3.水色のメダイ
◇
翌朝、二階から居間へと降りていくと、霊はすでに起きていた。今日の着替えのことや、自宅アパートに残した私物のこと、それを含めた明日からしばらくの生活の事に触れられて、私は戸惑いつつも会話に応じた。
しかし、頭の中は違う事でいっぱいだった。首筋についた噛み傷は隠しようがない、霊が気づいていないことはないだろう。それでも、霊はまるで出会った時からそうであったかのように傷には全く触れなかった。
「──では、アパートに戻るのは来週。安全が確認された上で、私と一緒にという事でいいですね?」
「は、はい」
居間のテーブルに座らされながら、私は俯いたまま頷いた。
そして霊は、話題を変えた。
「最後に、あなたの食事に関することなのだけれど……」
食事。その言葉が耳に入った時、私は急に胸が熱くなるのを感じた。
魔女は人間の食事でも一応は生きていけるらしい。しかし、魔力の源は魔女の性を満たすことでしか生まれないし、一度、自覚してしまえばその欲望には逆らえなくなる。
「私の気のせいかしら。昨日よりも顔色がだいぶいいみたい」
霊の率直な言葉に、私は唇を結んでしまう。
私はすでに自覚してしまっていた。何と言う事だろう。吸血鬼の父をあれほど嫌っていながら、その吸血鬼らしきものに蹂躙されることで、こんなにも体の調子が良くなるなんて。今思えば、昨日までの私は干からびた身体を無理やり動かしていただけだった。それが、たった一夜にしてこうも変わってしまうとは。
霊に見つめられる中、私は覚悟を決めて、首筋についた傷を手で示した。
「昨夜できた傷です。まるで恐ろしい吸血鬼に襲われたかのようなこの傷。それに加えて、昨夜は奇妙な夢を見ました。とても怖くて──」
「不快だった?」
かぶせ気味に静かに問われ、私は素直になって首を横に振った。
「──心地……よかったんです」
一度認めてしまえば、霊の視線も怖くはなくなった。
「魔女の性の話、昨日しましたよね」
問いかけると霊は静かに頷いた。
「まだ分からないと言っていたわね」
「はい、でも、分かったかもしれません。この傷が教えてくれました。噛まれた時は怖かった。死んでしまうんじゃないかって。でも、こんなに体の調子がいいのは初めてかも。力が漲るような、初めての感覚。それで、私はピンと来たんです。これだって。これが、私の魔女の性なんだって」
少なくとも、自身の身体に痛みをただ与えればいいというわけではない。それもまた分かってはいた。身体をつねったり、叩いたり、切りつけたりすると、確かに心が一瞬だけ晴れる気がした。けれど、魔力が生まれるような感覚は一切なかったからだ。
誰かに暴力を振るわれればいいのか。そう思った時もあったが、まさかそれを周囲の誰かに依頼できるはずもない。昨夜のような経験は初めてであったし、未知でもあった。だからこそ、はっきりと分かったのだ。
今なら、基礎的な魔法を使えるかもしれないと。
「そう……それなら」
霊は表情を変え、少し考えてから机の上に置いてあった消しゴムを一つ手に取った。それを私の前に置き、表情を変えずに呟いた。
「少し試してみましょう」
そう言って、霊は消しゴムを立てた。
「魔法は超能力のようなもの。元となる魔力があれば、イメージするだけで少しはそれらしい現象が起きる。これまでにそんな経験をしたことはありますか?」
「あ……ありません」
「そうですか。むしろ好都合です。昨夜の出来事が本当に魔女の性を満たせているのなら、これまでにない力があなたの身体に宿っているかもしれない。やってみて。念を送って、消しゴムに触れずに倒すんです」
急に言われ、私は戸惑った。
そんな超能力染みたことをしようと思ったことは、幼い頃にしかない。しかし、大真面目に語る霊の眼差しに勇気づけられながら、私は言われるままにイメージをした。テレビや雑誌の中に登場する奇術師さながら、消しゴムに手のひらを向け、風や振動を送らないように配慮しながら念を送る……そんなイメージを頭に浮かばせた。
──倒れろ……倒れろ!
