1 記憶喪失の行き倒れ①
目が覚めたら、知らない家の知らない部屋でした。
まさか、小説で出てきたような経験を自分がするとは、思ってもいなかった。
(あれ? 私……)
ぱちくり瞬きしたフレドリカは、横たわっていたベッドから上半身を起こし……体のあちこちがズキズキ痛んだため、ううっと唸ってベッドに逆戻りしてしまった。
(足も頭も体もお腹も、痛い!? なんで!?)
少しでも楽な姿勢を取ろうとベッドの上でもぞもぞ這い回りながら、これまでのことを必死に思い出す。
フレドリカは、ラルセン王国の東の端にある養護院出身だ。自分には記憶がないものの、十八年前の冬にお腹の大きな女性が養護院にやってきて、そこで娘――フレドリカを産んだらしい。
生みの母はフレドリカの父親や自分のことについて何も言わないまま、春を待たずにあの世に旅立ってしまった。だからフレドリカには母親の記憶がまったくないのだが、他の子どもたちと違って親から与えられた名前とはっきりとした誕生日がある、少し珍しい孤児だった。
養護院の子どもたちは、十八歳の成人を迎えたら卒院する。フレドリカも先日誕生日を迎えたので養護院を巣立ち、仕事を求めて王都にやってきた。
そうして、手堅く頑張ろうと職業紹介所に行こうとしたのだが――
(私、なんでこんな満身創痍で寝ているの……?)
町の人に職業紹介所の場所を聞き、そこに向かおうとしたあたりまでのことは覚えているが、その後がちっとも記憶にない。
もしかして、うっかり車道に出て馬車に轢かれ、病院に運ばれたのだろうか。それにしてはこの部屋は病室らしくないし、薬品などの匂いもしないが……。
「……ああ、目が覚めたのかい!」
これが一番体への負担が少ないと分かり、移動中の尺取り虫のような格好でフレドリカが寝ていると、ドアが開く音と女性の声がした。顔をそちらに向けると、木桶を持った中年女性が戸口に立っており、小走りにこちらにやってきた。
「丸一日目を覚まさないから、もうだめかもと思っていたんだ! 体は、痛くないか? 喉は渇いている? ご飯は? それともお手洗いに行く?」
「……体は、痛いです」
「……そんな格好をしていたら余計痛いんじゃないの?」
「いえ、これが一番楽なのです」
フレドリカは言ってから、あの、と女性に声を掛ける。
「ここはどこでしょうか。私、馬車に轢かれたのですか?」
「馬車……? もしかして、川に落ちたときのことを覚えていないのか?」
「川?」
もしかして自分は馬車に轢かれたのではなくて、王都の用水路に落ちたのだろうか。養護院の院長先生は、「都会の用水路は汚いから、絶対に落ちないように」と言っていたのに。
だが女性は木桶を床に置いてそれにタオルを浸しながら、肩を落とした。
「覚えていないようだね。あんた、うちの近くの川辺に流れ着いていたんだよ。死んでいると思いきや、息があったんだが……もしかすると滝の上流から流されてきたのかもね。それで生きているなんて、運がいいことだよ」
「滝?」
さすがに王都に、滝はない。
頭に疑問符ばかりを浮かべるフレドリカに違和感を覚えたのか、タオルを絞っていた女性は不審そうな目を向けてきた。
「……あんた、何も覚えていないのか?」
「ええと。さすがに自分の名前とかは分かります。でも、滝に落ちた経緯は分からなくて……」
そうしてフレドリカが、先日十八歳になったので王都に働きに出たのだと説明すると、女性は首をかしげた。
「十八? あたしゃてっきり、二十代半ばくらいのお嬢さんだと思ったよ」
(そ、そんなに老けて見えたの?)
