8.手紙の主
◇
夜の公園は不気味だ。それも、近隣住民が全く通りかからないとなれば尚更の事。外灯の頼りない光に縋りながら、私は一人きりで立っていた。
もちろん、本当は一人なんかではない。私のすぐ傍の複数の影。そのいずれかに霊は姿を隠している。これもまたマテリアルの力だという。ただ、姿が消えてしまうのは、私にとって非常に不安なことに違いなかった。
もうすぐ、約束の時間だ。公園の時計の針が動くたびに、私はそわそわしてしまった。
やがて、時計の針がまた動き、手紙にあった時刻が訪れる。周囲には誰もいない。近くの道路にも人影は見当たらない。やっぱりあれは悪質な悪戯だったのだろうか。不安に思っていると、不意に死角から声をかけられた。
「幽?」
私は驚いて振り返った。
相手は霊ではない。全く気付かないうちに、彼はそこにいた。
「やっぱり幽だ。どうしてここに?」
そこにいたのは、私の異母兄──雨だった。
「雨さんこそ……どうして?」
驚きつつ問い掛けると、雨は首をかしげながら周囲を見渡した。そして、何かを考え込んだ末に、ポケットから紙切れを取り出したのだ。
「これだよ。呼び出されたんだ」
それは、私のアパートに届いたあの手紙を同じだった。
「手紙……雨さんも?」
「──ということは、幽も同じなんだね」
恐る恐る頷くと、雨は険しい表情になって周囲を見渡した。
「父の話、か。何が目的だ?」
そして、雨は私へと視線を戻すと、手を差し伸べてきた。
「とにかく、僕の傍においで。ここはとても危険だ。〈赤い花〉にとっては特に。暗闇から攫われたら僕も助けられない。だから──」
手招きされるままに、私は一歩近づこうとした。だが、その直後、私の歩みは強制的に止められた。
「霊さん……?」
突然、私のすぐ目の前に、霊が姿を現したのだ。あれだけ隠れていたのに、躊躇いもなく雨の前に姿をさらし、私がそれ以上進まないように立ちはだかった。
その突然の出現に驚いたのは雨も同じだった。どうやら、彼女が隠れていることに気づいていなかったらしい。
「霊さん、一緒だったんですね。全く気付きませんでした」
そう言って、愛想笑いを浮かべる雨に対し、霊の眼差しは驚くほど冷たかった。
「それが取り柄ですので。それよりも雨さん、お手紙で呼び出されたのですって?」
「ええ、まあ」
「それならそうと八雲にでも教えて下さればよかったのに」
「あいつには弱みを見せたくなかったんですよ。それに、僕が捕まえてからでも遅くはない、とそういうわけです」
「そうですか。それは心強いですね。幽さん……今日のところは帰りましょうか」
霊は突然そう言って、私の手をぎゅっと握った。
「え、でも……」
驚いて問い返すと、雨もまた引き留めてきた。
「おやおや、せっかくですし、犯人を一緒に確認してからでも遅くないでしょう。それとも、何か気になる点でも?」
「そうね。気になると言えば、気になるわね。雨さん、その手に隠しているものは何?」
霊の鋭い問いかけに、私はようやく気付いた。雨の片手。背中の後ろに回すその手には、確かに何かが握られていた。それが何なのか確認しようとすると、雨は突然笑い出し、自らそれを見せつけてきた。
金槌だ。
「これの事ですか。やだなぁ、護身用ですよ。幽を狙う不届き者がいたら、そいつを殴るつもりでいました。マテリアルの力が通用しなかったときのためにね。霊さんだって、そのために木刀なんて持っているのでしょう?」
「それにしては、怪しい動きでしたね。私がいなかったら、幽さんを殴っていたようにも見えましたけれど」
「……誤解ですよ。そんな事あるはずがない」
雨の言葉に、霊は少し目を細め、すぐに頷いた。