すぐには何も起きなかった。当たり前だろう。そんな力がないからこそ、自分が魔女だなんて全く思わなかったのだから。だが、数秒経ってから、異変は起きた。風も振動もなかったはずなのに、消しゴムが倒れたのだ。それも、自然に倒れたとは思わない勢いで。ポンと弾け飛ぶその姿に、私だけでなく霊もまた目を丸くしていた。
──ああ、それならやっぱり。
自らの身に起こったことを受け止めきれぬまま、それでも私は納得した。
やっぱりあれが、魔女の性だったのだと。
「間違いないようね」
飛んでいった消しゴムを見つめ、霊は言った。
「良かった。幽さん、実は私、ちゃんと謝るつもりだったの。こちらの不手際で、あなたが新しい怪我をする羽目になってしまったこと。でも、これがあなたの栄養となるのなら、話はちょっと変わるわ。ねえ、幽さん」
そう言って、霊は手を伸ばし、私の手をそっと包み込んだ。
「お母様から魔女としての教えを受けたことがなかったのよね?」
「は、はい」
「では、この家で本格的に魔女としての勉強をしませんか?」
「えっ」
考えたこともない提案に、私は戸惑ってしまった。
しかし、霊は私の手を握りながら強調する。
「魔女らしく生きようとも、生きまいとも、あなたが〈赤い花〉である事実は変えられません。むしろ、あなたが無力であればあるほど喜ぶ悪人は多くいるはずです。そんな輩に囲まれながら長生きしたいならば、悪い事は言いません、あなた自身がお母様のような、いいえ、もっと強い魔女にならなくては」
「でも、私、何にも知らなくて──」
「ええ。だから、この家で……私の庇護の下でゼロから覚えていくんです。魔力の源である魔女の性は昨晩のように満たせるようにこちらで計らいます。それに、ちょうどいい教本も用意できます。私の知るお母様のお話も参考になるかもしれません。そちらについても、あなたが知りたいタイミングでお話しましょう。悪い話ではないはずですよ?」
確かに、悪い話ではなさそうだ。
不安になるほどに、こちらに都合のいい話に思えた。
だからこそ、私は怖くなってしまった。
「あ、あの、確かに良い話に思えますが、もちろん無料ではありませんよね」
確認するように問いかけると、霊はしっかりと頷いた。
「──ですが、いただくのはお金ではありません。あなたの魔女の性を満たすことは、こちらにとっても都合のいい話なんです。それともう一つ、魔女として強くなった暁には、正式に私の助手になっていただきたいんです」
「助手?」
思ってもみなかった話を振られ、私はぽかんとしてしまった。
すると、霊はやや暗い表情で訊ねてきた。
「出来ませんか?」
その言葉に、私は慌てて首を振った。
「い、いえ……けれど、私なんかに務まるのでしょうか」
「それなら大丈夫です。魔女の心臓を持つというだけでも、助手になってもらえると頼もしいはずですから。焦って決断なさらなくてもいいんです。しばらくここで暮らしながら、ゆっくり考えていただけませんか?」
霊の言葉に私はぎこちなくだがとりあえず頷いた。
やっぱり昨夜の事を思うと、今更、自宅アパートにとぼとぼ一人で帰るのは怖い。それに、新しい居場所が出来ると思うと悪くはない気がしたのだ。
母が亡くなって以来、私はどうにかこの乙女椿国の社会に溶け込みながら生きてきたつもりだ。しかし、やはり母の葬儀の場で聞かされた話と、排他的な人々の視線は常に私を追い詰めてくる。吸血鬼の子であり、魔女の子であるのだと思い出せば思い出すほど、人間だと信じて疑わなかった頃に生きていた世界が眩しすぎるように感じられた。
そんな私にとって、これはチャンスかもしれない。
正しい居場所を見つける絶好の機会なのではないか。
私は霊に言った。
「霊さんさえよければ、私、しばらく頑張ってみたいです」
すると、霊は安心したように微笑んでくれた。その妖艶で美しい笑みに見惚れていると、霊は緊張をほぐすようにため息を吐いて、私の手を離した。
「ありがとう。では、さっそくですが、今のこちらの状況をお話しましょう。まず、あなたには言っておかないとならない事があります。このお手紙の事です」
そう言って取り出したのは、昨日、私を公園まで呼び出したあの切り抜き文字の手紙だった。霊はそれを広げると、私に向かってこう言った。
「白状しましょう。この手紙は私が差し出したものではありません」
◆
「えっ……?」
その呆気ない告白に、私は思わず問い返してしまった。
すると、霊は丁寧に説明してくれた。
「お父様の天の話をあなたから聞くつもりだったのは確かです。しかし、それは昨日の予定ではなかった。昨日私があの場所にいた目的はあなたではなく、全く違う人物を探すためだったのです。けれど、あなたはやってきた。呼び出される形で現れたあなたを見て、とても嫌な予感がしてあの場から連れ出したんです
