24 来客の理由
シグルドの誕生日当日は朝からよく晴れており、非常に心地よい春模様だった。
「よろしいのですか、お嬢様?」
「ええ、今日は家族水入らずで過ごしたいの」
フレドリカはそう言って、メイドたちに微笑みかけた。
今日はフレドリカは城に行くのをお休みにして、一日家で過ごすことにした。そうしていつも家事育児をしてくれるメイドたちには一日の休暇を与え、明日の昼までシグルドとエドガーの三人で過ごす予定だ。
せっかくなので、フレドリカが食事を作ってエドガーをもてなしたい。エドガーも既におむつ替えも離乳食与えも完璧なので、二人で十分シグルドの面倒を見られる。
フレドリカの願いをメイドたちは聞き入れ、明日の午後に戻ってくると言ってそれぞれ自宅に帰っていった。なお、御者の男性は城にエドガーを迎えに行く役目があるので、夕方までは残ってもらうことにしている。
「今日はパパがお祝いに来てくれるわ。よかったわね、シグルド」
午後、エドガー用の枕や衣類を準備しながらフレドリカが言うと、一人でぬいぐるみと遊んでいたシグルドはにぱっと笑った。本当にシグルドはパパ好きらしく、しかも勘が鋭いのかエドガーが来る日はいつも以上にご機嫌だった。
(最初からエドガーがパパだって分かっていたみたいだし……この子、案外すごい能力を持っているのかも?)
夏から三人で暮らすことになっても、間違いなくシグルドとエドガーはうまくやっていけるだろう。
エドガーは今日ここで泊まってくれるが、寝室は別ということになった。フレドリカは、恋人なのだから一緒でもいいのに……と思ったのだが、エドガーは「万が一にでも、無体を働いてはいけない」「今のあなたに触れると、怖がらせてしまう」と遠慮していた。
そこまで優しくしなくても、と食い下がったのだが、ついにエドガーは顔を赤らめて言った。
「我慢できなくなるかもしれないからです」と。
(ええと、うん、まあ、そういうことよね)
今のフレドリカには記憶がなくても、シグルドという息子がいるのだからだいたいの想像はできる。
そしてエドガーにとっての自分は、下手したら「我慢できなくなるかもしれない」存在だということで……考えるだけで、耳が熱くなった。
(信じられないけれど、昔の私って自分から迫ったのね……)
当時十九歳になったばかりのエドガーに「早く抱け」と迫るなんて、今のフレドリカからすると破廉恥そのものだし、成人して間もない若者への態度としてどうなんだ、と思ってしまう。
エドガーの方はまんざらでもないどころかそこでいろいろ気づいてくれたそうだが、彼が硬派だったらとんでもない事案になっていたかもしれない。
……そんなに焦って、自分を抱くように言うなんて――
(……何かしら。嫌な予感がする)
廊下の掃き掃除をしていたフレドリカは、ふと背後を見た。シグルドは二階にいるので、一階廊下付近には誰もいない。
そわ、そわ、とした違和感が、胸の奥にある。周りにエドガーやシグルド、ブリットたち部下やメイドらがいれば紛れそうなのに、恐ろしいほど静かな場所にいると嫌でも考え込んでしまう。
……過去の自分はなぜ、エドガーに別れを告げたのか。
なぜ、自分らしくもなくエドガーに迫ったのか。
なぜ――作戦場所とは別の方向に、行っていたのか。
(……だめだめ! 今日はお祝い、シグルドの誕生日なんだから!)
気を抜けば黒いもやもやとしたものに胸の奥を染められそうで、ぶんっと頭を振って箒を握りしめる。
(それより、今日一日楽しく過ごすことを考えないと!)
