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苦手な方はご注意ください。

BL

あなたがいない冬の夜

作者: 相沢ごはん

pixivにも同様の文章を投稿しております。


(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

 止まない雨はない、明けない夜はない。そして、終わらない冬はない。

 そういう言葉をよく耳にするけれど、本当にそうだろうか。最近、僕はその言葉を信じられなくなっている。

 縁側に腰かけて、僕は、ぼんやりとそんなことを思う。実際のところ、雨は降り続いているし、夜が明ける気配もない。冬も、まだまだこれからだ。気象の話ではなく、たとえ話としてだけど。

 縁側から見る庭は暗く、雪が溶けてべちょべちょになっている。夜の冷たい空気にふれたほっぺたが、ぴりりとつっぱる。

「おにいちゃん」

 背後から声をかけられ、振り向く。声の主は、あぐらをかいて座る僕に近づき、その上から影を落とした。

「兄さん」

 油断していたためにうっかりそう呼んでしまうと、目の前のひとはきょとんとした表情でこちらを見る。

「ああ、ちがう。ごめん。こうちゃん」

 僕は、あわてて言い直し、「よし。お散歩、行こうか」と立ち上がる。

 夜の散歩は、一年ほど前から日課になっている。こうちゃんは、うれしそうに笑って、「うん」と小さく頷いた。

 こうちゃんが差し出す手を取る。やんわりと握ると、こうちゃんは、ぎゅうぎゅうと強く握り返してくる。力強い。こうちゃんの手は、僕の手とそう変わらない大きさだ。もしかしたら、僕の手よりも少し大きいかもしれない。

 僕は、こうちゃんにコートを着せてやる。兄によく似合っていた、そのブランドもののコートは、当然ながら、こうちゃんにもとてもよく似合っていた。


   *


 北村航太郎は、僕の三つ上の兄だ。とは言っても、血のつながりはない。僕たちの父と母は再婚同士で、僕は母の連れ子、兄は父の連れ子だ。

 父は、僕たちが大学生の時に脳梗塞で亡くなった。それを追うように、と言ってしまうと結構あいだが空くのだけれど、その三年後に母が亡くなった。交通事故だった。僕が就職して、そろそろ二年目に突入するかというころ、寒い初冬の朝のことだった。凍結した道路でスリップし、歩道につっこんできた大型トラックにはねられたのだ。

 その時のことは、混乱に混乱を重ねていたので、よく覚えていないのだが、実子の僕よりも兄の方が取り乱していた。取り乱してわんわん泣き叫び、唐突にぶっ倒れたあげく、救急車で運ばれ、そのまましばらく眠り続けた。

 僕は、兄をとりあえず病院に任せ、親戚に手伝ってもらいながら通夜や葬儀を執り行い、いろいろな事務的作業を終わらせた。そうして、やっと落ち着いたと思ったところを見計らったかのように兄が目を覚ました。

 知らせを受けた僕は会社を早退し、急いで病院へ向かった。

 こちらは手続きから何からで忙しく、母の死を悲しむ暇もなかったというのに、今ごろ目を覚まして一体おまえはどういうつもりだ、と文句のひとつやふたつ、言ってやろうと思っていた。

「兄さん!」

 しかし、病院へ駆けつけた僕が兄を呼ぶと、兄は病室のベッドの上からきょとんとこちらを見て、「だれですか?」と言ったのだ。

「記憶がすっぽ抜けているようです」

 兄のベッドの傍らに立っていた医師が、フランクな口調で言った。

「すっぽ抜けて?」

 訳が分からず聞き返すと、

「あるいは、巻き戻ってしまったか。まれにあるんですよ、こういうことが」

 医師は言う。そして、ベッドに身体を起こした兄に尋ねた。

「あなたの名前を教えてください」

「北村航太郎です」

 兄は答える。起きぬけで舌が回らないのか、口調はやや幼く聞こえたが、ちゃんと答えられている。なにもおかしいことなどないはずだ。

 しかし、医師が次の質問をし、兄がそれに答えた瞬間に、僕の頭は凍りついた。

「何歳ですか」

「六歳です」

「六歳!?」

 僕は思わず大きな声をあげてしまった。

 兄は僕を見上げ、おびえたように、しかし、しっかりと頷いて言った。

「北村航太郎です。六歳です。今年、小学校一年生になりました」

「なっ、なにをっ……」

 こいつは、なにを言っているんだ。僕は口をぱくぱくさせながら、

「ど、どういう、どういうことですかっ」

 医師に詰め寄る。医師は僕を廊下へ連れ出した。

「聞いてのとおりです。北村航太郎さんの主観では、彼は現在六歳の小学一年生なのです」

 僕が絶句していると、医師は続ける。

「精神的な問題でしょう。最近、ショックを受けたことや、ストレスになるようなことは?」

 医師は言った。

「母が、母が亡くなりました」

 僕は答える。

「ですが、母は、兄とは血のつながりが」

 ないんです、と言おうとして、医師の言葉に遮られた。

「それでも、お母さんはお母さんでしょう」

 僕は黙った。

「血のつながりだけが、家族ではありません。大事なひとが亡くなって、頭がパーンとなってしまったんでしょう」

 医師は言った。医師のくせに言葉を選ばない人だ。

 しかし、彼の言うとおりかもしれない。血のつながりがなくとも、兄にとって、母は母だったのだ。最初から最後まで不器用で優しかったあの人が、僕にとっての唯一の父だったように。


