4.見習い魔女
◇
霊はお店の事があるということで、私は邪魔にならないよう与えられた部屋に引きこもり、〈アスタロト〉と向き合っていた。手伝えることは手伝いたいと申し出たものの、今のままでは足手まといの私に出来ることは、少しでも早く自分の身は自分で守れるようになる事であるらしい。
正直、今まで平然と一人暮らしをしていた身としては、霊がそこまで警戒心を持つ理由が分からなかった。とはいえ、昨夜のような目にまたしても遭うとなったら恐ろしいのも確か。私は大人しく強くなるためにコツコツと勉強を始めることとした。
「ってことで、よろしく、〈アスタロト〉」
声をかけるも魔神の名を持つその本は非常に無口だった。孤独さを感じつつも、私は本を手に具体的にイメージをしてみた。
今必要な書物は、私が身につけるべき基礎中の基礎の魔術。そして、これまでの〈赤い花〉たち──つまりは母が自由自在に使っていた魔術についてだ。
そのイメージが定まらないうちに、真っ新だった本のページに文字が浮かび上がる。現れたのは、二つの本のタイトルだった。『基本魔術一〇選』と『〈乙女椿版〉紳士淑女のための虫の魔法』というもの。
「虫の魔術……って何だろう」
思わず呟くと、〈アスタロト〉の表示が変わり、虫の魔術に関する説明文らしきものが浮かび上がってきた。
「〈赤い花〉を宿した者たちに最も適した魔術。それが虫の魔術である。蜘蛛の糸、蝶の大群、蜂の針など、あらゆる虫を具体的にイメージすることで〈赤い花〉特有の不安定な魔力を正確に制御することが出来るとされている。なお、それらの習得には一人前の魔女(魔人)が身につけるべき基礎魔術を習得している必要がある……」
そこまで読んで、私はため息を吐いた。
なんだか道のりは険しそうだ。ともあれ、今の私にはまだ早いらしい。ここは大人しく『基礎魔術一〇選』の方を読むべきかとは思う。思うのだが、好奇心というものがそっと顔を覗かせてきた。どんな虫がいるのだろう。
そんな私の好奇心に反応したのか、風もないのに〈アスタロト〉のページが捲られ、具体的な虫の魔術の紹介が現れた。「蜘蛛の糸の魔術」と書かれている。
「大きく分けると『緊縛』『切断』『磔刑』という三つが存在する。そのうちの『切断』は隙もなく攻撃力も高いため、いざという時の防衛の為にも〈赤い花〉が身につけるべき魔術である……」
読みながら、私はイメージをした。
浮かび上がるのは、テレビや映画で見るようなシーン。糸で切断ということは、ピアノ線でスパッといくあれだろう。スプラッタな光景が頭を過ぎり、途端に具合が悪くなった。覚えておいた方がいいと書かれているが、いつ刊行されたのかも分からない書物だ。平和な時代の乙女椿暮らしには必要ないと私は信じたかった。
それに、どちらにしたって私にはまだまだ遠い魔術であることがよく分かる。
「──いずれも習得には基礎魔術である糸車の魔術およびガチョウの卵の会得が必須となっている……か」
どうやら真っ先に知らねばならないのはそっちらしい。
ホッと一息つきながら私は〈アスタロト〉に念じた。
すると、すぐに〈アスタロト〉は該当する記述を見つけ出してくれた。
「基礎魔術一〇選とは、心臓の種類を問わず全ての魔女たちが会得するべきもの。初心者向けであり多用に適した発光ルミネセンスから、上級者向けかつ慎重に取り扱うべき主従の魔術までの一〇選をここに紹介する」
とりあえず今の私が調べるべきことはルミネセンスとかいうやつだ。だが、寄り道大好きな私はどうしても気になって、先ほどの蜘蛛の糸の項目で目にしたばかりの糸車の魔術とガチョウの卵の項目を探していた。
私の意をくみ取ったのか〈アスタロト〉がさり気なく手伝ってくれる。最初に見つけたのは、糸車の魔術だった。
