聖王妃は、魔族の言いなりになるしかないらしい
エジリアで結界石が盗まれてから丁度四日目に、結界石は出来上がった。
南北の境目にある結界は、エジリアのみならず北大陸の十三の国家にとって大事なもので、聖王たちは命をすり減らす思いで必死に必要な個数の結界石を準備した。
それは途中で数名の神官たちが気絶するほどの、壮絶な作業だったらしい。
出来上がった結界石は早速、エジリア王国へと運ばれることになった。貴重な石を護衛するために、精鋭の大量の兵士たちがエジリアまで向かうことになり、私は聖王と共に王宮の前庭に集結した彼らを見送った。
ビロードの布をかけた結界石が載る盆を両手に抱え、小回りが効きそうな小型の馬車に乗り込むのは副神官長だった。私たちの結婚式を執り行ってくれた、例の後期高齢のおじいちゃんだ。
いかにもおぼつかない足取りで、落とさないように盆を抱えるその姿に、心配は尽きない。落とさないだろうか。腰は大丈夫だろうか。神官に定年退職はないんだろうか。
朝の湿り気を帯びた風はひんやりとしており、外でじっとして彼らを見送っていると、風が吹くたびに体が震えた。
髪の毛を上に結い上げているので、首回りがとりわけ寒い。
両手を擦り合わせて暖を取りたいが、隣に立つルイズィトは背筋を綺麗に伸ばし、直立不動でその場にいる。その毅然とした姿に、自分のいたらなさを思い知らされる。
こんな私では、隣に並んで立つ資格はない。
聖王妃の私がみっともなく寒そうにしていたら、兵士たちの士気を下げてしまうかもしれない。
(我慢よ。我慢。にわか聖王妃にも、プライドってものがあるわ)
必死で震えを堪え、歯がガチガチ言うのを抑えながら、微笑みを口元に作る。
馬車の扉が閉まると、白地に銀糸の刺繍がされた揃いの美しい軍服を纏った近衛軍の兵士たちが、整列をしたまま王宮の敷地を出ていく。
その規模の大きさを見ていると、逆にこの人数の精鋭兵が王宮からいなくなるのかと思い、心許なく感じる。これではここの守りが手薄になってしまうのではないだろうか。
「結界石を聖術で転移させることはできないんですか?」
私が尋ねると、ルイズィトは前方を見つめたまま答えた。
「結界石の持つ力が干渉し、持ったままでは転移術を施せないのだ」
そこまで言うと、ルイズィトは私に視線を合わせ、少し首を傾けて周囲の人々には聞こえないように、私の耳元に口を寄せて言い足した。
「加えて、エジリアの南の国境で不穏な動きがあるのだ。魔軍が聖界との境界線近くに北上しているらしい。何かあった場合、境界警備軍だけでは対応できないかもしれない」
「それに備えて、兵達を送っているのですね」
ルイズィトは再び背筋を伸ばすと、無言で頷いた。
日ごとに元気がなくなる私を、サラは心配してくれた。
「魔族に何ができますか。結界石が再配備されれば、何も問題なしです。――妃殿下、少しは食事を召し上がってください」
サラはそう言いつつ、なかなか夕食を下げようとしない。
他の侍女たちも、サラに加勢する。
「お顔色が優れませんし、お痩せになられました。私達からもお願いです。小さなパン一つだけでも、お召し上がりを」
仕方なく、小さな丸いパンを取り、口に運ぶ。
味は全くしない。
私は怖かった。
左手首の腕輪が、ガル=アルトが飛び去ってから日一日と、日を追うごとに締まっているのだ。
最初は気のせいかと思った。だが腕輪の内径は明らかに小さくなってきており、今やはっきりときつく私の手首を締め付けていた。
ガル=アルトの命じた三日後は、もう明日に迫っている。
(すり替えないと明日には私の左手が、本当に吹っ飛ぶ……!)
日が完全に落ち、夜になると締め付けは更に酷くなった。そのあまりのキツさに、他のことにまるで集中できず、手首のことしか考えられない。
もう私の頭の中は、指輪のことでいっぱいだった。
(ルイズィト、お願いだから今夜はさっさと私の所に来て!)
