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2.帰れない事情


 夕闇迫る帰り道。私は一人で歩きながら、ふと霊に聞きそびれた事を思い出した。結局、父は何をしてしまったのだろう。霊は答える代わりに、話を逸らしていた。明らかに、私に説明したくない事だったのだろ。

 では、何だろう。吸血鬼である父の事で、と、考えるならば、やはり人間社会に害をなすような罪の話であるかもしれない。


 食欲のままに人を殺すことも、色欲のままに気に入った者を無理やり攫っていくことも、吸血鬼にはよくある事らしい。母が若い頃から、父はそんな吸血鬼として町を荒らしまわっていたのだと母の友人は語っていた。いや、父だけではない。不良が仲間を作るように、この町には父に呼び寄せられるように、他にもたくさん欲望のままに生きる吸血鬼が潜んでいたらしい。

 そんな吸血鬼と、母は戦っていたらしい。その頃から母が魔女であることを、母の友人たちは知っていた。それでも、吸血鬼を倒す良い魔女であった母は、若き日の彼らに尊敬されていた。そして彼らもまた吸血鬼たちと戦い、この町の平和を守ってきたのだという。

 しかし、そんな青春のドラマは、私の父である天によって破壊されてしまった。


 とぼとぼと夕焼け色に染まる道を歩きながら、私はどこか茫然としたままの頭で前を見つめていた。

 ぼんやりと浮かび続けるのは、今日の出来事。

 あの霊という人に、私の知らない父母の事を聞きそびれてしまったことを、今更になって後悔している。だが、引き返すというのも面倒だった。今日はそのくらい疲れていた。身体ではなく、心が。だから、早く帰って布団に入ってしまいたかった。

 歩けば歩くほど、思考は迷路に迷い込む。


 霊。本当に綺麗な人だった。妖しげな魅力を持つ彼女を見て、よくない妄想を働かせてしまう罪を犯した者も多いだろう。私もその一人となってしまった。だからこそ、疑問でもある。あの手紙は本当にあの人が作ったものだったのだろうか。差出人の名は書いていなかったし、用件も明確な記述はなかった。

 本当に、天の事を聞きたかっただけで、あんな手紙で呼び出したのだろうか。

 疑問は延々と空回りし続けて、答えも得られないまま疲れ切った私の頭を酷使していた。蝕まれるように心の疲労が溜まっていく。

 早く帰ろう。帰る事に専念しよう。

 ようやくそう思うことが出来たのも束の間、私の歩みは突然止められてしまった。夕闇の向こうに佇む、真っ黒な人影に。


 ──誰……?


 普通に考えるならば、たまたま通りがかった人だろう。しかし、不思議な事に私は、その人物がそこにいる理由を具体的に考えてしまっていた。

 私に用があるのではないか。

 疲れていたせいもあるだろう。だから、私は深く考えずに声をかけたのだ。


「あの……」


 真っ黒で、顔も分からない、その人影に。


「私に何か用ですか?」


 空気ががらりと変わったのは、その直後のことだった。相手は、どんな表情をしているのかも分からない。それでも私は本能的に感じ取ることが出来たのだ。

 不味い気がすると。

 しかし、分かっただけではどうしようもない。ただ茫然とその人影を見つめ、立ち尽くしている事しか出来なかった。そんな私の頬を何かが掠めていった。直後、燃えるような痛みが生じ、蹲ってしまった。

 つむじ風だろうか。最初はそう思った。鋭く冷たい風が通り過ぎ、飛ばされた小石か何かが私の頬を軽く抉ったらしい。汗と共に血が流れるのを感じながら、私はただじっと前を見つめた。自然現象の可能性はある。しかし、私は何故だか確信した。あの人影が私を攻撃したのだと。そして、それが始まりなのだと。

 人影はゆっくりとこちらに近づいて来る。よく見れば、手には何か持っている。金槌、だろうか。ともかく、鈍器を握り締めていた。早くここから逃げなければ、掠り傷では済まないものを負わされるのは確実だった。