「糸車の魔術は、何もない所から糸を生み出すことが出来る魔法である。蚕の生み出すシルクにも勝るとも劣らないその繊維は、魔女にとって暮らしを便利にする程度のものだった。しかし、魔女を奴隷にしたがる者も多い現状、この魔術もまた多用するのは控えるべきであると言えよう……」
注意書きの後に、手順は書いてあった。魔女ならば出来るはずということだろう。実にシンプルでイメージしがたいものであった。
図にあるように手を翳し、蛹化の時を迎えた虫の気持ちにどうにかなろうとしながら、私は心の中で唱えてみた。
──糸車の魔術。
すると、わずかだが〈赤い花〉の宿る心臓が熱くなった気がした。これはもしや、何かしら起こるのではないか。期待したのも束の間、あとは沈黙の時だけが流れていった。
まあ、よく見れば中級者向けとか書かれている。いきなり成功するなんていう都合の良い話もないだろう。そう自分を慰めながら、今度はもう一つの魔術を探し当てた。
「ガチョウの卵とは、昔話に基づいた魔術である。金の卵を産むガチョウのごとく、魔女は金属を生み出すことが出来る。魔力をこめて生み出した金属は、僅かながら特殊な力が残る事がある。修行を積めば黄金を生み出す事だって可能だろう。だが、会得した場合は、トラブルを避けるために多用してはならない」
糸車の時と同じような注意書きがある。それだけ、魔女たちの魔法は世の人々を狂わせてきたのかもしれない。
それはともかくとして、どうせこれも成功することはないだろう。そんな不貞腐れた気持ちが顔をのぞかせたものの、手順を読むと試さずにはいられなかった。
今度は霊に言われて消しゴムを飛ばした時のように力を込めることにした。ガチョウの卵というくらいなのだから、そういう金属の塊をイメージすればいいのだろう。頭の中にガチョウの姿を思い描きながら、私は心の中で唱えた。
──ガチョウの卵。
気のせいだろうか。今度も確かに胸が熱くなった気がした。結構な発熱だ。〈赤い花〉が反応しているのは間違いないのだろう。
ところが、道のりはだいぶ険しいのかもしれない、やっぱりその後は沈黙の時が流れるばかりで何も起こらなかった。
ちなみにこれも中級者向けと書かれている。
「よし、初心者向けからやろう!」
そう思ってすぐに発光ルミネセンスのページを探し、速読するなりさっそく試そうとしたのだが、顔をあげた直後に私は身体の力が抜ける感覚に陥った。
──あれ……?
両手で〈アスタロト〉を持ったまま仰向けに倒れると、ルミネセンスの説明を表示していた本の内容が見る見るうちに変わっていき、文章が浮かび上がった。
「初めのうちは魔法を成功させる前に魔力が尽きることもあるだろう」
その言葉に、私はピンときた。
何一つ成功できなかったけれど、魔力がすっかり空っぽになってしまったのだろう。
「せめて、ルミネセンスを……」
天井に向かって手を伸ばすも、結局そのまま私の瞼は降りてしまった。
再び目を覚ましたのはそれから数時間経ってからのことだった。身を起こすと外はすでに夕焼け色に染まっている。霊の店もそろそろ閉まる時間なのだろう。せめて、掃除くらいは手伝えないだろうか。そう思いながら私は部屋を後にした。
階段を降りていくと、ちょうど霊が自宅スペースへと戻ってきたところだった。
「霊さん、お帰りなさい」
声をかけると、霊は少し微笑んだ。色っぽさがありながらもどこか支配的なその眼差しに心臓がときめいてしまった。きっと魔力を使いすぎてお腹が空いているのだろう。
「ただいま、幽さん。練習していたのかしら。顔色が少し悪いようよ」
「え、あ、大丈夫です。ただちょっと難しい魔法に挑戦しちゃって……」
照れながらも階段を降りると、霊はにこりと笑いかけてきた。