 頭がパーンとなった兄は、記憶が巻き戻っただけで身体能力はそのままだ。だから生活に支障はないという。

 とりあえず、兄の会社には事情を説明した上で休職願いを出し、家で様子を見ることにした。

「兄さん」

 そう呼ぶと、兄は不思議そうな顔をする。この呼び方はちがうんだな、と思い直し、

「こうちゃん」

 僕は、母がそう呼んでいたように、兄を呼んだ。

 夜の闇の中、縁側にふたり並んで座り、僕は兄にこれからのことを説明した。庭に積もった雪が月あかりを反射して、薄ぼんやりと闇を照らしている。

「こうちゃん。今日からきみは、僕といっしょに暮らします」

「どうしてですか?」

 こうちゃんに戻った兄は、当然の疑問を口にした。白い息が舞う。

「おとうさんはどこですか?」

 こうちゃんは言う。

「おかあさんと弟もいます。去年の春から、ここで暮らしています。みんな、どこですか?」

 どうやら、こうちゃんの記憶は、僕たちと一緒に暮らし始めて、もうすぐ一年というところまで戻ってしまっているらしい。

「お父さんとお母さんは、ちょっと事情があって遠くにいる」

 僕は用心深く、こうちゃんの疑問に対して、嘘の答えを言う。

「弟は」

 きみのとなりにいる、とはさすがに言うことができず、「弟も」と言い直した。

「みんないっしょにいるんですか?」

 こうちゃんは言う。

「うん、そう。みんないっしょにいると思う」

 僕は頷く。

「ぼくだけひとりですか? みんなが、ぼくだけ置いて行ったのはどうしてですか? ぼくは、みんなのところへは行けないの?」

 こうちゃんの顔が、悲しそうにゆがむ。

「ひとりじゃない」

 僕は言う。

「こうちゃんには、僕がいる」

 それで納得したわけではないのだろうが、こうちゃんは唇をきゅっと引きむすんで、それきりなにも言わなかった。

 そういえば、と思い出す。兄は昔から、物静かで聞き分けのいい子どもだったように思う。頭も良かった。遊んでもらった記憶なんてほとんどないけれど、意地悪をされたという記憶もない。きっと、僕にはそんなに興味がなかったのだろう。

「おにいさんの、名前を教えてください」

 こうちゃんが唐突に言った。いっしょに暮らすには、こちらの情報も知っておかなければならないと、本能的に思ったのかもしれない。

「北村純一です」

 名前に関しては嘘をつくわけにはいかないので、正直に答えると、

「本当? ぼくの弟と同じ名前です」

 こうちゃんは少しうれしそうに言った。そして、弟のことを懐かしく思ったのか、「みんなは、いつごろ帰ってきますか?」と尋ねた。

 その瞬間、僕は、わっと声を上げて泣いてしまった。こうちゃんが、ぎょっとしたようにこちらを見ているのがわかる。

 帰ってこない。もう、父も母も帰ってこない。その上、兄までいなくなってしまった。こうちゃんは、兄だけど兄ではない。僕のほうこそ、ひとりぼっちだ。

 わんわん泣いていると、頭にあたたかいものがふれた。

「おにいさん、泣かないで」

 こうちゃんは、不安定に揺れる声で言う。あたたかいのは、こうちゃんが僕の頭をなでているからだった。なでられると、余計に涙がこぼれた。

 僕は、こうちゃんの身体にしがみついて、気が済むまで泣いた。他にどうしたらいいのかわからなかったのだろう、こうちゃんは、僕が泣き止むまで、黙って頭をなでていてくれた。


   *


「おにいさん、ぼくのランドセル知りませんか?」

 ぎこちないながらもいっしょに生活し始めてしばらく経ったころ、朝ごはんを食べている最中に、こうちゃんが言った。

「ランドセル?」

 聞き返しながらも、しまった、と思う。こうちゃんの学校のことを失念していた。もちろん、今さら小学校へなんて行かなくてもいいのだけれど、こうちゃんとしては、行かなくてはいけないと思っているのだろう。

