1.不審な手紙
◇
攻撃的なまでに激しい日光の下を、私は黙々と歩いていた。向かう先は、場所こそ知っているものの、これまでさして気にも留めなかった町の公園の一つ。向かっている理由は、自宅アパートを出た時からずっと握り締めて手汗まみれになってしまった紙切れにあった。筆跡も特定できない不気味な手紙だった。
──お前の父を知っている。
我が国乙女椿で発行される新聞や雑誌を切り抜いて作っただろうその手紙。
いきなり不穏な言葉から始まる手紙には、詳しい日時と共にその公園の名前が記されていた。
誰かの悪戯だろうか。だとしても、こんな悪戯をされるような覚えはない。友人にも知人にもこういったドッキリを仕掛けるような人物は思い当たらなかった。
では、不特定多数の人物を狙った嫌がらせではないのだろうか。もちろん、その可能性は十分ある。ピンポンダッシュのような類の悪戯だって、右も左も分からない小学生ばかりが犯人ではないだろう。いい大人が何かしらの道を踏み外して、こういった虚しい迷惑行為に手を染めることだってあるだろう。
それでも、私はこの手紙を無視できなかった。
できない理由が、私の実父の正体にあった。
「ついた……」
じわじわと日々の運動不足を思い知らせらされてきた頃に、指定の公園は現れた。子供の頃によく遊んだ等の思い出があるわけでもない。ただ存在を知っているだけの同じ町の公園。子供の足では少し遠く、冒険感覚で一緒に来た友人と共に遊んだことが二、三回程度あっただろうか。そんな公園は、私の記憶にある通りの姿で存在していた。
約束の時刻はもうすぐだ。日付も間違ってはいない。その事を理解して、私はそっと公園の中へと入っていった。
公園にはすでに人がいた。歩く者に優しい木漏れ日をくれる林の中にあるベンチ。その近くに日陰であっても日傘をさす隙のない女性が立っていた。
私が近づいていくと、気配に気づいたのか彼女は振り返った。その途端、私は時が止まるという感覚を初めて知った。
──綺麗な人……。
真っ先に浮かんだ感想がそれだった。異性のほぼ大半は、ひと目見ただけで彼女に恋をするだろう美しい女性。そんな彼女のどこか冷めた眼差しが、同性である私の心も鷲掴みにしたのだ。
緊張が一気に高まり、私は後ずさりしそうになった。だが、約束の時間、約束の場所に、彼女がいる。それはつまり……そう言う事なのだろうか。
「あ、あの」
勇気を振り絞って、私は彼女に声をかけた。
「この手紙の人……ですか?」
握り締めてぐちゃぐちゃになってしまった紙をちらりと見せながら訊ねると、遠い異国マグノリア風のフリルの日傘の下で、彼女はその整いきった顔をほんの少しだけ歪ませた。だが、すぐにその表情を引っ込めると、人形のような薄っすらとした笑みを浮かべて私に言った。
「よく見せて」
その甘い声に、私の心は痺れてしまった。
大変美しい女性だが、それに加えて芯の強さが感じられる。彼女に夢中になるのは、従えるよりも従う方が向いている人物か、敢えてそういう相手を無理にでも従わせたくなるような挑戦的な人物だろう。ちなみに私は前者だ。優しいのに命令されているような気分になるその口調がたまらなかった。
はい、という短い返事すらままならないまま、私はその手紙を差し出した。
雑誌や新聞の切り抜きで出来た不気味な手紙。冷静に考えれば、目の前にいる彼女が作ったとは到底思えない話だが、思い込みや場の空気に流されるままに、私は彼女の確認を大人しく待っていた。
さらりと目を通すと、彼女は私の目を見つめた。
「あなたが幽さんですね」
迷いなく私の名を呼び当てた。
強い眼差しはまるで捕食者のよう。
しかし奇妙な事だ。何処からどう見ても彼女は猛獣なんかではなく、私と同じ人間にしか見えないのに。
緊張と恐怖を堪えながら、私はしっかりと頷いた。
すると、彼女は少しだけ表情を緩めた。そして、こちらを安心させるような優しい笑みを向けてきた。その笑みから察するに、彼女は普通の女性に違いなかった。変な事を考えているなんて悟られないようにしなければ。
「驚かせてごめんなさい」
彼女は言った。
「私はレイというの。霊宝の霊。もっと分かりやすく言えば、幽霊の霊ね」
「幽霊……」
その単語にはあまり良い印象がない。もっとも、良い印象を抱いている人の方が少ないかもしれない。