「成功できました?」
「いえ……残念ながらちっとも」
肩を落とす私に、霊は明るい声で言った。
「大丈夫ですよ。最初はそんなものだって聞いたことがあります。あなたの心臓は間違いなく魔女のもの。あなたのお母様──憐は、あらゆる魔術を容易に操りました。あなたも練習を繰り返せばいつかきっと花開きますよ」
とても優しく穏やかな声だった。けれど、何故だろう。窺うように見上げた先の霊の眼差しには、息を飲んでしまうような威圧感を感じてしまうのだ。
思えば出会った時からそうだった。彼女にはごく一般的な美しいお姉さんから連想する柔らかさがありつつも、その裏側にとてつもなく冷たく、残忍な何かが隠されているような気がしてならない。
例えるなら、獲物を前にした肉食獣のような。
いや、きっと気のせいだ。魔女の性がそういうものを求めているからこそ、そんなことを想像してしまうのだろう。
ため息を殺して、私は霊に言った。
「あの、何か私にもお手伝いできることはありませんか? ちょっと気分転換したくって」
「そうね。それなら、一緒にお風呂を洗っていただける?」
「はい!」
思えば、こうやって誰かと一緒に家事をするのは久しぶりだ。
母が亡くなって以来、私はいつも孤独だった。母が亡くなったばかりの頃はひたすら寂しかったけれど、それからはずっと寂しいという気持ちさえも薄れてしまって、ただひたすら淡々とした日々を送って来たのだ。
けれど、久しぶりに誰かと過ごしていると、母と暮らしていた頃のような安心感がマッチの火のようにぽつりと灯る。そのささやかな温かさを感じていると、これもまた私が無意識に求めていたことの一つなのだと実感した。
私はきっと、家族と呼べる人が欲しいのだろう。とりとめもない会話を霊として、部屋に戻ってからしばらく、魔女の性を満たした時とはまた違う満足感を心に感じ、私はそう思った。
◆
入浴後、部屋に戻ると、私はベッドの上に倒れ込んだ。
天井を見上げていると虚無感に包まれていく。
いきなり成功することはないと霊には言われたけれど、本当に何一つ出来なかった。ルミネセンスでさえもわずかに心臓が熱くなるくらいだった。
本当に、私は魔法を使えるのだろうか。霊にとっても頼れる助手になれる日は来るのだろうか。様々な不安を覚えながらも、睡魔には勝てずに再び眠る事となった。
昨日からずっと人間らしい食事をとっていない。それでも、一度気づいてしまったからだろう。今の自分が求めているのは料理などではなく、新しい食事だった。
真っ暗な部屋で目を閉じて横たわっていると、昨晩味わったその食事の事を思い出して心身がそわそわした。今宵もまた約束通りのものを与えられるのだろうか。私の血を求めるそれが何なのかは分からない。メタモルフォセスなのか、それとも全く違う怪物なのか。確認したくても、きっと今宵も目は開けられないのだろう。
そんなことを考えているうちに、夢現の私の意識を急に呼び覚ます幻聴は現れた。
これもまた昨日と同じだ。これまでに聞いた記憶のある音や声が蘇り、私の脳内を混乱させる。楽しい思い出も悲しい思い出も全てが混じり合い、渦巻いて混沌となる。そんな状況に翻弄されているうちに、幻聴はいつしか耳鳴りとなり、私の意識を縛り上げた。
身体はもう動かない。金縛りと同じ状態だ。瞼ももう開かない。あがいても無駄だった。まるでロープか何かで拘束されているかのよう。そんな状況下で、部屋の扉が開かれるのを感じた。誰かがこの部屋に入って来る。私が無防備に眠るベッドへと近づいて来る。
いったい私は誰を相手にしているのだろう。
気になるところだが、やっぱり目は開けられなかった。