「ぼく、学校へいかないと」

 やはり、生真面目そうな表情でこうちゃんは言った。

「学校へは、行かなくてもいいんだよ」

 どう説明すればいいのかわからず、僕はとりあえずの事実だけを、こうちゃんに伝える。

「どうして?」

 当然の疑問を、こうちゃんは口にする。

「こうちゃんのおとうさんとおかあさんは今いないでしょ。そういう特別な事情があるから、だから行かなくてもいいんだよ」

 理由になっていない理由を無理矢理に口にしてみると、こうちゃんは納得したのかしていないのか、「じゅんくんもいないよ」と弟の名前をぽつりと口にした。

「うん、そうだね」

 本当は、ここにいるんだけど。

 こんなふうに言動は六歳の子どもであるこうちゃんなのだが、不思議なのは、こうちゃんは鏡にうつる自分の姿を見ても驚かないということだ。こうちゃんの目には、鏡にうつる自分は大人の男性ではなく、六歳のころの自分の姿として見えているらしい。

 朝ごはんを食べ終わり、僕は会社へ行く準備をする。こうちゃんは食器を洗ってくれている。よく気のつくいい子なので、助かる。

「じゃあ、僕はお仕事に行ってきます。冷蔵庫に焼きそばがあるから、お昼はそれをあたためて食べてね。あと、いつも言ってるけど、玄関の鍵はかけて行くから、誰か来ても出なくていいからね」

 出かける時は毎日のように、僕はこうちゃんにこういったことを言う。

「はい」

 こうちゃんは反発することもなく、いつも素直に返事をする。こうちゃんをひとりで外出させるのは不安なのだ。だけど、いつまでもこんなふうに閉じ込めておくのも良くないのではないか、とも思い、悩む。帰りに、なにか日中の楽しみになるような本でも買って帰ろうか、なにがいいかな、などと思案しながら、僕は頭を仕事モードに切り替える。

 午後二時を過ぎたころ、スマートフォンが震えた。知らない番号からだったので出ようかどうか迷ったが、こうちゃんの顔が脳裏をよぎり出ることにする。こうちゃんには、なにかあった時のために僕のスマホの番号を教えているのだ。

「北村純一さんでしょうか」

「はい、そうですが……」

「こちら、月ヶ瀬小学校なのですが」

 電話は小学校からだった。僕と兄の母校でもある。

「今、北村航太郎さんという方がこちらにいらしてまして、どうもちょっと様子が……」

 相手が全てを言い終わらないうちに、返事をする。

「わかりました。すぐに伺います」

 会社を早退させてもらい、小学校へ急ぐ。会社には兄のことはすでに説明してあったので、すんなりと帰してもらえた。ありがたい。



 小学校に到着すると、校長室に通された。

「ごめんなさい」

 僕の姿を見たこうちゃんは、開口一番そう言った。こうちゃんは、校長室のつやつやの応接ソファに座り、お茶を出してもらっていた。僕は、怒っていないということをこうちゃんに伝えるために、こうちゃんの頭をぽんぽんと撫でる。

「どうも、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 僕が頭を下げると、

「北村純一さんですね。元気そうだね」

 校長先生が言った。

「あ」

 僕は校長先生の顔をまじまじと見て、「神原先生?」と、おそるおそる確認する。

「そうそう、神原です。お久しぶりですね、純一くん。立派になって」

 神原先生は、僕が小学校六年生の時の担任だった。兄も六年生の時に神原先生に受け持ってもらっている。兄弟そろってお世話になった先生だ。まさか、覚えていてもらえるとは思っていなかったので驚く。

「お久しぶりです。校長先生になられたんですね」

 世間話もそこそこに、

「航太郎くんが、きみのことを『おにいさん』と呼ぶからね。ちょっと戸惑ってしまって」

 神原先生が言う。兄のとなりに座らせてもらい、僕は兄に起こった事情をかいつまんで説明した。

「なるほど。人間の脳というのは不思議なものですね」

 神原先生は感心したように言った。

「うちの教員が、運動場を覗いていた航太郎くんのことを不審者だと思ったらしく、ちょっと乱暴な口をきいてしまってね。航太郎くんを怖がらせてしまったみたいだ。申し訳ない」

