9.初めての魔法
◇
瞬間移動。その言葉がようやく頭に浮かんだのは、土管の中から外灯の下を見つめた時のことだった。突然の事に雨は戸惑った様子で、周囲をきょろきょろ見回して、私たちの行方を捜していた。
魔法の事なんてまだ殆ど分からない。況しては魔女以外が使うものは。けれど、私たちを移動させたのが、霊の持つマテリアルの魔力であることは理解していた。残る力を振り絞っての事だっただろう。霊は今、土管の壁に寄りかかったまま、苦しそうに呻いていた。
どうしたらいい。
どうしたら。
「幽さん……逃げて……」
だが、逃げるわけにはいかない。見捨てる事なんて、出来なかった。
上着を脱ぎ、私は必死に霊の腹部に出来た傷を抑え込んだ。傷は深い。矢でも刺さったかのような傷だ。とにかく血を抑え込むと、何かできないか必死に頭を働かせた。
「このままじゃ本当に……私、霊さんを死なせてしまうくらいなら……」
「それは駄目」
そう言って、霊は血まみれの手で、私の手を掴んだ。
「あいつの言うことを信じないで……助ける方法なんて嘘……だから……全部忘れて、逃げなさい……」
そのまま、霊は気を失ってしまった。
「霊さん」
どうしたらいい。どうしたら助けられる。
魔女の使う魔法の中には、確か傷を癒すものもあったはず。
しかし、あれほど頭に詰め込んだはずなのに、手順が出てこなかった。覚えているのは薬の魔術。しかし、あれは誤れば毒にもなるという。ならば、どうしたらいい。どうしたら、命を救うことが出来るのだろう。
何かあったはず。何が他の方法が、あったはずだ。
焦りが強まる中、雨の声は聞こえてきた。
「幽、出ておいで」
すぐ近くだ。
土管の近くまでやって来ようとしている。
「霊さんを死なせたくないだろう?」
恐怖と焦燥感が沸き起こる。そして、遅れてやって来たのは、異様なまでの闘争心だった。〈赤い花〉がとくりと脈打ち、私はとっさに気を失っている霊の手から木刀〈ベール〉を奪い取った。そして、〈赤い花〉に導かれるように、私は土管の中から目を光らせ、敵の姿を確認した。
雨。霊を傷つけたのは奴だ。優しい異母兄の仮面をかぶった、あの男だ。恐怖と怒りがふつふつとこみ上げてくる。そして、彼の居場所をしっかりと把握すると、背を向けたタイミングで、私は土管を這い出した。
音もなく彼の背後に忍びより、猛獣にでもなってしまったかのような荒い息遣いで、彼に声をかけた。
「こっちだよ、兄さん」
睨みつけると、雨もまた目を血走らせて振り返った。
そして、私の手に〈ベール〉が握られていることを確認すると、面白がるように笑った。
「平和ボケした魔女のくせに、いい度胸だ。それでこそ、狩りの楽しみが増すというもの。いいぞ、もっと楽しませてくれ」
両手を広げて挑発してくる彼に、怒りがこみ上げてきた。
戦ったことなんて当然ない。喧嘩なんて口喧嘩くらいのものだ。殴り合いすらしたことのない私にとって、戦いなんてものはお話の中の出来事でしかなかった。それでも、そのお話の中の戦闘を必死に頭に浮かべながら、私は〈ベール〉と共に走り出した。
だが、さすがに甘すぎた。
雨が私の手を指さすと、途端に光線のようなものが放たれた。避ける間もなくそれは私の手元に当たり、呆気なく〈ベール〉が弾き飛ばされてしまった。
大して痛くはなかった。けれど、これは非常にまずい。とっさに立ち止まってしまった私に、雨は素早く迫ってきた。
逃げようとするその動作すら遅く、呆気なく腕を掴まれる。もがこうとしても、その力には到底敵わなかった。
「勇気だけは讃えよう。さすがは僕の妹だ」
その言葉と共に腕をひねりあげられて、悲鳴が漏れ出した。
終わり、なのだろうか。本当に、私はここで殺されるのだろうか。霊を助ける事も出来ないまま、助かるかどうかも定かでないまま、終わりを迎えてしまうのだろうか。
絶望がじわじわと生まれ、私の心を蝕んでいく。
雨はその手で私の胸部を握り締めた。心臓が怯えている。狙われていることが分かっているのだろうか。母のように、これから死ぬのだと思うと、世界から色が抜け落ち、全てが灰色になっていく。
「せめてもの情けだ。一瞬で終わらせてあげるよ」
そして、彼の手が一気に熱くなった。
だが、それだけだった。沈黙が生まれ、後は何も起こらない。伝わって来たのは熱だけで、死は賜れず、一瞬の終わりも訪れなかった。
「不発……? ──ああ、そうか。忌々しい!」
そう言い捨てると、彼は力任せに私の身体を突き飛ばした。
受け身を取れずそのまま地面に叩きつけられ、その衝撃に怯んでいると、雨は金槌を握り締めて再び近寄ってきた。
「魔女に生まれたお前にも、父の血と共に無効化の力が少しは引き継がれているわけだ。何が通用し、何が通用しないのか、ここで全て試すのも楽しそうだが……時間は貴重だ」
そう言って、彼は金槌を振り上げる。
「苦しいだろうが恨むなよ。恨むのなら、さっきの魔術を無効化した父の血を恨め」
殴られる。
そう思った瞬間、私の脳裏に言葉が浮かんだ。〈アスタロト〉で散々目にした魔術たち。その中でも、もっとも印象に残っていたその魔術。とっさに手を挙げ、彼を指さし、精一杯の願いを込めて、私は強く念じたのだ。
──蜘蛛の糸の魔術……《切断》!
