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ここから第三章、始まりです。
「ふぃーっ」
無意識に口をついて出る、声ともつかない声は、ふだんなら湯舟に全身を沈めたあとの、なんともいえない心地よさと、こみ上げる開放感、そんなものからのはずなのに、
「……」
いまの源大朗の表情はどこか浮かない。
というよりも、顎まで湯に浸かりながら、その目はじっと、どこともつかない一点を見つめている。
たらっ、と汗が額を伝わり落ちる。
汗が目に入っても瞬きひとつしなかったが、脱衣場へ続くガラス戸越しの壁時計を見て、やにわに立ち上がった。
ざっ、と湯が躍って、誰もいない大浴槽に渦ができる。
飛沫を残して浴槽の縁を跨ぐと、不動産店主とは思えない張りきった筋肉と、そのところどころに刻まれた傷跡が、温まった肌に目立った。
そこから、
「んっ、たぁく!」
捨て台詞のように吐き捨てると、源大朗、手ぬぐいで前も隠さず、のしのし歩いて脱衣場へ。
「もらうぞ」
番台の前の透明ケースの冷蔵庫を開いて、中からフルーツ牛乳を取り出す。
冷蔵庫の横に紐でぶら下がっていた栓抜きの先を、セロファンごと紙蓋に突き刺し、むしり取る。
「百十円」
番台からの声を無視するように牛乳瓶を口に、いっきに喉へ流し込む。腰に手は当てない。
「聞いてなかったのかい、百十円だよ」
「消費税は八パーセントじゃなかったのかよ」
「持ち帰ればね。ここで飲んだら十パーセントだよ」
「ちっ、細かいな。そんなところだけいちいち詳しくてどうするんだよ。いいかげんボケろよ」
と、源大朗の乱暴な物言いにも少しも動じないのはもちろん、番台にかっちりと地蔵のようにはまって座り続ける老女、お時である。
「払う気がないようだから、夷やの家賃につけとくよ。入浴代もね」
「なんだよ、店子には無料じゃなかったのかよ。どうりで家賃にいつも端数がくっついてると思ったぜ」
「それはそれ、これはこれだよ。だいたい先月分と先々月分の家賃の半分、まだ未納なんだけどねえ」
「っつ! まぁいずれ、どかーんと大儲けして……、は無理か。はいはい、堅実に働いて支払わせていただきますよ、と」
「あたりまえだよ。延滞料がつかないだけありがたいと思うんだね」
「はいはい。にしてもなぁ、スピンクスの娘っ子たちも毎日入りに来てるんだろ。そっちも入浴料取ってんのかね、守銭奴婆あは」
「取ってないよ。あの子たちは風呂なしの部屋に住ませてる分、最初からここの風呂には入り放題って約束だからね」
「夷やも風呂、ないぞ」
「店舗に風呂があってたまるかね。それにおまえさんは、ちゃんと風呂ありのアパートに住んでるじゃないか。そっちの家賃は……」
それもまた、お時の所有物件である。夷やよりも若干新し目の、築三十年ほどの木造アパートだ。
「あちちっ! くそ、そっちに飛び火したか。まぁ風呂桶はついてるけどな。肝心の湯沸かし器が故障中でな」
「自然に故障したんならすぐにも取り替えるけどね。酔って回し蹴りしたら壊れた、っていうのをなんで大家が負担しなきゃならないのかね」
「は、はぁ。すいません……、て、いつの話だよ」
「時期は関係ないさ。ま、最悪、出ていくときの敷金から差っ引いとくから、あたしはどうでもいいけどね」
「ぐぐぐ」
どれだけこの話を続けても、ちっとも源大朗に勝ち目はないのであった。
源大朗、フルーツ牛乳をグッと飲み干し、空き瓶を番台に返すと、
「これで十円」
「いつの話だい。いまは返そうがどうしようが値段は変わらないよ。瓶だけ持って返る客もいないけどね」
「まったく、世知辛い世の中だな」
「世知辛いのはおまえさんのフトコロだけじゃないのかい」
「ぅ……、とにかく、だ」
ようやく源大朗、眼光鋭くお時を見つめる。その眼差しにこれまでのような冗談は浮かんでいない。