「いえ、そんな。事情を知らない人からしたら、不審者に思えても仕方がないですし……」

 今度は神原先生が頭を下げるので、慌ててしまう。

「でも、兄のことを知っている人が……神原先生がいてくださって良かったです。おかげで警察沙汰にならずに済みました」

「最近は、いろいろと物騒だからね」

 神原先生は、悲しげな様子でそう言った。

「兄は、学校へ行かなきゃいけないと思っていたみたいです」

 今朝の会話を思い出して、僕は言う。

「学校じゃなくても、もしかしたら外に出たかっただけかもしれません。僕は、兄をひとりで外出させるのが不安で、兄を毎日家に閉じ込めてしまっています」

 僕の話を聞いた神原先生は、うーん、と唸り、「お散歩にでも連れて行ってあげたらどうでしょう」と軽い口調で言った。

「ひとりじゃなくて、きみといっしょなら、外出したっていいんじゃないかな」

 兄は、僕たちの会話を聞いているのかいないのか、おとなしく、ちびちびとお茶を飲んでいた。



 小学校を後にし、帰り道で、

「おにいさん、手をつないでもいいですか?」

 こうちゃんが言い出した。

「いいよ」

 僕は、こうちゃんに手を差し出す。こうちゃんはがっしりとした手で、僕の手を力強く握る。

「どうしたの、こうちゃん。怖かったの」

 そう尋ねると、こうちゃんは困ったような表情で、こくりと頷いた。

「そっか。じゃあ、今度からは僕といっしょにお出かけしようね」

 僕の言葉に、

「うん!」

 こうちゃんは、兄が大人になってからは見たことのないような満面の笑みを浮かべたのだ。


   *


 あっという間に一年が過ぎ、また冬が来た。

 こうちゃんは七歳になった。兄に戻る気配は、全くない。病院へも定期的に通っているが、毎回ほとんど同じで、「様子を見ましょう」という言葉で締めくくられる。

 母の一周忌は、親戚には断りを入れ、僕たち兄弟のみで執り行った。といっても、こうちゃんは喪服を着て座っていただけなのだけど。

 この一年、いっしょに暮らすうちに、少しずつだったが、こうちゃんは僕に打ち解けていった。呼び方が、他人行儀な「おにいさん」ではなく、親しみのこもった「おにいちゃん」になった。敬語も取れて、すっかり子どもらしくなった。子どもらしく、と言っても、見た目は立派な大人なのだけど。

 こうちゃんは、僕がこうちゃんのために買った児童書や、押入れのダンボールの中から探し出してきた図鑑のページをめくっては、僕に恐竜や昆虫や星座や鉱石のことを説明してくれた。こうちゃんのこういうところは父に似ている。改めてそう思う。父は大学の鉱物研究室で働いていた。鉱物のことを話す父の目は、きらきらと輝いていて、それはそれは楽しそうだった。こうちゃんもそうだ。図鑑を見ながら、そこに書いてあることを僕に説明してくれるこうちゃんは、とても楽しそうだった。父と同じように目をきらきらさせて、にこにこと言葉を紡いでいる。

 大人だった兄は滅多に笑わない人だったが、こうちゃんはよく笑う。大人の兄の姿で、無邪気に笑う。

 兄は、こんなに笑う子どもだっただろうか。僕は、不思議な気持ちで、こうちゃんの笑顔を見つめる。


 夜の散歩は、苦肉の策だ。

「お散歩にでも連れて行ってあげたらどうでしょう」

 神原先生にそう言われたあの日から、僕とこうちゃんの散歩は日課になっている。

 急にひとりぼっちになったので人恋しいのか、それとも、あの日、ひとりで小学校へ行った時のことが相当怖かったのか、こうちゃんは外に出ると、僕と手をつないで歩きたがった。それは別にいいのだけれど、昼間にそれをやってしまうと、ちょっと目立つ。ご近所さんには事情を説明してあるとはいえ、やはり大人の男同士が手をつないで歩くというのは、なんとなく違和感がある。知らないひとが見たら、きっと驚いてしまうだろう。だから、散歩は人気のない夜にする。

 こうちゃんは純粋に、夜に出歩くことが新鮮で楽しいようだった。夜の散歩が、飽きもせず一年間も続いているのは、雨の日も風の日も雪の日も、暑くても寒くても、こうちゃんが行きたくないとは言い出さないからだ。

 寒くはないだろうか。僕はこうちゃんの首に巻いたマフラーがほどけてしまわないように、しっかりと結んでやった。

 つないだ手をゆらゆらと揺らしながら、こうちゃんは、にこにこしている。吐く息が白い。僕もこうちゃんも手袋を持っていない。買わなきゃなあ、と思いつつ、手をつないでいればそこそこあたたかいので、購入が先延ばしになってしまっている。


 僕とこうちゃんは、街灯の少ない道を選んで、ただただ歩く。

 こうちゃんの身長は、僕よりも三センチほど高い。歩幅も、実は僕より広い。こうちゃんの脚は、すらっと長いのだ。少し歩調を速めなければ置いて行かれそうになることもある。

 こうちゃんはよく、おとうさんの話をする。時々、おかあさんと小さな弟の話もする。こうちゃんは、弟の「じゅんくん」のことを、すごくかわいいと思っているようだった。しかし、僕は兄にそんなにかわいがられた記憶がない。どうして、こういうズレが生じているのだろう。

「じゅんくんはね」

 こうちゃんはうれしそうに話す。

「じゅんくんはね、戦隊ヒーローの変身するところだけ好きなんだよ。ほかのところはどうでもいいみたい。変身するところだけ、じっと集中して見てるんだ」

「そうなんだ」

 言いながら、そうだったっけか、と僕は首をひねる。

 しかし、こうちゃんの言う「じゅんくん」は、こうちゃんの主観で言うと三歳くらいで、現在はこうちゃんの知らない遠くの地で四歳になっているはずで、だから、こうちゃんの知っている「じゅんくん」というのは三歳までの僕で、と考え始めたらなんだかややこしくなってしまったが、三歳のころの記憶を二十五歳になった僕が持っていないのも無理はない。

