どうやら私、魔族の配下になったらしい
時間はあっという間に過ぎた。
事態を私が飲み込めない内に、ベルがフランツ王国を旅立つ前夜を迎えてしまった。
そしてその夜、衝撃的なことが起きた。
フランツでの最後の夜。
明日出発、という事態に眠れるはずもなく、私は部屋の真ん中に置かれた丸いテーブルセットの周囲を頭を抱えながら寝間着でうろうろ周回していた。
するとギぃ、と蝶番が軋む音がしてバルコニーの扉が開いた。潮の香りのする風に煽られ、カーテンがバサバサと揺れる。
何事かと顔を上げ、驚愕の光景に目を疑った。
私の部屋のバルコニーから、突然少年が入ってきたのだ。肩にマントをかけ、きっちりと体型にあったジャケットを着て、ピカピカに磨かれた綺麗な革のブーツを履いている。貴族の少年だろうか。線が細く、まだあどけない。
「えっ、君、どこから来たの? 勝手に入ってきちゃダメだよ」
すぐに注意をするが、少年は気にする様子もなく、笑顔でこちらに早足でやってくる。十二、三歳くらいだろうか。透き通るような肌と長い睫毛で、随分綺麗な顔をしている。
彼はテーブルの隣で立ち尽くす私の前に来ると、ひらりとその場に膝をついた。そのまま胸に手を当て、実に優雅な所作で頭を下げる。
「テレンスと申します。突然のご無礼を、お許しくださいませ」
まるでアニメの一幕のように、完璧なお辞儀だった。するとバサリとカーテンが靡き、今度はバルコニーから一人の男がこちらへ駆けてくる。
この子の親――というには若すぎる。初めて見る顔だ。
(だ、誰――!?)
衛兵――の制服ではない。
夜中に女性の部屋に、突然バルコニーから人が押し入ってくるという異常事態に、どうしていいかわからない。
乙女系ゲームとやらでは、これが通常展開なのだろうか。
後からやって来た男も真っ直ぐに私を見つめ、大股で私の方を目指した。どう見ても少年を注意しに来たわけでも、連れ戻しに来たわけでもなさそうだ。二人とも最初から私が目的で、たまたまこの部屋に入ってきた様子ではない。
急いで廊下に通じる正面の入り口を横目で確認するが、閉まったままだ。侍女たちは、廊下にいる。こちらの異常事態には、気づいていないようだ。
というか、城の警備はどうなっている。
男はそのまま素早くテーブルを横切り、私のもとまであっという間にやって来た。長い黒髪を後ろで一つに束ねている。目の色が左右で違い、緑と青色だ。
非常に整った顔立ちをしている。
黒髪男は硬直する私の前で膝を折り、片膝を床についた。同時に手で払った長く黒いマントがはためきながら後ろに広がる。
「お会いできて光栄です。フランツ王国の王女、シャーロッテリナベル様」
「あ、あなたは誰なの? あなた達、何?」
男は微笑んだ。時と場が違えば、うっとりとしてしまいそうなほど完璧な美があった。
「聖王陛下とのご結婚祝いを、お贈りしましょう」
男は立ち上がると、展開についていけず、動けない私の左手を取った。
男は掌を上に向けた自分の手の上に、私の手を重ねる。その温もりに驚き、振り払おうとするがその前に彼は私の手首を捉えた。
そのまま私の手首に何かをするりと押しこむ。
掴まれていた左手首を確認すると、見覚えない腕輪がはめられている。
それはすこし厚みのある造りの、金色の腕輪だった。
訝しく思いつつも腕輪に手をかけると、男が口を開く。
「その腕輪はとれません。しかも俺と貴女にしか、見えません。もしも外そうとすれば、逆に締め付けが強まります」
「嘘っ…」
何その、悟空の頭の輪っか的なやつ。
試しに引くと、黄金の腕輪はまるでベルトで締められたように、キツくなる。
「いやーっ、何これ!」
いじると余計に締まるので、手を離すと締め付けは徐々に緩む。
男は喉を鳴らして笑った。
「本気で外したいのなら、斧で手首ごと切り落とすしかないですね」
ぞっとするお知らせに、自分の手首をさする。
「この腕輪、何なんです? なぜこんなことを?」
男は優雅に腰を下ろした――テーブルの上に。
「それはフランツ王国の王女、シャーロッテリナベル様が魔族の配下に下った証です。裏切ればその腕輪はたちどころに限界まで縮まるでしょう」
「あんたは誰なのよ!」
すると男の隣にサッと立った少年が、どこか偉そうに言った。
「このお方は、魔王軍総司令官だよ!」
「魔王軍!?」
ここは聖界だ。魔界は南の大陸にあるはず。魔族の軍隊を率いる男が、なぜここに?