「そうですか。それなら失礼しました」
そして、彼女は振り返り、私に声を掛けようとした。
「幽さん──」
その時だった。
「霊さん、後ろ!」
本当に一瞬の事だった。霊が振り返った直後、雨の表情が一瞬にして変わり、あろうことか手に持っていた金槌を振り上げたのだ。狙う先にいるのは霊。私がとっさに出来たことは、叫ぶことだけだった。
間に合いそうにない。酷い寒気が走る中、私はただ悲鳴を上げた。だが、金槌は霊に当たらなかった。反射的に対応できたのだろうか、それとも端から彼の行動に気づいていたのだろうか。霊は一瞬にして姿を消すと、私の背後に回って強い力で身体を抱き寄せてきた。その力に引っ張られながらも、私は動揺したまま雨の表情を見つめ続けていた。
彼は、金槌を握り締めたまま、態勢を立て直すと私たちへと視線を向けてきた。
「やれやれ、外しちゃいましたか」
そこにはもう、かつての穏やかな印象は皆無だった。同じ人とは思えない。私の事を励ましてくれたあの人だとはとても思えなかった。
「でも、お陰ではっきり分かりました。霊さん、あなたには気配を殺す才能があるようだ。それもマテリアル相手には完璧なまでの能力が」
にやりと笑って、彼は語った。
「ずっと疑問だったんです。この町に古くから暮らし、血縁でもないはずの美しいマテリアル女のあなたが何故、これまでずっと父に手を出されずに済んでいたのだろうって。父と戦って身を守れるほどの強さがあるとも思えない。だが、ようやく分かりました。なるほど、気配を殺し、身を隠し続けていたのならば納得がいく」
一歩近づこうとする雨を、霊は警戒している。
その状況を前に、私は混乱の中にいた。信じたくなかったのだ。この状況を、この答えを。相手は天だと思っていた。皆から恨まれている私の父だと。本当に父であれば、辛くなかったわけではない。それでも、覚悟は出来ていた。
けれど、この状況は全く想定していなかった。
「やっぱり、あなただったんですね」
霊はそう言いながら、私の身体をさらに引き寄せた。
「前に幽さんが襲われた際、私の力が通用しなかった理由。あれほどまでに強い抵抗力を持つのは天に違いない。そう思っていました。けれど、その力は彼だけのものではない。彼の血を引く子供達もまた、大なり小なりその力を受け継いでいるはず。あれも雨さんだったんですね」
「ええ、その通りですよ」
雨は言った。はっきりと。
「幽を襲ったのは僕だ。それは認めましょう」
──そんな事って。
ショックだった。
母を失い、孤独だった私にとって、雨にかけられた温かい励ましの言葉がどれだけ嬉しかったか。
様々な衝撃に心を揺さぶられ、私の頭の中が真っ白になる。
「どうして、こんな事を……」
ようやく口から出たその呟きに、雨は嘲笑う。
「いいよ、答えてあげよう。復讐だよ」
そう言って、彼は一歩踏み出した。
◆
「復讐?」
身に覚えのないその言葉に怯えていると、雨は目を赤く光らせた。
「ああ、幽。お前は知りもしないだろう。父母に望まれ、守られながら誕生したお前は」
私を指差し、彼は語る。
「僕の母は、美しいマテリアルだった。もう長い事、この町のマテリアル女は全て父のモノで、その例にもれず、年頃になった母のもとにも父の迎えがあり、その迎えを拒絶できぬまま僕が生まれた。ところが、僕が成長期を終える頃、かの〈赤い花〉は突如現れた。吸血鬼狩りのその忌まわしき魔女は、この町のマテリアルを次々に殺していったんだ。僕の母も、殺された。幽、お前の母親に、僕の母は殺されたんだ……」
憎しみのこもった声が、私に向けられている。
雨の母が、私の母に?