 僕は、こうちゃんの口から、小さな僕の話を聞く。「じゅんくんはね」と、こうちゃんは声を弾ませて話すのだ。

「じゅんくんはね、僕のことを『にっちゃん』って呼ぶんだ。きっと、『おにいちゃん』って、まだうまく言えないんだね」

 頷きながら、僕は、兄を「お兄ちゃん」と呼んでいたころのことを思い出そうとする。「兄さん」と呼び始めたのは、いつごろだっただろうか、と考える。高校に入ってからだったような気がする。それまでは、「お兄ちゃん」と呼んでいた。

 夜の空気は、ひとの思考を活発にさせるか鈍らせるか、どちらかだ。あるいは、その両方かもしれない。

 夜の空気の中、こうちゃんは、いつか兄に戻るのだろうか、と考えてみる。

 戻ってほしいとは思う。主に経済的な理由でだ。やはり収入源が僕ひとりだけというのは、少ししんどい。それに加え、兄が自分と過ごした時間を忘れてしまっているということに打ちのめされているのも事実だ。時折、兄が話す小さな僕のことを、僕自身は覚えていない。そのころの兄のことも覚えていない。記憶しておくには、僕はまだ小さすぎたのだ。

 思い出が共有できない。

 戻ってほしい。思い出してほしい。僕は、ずっとここにいたのに。

「こうちゃん、今度キャッチボールしようか」

 思いつきで、そう提案してみる。なにか、僕もこうちゃんと共有できる楽しい思い出がほしくなったのかもしれない。子どもがする遊びを考えて、キャッチボールしか頭に浮かばなかったのだ。

「キャッチボール、したことある?」

 尋ねると、

「ない」

 こうちゃんは首をぷるぷると横に振る。「おにいちゃんは?」と聞き返され、「あー」と間延びした声をもらしてしまった。

 キャッチボールしか思いつかなかった理由を、思い出したのだ。

「あるよ、一度だけ」

 僕は答える。

「だれとしたの? おにいちゃんのおとうさん?」

 こうちゃんが言う。

「ううん」

 僕は首を振った。

「おにいちゃんの、お兄さんと」

「おにいちゃんには、おにいちゃんがいるの?」

 こうちゃんは無邪気に尋ねる。

「うん、いるよ」

 僕は頷いた。

「今はね、遠くにいる」

 言いながら、となりのこうちゃんを見る。兄であって、兄ではない人。


 兄とキャッチボールをしたのは、僕が小学一年生の時だ。兄は、小学四年生だった。

 大学で鉱物の研究をしていた父は、スポーツが苦手な人だった。しかし、鉱物を求めて度々、島へ行ったり山へ登る人ではあった。運動神経が鈍いわけではなかったのだろうが、山へ連れて行ってもらったり、きれいな石を見せてもらったりと、父に遊んでもらった記憶というと、そんな感じだった。ボールなどのおもちゃで遊んでもらった覚えはない。だから、僕は兄にねだったのだ。「お兄ちゃん、僕、キャッチボールしたい」と。

「うん、わかった」

 兄は、あっさりとそう言って、次の日、友人からグローブとボールを借りてきてくれた。

 学校から帰ってすぐ、僕と兄は近所の公園へ向かった。

 兄は、キャッチボールが下手だった。一年生の僕よりも下手だった。投げたボールは予想もつかないところへ飛んで行ったし、キャッチも三回に二回は失敗した。

 それでも、僕は兄とのキャッチボールが楽しかった。僕がうまく投げたボールを、兄がキャッチしてくれると、たまらなくうれしかった。兄が変なところへ投げたボールを、ふたりで探すことさえ楽しかったのだ。

「うまくできなくて、ごめんな」

 帰り道、兄は僕にそう言って謝った。

 どうして兄が謝るのかわからなかった。僕は、あんなに楽しかったのに。兄は、楽しくなかったのだろうか。兄に謝らせてしまったことが、なんだか申し訳なかった。

 僕の足は少し遅れてしまい、夕焼けの空に溶けてしまいそうな兄の背中を、ぼんやりと眺めていた。兄が振り返り、僕に手を差し出す。逆光で表情は見えなかった。僕は、すがるように兄の手を強く握った。