黒髪の男はテーブルから下りると、長い腕を伸ばして私の手を取った。私の目をひたと見つめたまま、腰を屈めると手を引き寄せる。
「未来の聖王妃様にお会いできて大変光栄です」
魔王軍総司令官は私の手の甲に唇を寄せた。それが触れる寸前に私は手を振り払い、難を逃れる。
両手を背中に回すと、総司令官はおかしそうに小さく笑った。その彼を、キッと睨み付ける。
いくらフランツ王国が北大陸のカスみたいな極小国家だろうが、王女の私にこんな扱いをしていい筈がない。
すると総司令官の後ろにいた美貌の少年が、歩いて私のすぐ横にやってきた。
彼は愛想良く微笑むと、私を少年特有の澄んだ瞳で見上げた。
「そうむっつりしないでよー、王女様ぁ。幾千もの海や山を越えて、わざわざ王女様に会いにきたんだからさ。むしろ魔王軍の総司令官様に選ばれたことを、光栄に思ってくれなきゃ!」
あははっ、と少年は実に愉快そうに笑った。可愛い顔をしてるくせに、喋らせると意外と生意気で、可愛げがない……。
「その辺にしておけ、テレンス。お喋りが過ぎるぞ」
総司令官に注意され、テレンスと呼ばれた少年は肩を竦めてから黙った。
「シャーロッテリナベル王女」
名を呼ばれ、目の前に立つ総司令官と視線を合わせる。その左右で異なる瞳の色に、ざわざわと胸騒ぎがする。
「貴女はこれで魔族の配下です。聖王に嫁ぎ、私の役に立って頂きます」
「お断りします」
総司令官はお綺麗な顔を歪めて、笑った。
「既にそんなことが言える立場ではありませんよ」
ギン、と腕輪が絞まる。
鬱血しそうなほど痛いが平静を装い、睨み上げる。
「きっと何のお役にも立てませんわ」
「王女様は随分と気が強いお方のようですね」
「今すぐこれを外して。でないと叫んで衛兵たちを呼ぶわ」
素早く言い返すと、総司令官は面白そうに笑った。
「衛兵? 城門に寄りかかって居眠りしていた若者のことですか? それとも詰め所で酒盛りした挙句、寝ていた中年男たちのことですか?」
残念すぎる情報に、言葉がない。何やってるの、フランツの衛兵。
総司令官は少し声を落として私の腕にはまる腕輪に軽く指先で触れた。
絞めつけが少し、緩む。
「俺の話は誰にも知らせないことです――さもないと腕輪の魔術が反応し、手首が飛ぶほど締まりますので。字に表すのも、ダメです。特に、俺とテレンスの名を口にすれば、一発で腕輪から魔界の氷の風が全身を襲い、貴女を心臓まで凍らせます」
いや、そもそもあなたの名前、知らないですけど。
総司令官とテレンスは私の怒りを意に介することなく、窓辺に向かって歩くと窓を開けた。
外から冷たい風が入り込み、赤いビロードのカーテンを揺する。
シャーロッテリナベル、と名を呼ばれて目を合わせると、総司令官が私を見つめていた。
「またお会いしましょう。くれぐれも貴女はもう、聖族ではなく魔族の意向に従わねばならないということを、お忘れなく」
「――また会うつもりはないわ」
間髪容れずにそう言うと、総司令官は乾いた笑い声を上げた。彼は長いマントの裾を左手でつまみ、大きく上に持ち上げてはためかせた。
マントの衣擦れの音とともに、長身の魔王軍総司令官の姿は消え失せ、マントが一瞬で黒い翼に変わり、宙を一羽のミミズクが舞う。
少し遅れて少年が茶色いミミズクに変身し、開いた窓から二羽のミミズクが外へと飛び出す。
