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2  記憶喪失の行き倒れ②

「あの、鏡ってありますか?」

「鏡? あまり映りはよくないけれど、それでもよかったら」

「見せてください!」


 フレドリカが必死にお願いすると、中年女性も薄々妙な予感はしてきているようで、一旦部屋を出てからすぐに、両手で持てるほどの大きさの鏡を持って戻ってきた。


「悪いね、うちには手鏡なんて洒落たものはないんだよ」

「いえ、ありがとうございます」


 急ぐ気持ちを抑えてお礼を言ってから、フレドリカは女性が持ってくれる鏡をのぞき込み――息を呑んだ。


 鏡面は少しくすんでいるしあちこちにひびがあるが、フレドリカの姿は十分映っている。そこに映る自分の顔は、確かに「フレドリカ」のものだが少し違う。


 前より、緑色の目が少し大きく見開かれている。頬の肉付きがよくなり、思春期から悩まされていた顔周りのできものはすっかりなくなっている。腰まであったはずのベージュブラウンの髪は短くなり、肩先までの長さになっている。


(違う。私の顔なのに……顔じゃない)


 これはまさに、十八歳の頃から順当に五年ほどの年月を重ねた顔ではないか。


「それじゃあ、私は十八歳じゃなくて……」

「百四十二年の冬に十八歳になったのなら、今は二十二歳ってことだね」


 あたしの目測は正しかったようだ、とつぶやいた女性は鏡を下ろし、ショックを受けた顔のフレドリカをいたわしげに見下ろしてきた。


「……まさか、こんなことになっているとはね」

「私、そんな、全然覚えていなくて……」

「よほどショックなことがあったのかもしれない。滝から落ちるなんて、そうそうあることじゃない。あんたはここ四、五年ほどの記憶を失って、流れ着いてきてしまったようだね」


 そんな、嘘、というかすれた声が唇から零れ、そして目尻が熱くなる。


 なぜ、自分がこんな目に遭わないといけないのか。

 養護院で規則正しい生活を送りながら育ち、仕事を頑張って仕送りができるようにしよう、という目標を胸に王都に向かったというのに。


 そのままぽろぽろと涙が零れ、うー、とうめいてしまう。今の自分の体は二十二歳の女性なのかもしれないが、フレドリカの心は巣立ちを終えたばかりの十八歳のそれだ。泣くな、泣くな、と自分を叱咤しても、涙は止まらない。


 そんなフレドリカを見て、女性はとんとんと肩を撫でてくれた。


「怖いし、辛いよね。うんとお泣き。泣いて泣いてすっきりしたら、ご飯をお食べなさい」

「う……で、でも、そんな、お世話に……お金も……」

「こんな状態のあんたを放っておくことなんて、できないさ。なに、元気になったらうちの仕事を手伝ってくれれば、宿代も食事代もちゃらにしてあげるよ」


 うちは農家なんでね、と女性は言ってから、微笑んだ。


「あたしは、シーリ。少なくともあんたが元気になるまでは面倒を見てあげるから、安心なさい。……十八歳の女の子を見捨てたりしないからね」

「うぅ……あ、ありがとうございます……」


 すんすんと鼻を鳴らしながら礼を言うフレドリカを、シーリは優しい眼差しで見つめてくれた。













 シーリはラルセン王国の西にある農村で、夫のニルスと一緒に暮らしている。彼らの間には娘がいたが、ずっと前に病で亡くなっているそうだ。生きていたら、フレドリカとさほど変わらない年齢になっていたという。


 だからか、シーリの夫であるニルスも、フレドリカの事情を聞くとむっつりと黙りつつもうなずき、元気になるまで家で暮らすことを許してくれた。小柄なシーリと真逆の巌のような体格と顔つきのニルスだが、フレドリカのために服を買ったり医者を呼んだりと、無口ながら面倒を見てくれた。


 しばらくするとフレドリカの全身の痛みも引き、畑仕事を手伝えるようになった。フレドリカは養護院にいた頃から農作業や鶏の世話、料理や洗濯裁縫など何でもしていたので、さくさくと農業や家事をするフレドリカを、ニルスもシーリも褒めてくれた。


 ニルスは、フレドリカが生まれ育った養護院に手紙を送ってくれた。そうして、この空白の五年間で何が起きたのかを調べようとしてくれたのだが、残念ながら院長先生からの返事は、「よく分からない」とのことだった。


「フレドリカは王都に出てから毎年、養護院に仕送りをしていたそうね。でもその手紙に何の仕事に就いているかについては書かれていなかったみたいよ」


 夕食の席でシーリが言ったので、フレドリカは嫌な予感がしてきた。


「えっ……まさか、あんまりよくない仕事をしていたとか……?」

「それはない」


 ズバッと言ったのは、ニルス。

 彼は妻とフレドリカの視線を受けて、少し気恥ずかしそうに視線を落とした。


「フレドリカは、健康的だ。しっかり働き、しっかり食べてきた証しだ。だから、後ろ暗い仕事ではない」

「あたしもそう思うわ。きっと、機密を扱う仕事だったのよ」

「機密……?」

「もしかするとあんた、案外お偉いさんだったのかもよ? そういう仕事の人は素性を明かさないことにしているらしいし、あんたは職業紹介所で登録した後、そういう仕事に就いたんじゃないかね」


 なるほど……と、夫婦の言葉を受けたフレドリカは一気に安心できた。


(そういえば、流れてきたときの私は結構いい生地の服を着ていたらしいし。シーリの言うとおりかもしれないわ)


 春を売っていたとか違法薬物運搬の仕事をしていたとか、そういう可能性が消えるのであれば大歓迎だ。


 ほっとしたフレドリカは、サラダを一口食べた。


「それじゃあ、王都に行ったときに可能なら調べておきます」

「そうしなさいな。……でもフレドリカ、体調がよくないんだろう?」


 シーリに気遣わしげに言われて、フレドリカは肩をすくめた。


 この夫婦の厄介になってからしばらく経つが、介抱された当時のような体の痛みは引いたものの、最近はふらついたり食欲がなくなったりするようになった。

 今食べているサラダに掛かっているドレッシングも、フレドリカの体を刺激しないようにシーリが特別に作ってくれたものだ。


「今日はわりといい方です」

「明日、診てもらえ」


 ニルスがぼそっと言った。


 フレドリカの体調が優れない、と聞いたニルスは、フレドリカやシーリよりよほど慌てていた。そうして知り合いの医者に話をしたらしく、明日診察に来てくれることになった。シーリが呆れるほどの行動力である。


「はい、そうします。ありがとうございます、ニルス」

「……健康が一番だ」


 ニルスはそれだけ言い、食事に戻った。


 フレドリカとシーリはそんなニルスに顔を見合わせ、こっそりと笑い合ったのだった。

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