7.二人だけの秘密
◇
目が覚めた瞬間、私は跳ね起きてしまった。悪夢を見ていた気がする。しかし、それは本当に夢だっただろうか。混乱が一気に頭を襲い、それに耐えながら冷静さを必死に取り戻していくうちに、やっと私は自分がいま寝ている場所が、与えられた客室などではなく、自宅スペース一階の畳間だということを理解した。
布団を敷いて、ここまで私を運んできたのは一人しかいない。そして、私の全身に出来てしまったらしい傷を、丁寧に手当てしてくれた人物もまたその人だけだろう。その人物は、私の視界の中にいた。畳間の隣に位置する居間の食卓で、彼女は私に背を向けて椅子に座っていた。
「もう少し寝ていた方がいいわ」
こちらをふり返ることもなく、彼女──霊はそう言った。
「霊さん……私……」
言葉が続かなかった。頭を抱え、何と言うべきか探っていると、霊の方からさらに話しかけてきた。
「質問なら、いくらでも受け付けます」
彼女の言葉に私は少し心を落ち着けて、溜息を吐いた。
そして、改めて霊に言った。
「あなた……だったんですね」
絞り出すようなその言葉に、霊はゆっくりと振り返った。その僅かな時間、私は緊張を覚えた。霊の目が昨晩見たような赤い目だったらどうしようかと。想像しただけで〈赤い花〉が疼き、辛くなってしまう。
けれど、心配いらなかった。霊の目の色は、普段よく見る私の目の色と同じ。乙女椿の国民のほぼ全てが持つ、濃褐色のいつもの目だった。
霊は私から少し目を逸らすと、か細い声で言った。
「ごめんなさい」
そして額を抱えながら、続けて言った。
「もう少し早く打ち明けて、きちんと謝罪するべきでした。けれど、あなたの魔女の性に甘えてしまった。ごめんなさい」
謝ってくる霊の姿は、とても吸血鬼には見えなかった。けれど、昨晩彼女の口には確かに鋭い牙があり、目は赤く光っていた。気が遠くなるほどの血を吸われた感覚は、単なる夢ではなかっただろう。
そして、紛れもなくあれは、お互いにとって良くない出来事だったのだ。
「後で笠に連絡を入れます。あなたを匿うための新しい場所を用意してもらいましょう。アパートの荷物については、後々、鬼神の方々と話し合って決めてください」
「それって……」
その言葉に私は慌てて身を乗り出した。
「ここから私を追い出すってことですか?」
思わず飛び出た悲鳴に近い言葉に、霊はそのまま俯いた。
「これ以上、ここにはいない方がいい。ここはあなたにとっても安全な場所ではなくなってしまったの。いいえ、最初から安全な場所なんかではなかった。あなたは私と一緒に居てはいけなかったんです」
「でも!」
「……幽さん、ご自分の身体をよく見てください」
霊にそう言われ、私は恐る恐るその言葉に従った。わざわざ目で確認せずとも、全身がひりひりすることは気づいていた。首筋や胸元だけではなく、腕も足も、さらに際どい部分も、噛み傷だらけだった。
霊は静かに言った。
「少し加減を間違えば、殺してしまったかもしれない。怖いんです。まさか自分がここまでしてしまうなんて、今まで思いもしなかった」
そして彼女は憂鬱そうに頭を抱え、呟き続ける。
「そう……あの日……あの夜、頬を怪我したあなたの傷を、家に帰ってから洗った時の事です。たまたま手についたあなたの血を私は舐めてしまいました。ほんのわずかな血でしたが、その香りに欲望が抑えられなかったんです。そして、その味を知ってしまうと、さらに抑えられなくなってしまった。その後もずっと我慢に我慢を重ね、けれど、夜中になって耐え切れなくなって、気づかれないことを必死に願いながら、ぐっすり眠っているあなたの元へ行って──」
そこまで語ると霊は静かに首を振った。
「分かりましたか? 私はあなたが思っているような善人なんかではなかった。出会った頃、あなたは吸血鬼を怖がっていたでしょう。その通りです。吸血鬼は所詮、吸血鬼。人間ぶっていても、いざとなれば本能に抗えない。あなたの血の味を知ってからは、嫌というほど思い知りました。私は人間ではない。魔物なんだって」
一方的に語る霊を前にして、私は何も言えないまま震えていた。緊張と衝撃と、そして多大な不安と動揺が一気に押し寄せてきて、自分の意思を語る力が激しく揺らいでしまっていた。
そうこうしているうちに、霊はさらに一方的に私を突き放すように言ったのだ。
「でも、あなたはここに居てはいけない。私の傍にいてはいけないんです」
それは、私にとって絶望的な宣言でもあった。
やっと居場所を手に入れたと思ったのに。安心できる我が家のような場所が出来たと思えたのに。このままでは追い出されてしまう。
「霊さん!」
そんな恐怖にかられて、私は必死に声をあげた。
「わ、私はどうしたら。だって、魔女の修行は始めたばかりなんですよ。魔女の性を満たす方法も、今はまだ……血を吸われることしか分かっていません。そ、それに、〈アスタロト〉がいないと私!」