万が一、成功すればどうなるか、勿論私は覚えていた。出来ればそんな光景は見たくない。残酷な光景に耐えられる自信なんてどこにもなかったし、一度でも信頼し、親近感を持った相手なのは違いない。
けれど、四の五の言っていられないことも事実だった。これが不発に終われば、私の命はない。死は非常に苦しいものになるだろう。
そんな状況の中での、最後の賭けだった。
結果、私の魔術は、成功した。
思えば不思議なものだった。私が知っているのは知識だけ。この魔法を成功させるための二つの基礎魔法すら成功させたこともなかった。
それでも、私の手からはピアノ線のような蜘蛛の糸は現れ、目にもとまらぬ速さでターゲットに襲い掛かった。
本当に、本当に一瞬の事だった。断末魔の叫びもない。ただ鈍い声と音が聞こえ、速やかに事は済まされる。紛れもなく私の放った魔術で、たった今、命ある者が一人この世を去っていった。
その光景を出来れば私は直視したくなかった。それでも、視線を動かす事さえ出来なくて、私はただ目の前に広がる血の海を眺めていた。正確には、血の海の中に転がっている手を。その指にひっかかっているのは、霊が探していた遺品のメダイだった。
私は恐る恐るその手からメダイを引き抜き、握り締めた。
そして、血まみれになった遺品をじっと見つめた。
メダイに触れることはもう怖くはなかった。それどころじゃなかった。
「ああ……ああぁ……」
漏れ出すのは言葉にならない情けない声だった。その後は、泣きながら這いつくばり、私は必死にその場を離れ、霊が隠れている土管を目指した。
危険は去った。去ったのだ。これで良かった。良かったはず。間違っていないはず。こうしないと殺されていたのは自分の方だった。死なない為には、こうするしかなかったのだ。それでも、私が殺してしまった。同じ父を持つ、兄を見るも無残な姿にしてしまった。
そうなると自分の持つ魔女の力は恐ろしくなって、耐え切れなかった。
「霊さん……霊さん……」
どうにか霊のもとまでたどり着くも、そこで待っているのはさらなる絶望だった。
「お願い、死なないで……私を置いていかないで……」
霊の身体はすでに冷たかった。
辛うじて息はしているけれど、さほど持たないだろうことは私にもよく分かった。
◆
どうにかしなくては。
血の止まらぬ霊を前に、私は必死に頭を働かせた。このまま人を呼びに行くべきか。近所でもどこでもいい。とにかく誰か人を呼んで、手伝ってもらった方がいいだろう。
しかし、すぐに足が動かなかった。
代わりに動いていたのは、頭だった。私はどうにか思い出そうとしていた。霊を助ける方法が何かあるはずだと。危険な魔術を成功させた今の私ならば、もしかしたら彼女を助ける力があるかもしれない。
そして、私の頭の中に、やっとその魔術の名が浮かんだ。
主従の魔術。
一度だけ使える命を救う魔法。
主人として魔物を服従させるならば、その魔物に唱えさせなければならない。だが、自分が従者となるのであれば、唱えるのは自分だけでいい。
マテリアルは、魔物だ。それはつまり、魔女が契約することの出来る相手。
すっかり冷たくなっている霊の手を握り締め、私は必死にその言葉を思い出していた。藁にも縋る思いで、奇跡を願って、私は覚えている通りに諳んじた。
「〈赤い花〉の魔女、幽は誓います。心臓をかけて誓います。神より賜れた寿命を返上し……マテリアル、霊に生涯尽くすことを誓います。この誓いは永久に取り消しません。死が二人を別つ後も幽は霊に……尽くします……」
少しだけ沈黙が訪れた。
風すらも止まる束の間の静寂の後、異変はすぐに起きた。〈赤い花〉が熱を持ったかと思うと、私の手を介して霊の身体も次第に温かくなっていくのが伝わってきた。
あんなに悪かった顔色が戻っていく。苦しそうだった表情はしばらくそのままだが、呼吸が安定してくのが分かった。
恐る恐る私は手を伸ばし、霊の腹部の傷を探った。傷は、何処にもない。血まみれだったし、服も破れているけれど、その下にあったはずの傷がどこにもなかった。
成功した。
成功したのだ。
魔法は本当だった。本当に、私は魔女だった。
それを実感した瞬間、変化は私にも訪れた。〈赤い花〉が何度も脈打ち、若干の苦しみがもたらされた直後、目の前にいる霊への思いが溢れてきた。