 しかし、恐怖で足が動かなかった。

 頭を過ぎるのは、店で聞いた霊の言葉だった。


 ──〈赤い花〉を狙った犯罪は珍しくありません。


 私はここで死ぬのだろうか。

 母のように、心臓を抜き取られて。

 殺される。


 恐怖で身も心も凍り付きそうだった。けれど、そんな時だった。私は突如、背後より近づいて来る何者かの足音に気づいた。私を襲った人影が、その第三者を警戒したのか立ち止まった。私はといえば振り向くことが出来ない。けれど、その第三者はそのまま靴音を立てながら歩み続け、やがて全く動けない私の前へと踏み出した。

 その後ろ姿は、見覚えがあった。

 霊だ。

 さっき店で別れた彼女が、そこにいた。


 振り返りもせずに、彼女は真っすぐと私を襲った人影を見つめている。そして、黙ったままその人影に指を差した。すると、その指に嵌っていた赤い指輪が光り輝き、熱線のようなものが放たれた。いかにも何かを焼き切りそうな、夕闇を裂く激しい光だった。しかし、その熱線は人影の前で急に消えてしまった。

 霊は少しだけ動揺を見せた。だが、すぐに気持ちを切り替えると、今度は別の指を向けた。直後、その指に嵌った青い指輪がきらりと光る。すると、彼女の足元から何かが飛び出した。影のように真っ黒な猛獣のようだ。何処から現れたのかといえば、彼女の影としか言いようがない。そんな非科学的な現象を目の当たりにして、私は尚更借りてきた猫のように身を丸くしていることしか出来なかった。


 霊。この人もやはりただの人間ではないのだろう。それでは、私と同じ魔女の心臓を持つ者なのだろうか。

 人影に向かって飛び出していった猛獣は、霊が言葉で指示するまでもなく動いている。その俊敏さに驚いたのか、その人物は後ずさりをして猛獣の攻撃をかわすと、そのまま夕闇の果てへと消えていってしまった。


 ──消えた?


 そう、消えた。

 それこそ幽霊のように、その人影は何処にもいなくなったのだ。

 血の止まらない頬を抑えたまま、私は茫然と前を見つめ続けた。そして、たった今、私の恩人となった霊を見上げた。


「よくやったわ、メタモルフォセス。戻ってらっしゃい」


 霊がそう言うと、猛獣は振り返り、そのまま野兎のような動きで霊の元へと走ってきた。飛び込む先は地面。まるで水中に潜るように消えていった。そのメタモルフォセスという生き物が影から現れたように見えたのは、きっと気のせいではなかったのだろう。

 茫然としたままありのままに現実を受け止めていると、霊はようやく私をふり返った。


「怪我は……してしまったようですね」


 申し訳なさげに目を細める彼女に、私は慌てて首を振った。


「た、ただの掠り傷です」

「そう。でも、早く手当をした方がいいわ。……そうでなくても、このまま一人でお家に帰らせるわけにはいかないようですね」


 淡々と告げる彼女を見つめ、私は俯いてしまった。

 確かに、彼女の言う通り、このまま一人であのアパートに帰るのは怖かった。あれは何者だったのだろう。〈赤い花〉を狙う犯罪者なのだろうか。だとしたら、私は近いうちに命を奪われてしまいかねない。

 じわりじわりとその可能性に侵食されると、私は恐ろしくなった。天涯孤独の身で、いつどうなったって怖くないと信じていたけれど、いざこういう目に遭ってしまうと堪らないほど恐ろしく、心細かった。

 そんな私の心情を、いくらか見通してくれたのだろう。

 霊は私の前でしゃがむと、そっと窺うように囁いてきた。


「悪い事は言いません、今夜は私の家に泊まってください。このままご自宅に戻るよりは、幾分かマシなはずですよ」

「い、いいんですか?」


 戸惑いや遠慮はあったものの、心底有難い提案だった。

 たった今、実際に助けてもらったお陰だろう。すでに私にはこの霊という人が、この世のいかなる用心棒よりも頼れる存在に思えてならなかった。


「勿論です。今夜と言わず、あの人影が誰なのかはっきりするまでは、私の傍に居た方がいいでしょう。あれは……恐らく吸血鬼です。ひょっとしたら、あなたのお父様である天の可能性も否めません」