混乱と動揺でおかしくなりそうだった。途端に立ち眩みに襲われ、霊が静かに身体を支えてくれた。
「本当なの……?」
呟き震えてしまう私を支え、霊は静かに呟き返した。
「本当よ」
そしてすぐに霊は力強く私の肩を抱き、雨に向かって鋭い声で言った。
「けれど、それにはちゃんと事情がある。憐は無差別に吸血鬼を殺したわけじゃないわ。雨さん、あなたのお母様は身勝手な人だった。秩序を守ろうとせず、天と同じようにマテリアルらしく生きることを選択してしまったの。天と一緒に人間たちに手を出せば、どうなるかは分かっていたはず。粛清は免れなかった。それは、憐のせいじゃない。魔女の性のせいでもなければ、ましてや娘である幽さんのせいじゃない」
「分かっているさ、そんな事は」
不気味なほど高笑いしながら雨は言った。
「親の罪は親の罪。子のせいではない。そう言って、あなた方は僕を慰めてくれた。それには感謝しています。ただ、だからと言って納得できるかどうかは別の問題だ。母を半ば強引にものにしておきながら、その母を殺した〈赤い花〉を今度は気に入るなんて。仇をとるどころか子供まで作るなんて……!」
痛いほどの雨の叫びは、聞いていて苦しかった。
そんなの、私のせいじゃない。そう言いたかったのに、恐怖で言葉が出てこなかった。ただ怖くて、ただ悲しかった。
「それだって、幽さんは何も悪くない」
霊は淡々とそう言った。
「そんなことも分からないほど混乱してしまったのなら、残念ですが、あなたの事は危険人物として鬼神たちに報告する他ないようです」
「報告? したければすればいいさ。──だが、その前に」
と言って、雨は懐から何かを取り出した。武器かと思って身構える霊の様子に目を細め、差し出してきたのは小さな物体だった。
よくよく見るとそれは金属性のもので、さらに目を凝らしてみて、私はハッとした。
水色の、メダイだ。霊の捜していたものと同じものだった。
「それは……」
息を飲む霊に向かって雨は笑いかけた。
「あなたが探し求めているもの。とある少女の遺品ですよ。あなたになら分かるはずだ。この遺品にまとわりつく、亡き少女の気配が」
「何故、あなたが。……まさか」
狼狽える霊に、雨は言った。
「僕が殺したかどうか、それは答える義理もありませんね。ただ、遺品を持っている理由だけは述べましょう。これと同じおメダイを母が持っていたんです。母のものは何処に行ったのかも分からなくなってしまったけれど。これを見ていると母を思い出すんです。だから僕が持っていた。でも、霊さん。あなたが欲しいのでしたら、あげてもいいですよ。あなたがお持ちの、その〈赤い花〉と交換してくださるのであれば」
霊は黙り込んでしまった。
どうなってしまうのだろう。私はただただ雨の姿を見つめていた。外灯の明かりを受けて輝くメダイの姿が目に焼き付く。霊が求めているのはあれだ。本来の仕事はあれを回収し、保管することのはず。
「……霊さん」
声をかけると、霊は静かに口を開いた。
「出来ません」
きっぱり断った。
その答えに、雨は想定通りと言わんばかりの笑みを浮かべた。
「あなたならそう言うだろうと思っていました。でも、霊さん。よく考えてください。悪い話じゃない。あなたの仕事は遺品を取り返す事。それだけのはず。〈赤い花〉の保護なんて、あなたの仕事ではないでしょう」
「確かに当初の仕事はそれだけでした。でも、今は違います。幽さんを保護するのは鬼神のお偉方が決めた事。私はそれに従わねばいけない立場。あなたに渡すわけにはいきません」
「そうですか。しかし、あなたもマテリアルだ。もっと賢く生きられるはず。この周囲に鬼神の見張りなんてものもどうやらいないようですし、どうでしょう。二人だけの秘密ということで取引しませんか? あなたも手っ取り早く片をつけたいでしょうに」
