19 過去も、今も
「あのときは嬉しさのあまりつい、あなたのことをリカと呼んでしまったし、僕のこともエドと呼べばいいと言ってしまいました。……まさか、記憶を失っているとは思わず」
エドガーの話を聞いたフレドリカはしばし浅い呼吸を繰り返していたが、首を横に振った。
「いいえ、そんな、いいのよ。私……そんなに必死に探してもらっていたなんて、知らなくて……」
「隊長……」
「でも、あの、待って。あなたは、その、私の恋人で……だ、抱いてもらったこともあるそうだけど……」
気になった点があるのでフレドリカが恥じらいつつ言うと、エドガーも頬を赤く染めて咳払いした。
「ええと、はい。その、毎回配慮はしていたのですが……」
「配慮? ……ああ、その、大丈夫よ! 赤ちゃんは授かり物だし!」
最初はエドガーの言葉の意味が分からなかったが、すぐに察した。
エドガーは無責任な男ではないと分かっているから、フレドリカも彼を怒るつもりは一切ない。
「でも……あなたも見たでしょう? シグルドの目は、青色よ」
そう、アントンならば似ていなくもないと言える色だが、エドガーのハシバミ色とはまったく共通点がない。
だからフレドリカもエドガーの目を見て早々に、「この人ではない」と判断したのに。
フレドリカの疑問に、エドガーは表情を引き締めた。
「そのことなのですが。……先ほども申しましたしあなたもご存じでしょうが、僕はイェンソン家の長男として生まれたけれど、母の不貞を疑われたので嫡男として認められませんでした」
「……ええ」
「実は父がそう判断した理由が……この目の色なのです」
エドガーは、自分の目尻に指先を当てて言った。
「イェンソン家は代々、青色の目を受け継いでいます。しかし僕は、母親と同じハシバミ色でした」
「えっ? お母様と同じなら、それだけで不貞を伺うのはおかしいでしょう?」
フレドリカのもっともな問いに、エドガーは苦く笑った。
「ええ、おかしいです。……しかしイェンソン家は、青い色の目に異様なこだわりがあるのです。だから父は僕を我が子と認めず、母をも冷遇した。僕が幼い頃にはもう愛人を迎えていて、彼女が産んだ弟妹が皆青い目だったため、とても喜んだそうです。……そうして十四歳まで義理で面倒を見られた僕は母もろとも捨てられ、僕は母の旧姓であるレヴェンを名乗っているのです」
(……そんなことがあるの!?)
ということは、とフレドリカは息を呑む。
「あなたがシグルドを見て自分の子どもだと分かったのは、青色の目だからで……」
「同時に、母の疑いも晴れました」
エドガーは小さく笑ってから、すっと笑みを消した。
「……昨日の夜に自室に逃げ帰ってヴァルデゴート将軍にも叱られてからずっと、考えていました。あなたは僕が知らない間に僕の子を産み、育てていた。記憶がないのに……どこの男の子か分からないというのに、ご子息を育てながらも、騎士団での復帰を考えてらっしゃった。あなた一人に重責を負わせた僕に、何ができるのか。何をするべきなのかを」
「……」
「あなたに、付き合っている人がいるのかどうか聞かれたとき。はぐらかしてしまい、申し訳ありませんでした。あのときの僕は、僕があなたの恋人だと名乗っていいのか分からなかった。何も知らない方があなたは新しい人生を歩めるのではないか、なんて考えていたのです」
「エドガー……」
「でも、決めました。……今のあなたにとっての僕は、いち部下でしかないでしょう。それでも……」
そこでエドガーは立ち上がり、傍らに置いていた花束を手にフレドリカのもとに来てから、ひざまずいた。
これは、この格好が、意味するのは。
「フレドリカ……リカ」
甘く、愛情のこもった声で名前を呼ばれて、フレドリカの胸の奥がとろけそうになる。
「ずっと……十六歳のあの日、あなたに声を掛けられた日からずっと、あなたのことが好きです。愛しています。僕と結婚してくれませんか」
「エ、エドガー……」
彼の装いからして、予想はしていた。花束を持ってきていることからも、身だしなみをいつも以上に整えていることからも、分かっていた。
それでも、今のフレドリカにとっては恋愛をすっ飛ばしていきなり、プロポーズされてしまった。
胸の前で手を握ってうろたえるフレドリカをまっすぐ見つめ、エドガーは続ける。
「ずっとあなたにだけ負担を強いて、申し訳ございません。知らなかった、では済まされないと思っています。……だからこそ、これからは僕があなたを支え、守り、愛し続けたい。そして……あなたと共にシグルドを育てたい」
「っ……!」
はっと、口を手で覆う。
そんな気はしていたのに、もしかしたら、と思っていたのに。
いざ言われると、どう答えればいいのか分からなくなる。
何が正しいのか、何を選ぶべきなのか、分からない、迷ってしまう。
この手を取っていいのか、取らざるべきなのか……。
『ぱー、ぱー!』
ああ、とフレドリカは顔を手で覆う。
シグルドは、分かっていたのではないか。
家にやってきた青年が、自分の父親であると。
あんなに嬉しそうに、教えてもいない「ぱぱ」を一生懸命言うなんて。
(……そうよ)
何がいいのか、は分からなくても、その基準は分かっているではないか。
フレドリカは、シグルドを幸せにしたい。息子を愛し、大切に育てたい。
シグルドが求めているのは、何なのか。
彼に、何が必要なのかを考えれば――
「……エドガー」
手を下ろしたフレドリカは、真っ赤な顔で返事を待つエドガーを見つめた。
……彼の目がシグルドと同じでないのを、残念だと思った。
それは、この人ならきっとフレドリカを大切にしてくれるし、シグルドのことも愛してくれるのではないか、と心の奥底で期待していたから。
「……シグルドのことを、息子と認めてくれますか。あの子のことを……愛してくれますか」
「はい、シグルドは僕の息子です。あなたのこともシグルドのことも、愛し守ります」
確認の意味を込めて問うた言葉は、力強く即答された。
それが……とても嬉しかった。
「記憶がなくても、いいの? もしこのままずっと、あなたと恋をした記憶が戻らなくても……それでもいいの?」
「はい、僕は過去のあなたも今のあなたも、愛していますから」
その言葉に、ふふ、とフレドリカは微笑み、そっと両手を差し伸べた。エドガーが差し出す花束を受け取ってそこから一本薔薇を抜き取り、その花びらに軽く口づけをしてからエドガーのジャケットの胸元に挿す。
ランセル王国で古くから伝わる、求婚への「イエス」の返事だ。
「ありがとう、エドガー。……あなたに会えて、あなたに好きと言ってもらえて……嬉しい。私のこともシグルドのことも、よろしくお願いします」
「リカ……!」
感極まった様子でフレドリカの名前を呼んだエドガーはさっと立ち上がり、フレドリカの体を正面から抱きしめた。
「リカ、リカ……! ああ、愛しています。ずっと、あなただけを……!」
「エドガー……ありがとう。私も……きっとずっと、あなたのことが好きです」
エドガーの大きな手と指を絡め合い、見つめ合い、そっと唇にキスが落とされる。
この体に、エドガーに愛された頃の記憶はない。
それでもフレドリカの胸は、幸せに満ちあふれていた。