急いで窓に飛びつき、バタンと閉めて小さな錠を下ろす。
「なんなの、なんだったの今のやつら!?」
暗い窓の外には、もう二羽の姿は見えない。
「フランツに、魔族が来るなんて」
お散歩とお茶会にしか興味がないベルも、多少の知識はあった。
私たちが気がついていなかっただけで、魔族はかなり聖界に食い込んできているらしい。
妹の話を思い出せば、『魔と聖のデュエット』には魔族の男性とのデートもあったらしいから、こうなる仕様なのだろうか。スマホを覗きこみながら、妹はソファの上でよく叫んでいた。「ルイズィト様も、ガル=アルト様も、カッコ良すぎる!」って。
「ちょっと待って。まさかね。……さっきの魔王軍総司令官って、もしかして、あのガル=ア…」
その刹那、キュッと腕輪がきつく締まった。
「いたッ!! 熱っ…じゃなくて、冷たい!」
腕輪が氷のように冷たい。氷の塊を手首に押し付けられているようで、冷た過ぎて刺すように痛い。手首の骨まで凍りそうだ。
あまりの痛さに悶絶する。
間違いない。どうやらあの黒髪の総司令官が、妹激推しの二大攻略対象の一人の、ガル=アルトらしい。妹の推しが、望んでもないのに凄い立ち位置で次々と登場してくれちゃうんだけど。
どうやら彼の名は本当にこの腕輪の前では禁句になっているらしい。
腕輪を強く掴んだまま、うめきながら壁に寄りかかる。
放心状態でそうしていると、ゆっくりと時間をかけて腕輪の冷気は収まっていき、締め付けも緩くなっていった。
「まいったな。どうしよう」
なんだって、こんなことに。
魔族がこんなに簡単に聖界に侵入してくるなんて。
だいたい、乙女系ゲームがこれほど不穏な展開をするとは、知らなかった。色々と勘違いをしていたようだ。
ひたすら好みの男性キャラと交流して、好感度を上げていく平和なゲームだと思っていたのに。もっと、ほのぼのしたストーリーを楽しむものだと思ってた。
そもそも魔王軍総司令官なんていう、いかにも面倒そうなポジションのキャラがこんなに冒頭で出てくることも知らなかった。
二度と私の前に登場してほしくないが、そうもいかなそうだ。
だいたい、ゲームってのは、魔法の杖とか防具とか、飲むと生き返るポーションとかをもらえるものなんじゃないの? それに引き換え、この腕輪はなんなのよ。
「超いらないんだけど! っていうか、困るんだけど!」
腕輪を外そうともう一度引っ張ってみるが、強烈に締め付けがキツくなり、到底外せそうにない。
「まずいな。何が起きてんの、コレ」
再び頭を抱えて、ずるずると壁を滑り、床にしゃがみこんだ。聖王に嫁ぐのも嫌だし、魔族の手先にもなりたくない。どうしたらいいのか、全く分からない。
まさに五里霧中ってやつだ。
「乙女ゲームって、思ったよりずっと複雑で難しいのね」
――そもそも誰が敵で味方なのかも、よく分からないし。
こうして私は何がなんだがさっぱり分からないうちに、ついにフランツ王国を出ていく日を迎えた。
大陸東端に位置するフランツから、聖王宮まではかなりの距離があった。
馬車に乗ってフランツ王国を出ると、幾つもの国々を通過した。
馬車に揺られて、長く退屈な旅が続いた。
風に揺れる草原の緑と黄の景色がひたすら車窓を流れ、寝ても覚めても車内でただ時間をやり過ごす。
ようやく私が聖都に入ったのは、フランツ王国を出てから二週間後のことだった。