「吸血鬼……」


 その言葉に怯えてしまった。

 父の可能性も、という事は、他にも吸血鬼はたくさんいるわけだ。だが、父であるとすれば、どうして私を襲ったのだろう。殺したかったのか、他に理由があったのか。いずれにせよ、理不尽であるし怖かった。

 そんな私の様子を見てか、霊はため息交じりに私の肩に触れてきた。


「どうか怖がらないで。あなたの命は私が守ります」


 その力強い言葉に、私は泣いてしまいそうなほど安心した。



 霊の自宅は店の奥に存在した。一人で暮らしているらしいのだが、それにしては広い。二階にはいくつか部屋があり、ベッドも清潔だった。着替えも借りて、至れり尽くせりではあったが、どうやら冷蔵庫の中身は水しか入っていないようで、夕飯を出せない代わりに外食か出前でもとるかと訊ねられた。

 しかし、私はどちらも遠慮した。アパートに戻らないままここに来たために、手持ちも少ない。そう告げるとお金の心配はいらないなんて言われたが、ただでさえ世話になってしまったのに、これ以上甘えるわけにもいかない。それに、お腹は空いていなかった。

 そもそも私は魔女の心臓を受け継いでいる。魔女というものは、食事がいらない。個人個人で違う性癖や特性、習慣のようなものが欲求と化し、それを満たす事こそが糧であるのだ。図書館にあった本によれば、それらは魔女のさがというらしい。


 聞いた話では、母に課せられた魔女の性は吸血鬼狩りだったそう。しかし、親子だからといって、娘の私が同じ性に目覚めるわけではない。

 私の性は、恐らく痛みだ。不安とも言うのだろうか。命を危険に晒される恐怖も近いものがあるかもしれない。とにかく、そうした忌避すべきものに直面した時、心臓だけが喜んでいることを感じてしまうことがあった。

 今もそうだ。霊に手当をして貰ったばかりの頬の傷に触れると、そのひりひりとした痛みが私の生きる源となっていることが実感できてしまった。あんな思いはもう二度と御免だ。恐怖は恐怖であったし、私はまだまだ死にたくないのだということがよく実感できた。それなのに、それはそれとして、私は少しだけ栄養を取る事が出来てしまっていたのだ。

 けれど、私はそれを霊にうまく説明することは出来なかった。


「それじゃあ、あなたはまだ自分のさがが何なのか分からないのね」


 霊に言われ、私はただ頷いた。


「はい、はっきりとは……」

「そう。それは困ったわね。でも、今日まで飢えずに生きているという事は、無意識に満たせているのかもしれないわ。ともかく、はっきりと分かったら私に教えてください。問題なく栄養が取れるように協力しますので」


 淡々とそう言われ、私はおずおずと頷いた。

 そんなわたしに霊はさらに言ったのだった。


「他に何か知りたいことなどありますか? もし私に協力できそうなことなら、何でもおっしゃってください。魔女の性のことが分かる、ヒントになるかもしれません」


 そこまでお世話になっていいのだろうか。そう思いつつも、ふと浮かんだのは、聞きそびれていた父母の事そのものだった。

 特に魔女の性について話したからだろう。いま知りたくて仕方がなかったのは、父の事ではなく母の事だった。


「あの……私、魔女としての母の事をあまり知らないんです」


 霊はじっと私の顔を見つめていた。


「それで、霊さんはその、私よりも母の事をよくご存知のように感じて。もしよかったら、魔女として活躍していた頃の母の事を教えていただきたくて……」

「それならいくらか協力できます。魔女の性のヒントにもなるかもしれませんね」


 あっさりと霊はそう言うと、私ににこりと微笑みかけてきた。


「魔女としての憐の話は、語れば長くなるわ。それに、きちんと思い出して頭の中で整理するのも時間がかかりそう。でも、あなたがここにいる間、協力してくれる間に、必ずお教えしますので待っていてください」

「……はい!」


 霊の前向きな答えに、私の心はうんと明るくなった。私がこれまで知らなかった、魔女としての母の話。それは、父の話をするよりも、ずっと心が軽いことに違いなかった。

 そうして、私は少しだけ緊張の解れた状態で、貸してもらった部屋で一人きりで眠る事となった。

 霊の部屋は隣にある。同じような広さで、壁一枚隔てているだけだが物音はあまり聞こえないという。それでも隣は隣なので、何か問題があったら遠慮なく来て欲しいと言われている。