明らかにさっきまでとは違う。比べ物にならないほど、今の私は霊のことを愛おしく感じ始めていた。
これが、結婚よりも根深く融通が利かない契約。取り消すことなど出来ないこの契約の元、私はたった今、この人の従者になった。
教本では、魔物を主人にすることを推奨していなかった。それはつまり、自由を失うことになるからだろう。事実、今の私は自分がこの世に生まれてきた意味すら霊のためにあるかのように錯覚していた。
きっとこれからはもう、本当に、この人なしでは生きていけなくなるのだろう。
でも、それでよかった。
何故なら、魔術は成功したからだ。〈アスタロト〉が教えてくれたことは本当だった。魔術が成功した今、私たちを引き裂こうとしていた死神は立ち去っていった。
やがて、霊は意識を取り戻した。
瞼を開き、前を見つめて茫然としている。虚ろではあるが、先ほどまでの苦しそうな表情はもうない。私はホッとして、彼女に声をかけた。
「霊さん」
手を握ると、霊はその手を強く握り返してきた。
じっと私の顔を見つめ、何かに気づいたように呟いた。
「……幽」
先ほどまでの彼女とは違う。呼び捨てにされて、すぐに私は理解した。
直後、霊は私を抱き寄せると、そっと囁きかけてきた。
「おかしいわ。身体が軽い。痛みが全くない。でも、おかしい。何かおかしいわ。幽さん……いいえ、幽……幽? どうしてかしら。あなたが他人とは思えない。ねえ、私に一体何をしたの? 何が起こっているの?」
「……主従の魔術です。成功したんです」
恐る恐る答えると、霊は目を丸くした。
そして、しばらくしてから色気のある溜息を吐いた。
「ああ……そういうこと。だからだわ。今のあなたを見ていると、愛おしさと独占欲で混乱してしまう。そうか。契約してしまったから」
そう言って彼女は私の両肩を握り締め、目を合わせてきた。
「まったく魔女って恐ろしい生き物だわ。気を失っている間に、何の許可もなく私を主人にするなんて」
怒っている、のだろうか。
私は不安に思いながら霊に縋りついた。
「ごめんなさい。これしか助ける方法が分からなかったんです」
「言い訳はいらない。どうせ取り消せないのだもの。謝ったって許してはあげないわ。今の私が欲しいのは言葉による謝罪じゃない」
「じゃあ、どうしたら? どうしたら許してくれますか?」
問いかけると、霊は私の頬に手を添えて、怪しい笑みを浮かべた。
「血が欲しいの。浴びるほどたっぷりと」
短いその言葉に、私は頷いた。
「分かりました」
同意した直後、霊は狩りをする猛獣のように私の首筋に噛みついてきた。そこにはもうこれまでの遠慮なんてどこにもなかった。紛れもなく捕食者の振る舞いに、私はすっかり怯えてしまった。
けれど、〈赤い花〉は嬉しそうだった。乱暴に扱われれば扱われるほど、どうやら魔女の性は満たされるらしい。少なくとも私の〈赤い花〉にとっては、この主従の魔術の成功は喜ばしい事だったようだ。
血を吸われてしばらく。痛みと眩暈、そして快楽に耐えていると、ようやく霊も満足したのか牙を離し、深いため息を吐いた。
「彼はどうなった?」
問いかけられて、私はずっと握っていたものを霊に差し出した。血まみれになったメダイを前に、霊はやや眉を顰めた。
「あなたがやったの?」
その問いに、私は力なく頷いた。
「蜘蛛の糸の魔術です。とっさに使ったら……成功しました。ここから外に出れば、彼がどうなっているかすぐに分かります。私が、殺してしまったんです」
これからの事を思えば不安になる。
奪ってしまった命はもう戻らないのだ。罰を受けることになるにせよ、ならないにせよ、私の心に圧し掛かる重みはちょっとやそっとじゃ消えないだろう。
そんな私の頬を撫で、霊は少しだけ優しい声をかけてくる。
「怖がらなくていいわ。やらなければやられていた。バラバラになったあなたの身体は闇市で売りさばかれ、私は助かったとしても彼の奴隷になっていたでしょう。大丈夫。鬼神の方々は分かってくれる。だから、もう泣かないで」
抱き寄せられるとむしろもっと涙は出てしまった。
怖かった。これまでに経験したことのない、あまりにも怖い出来事だった。けれど、もう安心してもいい。安心してもいいのだ。
霊の胸の中で赤子の泣きじゃくりながら、私は安心感に浸っていた。
そんな私を抱きしめたまま、霊は何も言わず、しばらく黙って待っていてくれた。