば宗教のようなものだ。
上記のようなビリヤードの台の話で疑問に思う箇所はないだろうか。「一つ」のボールは単数形であり複数形でもあるということだ。そして、壁(他者)にぶつかるということだ。Aという人間1個体がいたとする。Aは常にAであり続けるわけではない。Bと話しているうちにBよりになっていくこともあるし、Cを反面教師にすることもある。Aは生存の都合上便宜的に一つの人格に一つの人生と思い込んで過ごしているだけで、はなっから一つの存在というわけではない。その方が合理的だし暮らしやすいからだ。現実においてビリヤード台は無限に広く、壁は実質無視できる。よって壁にぶつかっているように思えたのは、実は他のボールあるいは一つのボールの分裂した要素と衝突していたのだ。それ以外に原因が存在しない。つまり、先ほどの例で言えば、単数ないしは複数である一つのボールが無限に広いビリヤード台に無数に存在し、それが衝突している現象が人生と言える。それを個人のスケールに無理矢理落とし込んで区切ったのが先ほどの例である。個人の死を説明するのに分かりやすい(正確ではない)説明である。そういった意味では枠組みの仮定、生成過程そのものが生であり、それが損なわれるのが死ということができる。しかしもちろん人間は、個人だけではなく分人や複合的な集団など様々な側面を持つ。それは程度の問題ではなく、性質そのものの問題である。結局我々にできることは沈黙することそして、ボールの衝突音に耳を澄ませることだけである。