 それだけでだいぶほっとした。やっぱり、一人で自宅に戻るよりもずっと良かっただろう。そう思いながら、私は霊に貸してもらった寝間着を着て、ベッドの中に潜り込んだ。ベッドの寝心地は非常に良かった。私の家の押し入れで眠る布団よりも上質なのかもしれない。それとも、心身の疲れもあってそう思ったのだろうか。包まれるような寝心地に、すっかり緊張が解けていき、意識が吸い込まれてしまうように私は眠りについた。


 唐突に目が覚めたのは何故だっただろう。

 夢の内容すら覚えていないほど熟睡していたのに、私の意識は急に覚醒した。すぐに違和感には気づけた。身体が全く動かなかったのだ。

 金縛り、だろうか。

 疲れやストレスのせいも考えられる。とにかく体が動かず、耳か頭かよく分からないけれど、じわじわと大きくなる幻聴に囚われていた。


 音は今まで耳にしてきた様々な音だ。工事の音であったり、小鳥の声であったり、誰か知り合いの声であったり、霊の声であったり。あらゆる音の記憶が溢れだし、私の心をかき乱してきた。そして、それらの音量が一気にあがったかと思うと、突如、酷い耳鳴りがして、息苦しさを感じてしまった。

 それからだ。目も開けられない状態の中、私は気配を感じた。部屋の中に誰かがいる。私以外の誰かだ。その誰かはゆっくりと私の眠るベッドへと近づき、布団の中に潜り込んできた。触れられている。身体を直に。頬を、胴体を、腕を、足を。あらゆる場所を誰かの手が触れていった。それは、嫌らしいことをされているというよりも、もっと恐ろしい事をされているように感じられた。

 例えば、食べられてしまう前の確認のような。


 荒々しい息遣いが聞こえてくる。それなのに、目は開けられなかった。恐怖のせいか、はたまた何かしらの術中にはまっているのか。分からないまま緊張だけが高まり、やがて、火花を散らすような衝撃が私の身体を貫いた。

 首だ。首筋だ。噛みつかれている。噛まれている。このまま肉を引きちぎられてしまうのだろうか。だが、そんな恐怖に支配されると同時に、私の心臓は踊り狂ったのだ。

 ああ、喜んでいる。

 私はそう理解した。

 母から受け継いだ〈赤い花〉が、この刺激を受け入れている。そう気づいた直後、私は自分の身に起こっている事を少しだけ理解した。

 姿も何も分からないその何者かは、私の血を吸っていた。そして、吸われるたびに、私の心身はむしろ力が漲り、生きようという希望さえも生まれてきた。

 ひと言で表すならば、とても気持ちが良い。

 ずっとそうしていて欲しいほど、心が安らいでしまった。


 やがて、その悦楽の中で、私の意識は再び眠りについた。夢を見た気もするし、見ていない気もする。ぐっすりと眠った後に、カーテンの隙間から漏れる日の光に照らされながら、私はようやく目を覚ました。

 昨晩のあれは、夢だったのだろうか。

 ぼんやりと天井を見つめながら、私は静かに身を起こした。

 部屋には私以外誰もいない。ベッドは乱れているが、私の寝相のせいと言われれば納得する程度のもの。着衣にも乱れはなかった。

 じゃあ、やっぱり夢だったのだろう。

 そっとベッドから起き上がり、私は窓の外を見つめた。清々しい朝の景色がそこにあった。見慣れぬ他人の家の景色であっても、親しみを感じてしまうものがある。その明るさにホッとしてから、私は静かに部屋を歩いた。

 寝癖を直しながら扉の近くにある姿見の前へと移動した。そして、鏡に映る自分の姿を何気なく見つめた直後、一気に眠気は覚めてしまった。


「こ、これって……」


 恐る恐る手を伸ばし、私は自身の首筋へと触れた。

 右側の首筋には、真新しい傷痕がしっかりと残されていた。まるで吸血鬼に噛まれたかのような鋭い牙の痕が。

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