あれだけ彼が寝室に来るのが怖かったのに、今夜の私は聖王に早く来て欲しくて仕方がなかった。
結界石がエジリアに向けて運びだされた夜。
ルイズィトは寝室にやって来た。
やっと結界石が完成し、無事に南に向けて発送したからか、彼の顔色は幾分か良くなっていた。
が、ここ数日の激務のせいで彼も明らかに線が細くなっていた。
ルイズィトは寝室に入るなり、私を優しく抱き締めた。いろんな意味で心臓がどきんと跳ねる。
「ここのところ、貴女を放りっぱなしにしていて申し訳ない。ーー今夜はもう横になっていいだろうか。とても、疲れているのだ」
「ええ。ええ! 睡眠不足が続いていますもの。もうおやすみ下さい」
小さく頷いたルイズィトが、私から手を離し寝台に上がる。
続けて寝具の中に入った私は、仰向けに横たわったルイズィトの方へそろそろと体を近づけた。シルクの寝具は滑らかで、音もなく歩腹前進できる。
指輪のことをはやく聞かないといけない。手首がキツキツの私は、もう頭の中が指輪でいっぱいだった。
脳内が100%指輪だ。
「陛下、あの…」
話しかけて私は絶句した。
ルイズィトはもう、寝ていた。
目を閉じて、静かな寝息を立てている。そして掛け布団の上に乗せられたその左手を見て、息が止まった。
(指環が、減ってる!!)
意味不明に二つもつけていた神玉石の指環が、今夜は一つになっていた。
なんてこと。
息を殺して目を近づける。
明かりは寝台脇のサイドテーブルに置かれた小さなランプだけだったが、銀色の台座に載る透明な石の指環は、たしかに薬指にしかはめられていない。
(これが、きっと本物なんだ)
というより、もはや私が今すり替えるとしたら、これしかない。
寝台の上で上半身を起こして、ルイズィトを見下ろしたまま、呆然と座り込む。
どうする。やるか、やらないか。
手をそろそろと彼の左手に近づける。
心臓がバクバクとうち、頭の中にまでズキン、ズキンと痛みを伴うほどの血流を感じる。
手が震える。
既に私の腕輪は限界ギリギリまで締まり、左手は鬱血していた。指は紫に変色し始め、痺れだしている。
(時間がない。怖いよ。このままだと本当に、手首がなくなっちゃう……!)
ルイズィトの指環を盗んでも、最悪もう一つは王太子が持っているはず。
それに、春を呼ぶ儀式はまだ先だ。聖王が浮島の神殿に行くことは当分ない。すり替えてもすぐには危険はないはずだ。
――やるか?
長いこと迷っていると、ガル=アルトの腕輪が徐々に冷んやりとし始めた。
「つめたっ…」
思わず声が漏れ、右手で腕輪を押さえる。
期限が近づき、ついに冷気を伴い始めたのだ。明日には、どうなってしまうのか。
骨が折れる?
手首から体が凍る?ーー想像もできない。
手がブルブルと震える。
(ごめんなさい、ルイズィト。でも、もう無理……)
懺悔で涙が滲む。
震える手を安らかに眠るルイズィトの左手に伸ばし、その指についに手をかけた。
涙が頰を伝った。本当はこんなこと、したくない。彼を裏切っている。
右手の親指と人差し指でしっかりと神玉石の指環を押さえる。目線を動かし、ルイズィトの様子を確認する。
目は硬く閉じられている。彼は静かに寝ていて、起きる様子はない。
手にグッと力をこめ、指環を外す。
指環は意外にも難なく抜けた。拍子抜けするほど、あっけなく。
(取れた。取っちゃった)
これが、聖王と王太子だけが持てる、貴重な指環。そう思うと、何の変哲もないその指環が、とてつもなく重く感じる。
寝台とマットレスの隙間に手を入れ、予め隠しておいたものを探る。
震える手でそれを引っ張り出し、胸の前で握りしめる。
ガル=アルトから渡された小さな巾着で、中にはレプリカが入っている。
緊張のあまり、完全に息があがり、静かにしたくても不規則でうるさい呼吸が口から溢れる。
盛大に震える手で、盗んだ指環を巾着にしまい、レプリカをルイズィトの左手に近づける。
ごくりと生唾を飲み込み、今や感覚のない左手でどうにか彼の手首を押さえてレプリカをはめていく。
全てが終わると、もう一度ルイズィトの寝顔を確認する。
(大丈夫。気づいていない…)
巾着を握りしめ、寝具の中に潜り込んだ。
ルイズィトに背を向け、震える体を丸める。
涙が溢れて仕方がなかった。ルイズィトを裏切ったからなのか、冷気で針を刺されるような手首の痛みのせいなのか、自分でも分からない。
ただ一番痛いのは、胸の中だった。