親しい人を亡くしたばかりであれば、幽霊の存在を切実に願うかもしれないし、私もまた唯一の肉親と言ってもいい母を亡くした身の上であるから、幽霊というもの自体にはいて欲しいと思ったりもする。だから、幽霊が怖いというわけではないのだが、この単語自体にあまり良い思い出がないのだ。
私の名前の幽は、幽霊の幽ではない。幽玄の幽。生みの親である母は生前、そう言っていた。だが、そんな高尚な由来が年端も行かない子供達に理解できるはずもなく、小学生の頃には散々揶揄われたのだ。
幽の幽は、幽霊の幽、と。
だが、そんな個人的な負の思い出を初対面の人物が知っているはずもない。それよりも、そんな事で目の前の美女をがっかりさせるのが怖かった私は、ぐっと息を飲んだ。
そして、ここに来た目的を思い出し、はっと我に返った。
「あ、あの……霊さん、その手紙はあなたが?」
すると、霊は薄っすらと微笑んだまま手紙を畳み、バッグにしまってしまった。そして、戸惑いつつも何も言えない私に、彼女は囁いてきた。
「場所を変えましょう。ついて来て」
そうして、訳も分からないまま、私は彼女に連行された。
◆
時計の針の音が、やけに大きく聞こえてくる。霊に連れられてやって来た此処は、どうやら商店のようなのだが、少しばかり雰囲気が暗すぎる。それに、来客用だという蘭花国風のテーブルに置かれたマグノリア王国産のお茶の香り。何もかもが私なんかにはお上品すぎて気が引けてしまった。
しかし、そんな事よりも居心地が悪かったのは、ここへ来た理由のせいだろう。椅子に座るなり、私は霊に真正面から告げられたのだ。
「──あなたのお父様を知っている」
文面はだいぶ優しいが、確かにあの手紙の導入と一緒だった。
そんな私の表情を前にして、霊は少しだけ目を細めた。
「幽さん、あなたは何処からどう見てもただの人間。か弱い女性にしか見えない。けれど、私は知っている。あなたのお父様の名前は天。それはもう偉大な吸血鬼で、だからこそ人間たちの社会に馴染もうという努力を全くされなかった」
「あ……あ……あの……私は──」
緊張のあまり、心臓が破裂しそうだった。服の裾を握り締めて、耐える事しか出来ない。自分の意思でついて来たにも関わらず、私はやっぱり父の話をするのが怖かったのだ。
霊──彼女の言う事は正しい。私の父は天という名で、それはもう凶悪な吸血鬼だったという。記憶を必死に辿ってみても、その顔を薄っすらと覚えているような気がするという程度。それでも、彼の血が私の身体に入っているのは確かであった。
幸いな事に、私は残忍な吸血鬼ではない。血を吸わなくても生きていくことが出来た。
しかし、だからと言って、彼が父であると言う事実からは逃れられない。
「今日、あなたにお尋ねしたいのは、そのお父様の事。天が何処にいるのか、何か知っていたら教えてほしいの」
急な申し出に、私はさらに困惑してしまった。
何も答えられず、頭が真っ白になる。まるで、父が吸血鬼であるから責められているかのようで、とても怖かった。
そんな私のパニックを、霊は察してくれたのだろうか。彼女はため息をついて、私から目を逸らして首を振った。
「──ごめんなさい。失礼だったわね。つい焦ってしまって。決して、あなたを責めたいわけではないの。だから、怖がらないで」
慌てて謝る彼女の態度に、私は嫌な予感を覚えた。勇気を振り絞り、すっかり閉じてしまっていた口を開く。
「あの……父が何かしたんですか?」
震えながら問いかけると霊は目を丸くして私を見つめた。そして、再びため息を吐いて、頭を抱えてしまった。
「その様子だと、何も知らないのね。……そうよね。あなたは吸血鬼ではないもの。少し前までお母様──憐と暮らしていたのよね?」
この人は母の事も知っている。名前も間違ってはいない。ならば、母がどうなったかも知っているのだろう。この人は一体何者なのだろう。一方的に知られていることは確かに恐怖だった。
しかし、天涯孤独の身であるせいだろうか。この先に待っているのが恐ろしい未来だったとしても、私はもはや逃げ出したくなるほどの警戒心を抱くことが出来なかった。
「母は死にました」
短く告げると、案の定、霊は驚きもせずに頷いた。
「ええ、それ以来、あなたはアパートの一室で一人きりで暮らしている」
そんな事まで知られている。
不気味さを感じつつも、私は黙って頷いた。
すると、霊はやや眉を顰めながら私に告げた。