何者かの吐息だけが耳に届き、仰向けに眠る私の身体に覆いかぶさる感触だけが伝わってきた。捕食されるようなものだが、乱暴ではない。相手はおそらく知性のある何かだ。私を気遣うような知性があった。
いったい誰なのだろう。
分からないままに、今宵も痛みは与えられた。
「う……」
痛みに小さく呻くと、血を吸う何かが興奮気味に吐息を漏らした。力強く押さえつけられて、もはや全てが相手に握られた状態だった。生かすも殺すも捕食者次第。しかしそれが今の私にはたまらない。〈赤い花〉も悦び狂っていた。
それでも、疑問と好奇心だけは死ぬことなく私の頭に残り続けていた。
相手はいったい何者なのだろう。どんな姿をしているのだろう。
薄目を開けたいところだけれど、それはどうやら許されていないらしい。身体が動かないのは、何らかの超常的な力のせいなのだろう。あれほど私が実現できない魔法を、この捕食者はいとも簡単に操れるということだ。
そう思うと羨ましいし嫉妬すらしそうになるけれど、それよりもずっと渇いた喉を潤すような喜びの方が大きくて、負の感情を抱き続ける余裕さえなかった。
私が心底満足していることは、きっと度々この口から漏れ出す声色から相手にも知られているだろう。どうやらこの相手はそれを理解できるほどには人間に近い何かのようで、私が全く拒まないことをいい事に昨夜よりもやや大胆さが増していた。
せっかく霊に貸してもらった寝巻が破れないか心配になるほど力強く握りしめると、あっという間にその胸元を剥いでしまった。急に肌寒くなり、心もとなくなる。だが、私は感じていた。相手に下心があるとすれば性的なものではない。この捕食者が求めているものは、飽く迄も私の血であるようだった。
となると、次に浮かぶのは冷や汗であった。何故だろう、非常に怖い。理解するよりも先に、私の内に眠る本能が危機を告げてくるのだ。そして、恐らくそれは当たっていた。捕食者は私の胸元──〈赤い花〉が踊り狂う左胸付近へと顔を近づけ、軽く唇を押し当ててきた。そしてほぼ間を置くことなく、痛みはもたらされたのだ。
──あぁっ……。
脳を抉るような衝撃だった。強い恐怖と強い快楽が同時に押し寄せてきて、後戻りのできない不安に包まれる。相手はすでに私の血に夢中になっていて、抵抗することすら難しい。心身が硬直してしまっているのは、魔術のせいだけではないだろう。
死の足音すら聞こえてきそうな状況に、私はただ震えていた。そんな私を労わるように、或いは逃さぬように、捕食者は私の身体をひと撫でし、血の味に夢中になっていた。
それから、いつまた眠りについたのかは覚えていない。
目が覚めて、まだ自分が生きていることに一安心するほどには恐怖に包まれていただろう。しかし、生きていることを実感すると、何故だかあの恐怖に恋しさすら感じてしまうようになっていた。
これが、私の魔女の性なのだろうか。
我が事ながらおぞましく、恐ろしい。
しかし、いくら否定しようとも自分が望んでいる事は確かだった。生きていくために必要な事となれば、これが私なのだと諦めて受け入れるしかない。目覚めの良さや、頭もすっきりとしているこの健康状態の良さを実感すれば、尚更のことだ。
きっと顔色もいいのだろう。
そう思いながら、私はベッドを降り立った。
着衣に乱れはなく、部屋も荒らされてはいない。昨夜のことが嘘のよう。単なる悪夢を見ていただけのようですらある。
しかし、あれが夢ではないという証拠は残っている。
姿見の前に立つと、すぐにその証拠は目に止まった。昨日と同じだ。今日も同じ辺りに真新しい噛み傷があった。だが、それだけではない気がした。寝巻の胸元を恐る恐る開いて素肌を確認してみれば、そこにもまたくっきりと複数の噛み傷が残されていた。
まるで心臓を狙うかのようについたその傷痕は、赤い花びらのようにも見えてしまった。