「〈アスタロト〉はあなたに渡します。お詫びの一つにさせてください。魔女の性のことなら、鬼神の方々がもっとしっかりと判別できるかもしれません」
落ち着いた霊の返事に、私は一生懸命、首を横に振った。
このままでは本当に追い出されてしまう。
「違う! 違うんです! 私はあなたに謝って欲しいんじゃないんです。お願いです……ここから追い出さないでください!」
私に残された道は、土下座しかなかった。
額を畳にくっつけたままじっと霊の返事を待っていると、ややあって椅子を引く音が聞こえてきた。こちらに近寄って来るのが音で分かった。
「顔をあげて、幽さん」
頭上から声をかけられるも、私はすぐには従わなかった。
「追い出さないって約束してくれたらそうします」
我ながらとんでもない事を言っていることは分かっていた。けれど、ここは粘らずにはいられなかった。
だって、昨晩のあれは間違いなく、私にとっても貴重な食事なのだから。
「あなた……私が怖くないの?」
霊に囁きかけられて、私は額を畳にくっつけたまま返事をした。
「これまでずっと、もっと怖いものを相手にしているのだと想像していました。むしろ、正体が霊さんで安心したくらいです」
「安心していいものではないわ。私はあなたのお父さまと同じ純血のマテリアルなの。マテリアルは欲深い。獲物に対する執着心もある。分かる、幽さん? 表面ではこうして丁寧に接していても、あなたの事を美味しそうな獲物だとしか思えない瞬間がよくあるの。今だってそう。傷だらけのあなたを見ていると、何もかも忘れて貪りつくしたくなる。大金を出して、法を犯してまで〈赤い花〉を自分だけのモノにしようとする良心の壊れてしまった人々の気持ちが理解できてしまうくらいなの。ねえ、私の言っている意味、分かる?」
そっと首筋の傷に触れられて、私は息を飲んでしまった。
確かに、このままここにいたら、本当に殺されてしまう日が来るかもしれない。命の恩人でもあるはずの彼女を犯罪者にしてしまうかもしれないと思えば、私の方こそ身を引くべきなのだろう。
でも、ああ、どうしたらいいのだろう。
今や私の心を支配しているのは、理性などではなかった。〈赤い花〉がずっと訴えてくる。私にはこの人が必要なのだと。殺されたとしてもそれは本望。最後の瞬間にひと際きれいな花が咲くだろう。その最高の瞬間を迎えるならば、死など怖くないのだと、心臓が語りかけてくるのだ。
だから、私の気持ちは全く変わらなかった。
「分かります。でも、分かった上で言っているんです」
少しだけ顔をあげ、私は霊の目を見つめた。薄っすらとまた赤く光り始めているその目を見つめ、切実な思いを込めて訴えた。
「私をここに置いてください。ここで、あなたの為だけに咲く花になりたいんです」
霊はしばらく無言で私を見つめてきた。
薄っすらと赤かった目の色は、段々と濃くなっていく。やがて、その目が完全に昨晩みたものと同じものへ変わった時、霊はようやく口を開いた。
「後悔してもしりませんよ」
脅すようなその口調に、私は怯みもしなかった。
「後悔しません。絶対に」
すると、霊は口元にほんのわずかな笑みを浮かべた。
直後、言葉もなく霊は私の身体を抱き起すと、荒々しい吐息と共に首筋に貼ってあった絆創膏を剥がしてしまった。傷を舐められ、痺れるような感触に胸の疼きを感じていると、霊はため息交じりに呟いた。
「急にこんな事をしても、あなたは逃げようともしないのね」
その言葉に、私もまた呟くように返答した。
「だってそれを、私の心臓も望んでいますから」
すると、霊は少しだけ嬉しそうに笑って、囁きかけてきた。
「分かったわ、幽さん。あなたがそれでいいのなら、これからもずっと補い合いましょう。今日から私だけの為に咲いてくれると約束して」
望みに望んだその言葉に、私は縋りつくように肯いた。
◆
結局、私たちの間で起こったことは、鬼神たちにわざわざ伝えることもなく、そのまま私たちだけの秘密となった。
今日の夜は予定通り、手紙で呼び出された場所に向かう。それまでの間、私はなるべく魔女としての知識を頭の中にだけ詰め込もうと必死になっていた。
本日は妙に頭は冴えている。もしかしたらいつもよりも“食事”の量が多かったからかもしれない。ともあれ、〈アスタロト〉が教えてくれる魔術を眺めていると、試したくなってくるところだった。
しかし、今日という日はいざということがあるかもしれない。もしもの為に、この魔力は残した方がいいかもしれない。そう感じた。
そして、学生時代の試験前の復習の如く、書かれた知識を頭に入れ続けているうちに、刻一刻と時は迫ってきた。やがて、店じまいが終わったのか霊が戻ってきて、居間に座っている私に声をかけてきた。