雨の煽るような眼差しを受け、私は気が遠くなってしまった。
ここで霊が取引に応じるならば、私の未来はないだろう。しかし、それでも霊を恨むことが出来なかった。誰かを恨んだり、悲しんだりする余裕がない。恐怖と緊張に苛まれながら、今の私は事の成り行きを見ている事しか出来なかった。
やがて、霊は深い溜息と共に答えた。
「確かに、早く仕事が片付くならばこの上ないでしょうね。でも、やっぱり、そうはいかないの。幽さんは渡せない。だって、この子はもう私だけの花になったのだから」
霊の答えに、私は身体の震えを感じた。
良かった。真っ先にホッとした。だが、安心するにはまだ早い。危険は去っていないし、ここからどう逃げるかが重要だった。
せめて霊の足を引っ張らないようにするためにも、気をしっかりと保っておかないと。
「なるほど、そういうことですか」
吐き捨てるように雨はそう言うと、片手をすっとあげた。
「澄ましていても、やはり僕と同じマテリアル。欲深く嫉妬深いのは変わらない。ならば、マテリアル同士のルールに従いましょうか。強いものが全てを得る」
何かしてくる。
そう思った直後、霊もまた片手をあげた。
「メタモルフォセス!」
影が伸び、前に目にしたあの怪獣が姿を現した。外灯のお陰でその姿が前よりもはっきりと見えた。ウサギがそのまま大きくなり、オオカミやライオンのような力を授かったような猛獣だった。しかし、地面を蹴って飛び上がり、雨を目掛けて攻撃を仕掛けたその時、メタモルフォセスの姿は急に変化し、ハヤブサのようになった。
その攻撃に気をとられていると、霊が私の手を引っ張った。
「逃げましょう」
その言葉に我に返って振り返り、すぐさま従おうとした。けれど、背後からハヤブサの悲鳴が聞こえ、一瞬だけ気をとられた。
鈍い衝撃があったのは、その直後の事だった。
何が起こったのかすぐには分からなかった。ただ強い振動が手に伝わり、怯んでしまった。直後、私のすぐ間近で霊が苦しそうに呻き、もたれかかってきた。慌ててその身体を支えてみれば、生暖かい液体が私の手にどっぷりとついた。
血だ。散々見慣れた私の血ではない。霊のものだ。霊が怪我をしている。
「庇いましたか。馬鹿な人だ」
そう言ったのは、ハヤブサ姿のメタモルフォセスを捕まえていた雨だった。メタモルフォセスはそのまま地面に叩きつけられ、影に吸い込まれるように消えてしまった。
庇った。その言葉に私はハッとした。本当は私が受けるはずの傷だった。それに気づいた霊が、とっさに盾になってしまったのだ。
「どうしよう……どうしよう、血が止まらない!」
「……幽さん、落ち着いて」
か細い声で霊は言う。まだ意識はある。しかし、それも時間の問題だった。
「助ける方法はあるよ」
雨が言った。
「僕だって霊さんを殺したくはない。だが、助けるかどうかは君の選択次第だね、幽。君が大人しく犠牲になってくれるならば、霊さんの命は助けてやろう。さあ、どうする?」
このまま迷っていても、霊は死んでしまう。
そもそも、こうなったのは私のせいだ。私がこの目で確かめたいなんて願ったせいだ。私のせいで、霊が死んでしまう。
そう思うと、罪悪感でいっぱいになった。
「私……」
命を惜しんで一生後悔するのならば、いっそここで。
だが、その選択をしかけた時になって、霊が力を振り絞り、私の両手を掴んだ。
「駄目……!」
そう言って、目を真っ赤に光らせたかと思うと、突如暗闇に視界を奪われ、周囲が全く見えなくなった。
何がどうなったのか。すぐには理解できなかった。
何が起こっているのか、誰が起こしたのか。
ただ、何も見えない中においても私はずっと霊の身体を支え、流れ続ける血を止めようと必死になっていた。
そして、再び視界が戻ったかと思えば、そこはもう外灯の下ではなかった。公園の隅に存在する土管のような遊具の中だった。