霊の言葉を私は呆気にとられながら聞いていた。
嘘だった。もしも、霊の機転の利く嘘がなければ、あの夕闇迫る帰り道で助けて貰えることもなかっただろう。そう思うと寒気が走った。
それでは、あの手紙をよこしたのは一体誰なのか。
「この手紙の犯人についてはまだはっきりとは分かりません。けれど、もしかしたら私が天を探している事と何かしらの関連があるのかもしれません。なので、まずは私が……いえ、私たちが何故、天を探しているのかを聞いて欲しいのです」
「私たち?」
問い返すと霊は深く頷いた。
「私は単独で行動しているわけではありません。今は名前を出せませんが、私の背後にはこの町で有名なある資産家の一族がいます。彼らは人間ではありません。この町の治安を影から支えている鬼神の一族でもあります。私は、彼らと繋がりの深い人々と共に、ある事件を起こした疑いがある天の行方を追っているのです」
さっそく話について行くのが大変だった。吸血鬼のみならず、鬼神なんてものがいるなんて。しかし、いちいち疑う気にはもうなれなかった。魔女や吸血鬼がいるのならば、それ以外の人外だってたくさんいるのだろう。
だが、資産家というのは少し怖い。その正体が人間であっても敵に回したくないというのに、鬼神と呼ばれるほどの人々がどれだけ力を持っているのか想像すらできなかった。
そんな彼らと繋がりがある霊が、どうして天を探しているのか。嫌な寒気がしつつ、私はそっと訊ねてみた。
「父はやっぱり……何かとんでもない事をしてしまったのですね?」
すると、霊はすっと目を閉じてから、慎重に答えた。
「まだ確定したわけではありません。飽く迄も、容疑者というだけ」
「でも、何かしたのは間違いない……」
「はい。数年前の話です。この町で一人の少女が亡くなりました。彼女は丘の上に建つリリウム教系の女子校に通う生徒で、素行も良く真面目な少女だったそうです。けれど、下校途中に彼女は何者かに襲われ、殺害されてしまいました」
「は、初めて聞きました。この町でそんな事件があったなんて……」
衝撃的な話だった。
ここは長閑な町だ。殺人事件なんてあったら、大騒ぎになるだろう。それなのに、全く話題にならないなんてこと、あり得るのだろうか。
……いや、冷静に考えれば、あり得るかもしれない。思えば、私の母の事件だって、騒動にはならなかった。どう考えても猟奇的な死であったのに、町の人々は不自然なまでに平穏に暮らし続けていた。
霊は語った。
「話題にならなかったのには明確な理由があります。もしもこれが人間同士の犯行であれば、通常の事件のように大騒ぎになっていたでしょう。けれど、人間でない者が人間とは関係のない死を遂げた場合は、その噂は広まらないよう調整されるのです」
きっと、私の母の時もそうだったのだろう。
霊は続けた。
「今回の事件の場合、被害者は人間でしたが、明らかに人間でないものが犯人でした。……吸血鬼です」
その単語に私は怯んでしまった。
思わず首筋の傷に触れてしまう私を見て、霊は表情を濁した。
「もうお分かりでしょうけれど、吸血鬼は言い伝えにある通り、他の生き物血を吸わねば生きていけません。それでも、吸血鬼に生まれてしまった者の多くは、人間社会とうまく付き合うために、影でこっそりと人に魔術をかけ、殺さないように血を吸うのです。しかし、そうでない吸血鬼もいる」
「私の父のように?」
偉大だと霊は言っていた。偉大だから人間の社会に馴染む努力をしないのだと。
私はそのせいで生まれたようなものだ。だが、そのせいで時に人が死ぬことがあるのだと思うと、途端に私は自分の存在が怖くなった。
「父のせいで……その女の子が?」
実の父がとんでもない化け物であるかもしれないという恐怖に苛まれる。
まるでそんな私を気遣うように、霊は慎重な態度で言った。
「言いましたよね。あくまでも容疑者です。しかし、その可能性は非常に高いとされています。ごく普通の人間たちは、吸血鬼のような危険な生き物が実際に紛れていると知ったらパニックを起こすでしょう。人間社会に溶け込む吸血鬼も迫害されるでしょうし、実際には吸血鬼ではない無関係の人間が吸血鬼とされて私刑されることだってあり得ます。だから、この事件自体が伏せられているのです」
父がまたしてもそんな恐ろしい事を。
これまで一体、どれだけの人間が犠牲になったのか。想像するだけで気が滅入ってしまいそうだった。
「では、霊さんはその犯人を捕まえるために?」
頭を抱えたまま訊ねると、霊は首を横に振った。
「いいえ、私の目的は犯人を捕まえることではありません。そちらは別の者が担当しております。私が担当していることは、犯人が知っているはずの情報を聞き出す事。被害者の遺品の行方を調べる事なのです」