しかしお時、
「またかい。あれの話なら、なにも知らないよ」
にべもない。が、
「抜かせ! 店子に隠し事する後ろ暗い大家たぁなぁ」
「隠す気なんかないさ。だいたいおまえさんに隠して私が得する話なんかひとつもないんだけどねえ」
「なにシラきってんだ、婆あ」
「……」
「お時、婆さん」
「……」
「んんん、お時、姐さん。これでどうだ!」
どうやら呼び名問題はクリアしたらしく、
「ちゃんと説明おし」
「はいはい。マレーヤとアスタリが住み込みで働いてるあの喫茶店の建物だ。その地下の、あの空間だよ。どうなってるんだ、お時姐さん」
ここまでていねいに質問すれば、答えももうごまかしようはあるまい。
「人にものを聞くときはね、パンツくらい穿きな」
「いまそこかよ! ……ったく」
あきらめたのか、源大朗が脱衣かごを入れる棚の向こうでパンツをごそごそ穿きだした、その背中に向かってお時。
「私にもわからないさ、あれはね」
「ぁあ?」
「ただね、さわっちゃいけないものがあるってことさ。いつだって、誰にだってそういうものはね」
「知ってて、隠してるのは違うぜ。あの辺の物件をいくつも持ってるってのは、そうやって封印するためかよ」
パンツを穿き終わった源大朗が向き直る。
キリッ、と目線を鋭く向けたつもりだったが、お時はまったく反応しない。番台の天板に載った小銭を数えている。
「おい」
「聞いてるよ。急くのも人を急かすのもたいがいにしとかないと嫌われるよ。……そうさね、なにから話したらいいもんか」
「そんなに長いのかよ」
「いや、ひとことだけさ。あれにはさわるな、てね。さわるんじゃない。見るのもやめておきな」
「なんだ、それじゃ」
「話す気がないんじゃないよ。話せないのさ。わからないからね。私がこの街に来たときにはもうあれはあった。あの場所にね。けど、なんてことのない入り口もなく埋もれた地下室だった。もとは防空壕だか、もっと、江戸時代の蔵だとか、それはおまえさんの見立てどおりさ」
ようやくお時からまともな、まとまった説明を聞かされたものの、疑問は解けるどころか深まるだけ。
あのとき。
クロと、その巣で地下室がいっぱいだった。そう見えた。だがその奥。
源大朗は気づいていた。
誰もが、あの巣のせいだと思っていたが、地下室の異様な空気、異様な「気」は、部屋そのもの、いやもっと、その地下深くからこみ上げて来るものだった。
マレーヤたちが気づかなかったのも無理はない。
源大朗だけが、その「感じ」を以前にも経験していたから。
「あの子たちには話すんじゃないよ」
「あの上に住んでるマレーヤたちにか。話さねえよ」
「誰にも、だよ。おまえさんの周りには、やたら集まってくるからねえ。まったくなにがいいんだか」
「ああ。モテる男はつらいねえ」
「抜かしな。……巻き込むんじゃないよ」
ジロッ、お時の眼光が源大朗を射る。次に用意した軽口をつい忘れてしまう鋭い光だった。
「巻き込むわけがないだろ。もう誰も、な」
それだけ言うと源大朗、上着に袖を通す。
「行くのかい」
「ああ。オレの留守に店が大繁盛してるかもしれないからな。もうそろそろ帰ってやらないと」
「だといいねえ。さっさと滞納分の家賃をダブルで払ってもらわないとね」
ダブルとは、夷やの店舗と、源大朗のアパートの二軒分の家賃ということだ。
「ケチケチしてると極楽行けねえぞ、婆……姐さんよぉ」
「あたしが行くところはひとつさね」
「はぁ?」
「どうでもいいよ。それよりね……、おまえには必要なものだよ、あれは」
「オレに……、必要?」
「わかったらさっさと行きな! とっとと稼いで来なってんだよ! それと」
「こんどはなんだ。まさかもっと」
「パンツが前後ろだよ! みっともない!」
夜も更新予定です。