プロローグ
「さてと」
エヴェリーナは、ハンカチと母の形見のいくつかの宝石だけが入った小さなカバンを手に屋敷を出た。
執事もメイドも、門番も止めなかった。エヴェリーナが歩いて近くの孤児院に慰問に行くのはいつもの事だったから。
孤児院につくと、護衛に持たせていたパンやお菓子、刺繍糸や木剣などを院長に渡した。
エヴェリーナは子供たちといつものように遊んだり、おやつを食べて過ごした。
「院長、お嬢様は今どちらに?」
子供たちが昼寝をし、見守っている院長に護衛が声をかけた。
「ずいぶん前にこの部屋を出られていますが。厨房かもしれませんね、見てきましょう。」
しかし厨房にも、隣の教会にもどこにもエヴェリーナの姿はなかった。
「うわ~ワクワクしちゃう。憧れの自由!一人暮らし!」
エヴェリーナは新しく借りた小さい家の中を歩き回り、これから始まる生活に胸を躍らせた。
貴族として生きてきて、これまで家事も身の回りも自分でしたことはなかったが、孤児院で慰問がてらいろいろ教わっていた。何とかなるだろうと心配よりも楽しみの方が強かった。
これからお世話になる家の掃除を終えると、紅茶を入れゆっくりとその香りを楽しんだ。
「もうこれで、裏切りに怯えることもないんだ。」
まだひどく胸が痛む。婚約者を愛しているのに逃げてきたのだから。
しかしあのままいれば、婚約者は必ず義理の妹と想いあい、自分は捨てられて死ぬ運命が待っている。
「これでよかったの」
自分に言い聞かすようにつぶやいた。
王宮にいるステファンの元に家から使いがやってきたのは午後の事だった。
「ステファン様、エヴェリーナ様が・・行方不明でございます!」
「どういうことだ?!」
「これを」
二通の封筒を渡された。
一通はエヴェリーナからの手紙。ごく簡潔に短く記されている。
『貴方の幸せを遠い空の下から願っております』
もう一通にはエヴェリーナの署名入りの婚約破棄の書類が入っていた。
「そんな・・・殿下!今日は帰ります!」
「待て!駄目だ!今がどういう状況かわかっているだろう!」
来週に隣国から王太子夫妻を迎えることになっている。その迎えの準備に加え、こちらに滞在中に命を狙われる可能性があるとの情報に警備体制の見直しから、関係者の身元の洗い出し、隣国の政治的背景など業務が山積みで、ここ数週間ろくに家に帰れていなかった。婚約者に会いに行くどころか手紙をしたためる暇もなかった。その挙句こんなことになった。
「彼女より大切なものはありません!側近は解任してくださって結構です。では!」
「待て!わかった、お前の婚約者の捜索はこちらで手配する。だからもう少しだけ我慢してくれ。王宮内を調査し、各部門と話し合い調整できるのはお前しかいないんだ。頼む。」
情報が漏れないよう少人数で行っている弊害で、そう簡単に代わりのものにさせるわけにはいかないのだ。
「・・・。明日までです。明日中に見つからなければ何があっても帰ります。誰が暗殺されようが、戦争がおころうが知ったことじゃない!」
狂気を含んだような目に王太子は即座に騎士を呼び、エヴェリーナの捜索を命じた。
結果、期日までにエヴェリーナは見つからなかった。