養護院ではむしろ童顔の部類に入っていたので、五つも六つも年上に見られていたというのはショックだ。だが自分は滝に落ちて流れ着いたようだから、そのせいで普段より元気がない顔をしているのが原因かもしれない。
「ええと、そういうことなので私、王都に着いてから後のことが思い出せないのです。ここは王都付近ではないのですよね?」
「そうだね。王都っていったら、ここから馬車で何日もかかるだろう」
絞ったタオルを手に近づいた女性は、「服を脱がせるよ」と言った。今気がついたが、フレドリカは旅衣装として着ていたワンピースではなくて、質素な麻の寝間着を着ていた。きっとこの女性が貸してくれたのだろう。
「あの、すみません、いろいろと……」
「いいんだよ。……悪いけど、あんたが着ていたあのジャケットとズボンは、繕いようがないほど焦げていたし破れていたから処分したよ」
「……え?」
自力では寝間着が脱げそうにないので女性のなすがままになっていたフレドリカは、はて、と動きを止めた。
「私、ジャケットとズボンを身につけていました?」
「ああ、あちこち破れてぼろぼろだったけど、なかなか上質そうな衣類だったよ。編み上げのブーツも頑丈そうだが、底が抜けていたからこれも捨てさせてもらった。……だめだったかい?」
「……」
フレドリカは、何も言えなかった。
(私、ジャケットとズボンなんて持っていないし、ブーツもショートブーツだったはず……)
王都に着いてから服を買い、そして王都を離れて滝から落ちたのだろうか。
疑問ばかり浮かんできたフレドリカだったが、女性によって服を脱がされていよいよ、困惑してしまった。
(えっ? 私、こんな体だった……?)
体を動かすと痛いのでなんとか頭だけ起こして自分の裸の体前面を見るが、やけに肉付きがよくて、元々貧相だった胸が少しだけ大きくなっている。その代わり、体のあちこちに覚えのない小さな傷の跡があった。もう白く薄くなっている痕ばかりなので、滝から落ちた際にできたものではないはず。
養護院では衣食住が完備していたが、太れるほどたくさん食べられるわけではなかった。だから出発の際に院長先生から、「王都でしっかり働いて、しっかり食べなさい」と言われていたというのに。
(な、何……? これ、本当に私……?)
なんだか自分が自分でないような、知らない姿になってしまったように思われてフレドリカがぎゅっと拳を固めると、フレドリカの体を拭いていた女性が気遣わしげに見下ろしてきた。
「……あんた、本当に大丈夫?」
「……わ、分かりません。私、何も覚えていなくて……。なんで王都から遠く離れた場所にいるのかも、滝から落ちた理由も、自分の体がおかしい理由も……」
「おかしい?」
「私、記憶がないのに太っているし、体に傷もあるし……」
どうしよう、どうしよう、と絶賛混乱中のフレドリカを見て、女性はよしよしと頭を撫でてくれた。
「まずは落ち着きなさい。もうすぐうちの人が戻ってくるから、そこで一緒にご飯でも食べながら話をしよう。今はきっと、混乱しているんだ」
「う……」
「ちょうど、夏野菜がたくさん採れたところなんだ。あたしが作るスープを飲めば、きっと心も体も落ち着くさ」
「夏……野菜?」
女性の言葉に、え、とフレドリカは瞬きする。
「今は冬ですよね?」
「いやいや、何言っているの。今は夏真っ盛りだよ。冬だったらあんた、こんなすっぽんぽんでいたら凍えるだろう?」
それもそうだ。今のフレドリカは女性に体を拭いてもらっているのに、寒いどころかこれくらいでちょうどいい温度だとさえ思われる。
(夏……? 嘘、でも今は……)
「……私、養護院を出たのが百四十二年の冬の月十二日なのですが」
「百四十二年? いつの話をしているのさ。今は、百四十七年の夏だよ」
「は?」
フレドリカはつい体を起こそうとして、痛みにうめいてまた仰向けに倒れ込んでしまった。
(百四十七年……? 今が……?)
ばくばくと、心臓が不安を訴えている。
この女性は、何を言っているのか。
今は……たとえ夏だとしても、百四十三年ならまだ分かる。だというのに、それからさらに四年も先だなんて……。
(まさか、私、五年近くも記憶が飛んでいるの……!?)
せいぜい記憶があやふやになっているのは半年間くらいだろうと思ったのに、今がフレドリカの最後の記憶から五年も先の世界だなんて、信じられない。
(でも、今の私の体は……傷は……)
はっとして、フレドリカは女性を見た。