「あまりいい事ではありませんね。女性の一人暮らしだからって話ではなく、あなたがお母さまから受け継いだ財産のせいです」
「財産?」
私は問い返し、首を振った。
「そ、そんなもの……ありませんよ」
「いいえ、あるわ」
霊はやや厳しい眼差しを私に向け、すっと私の胸元を指さしてきた。
「〈赤い花〉……お母様と同じ魔女の心臓を受け継いでいるでしょう?」
面と向かってそう言われ、私は再び黙り込んでしまった。
自分が人間ではないと初めて知った時の衝撃は、とても言い表せないものがあった。母の葬儀の場であって、私が唯一の信頼できる身内を失ってしまった絶望の場でもあった。ほぼ付き合いのない親族は、私の事を不気味がっていたし、母の友人だったという人々は、私を嫌っていることがよく分かった。
それでもまだ私は純粋だったから、自分が人間ではないなんて微塵も思わなかったのだ。しかし、私は教えられた。葬儀に駆けつけた親戚に、母が魔女であることを。そして、吸血鬼である父のせいで、母の人生が狂ってしまったという事を。
けれど、私が把握していることはそれだけだ。自分が魔女であり、吸血鬼の血を引いているということだけ。〈赤い花〉という言葉はその時にも耳にしたが、図書館で調べようにもおとぎ話しか見つからない。知れることは少ないうえに、葬儀で向けられた人々の拒絶的な眼差しを思い出してしまい、それ以上、考えることが出来なかった。
「受け継いでいたら……何なんですか?」
あまり元気の出ない声で訊ね返すと、霊は身を乗り出して私に言った。
「それって、とても危険な事なんです。どうやら、あなたは知らないようですが、〈赤い花〉には希少価値がある。薬用として、食用として、観賞用として、〈赤い花〉を今でも求める者はたくさんいます。高値で売れるからこそ、〈赤い花〉を狙った犯罪は珍しくありません。あなたのお母さまも、そのせいで亡くなったと言われています」
「私の母が……?」
母を死に至らしめたのが、何者なのかはまだ分かっていない。ある日突然母は誰かに命を奪われ、心臓を抜き取られていた。今後もきっと、その事件を覚えている人々によって、猟奇的な殺人事件の被害者として語られることが多いだろう。そして、母の周囲の人々──特に親しかった母の友人たちは、私の実父だという天を疑っていた。
あの男がやったんだ。
自分の元から逃げ出した報復として。
何の証拠もない。しかし、そう信じて疑わず、そんな父の血を引く私に敵意を向けてきた。そんな彼らの姿を思い出すと、私もまたそんな気がしてしまった。
天。私の父が、最愛の母を奪ったのだと。
けれど、どうやら霊はそう思っていないようだった。だからこそ、そんな父の子である私にあまり蔑むような眼差しを向けてこないのかもしれない。
「お母様が亡くなり、〈赤い花〉を受け継ぐあなたは一人きりになってしまった。そんな危険な状況をあなたのお父様が放っておくとはとても思えない。あなたが吸血鬼として生まれなかったからと言って、彼が最愛の人に産ませた我が子を放っておくわけがありません」
「──最愛の人?」
いや、きっとこの霊という人は父のことを勘違いしているのだ。
母は愛されていたのではない。私は、愛されて生まれてきたのではない。父はただ欲望の為だけに母を攫ってしまったのだ。そう聞いている。
だから、私は白い目で見られたのだ。母の友人たちにとって私は、母の日常を殺した憎き吸血鬼の子。そんな空気に嫌というほど当てられて、父が母を愛していたなんて信じられるはずもない。
けれど、そんな感情を初対面の霊にぶつけるわけにもいかなかった。私は心の中で数秒数え、静かに呟いた。
「たぶん、違いますよ。だって、私、父と会話をした記憶が全くないんです。母を、そして私を大事に思っているのなら、母の葬儀の日に迎えに来たでしょう。けれど、父はそうしなかった。それが答えです」
きっぱりと言う私を、霊はしばらく見つめてきた。
けれど、納得したのだろう。彼女は力なく息を吐いてから頷いた。
「事情は分かりました。貴重なお時間ありがとうございました」
そして念を押すように、霊は私に言った。
「もしも、お父様らしき方があなたに近づいて来たら、お手数かけますが、この店まで来ていただけませんか?」
その言葉には、何か切実なものが含まれていた。
断るという勇気もなく、私はただ頷くしかなかった。