 それ以来、僕は兄と遊ばなくなったのだ。

 鼻の奥が、ツンと痛くなった。寒さで涙がにじむ。

 兄が僕をかわいがらなかったのではない。僕が、兄を避けたのだ。うまくできなくてごめんと謝る兄を、僕は見たくなかった。だから、僕は兄を避けた。

 兄に、そんなふうに謝ってほしくなかった。お兄ちゃんには、お兄ちゃんでいてほしかった。

 言えば良かったのだ。ちゃんと口に出して言えば、きっと伝わったはずだ。僕は、兄に遊んでもらえるだけでうれしかったのに。

 のどの奥がひくついて、次第にじりじりと熱くなる。唾を飲みこんで、僕は言う。

「そろそろ戻ろうか」

「うん」

 聞き分けのいいこうちゃんは、素直に頷く。


 次の日、僕は会社の帰りにグローブとボールを買って帰った。僕とこうちゃんは、それらを持って、いつものようにコートを着こみマフラーを巻いて、夜の散歩へ出かけた。

 今日は公園でキャッチボールをする計画なのだ。あの日、僕と兄がキャッチボールをした公園で。

 不思議なことに、こうちゃんはキャッチボールが上手だった。身体は大人なのだから、当たり前なのかもしれない。けれど、練習もせずに、こんなにもうまくなるものだろうか。

 ぼんやりとした街灯のあかりの下、こうちゃんの投げたボールが、僕のグローブにきれいにおさまった。

 練習したのかもしれない。

 ふと思う。兄は、あの後、キャッチボールの練習をしたのかもしれない。頭がパーンとなっても、きっと身体は覚えているのだろう。そう思ったら、思いがけず涙がこぼれてしまった。僕は、それを隠すように笑って言う。

「すごい。上手だね、こうちゃん」

 こうちゃんはうれしそうに笑った。

 夜でよかった、暗くてよかった。この時ばかりは、そう思った。

 もういっかい、もういっかい、と、こうちゃんにねだられるままにキャッチボールを続ける。そろそろやめないと日付が変わってしまう。

「今日は、もうおしまい。また今度にしよう」

 僕が言うと、こうちゃんは、「絶対だよ!」と言って笑った。僕とこうちゃんは指切りをして、家路につく。ふたりともグローブを小脇に抱えて、空いたほうの手をつなぐ。

「早く、みんな帰ってこないかな」

 白い息を吐きながら、こうちゃんがぼそりと言った。

「ぼく、じゅんくんともキャッチボールしたいな」

 帰ってこないよ、と僕は思う。父も母も死んでしまった。そして、きみの弟は今、きみの横にいる。どこにも行ってない。ずっと、となりにいたんだ。

「僕がいるよ。それじゃだめ?」

「だって、おにいちゃんは新しいひとだから」

 僕の言葉に、こうちゃんはそんな言葉を返した。

「新しい人?」

 意味がわからず聞き返すと、「おにいちゃんは、僕とずっといっしょにいたひとじゃないでしょ?」と、こうちゃんは言う。

「ずっといっしょにいた人」

 僕は、こうちゃんの言葉をそのまま繰り返す。

「お父さんのこと?」

「おかあさんと、じゅんくんも」

「じゅんくんも」

 僕はまた、こうちゃんの言葉を繰り返す。

 おかあさんとじゅんくんが今のこうちゃんといた時間なんて、たったの一年弱じゃないか。こうちゃんが僕といた時間と変わらない。

 それに、こうちゃん。きみの弟は僕だ。「じゅんくん」は、僕だ。僕は、新しい人なんかじゃない。ずっと、ここにいた。今まで、ずっといっしょにいたじゃないか。

 兄さん。胸の内だけで、僕は呼ぶ。

 兄さん、兄さん、兄さん。お兄ちゃん。

 ごめんね、お兄ちゃん。

「これから、ずっといっしょにいたらいいじゃないか」

 頭の中のぐちゃぐちゃを見ないふりして、僕は言う。こうちゃんは、きょとんと僕を見る。

「今の僕は、まだまだ新しい人かもしれないけど、未来の僕は、未来のこうちゃんにとって、ずっといっしょにいた人になれるよ」

 こうちゃんが、理解してくれたのかどうかは、わからない。ただ、僕の手を握るこうちゃんの手に、少し力がこめられた。

 止まない雨はない、明けない夜はない。終わらない冬はない。

 その言葉を信じられなくても、信じるよりほかない僕は、こうちゃんの手を強く握り返す。こうちゃんの手は、じんわりとあたたかい。

 雨が降り続くのなら傘をさせばいいのだし、夜が明けないのなら、好きなだけキャッチボールを続けたっていい。

「これから、なるんだよ。ずっといっしょにいた人に」

 こうちゃんが兄に戻っても、戻らなくても。

「いっしょにいようよ、ずっと」

 僕は、白い息を吐きながら、もう一度言う。


   *


 クリスマスが近づいている。そういえば、去年はそれどころではなかったこともあり、クリスマスどころか年末年始も、イベント的なことはなにもしなかった。こうちゃんは自分から言い出さないが、実はクリスマスを楽しみにしていたりするのだろうか。

