客人
外へ出れば、再び清々しい空気に包まれる。店の前でいがらっぽい空気を深呼吸で肺の中から追い出すと、ディレイスはさっきまでごねていたのが嘘のように、すたすたと王城を目指して歩き出した。
「旅行者か? 珍しいな」
酒場を後ろ目で見遣りつつ、ラスティは背後からディレイスに問い掛ける。ディレイスは前を向いたまま、うん、と頷いた。
「一人旅らしいよ」
ディレイスは急いた様子で薄暗い裏通りを歩く。ディレイスの足は予想よりも速く、ラスティは慌てて彼を追い掛けた。
「アリシアの剣を探しているんだってさ」
「アリシアの剣?」
〝アリシア〟といえば、ラスティたちこの世界の住人にとっては、破壊神アリシアを指す。
昔々、といっても千年ほど前。争いと怨嗟で混沌に満ちていた世界を、女神アリシアが剣で持って破壊した。そして粉々に砕けた世界の欠片を、後に創造神と称される少年神エリウスが掻き集め、光と闇を司る神とともに現在の形に創り直したのだという。以来、世界では、創造と破壊、光と闇の四人の神を信仰している。
アリシアの剣というのなら、その世界を滅ぼした剣のことを指すのだろうが。
「あんなの、おとぎ話だろう」
どんな魔法を使ったとしても、剣一本で世界を破壊するなんて、現実的ではない。神話や伝承にありがちな誇張で、現実にそんなものは存在しないとラスティは思うのだが。
「…………」
横に並ぶディレイスは肯定も否定もせず、難しい顔で押し黙った。
「だいたい、そんなの見つけてどうするつもりなんだ」
「さあ。学術的興味、とか言ってたけど」
「お前、そんな話に詳しかったか?」
ラスティの疑問に対し、アリシアに関しては、とディレイスは首肯した。
「ここを何処だと思っているんだよ。それでもって、俺は一応王族だぞ?」
アリシエウスでは、国民の信仰の自由は保証されてこそいるものの、殊に破壊神アリシアが信仰されていた。王族ともなればその代表。確かに、破壊神について知っていてもおかしくはない。
「そういう点で、あの少年がここへ来たのは正解だ。ここほどアリシアに縁のある土地はないからな」
「だからといって、本当に剣があるわけでもないだろうに……」
ディレイスの言う通り、破壊神に関連のある土地だからといって、神の遺物がここにあるとは限らない。少なくともラスティは、そんな剣について噂にも聞いたこともなかった。全てはただの伝承に過ぎない。そう思っていたのだが。
「本当にそう思うか?」
ディレイスが唐突に立ち止まった。振り返った群青の視線がこちらを貫いて、ラスティは戸惑った。
「は……?」
「アリシエウスは小国だ。東には魔術の栄える大国リヴィアデール。西には軍事で名高い帝国クレールがいる。その二国に挟まれて、こんな一領地といっても差し支えのないような規模の国が、千年も生き残れると本当に思うのか?」
ときに大国に吸収されたことはあった。またときには北にある小さな国々と併合したこともある。しかし、このアリシエウスという国は、歴史の中において有り様を大きく変じたことはなかった。
それを不思議に思ったことはないか、と歳若き王弟は問い掛ける。
「だが、実際にこうして……」
かつて何気なしに学んだ国の歴史を振り返って、思うところがないわけではない。史実の中であまりに都合が良いと思うものにも、いくつか心当たりがある。けれど、実際にこうしてアリシエウスの現在があるのだから、奇跡的にできたとしか言いようがないとラスティは思うのだが。
「それなりの理由があるんだよ。この国には」
厄介なことにな、と苦々しく付け加えて、ディレイスはもう一度城へと足を向けた。呆然としていたラスティもまた、すぐに我に返ってディレイスの隣に追いつく。
「といっても、最近はそれも怪しいけどな」
ラスティは眉を顰めた。奇跡を体現できない状態とは何か。そこで、この国の現在の情勢について思い至った。
「……クレールか」
先の話に出てきた、西の隣国のことである。
「やはり国境付近に兵力が集結しているらしい。それに、南国から武器を多く仕入れているという情報もある」
「だから街に出たのか」
情報収集のために。
城を抜け出して街遊びに繰り出しているだけあって、ディレイスは国の情勢に詳しい。ハイアンがディレイスを怒ることはあっても咎めたりしない理由は、その辺りにある。
「戦争になるのか?」
ラスティは思わずディレイスの腕を掴んだ。
戦争になるのではないか、という話は、既に同僚たちの中でも流れていた。皆、騎士だ。そういった話には敏感になる。が、ラスティとしては半信半疑といったところだった。
アリシエウスは森の中にあるしがない国。元々は狩りで生きていた民族で、特産物は独特の技術で作った燻製肉と革製品。現在は農業もやっていて、花卉類も交易の品に加わっているが、はっきり言ってそれだけである。戦までして欲しい土地ではないのだ。