「そろそろ時間です。ここを出る前にこれだけは言っておきますね」
霊はやや険しい表情で私を見つめてきた。
「あなたは手を出さないように。相手は私と同じ吸血鬼マテリアル。仮にあれがあなたのお父さまだとしても、〈赤い花〉の香りはマテリアルを狂わせます。挑発されたと感じたならば、きっと狩猟本能が呼び覚まされることでしょう。赤の他人ならば尚更のこと。相手を確認できなかったとしても、あなたが怪我を負わされた時点ですぐにその場を離れますのでそのつもりで」
「はい……分かりました」
緊張しながら私は頷いた。
これから向かう場所は、これまでの人生の中で経験したこともないような物騒な現場だ。この先、正式な助手になるならば、こうした機会も多く待っているのかもしれない。だとしても、魔女としての欲望しか目覚めていない私には早すぎる現場だし、私の命そのものが霊の判断にかかっていると言ってもいい。
それでも、この目で確かめたいという気持ちが私に勇気を与えてくれた。そして、霊もまた、そんな私の気持ちを尊重してくれるように微笑みかけてきた。
「安心して。あなたの血のお陰で私も最近調子がいいんです。今なら負ける気がしない。あなたを守り切ってみせます」
心強いその言葉に、私の顔にもまた自ずと笑みが浮かんだ。
そして、安心感のためか、少しだけ余裕も生まれた。そっと霊の傍へと近寄って、私は小声で囁いた。
「血は足りていますか?」
すると、薄っすらとだが霊の目の色が赤味を増した。
「少し足りない、と言ったら?」
その答えに〈赤い花〉がとくりと音を立てた。くすぐられたかのような笑みがこぼれそうになり、誤魔化しつつ私はさらに答えた。
「行く前に、一口どうぞ」
すると、霊は無言のまま、私の背に手を回してきた。
「……ありがとう」
囁き声が聞こえた直後、〈赤い花〉が期待してやまないあの痛みがもたらされた。ここへ来てから一週間も経たないうちに、私はすっかり魔女らしくなったのかもしれない。魔女の性が満たされているかどうか、自分でもよく分かるようになってしまった。
わずかな沈黙の後、霊は牙を離した。呼吸を整えると、机の上にあった救急箱の蓋を開け、うっとりとした様子でため息を吐いた。
「傷の手当てが終わったら、すぐに行きましょう」
そう言って、霊は消毒液と絆創膏を取り出した。傷に沁みるその手当てにじっと耐えながら、私はふと頭に疑問が浮かび、霊に訊ねた。
「一つ聞いていいですか?」
「どうぞ」
「前に言っていましたよね。霊さんの力が相手に通用しなかったって。それで、私の父かもしれないって。それってどういう意味なんですか? 今回は大丈夫なんですか?」
「ああ、その事」
霊は小さく笑うと、ふと私の目の前に手を出した。
その手に嵌る二つの指輪の煌めきが、私の目に焼き付いた。
「私にはこの指輪があります。片方はマテリアルの生まれ持つ魔力を強化するもの、もう片方は魔物を使役する力を強化するもの」
そして、霊は手を引っ込めると私の首筋に絆創膏を貼りつけながら言った。
「マテリアルの力の殆どは、今回の戦いには不向きです。マテリアルは同じマテリアルの力にそれなりの抵抗力を持つものですが、あなたのお父様もそれは同じ。それどころか周囲のマテリアルよりも、その抵抗力が強大なんです。無効化してしまうまでに。その能力を利用して、彼はこの町のマテリアルの王となってしまった」
「だから、あの時も……?」
助けてもらったあの日、霊が放った熱線のような力を思い出す。対象に当たる前にふっと消えてしまったのは、無効化されたからなのだろう。
ならばあれはやはり父なのか。
「今回、私のマテリアルの力はあなたを連れて逃げるために使います。相手を足止めする際は、私の使役する魔物に託します」
「メタモルフォセス……でしたっけ」
「ええ、よく覚えていましたね。でも、あの子はもともと戦いには不向きな生き物なんです。だから無理はさせられない。そこで、用心棒として持っておくのがこれです」
そう言って、霊が手に持ったのは、私たちのいる居間の壁にいつの間にか立てかけてあった木刀だった。
「木刀、ですか?」
「〈ベール〉といいます。もちろん、ただの木刀ではありません。あまり鍛えていない人でも破壊力のある一撃を繰り出せる特別な木刀なんです。使うかどうかはともかく、マテリアルの力が通用しない相手には有効でしょう」
霊の言葉を聞いて、私はじっと〈ベール〉を見つめた。
鍛えていなくても、破壊力のある一撃を繰り出せる。
「私にも使えますか?」
そう問いかけると、霊はやや動揺を見せつつ頷いた。
「ええ、一応は。でも、先ほども言った通り、あなたがこれを使うような状況になる前に、その場を離れますから。そのつもりでお願いします」
強い眼差しを再び受けて私は肩を竦めつつ頷いた。
「……分かりました」