「遺品……その女の子の?」
「はい。亡くなった当時に持っていたはずの遺品を探し、この店でしっかりと保管していて欲しいと言うご遺族の方々の強い希望があったそうなのです。現場で見つかった遺品の一つであるロザリオについては、この店で厳重に保管してあります。けれど、もう一つは行方不明のまま。それを探して回収することがこの度の私の任務となっているのです」
父が知っているかもしれない遺品探し。
その事を頭に刻み、私は静かに頷いた。
霊もまた頷くと、続けて言った。
「なくなった遺品は水色のメダイです」
「メダイ……メダイって何ですか?」
霊は静かに教えてくれた。
「メダルのことです。リリウム教におけるお守りと言うのが分かりやすいでしょう。なくなった遺品と同じデザインのものを頂いてきました。こちらです」
そう言って霊が差し出したのは、メダルというよりもペンダントのようなものだった。よく見ると水色の中に人物像が描かれている。おそらくリリウム教の聖母子像か何かなのだろう。
差し出されたものの、私はそれに触れられなかった。魔女の心臓を受け継いでいると知った時に、図書館で様々な歴史書を目にしたからだ。
かつて、魔女はリリウム教徒たちに激しく否定されたという。その昔であれば〈赤い花〉は聖女として尊ばれた時代もあったそうなのだけれど、ある時に起きた事件をきっかけに、その力を危険視する声が高まったのだと。
人々はさまざまな聖なる道具を用い、私と同じ魔女たちや魔女でも何でもないものたちを一緒くたに迫害していった。そんな話を見て以来、私は自分の血を拒絶する聖なるものという存在が恐ろしくなってしまったのだ。
それ故に、私はそのメダイというものに触れることが出来なかった。
霊はその事を特に気にも留めず、水色のメダイを布のケースに大切にしまった。
「私は天を捕まえたいわけではありません。天がこのメダイを持っているならば、返してもらいたいというだけ。その為にも、天が接触する可能性のあるあなたには、常に傍にいて欲しいのです」
「事情は分かりました。何かしらお役に立てるのなら、喜んで協力します。……それで、まず私は何をしたらいいのでしょうか?」
問いかけると霊はホッとしたように微笑むと、テーブルの端に置いてあった一冊の本を手に取り、私の前にぽんと置いた。
タイトルはない。非常に古い本のようだ。
「捲ってみてください」
そう言われるままに手に取ってみると、かなり年季の入った本の香りがした。そして肝心の中身はというと、真っ白だった。
「何も書いてありませんね」
私の言葉に頷いてから霊は教えてくれた。
「それはただの本ではありません。あなたが実は超常的な力を持っているように、その本にも不思議な力が宿っています。何でも知っている古書。私はそれを〈アスタロト〉と呼んでいます」
「〈アスタロト〉……?」
聞き慣れない横文字を何となく頭に刻んでいると、おかしなことがすぐに起きた。何も書いていなかった本にアスタロトという名を持つ、悪魔のような、魔神のような挿絵が浮かび上がって来たのだ。
「ええっ?」
驚く私を見て、霊は微笑みを深めた。
「どうやら〈アスタロト〉はあなたを気に入っているみたいですね。ここにいる間、その〈アスタロト〉はあなたにお貸しします。調べたい事、気になる事を思い浮かべるだけで、これまで世に発表された様々な文献からもっとも参考になりそうな情報を教えてくれる。それがその本の不思議かつとても便利な力なんです」
「そんな貴重な本をお借りしてもいいんですか?」
「はい、この店には同じように不思議な力を持つ古物がたくさんあります。中には持出現金の非常に危険な代物もありますが、〈アスタロト〉は幸いそんなに危険なものではありません。むしろ、立派な魔女を目指すあなたの教本としてもっとも役に立つでしょう」
「これが教本、ですか」
まじまじと見つめていると、〈アスタロト〉は私の思考を読んだのか、アスタロトの説明を表示することを止め、別の文章を表示した。そこに書かれているのは、〈赤い花〉が覚えるべき基礎魔法教本一覧というものだった。
「これ一冊で、色々読むことが出来る、と」
「ええ。ですが、〈アスタロト〉を使うのにも体力や魔力をわずかに消耗します。頼る場合は手短に。必要最低限に留めておくとよろしいでしょう。しかし、練習は遠慮なく。魔力の消耗はここにいる限りすぐにでも回復できますので」
霊の微笑みが背筋をなぞっていく。魔力の回復。それはつまり、昨晩のようなことがこの身に起きるということだ。
人間らしい食事すらもいらなくなるほどの満足感。美味しい料理に魅せられるのとはレベルの違う欲望は、もはや依存性と言ってもいいだろう。
認めるのは悔しいし、恥ずかしいことだけれど、私はすでに魔力の回復が楽しみになってしまっていた。