戦争が起こるとして、敵の目的は一体何なのか。そもそも戦は起こるのか。
不確かな情報が、ラスティの心に陰を落とす。
振り向かされたディレイスは応えなかった。まだ情報がまとまっていないのか、それとも一騎士であるラスティには簡単に話すことのできない内容なのか。
どちらにしても、ディレイスの様子を見る限り、杞憂で終わりそうにはないようだ。
ラスティはディレイスの腕を放した。少年の頃は、隙あらば逃げ出したディレイスは、今は大人しく城へと戻っていく。追い回す手間がなくなった一方で、一抹の寂しさを感じた。
なんとなく空を見上げる。気候の安定した時季にある今は、青空がとても美しい。
王子が逃げ出しても皆ただ苦笑するばかりの平和なこの国に、不吉な影が纏わりついている。
面倒だな、とラスティは呟いた。
「お待たせして申し訳ない」
ディレイスの客だとかいうその人物は、王城の中庭に居た。正方形のこぢんまりとした庭で、中央にある噴水とその周りに貼られた芝を、花を咲かせた躑躅の植え込みが囲むのみ。申し訳程度に設けられたとしか思えない、あまりに小さくて簡素な庭だ。こんなところで待つとはもの好きだ、とラスティは思う。城にはもっと豪勢な庭があるのに。
客人は噴水の縁に腰掛けて庭を眺めていたが、ディレイスが声を掛けると、落ち着いた様子で立ち上がった。
「いいえ。気にしていないわ。約束もしていなかったんだもの」
客人は薄く微笑んだ。二十代半ばの女だった。背の半ばまでの長く真っ直ぐな金糸の髪を持ち、眉と鼻筋はスッとして、瞳は青玉のよう。整った容姿と洗練された身のこなしから貴族かとも思われたが、彼女が身に纏うのは、ドレスではなく麻のシャツに革のズボンと簡素なものだった。近くに大きな革袋もあることだし、旅人だろうか。
それにしても、年齢の割にどことなく老成した雰囲気のある女だった。常に憂いと諦念を抱いているかのような、陰のある雰囲気を漂わせている。
「兄上には会われましたか?」
「いいえ、まだ。貴方が来てからのほうが良いかと思ってね」
影のように親友の背後についていたラスティは、その女を密かに観察した。ラスティの知らない顔だ。親友のことは全て知っている、と豪語するつもりはないが、このような知り合いがいたことには、内心驚きを隠せなかった。王族であるディレイスが敬意を払い、あちらは気安い態度であることもまた、自分のことを棚に上げて気になった。関係性が全く読めない。
ディレイスと言葉を交わしていた彼女は、ふと、不思議そうにラスティを眺めやった。気付いたディレイスが一歩横に動き、ラスティを指し示した。
「彼はラスティ・ユルグナー。私の親友です」
そう二言で紹介して、
「悪かったな。戻っていいぞ」
すぐにラスティを追い返した。
あまりのことに、ラスティは拍子抜けした。ディレイスを城に送り届け、すぐに立ち去ろうとしたところを、「ついてこい」と言われてついてきたというのに。
その結果が、これ。
別に何かを期待していたわけではないが、あまりに釈然としない。客人の紹介すらないのだ。
しかし、居残る理由もなかったので、ラスティはおとなしく王弟と客人に一礼して、踵を返した。
緑の芝を通り、躑躅の生け垣の間を抜け、城内に通じる小さな扉を前にしたところで、来た道を振り返る。
ディレイスはまだ噴水の前で女と話していた。
「……なんだったんだ」
首を傾げて一瞥した後、扉を開けて中庭を後にした。
「……親友、ね」
城内に入っていったラスティを視線で追いかけて、客人の女は呟いた。目を眇め、腰に手を当て、ディレイスの思惑を見通さんばかりに青い瞳を向けた。
「どうして私に紹介したのかしら?」
「どうして、とは?」
「ただの客に、あえて友情をひけらかす必要なんてあるのかしら。まして、私が興味を持つとは限らないのに」
「ありませんか」
「ないわ」
正直すぎる回答にディレイスは苦笑した。そうだろうとは思っていたが、こうもはっきり言われると、いっそ清々しい。
ディレイスは頬を緩ませたまま、女と同じように、ラスティが立ち去ったほうを見つめた。
「あいつとは、小さい頃からずっと一緒にいたんです。城を抜け出して遊ぶときも、俺はラスティを連れ出していました」
「ふぅん?」
女は腕を組み、首を傾げた。興味はない、と言いながらも、きちんと話は聴いてくれるようだ。たとえ表情は無関心を装っていたとしても。
そんな彼女に、ディレイスは告げる。
「だから、俺はあいつのことを信頼しているんです」
途端、女は目を瞠った。
「貴方……」
まじまじとディレイスを見つめ、やがて憐れむように目を伏せた。
「……そう。彼にするのね」
悲しそうに呟く女に、ディレイスはぎこちなく笑みを浮かべながら頷いた。
「はい。俺は……俺たちは、覚悟を決めました」
穏やかな風が吹く。ディレイスの青味がかった黒髪が揺れ、真剣な光を宿した群青の眼差しを覆った。