「こうちゃん、クリスマスはなにかしたいこととか、行きたいところがある?」

 夜、布団を並べて敷いて、眠る前に聞いてみた。

「公園でキャッチボールしたい」

 こうちゃんは言った。

「えー、今日もしたじゃない。他にないの?」

 夜の散歩に加え、夜の公園でのキャッチボールもほとんど日課になりつつある。

「……おとうさんと、おかあさんと、じゅんくんに会いたい」

 少しの沈黙のあと、こうちゃんが口にした願いは、それだった。

「そっか」

 僕は、相槌を打つ以外になにも言えなかった。その願いは、僕には叶えてあげられない。

「おにいちゃん」

 こうちゃんが僕を呼ぶ。

「うん?」

「いっしょに寝てもいい?」

 こうちゃんが言った。さっきの会話で家族のことを思い出してしまい、寂しくなってしまったのかもしれない。

「うん、いいよ。おいで」

 毛布を持ち上げて、となりの布団にいるこうちゃんを招き入れる。こうちゃんの身体は成人男性のそれなので、一組の布団にふたりで入るとみちみちと狭い。眠れるかな、と一瞬心配したけれど、足先でくすぐり合って、ふたりでくすくすと笑っているうちに眠りに落ちた。


「ねえ、こうちゃん。クリスマスイブは遊園地へ行こうか」

 次の日の朝、布団をたたみながら、僕はこうちゃんにそう提案してみた。

「でも、お仕事は?」

 こうちゃんは生真面目にそんなことを言う。

「お仕事が終わってから行こう」

 クリスマスだからといって、さすがに仕事を休むわけにはいかないので、やはり夜になる。

「遊園地は、夜もやってるの?」

「クリスマスイブとクリスマスは、夜もやってるんだって」

「夜に行くの? やったー」

 こうちゃんはうれしそうだ。おとうさんやおかあさんには会わせてあげられないけれど、少しでも楽しいクリスマスを過ごしてほしい。

 僕が、父と兄に初めて会ったのは、母に連れて行かれた遊園地だったらしい。幼かった僕は、その時のことを覚えてはいないのだけど、四人で撮った写真が残っている。父は穏やかそうなおじさんで、兄はかわいらしい顔をした生真面目そうな少年だ。兄は僕と手をつないでくれている。兄の顔を見上げて笑っている僕は、とてもうれしそうだ。この遊園地には、その後何度か家族で行った。



 クリスマスイブの夜、コートとマフラーをきっちりと着込み、僕らは出かけた。思えば、こんなふうに電車に乗ってこうちゃんと出かけるのは初めてだ。いつも近所をうろうろと散歩するだけだったのだ。電車の中でも、駅から遊園地への道中も、こうちゃんがはぐれてしまわないか心配で、僕はずっとこうちゃんの手を握っていた。僕は今までずっと人目を気にしてきたけれど、大人の男同士が手をつないでいるからといって、案外どうということはないのかもしれない。

 遊園地は、クリスマスイブの夜なので当然といえば当然なのだが、混んでいた。

 ここまで変に緊張していたせいか、遊園地に到着して早々に尿意を催してしまう。

「僕、トイレに行くけど、どうする? こうちゃんもいっしょに行く?」

「ぼくはまだいい。ここで待ってる」

 こうちゃんはそう言って、園内のイルミネーションのお菓子の家を眺めている。

「わかった。ここから動いちゃだめだよ」

「うん」

 中身は子どもだが外見は大人の男性なので、まさか誘拐されたりはしないだろう、と僕はこうちゃんを置いてトイレに向かう。

 トイレから戻ると、こうちゃんが若い女性ふたりに声をかけられていた。

「おひとりですか? よかったら、わたしたちといっしょに回りませんか?」

 誘拐はされないかもしれないが、ナンパされる可能性があることは考えていなかった。こうちゃんは、怯えたように首を横に振っている。

「あー、すみません、すみません。彼は僕の連れなので」

 僕は急いでこうちゃんと女性たちの間に割って入る。

「じゃあ、あなたもいっしょにどうですか。二、二でぴったりですし」

 女性たちが、その言葉を言い終わるか終らないかのとき、こうちゃんが、不安そうに僕の手をそっと握ってきた。

「せっかくのお誘いなんですが、ふたりで回るつもりなので。すみません」

 僕は丁重に断りの言葉を口にする。

「あー、ですよね! ごめんなさい、あの本当に。お邪魔してしまって」

 彼女たちは僕とこうちゃんのつながれた手に視線を落としながら、

「楽しんでくださいね!」

 慌てたようにそう言って、ぺこぺこと頭を下げながら去って行った。絶対なにか勘違いされたな、と確信する。

「まあ、いいか」

 呟くと、こうちゃんが不思議そうに僕を見る。

「こうちゃん、なに乗る?」

「ドラゴンコースター!」

 ぱっと笑顔になり、こうちゃんは言う。

「それ、怖いやつじゃない?」

「ちがうよ。速いやつだよ」

 速くて怖いやつだ。正直、ジェットコースター系は苦手だ。しかし、こうちゃんをひとりで乗せるわけにはいかないので、僕も乗らなければいけない。覚悟を決めて言う。

「うん。よし、じゃあ行こうか」

 大きな遊園地の、有名なジェットコースターというわけではないものの、結果、僕はドラゴンコースターに酔ってしまった。気分が落ち着くまでベンチで休むことにする。

「おにいちゃん、大丈夫?」

「うん、ちょっと休めば平気」

 となりに座ったこうちゃんが、心配そうに僕の背中をさする。これでは、どっちが「おにいちゃん」なのかわからない。一瞬、そう思ってしまったが、いやいや、と頭の中で訂正する。本来は、こうちゃんが「お兄ちゃん」なのだ。