「夕食用のチキンはタレ漬けしていて、ベッドメイキングもできた。赤ちゃん用の寒天ゼリーも冷やしているし、飲み物も――」
――ふえ、ふえ、という声に、フレドリカははっとした。これは、シグルドの泣き声だ。
「シグルド?」
箒を置いて急ぎ二階に上がり、子ども部屋に入る。明るい日差しが差し込む部屋の床に座るシグルドが、ぐすぐすと泣いていた。
「まあ、どうしたの? ご飯はさっき食べたし、おむつもきれいだし……」
ささっと息子を確認するが、怪我をした様子もない。そもそも、痛い思いをしたときの泣き方とは違うので、何かに頭をぶつけたりしたわけでもなさそうだ。
顔をしわくちゃにして泣く、少し特殊な泣き顔。
(前にこれを見たのは、確か――)
「……あーあ、やっぱシグルドにはばれるか」
ぎしり、と階段の床板がきしむ音と、男の声。
フレドリカがはっとして振り返ると、ドアを開け放ったままの子ども部屋の前の廊下に、金髪の青年の姿があった。
「アントン様……」
「よう、邪魔するぜ。……といってもここは元々俺の家だし、いいよな?」
「だめ……ではありませんが、いきなりはおやめください。シグルドも困っています」
シグルドを抱っこしてあやしながらフレドリカが非難を込めて申し出ると、「悪いってば」とアントンは笑いながら言う。
「ちょっと用事があって来たんだ」
「私にですか?」
「ああ」
そう言われると、「だめです、今度にしてください」なんて言えなくて、フレドリカはシグルドをベビーベッドに下ろ――そうとしたがなかなか泣き止まなかったので、悩んだ末にシグルドを抱えたままリビングに移動した。
(アントン様が来たらいつも泣くけれど、渋い顔をしつつもわりとすぐに泣き止むのに……)
アントンの方はシグルドが泣くのが気にならないようで、「じゃ、座ろっか」と先に椅子に腰を下ろした。
「単刀直入に言うと、おまえに召集が掛かった」
「召集……? 今日今すぐに、ということですか?」
今日はシグルドの誕生日なのに……と思いつつも尋ねると、アントンは肩をすくめてうなずいた。
「そういうことだ。おまえ、エドガーに隊長の地位を譲ることになっただろ? それについての話なんだ。ちょっと将軍たちの間で揉めているみたいでな」
「……」
いつもの調子で言うアントンを、フレドリカは妙な気持ちで見ていた。
そう、いつも通りだ。
フレドリカの事情より自分のするべきことを優先させる、彼らしい態度。
それなのに……なぜだろうか。
今のアントンが、怪しいと思ってしまうのは。
シグルドがいつまでも泣き止まないのは、なぜなのだろうか、と。
「……それは先に、エドガーにも言った方がいいのではないですか?」
「もう言っている。あいつも城で待っているってさ」
……本当に?
今日の夕方、エドガーは家に来る。迎えの馬車を寄越すことも、知らせている。
それなのに、「城で待っている」と言うだろうか?
「アント――」
「フレッド」
アントンに名を呼ばれ、フレドリカはびくっとした。本能が、危険信号を発している。
今のアントンは、おかしい、と。
彼は青色の目を細めて微笑み、フレドリカが胸に抱くシグルドを見やった。
「シグルドって、可愛いよな。目の色はエドガーの親父譲りらしいけれど、顔はおまえによく似ていると思う」
「……」
「シグルドが、大切だよな? だったら……断ってはならないって、分かっているんじゃないのか?」
いつもの声、いつもの調子でアントンは言う。
だが、違う。これは……脅しだ。
シグルドを盾に、フレドリカを脅している。
「……シ、シグルドに手を出さないと、念書で……」
「いやいや、出してないだろ? 俺だって四肢をもがれたくないし、そもそもシグルドを傷つけたいわけじゃないし。……でも、『可能性』はあるって、分かってるよな?」
アントンが、にやりと笑う。
その笑みにぞわっと背筋に悪寒が走り、その直後激しい怒りがこみ上げる。
裏切った。
この人は、フレドリカのことを裏切っているのだ――
「……私を城に連れて行って、どうするつもり? 引き継ぎ申請は既に、送っている。将軍たちの中には私に好意的な人も多いのだから、今じたばたしたって関係ないわ」
「いやだから俺は別に、エドガーが隊長になったって構わないんだってば。俺個人の問題じゃないんだよ」
「……」
「ま、話は後でできるな。……来るよな、フレドリカ?」
立ち上がったアントンは、薄い笑みを浮かべている。
彼は、リビングの入り口側の椅子の前に座っている。非力なフレドリカが、しかもシグルドを抱えた状態で突破できるとは思えない。
ふわ、うわ、とシグルドが泣いている。
……この子に手出しをさせないためには。
「……分かった。ついて行くわ」
従うしか、なかった。