「次はなに乗る?」

「観覧車がいい」

 僕に気を遣ってくれたのか、速くも怖くもない乗り物を、こうちゃんは口にした。

「うん、いいよ。行こう」

 立ち上がって、こうちゃんに手を差し出すと、こうちゃんは僕の手をしっかりと握る。

 観覧車に乗るには少し並ばなくてはいけなかった。夜景が見えるので人気なのだ。

「おかあさんとじゅんくんに初めて会った時、みんなでこの観覧車に乗ったんだよ」

 こうちゃんが楽しそうに家族の思い出を話す。

「そうなんだ」

 手をつないで列に並んでいると、周囲から僕たちのことを話しているようないないような、そんなひそひそとした声が聞こえた。まあいいか、の精神で気にしないようにし、僕はこうちゃんの声にだけ集中する。

「ぼく、じゅんくんと手をつないであげたの。弟ができてうれしかった」

「うん、そっか」

 順番がきて、ゴンドラに乗り込む。向かい合って座ると、ふいに目から涙があふれ、頬をこぼれ落ちた。「え」と、思わず声が出る。

「おにいちゃん、どうしたの? まだ気持ち悪い?」

 こうちゃんが心配そうに、不安そうに言う。早く泣き止まなければ。大人に泣かれてしまったら、きっと子どもはどうしていいのかわからない。

「なんでもない。大丈夫だよ」

 僕は急いで涙を拭う。ゴンドラは、ゆっくりと上に向かって動いている。

「ほら見て、こうちゃん。街の灯りがきれいだよ」

 ごまかすように窓の外を示すと、こうちゃんは素直にそちらに目を向ける。ふたりで窓の外を眺めながら、僕は呟く。

「ねえ、お兄ちゃん」

 こうちゃんが、僕のほうを向いたのがわかった。

「僕も、お兄ちゃんができて、うれしかったんだよ」

 もちろん、返事があるわけじゃない。兄は今、ここにはいないのだから。

「もうすぐ、てっぺんだね」

 努めて明るくそう言って、こうちゃんの顔を見る。

「こうちゃん……?」

 こうちゃんの表情に少し違和感を覚えた。不思議そうにこちらを見るその顔は、こうちゃんなのだけど、でも、こうちゃんではないような気がしたのだ。

「純一?」

 こうちゃんの口から発せられた僕の名前。もしかして、目の前の彼はこうちゃんじゃなくて。

「お兄ちゃん?」

 そう呼ぶと、「うん」と、兄は戸惑ったように短い返事をする。

 雨は止み、夜は明ける。長かった冬が終わり、春がやってくる。もちろん気象の話ではなく、たとえ話としてだけど。

 僕は言う。

「おかえり、お兄ちゃん」



 なにが引き鉄になったのかわからない。わからないけれど、とりあえず兄は戻ってきた。

 兄は、自分が「こうちゃん」だった時の記憶がおぼろげながらあるらしく、遊園地からの帰りの電車では真っ赤な顔をして、「迷惑かけて、本当にごめん」を連発していた。

「もういいって」

 兄が戻ってきてうれしいし、ほっとしてもいた。でも、今度はこうちゃんがいなくなってしまって、勝手だけど少し寂しく思ってしまう。

「それより、明日から忙しいよ」

 まず、病院へ行かなくては。それから兄の会社へも行って復職の届けを出さないと。それから、父と母のお墓参りも。

「純一。純くん」

 兄が僕の名前を呼ぶ。こうちゃんと比べて、兄の声はやはり大人で、そしてどこか甘ったるく響く。

「なに、お兄ちゃん」

「また、キャッチボールをしよう」

 なにをのんきなことを言っているのだろう、この男は。

「それは、いろいろ全部が終わったあとだよ」

 僕の言葉に兄は笑う。そして、とても自然な動作で手をつないできた。

「もう、子どもじゃないんだから」

 少し皮肉をこめて言ってやると、

「子どもじゃなくても、僕は純くんと手をつなぎたいんだよ」

 開き直ったように兄が言うので、僕は兄の手をぎゅっと力をこめて握り返した。電車の中だったけれど、もう気にならなかった。

 家には、こうちゃんにと買ったクリスマスプレゼントを隠してある。こうちゃんに似合うと思って選んだ手袋だ。明日、兄の眠る枕もとに置いておいてやろうと、僕は企む。

 そして、僕はこうちゃんに、心の中でひっそりと「さよなら」を呟いた。



ありがとうございました。

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